第2話

文字数 6,480文字

 中間テストの範囲が揃い、一息つく。範囲がわかるように付箋を張った教科書たちを眺めた。自称進学校と言われることだけはある。これはちゃんと勉強しなくちゃいけない。
「テストやだねー」
 コンビニのサンドイッチをどさりと置いて穂乃佳が愚痴る。それからどこからか椅子を持ってきた香奈が横に座った。今日はカツ丼らしい。
「まぁでも、赤点とらなきゃいいしょ」
「そうだね、赤点とると夏休み補修入っちゃうもんね」
 毎朝母が作ってくれるお弁当の包みを開く。静かに手を合わせて、たまごやきを口に運んだ。
「夏休みにまで学校通うのはだるいわ」
「それなー。部活ある人は大変だよね。私は無理だわー」
(行ってもいいけど)
「あ、でも、もし補修入ったら部活の応援できるかもね。野球部とか」
 穂乃佳の心の声は、きっと遠山のことだだろう。いつもの通り、穂乃佳のフォローをしたつもりだった。いつも、さりげなく遠山の話を振ると穂乃佳は嬉しそうに話してくれたから。
 だから、いつもと違う、強ばった穂乃佳の顔を見て、心臓が跳ねた。
 それから、穂乃佳はパッと「そうだねー」と笑う。その後ろから聞こえてきたのは(何言っているの)という冷たい声。
 間違えたと理解して、サッと血の気がひいた。ざくざくと穴を掘る。自分を埋めるための穴。何に気を触ったのか、会話の流れを思い返す。逸る心臓が止まらない。会話が終わってしまった場の空気に、どんどん首を絞められる。
「ちょっと美穂ー。そりゃないってー」
 香奈が笑って場の空気を循環させた。それから続いた言葉に私は絶句した。
「美穂と遠山、付き合ってんだろー?」
 は。
「もうみんな知ってるよ?同じ中学ってことも」
 え。
「いつも一緒に帰ってるって」
 ちがう。
「教えてくれればいいのに」
(なんで教えてくれないの)
「いつから付き合ってるの?」
(いつから嘘をついてたの?)
 ちがうちがうちがう。ちがうのに。言葉が喉に張り付いて何も出てこない。そんな噂が流れてたなんて知らなかった。知ってたら一緒に帰ることなんてしなかったのに。騙してなんかない。嘘なんかついてない。頭の中が埋め尽くされる。ちがう。どう言う? 軽く、流すように、いつものように。
「…なにその噂ー。違うに決まってるじゃーん」
 上擦った声が、場をゆっくりと滑っていく。笑っているのは、私ひとりだけだった。
 穂乃佳がスムージーをズズズと吸い込み、香奈がカツ丼についてた漬物をバリバリ食べる。怖い。まるで本当に私だけが穴の底にして、私の声なんか聞こえていないみたいだった。
「…本当に違うよ…?」
「ふーん、でも一緒に帰ってるんでしょ?」
「帰っているっていうか、園芸委員やってると遅くなっちゃって、たまたま会うというか」
「ほら、一緒に帰ってるじゃん」
「帰ってるけど…」
「ていうか、同じ中学で仲良かったらしいじゃん」
「仲良くないよ」
「ふーん、でも知ってたよね。最初は知らないって言ったのにね」
 ヒュウと喉から変な音が出た。同時に、私が指摘して泣き出した友達を思い出した。今ならその子の気持ちがわかる。自分の嘘がさらけ出される時、こんなに泣き出したい気持ちになるのか。
 嘘はついた。でも、付き合ってはいない。本当に。
「でも、本当に付き合ってない…」
 か細い声だった。どうしたら信じてくれるかわからない。
「ふーん、まぁいいけど」
 香奈が食べ終わり椅子を戻す。
「でも、私達には言ってほしかったなー」
「あ、もしかして私に気を遣ったとか?もー全然いいのにー」
(そういうの本当にやめてほしい)
「ちがっ、本当に…!」
「まぁ美穂がそう言うなら信じるよ」
(この嘘つき)
 目の前が真っ暗になった。あのときと同じだ。みんなが一斉に私に背を向いた日。逆光で何も見えなくなった元友達たち。
 香奈が「自販機に行く」と言う。それに穂乃佳はついて行った。私はそれに誘われなかった。
 自分の席にひとりでいたとき、埋めたはずの自分がひょっこりと顔を出して『ばーか』と言った。


 園芸委員を選んだのは、特別植物の世話が好きとかそういう訳ではなかった。ただ単に、植物はしゃべらないから楽だった。水をかけてあげると「ありがとう」の声の後ろから(余計なお世話)という本音が聞こえてきたりしないから。もし、植物が喋れるようになったら、私はたちまち園芸委員をやめるつもりだ。
 噂が流れてからは、もう絶対に一緒に遠山と帰らないようにした。昇降口で会わないように、わざわざ鞄を持って外倉庫内に置き、いつでも帰れるようにした。雑草を抜き、水を撒き終わったら、誰にも会わないように速やかに帰った。
 もう2週間ほどそうしているはずなのに、噂が訂正されることはなかった。むしろ「1ヶ月で別れた」とか「遠山が騙されていた」とか面白おかしく脚色された。
 穂乃佳たちとは、上辺は変わらず接してくれた。「おはよう」と言ってくれるし、お昼ご飯は一緒に食べた。けれども、もう穂乃佳の口から遠山の話は出なかったし、穂乃佳と香奈のふたり行動が増えた気がする。二人組を作る時とか、トイレに行く時とか。たまたまかもしれないが、それでももはや、私がはぶられるのは時間の問題な気がする。
 むしろ、きっと、私がグループから出て行くのを期待している。
 案山子の腕に使い古された軍手を通す。あとは、ところどころ穴の開いている麦わら帽子をかぶせれば完成だ。
 学校内に立派な田畑がある訳ではない。ミニトマトとかゴーヤとかがこぢんまりとあるだけだ。それでも、毎年夏休み前には案山子を立てるらしい。担当の林先生曰く「夏休み中に中学生が学校見学に来るから、ちょっとしたおもてなし」とのことだった。
 顔の部分の白い布に太いマジックペンで「へのへのもへじ」と書いてある。
「変な顔。きみも大変だね」
 幼い頃、案山子を見ては、いつもかわいそうと感じていた。それはきっと「へ」の口のせいだ。いつもひとりだから、悲しくて、必死に泣くのを我慢しているのだと思っていた。
 高校生になっても相変わらずそう見えるから、麦わら帽子を深めに被す。もし案山子がしゃべれたらなんて言うだろう。「平気だよ」「大丈夫だよ」「慣れてるよ」。どんなに強がっても、口は「へ」の字のまま。きっと笑うことはない。
 ふいに昔読んだ本を思い出した。家族からいない者として扱われた末っ子の話だ。父親の隠し子だったから、母親や兄弟にいつもいじめられていた。陰湿ないじめから、末っ子はその内笑わなくなった。その末っ子には絵描きの才能があり、いじめられながらもずっと絵を描き続け、その内、学校の先生や有名な画家に認められ、ついにはコンテストに優勝し、海外留学の切符を手に入れるのだ。すると、家族は手のひらをぐるりと返し、こう言う。
『いらないなんて嘘だ』
『私達、あなたのことちゃんと必要としてるわ』
『家族だもの』
それに対し、末っ子は静かな声で答えて、飛行機へと向かった。
『違うよ。僕があなたたちをいらないんだよ』
 その時、初めて末っ子は笑顔を見せた。
 確かそんな話だった。ハッピーエンドなのかよくわからなかったが、今ならハッピーエンドと断言できる。過去を断ち切り、ちがう自分になれたのだ。自分が必要とされる側ではなく、必要とするしないを選べる側に。
 道具を片付け、外倉庫の鍵を先生に渡す。「気をつけて帰ってくださいね」と間延びした声は背中で受けた。 
 日が延び、まだ明るい空の下を歩く。半袖のワイシャツの隙間から生暖かい風が入ってきて、じとりと汗ばんだ。喉が渇く。もしかしたら穂乃佳と香奈は、どこかのカフェに入ってまだ一緒にいるのかも。
 明日から、ふたりと距離を置こう。
 乾いた口の中の唾液を集めて、無理矢理飲みこむ。たぶん、ふたりも私を邪魔だと思っているはずだ。直接、その声が聞こえる前に、行動しよう。自分を守るために、傷つく前に離れるのだ。
 本当は。
 下唇を噛みしめる。泣きそうになりながら、泣いてる自分に土をかけた。自分のこころなんていくらでもなかったことにできる。
 電車の窓に映る自分と目が合う。口が「へ」の字に曲がっていて、それはまるであの案山子のようだった。


 はじめは口数を少なくした。もう心の声が聞こえても、フォローしたりパスしたりはしない。全部聞こえない振りをして、存在感を無くしていく。それから、休憩時間はひとりでどこかで時間を潰した。トイレ、自販機、保健室。同時に、移動教室への移動を上手くふたりと時間をずらしひとりで行くようにした。徐々に、徐々に、自然に、人知らぬうちに距離をとっていく。最後、昼休憩の時間をひとりで過ごすことができれば、クリアだ。
「え、委員会の仕事?」
「うん、そう、なんかひまわりの支柱を立てるんだって」
「えー昼休みにやるの?せめて食べてからいったら?」
「ううん、終わらないといやだからさー」
「でも、最近、美穂さ」
「ごめん、もう行くね」
 机の上を片付けて席を立つ。教室から出るとき香奈の無邪気な声が響いた。
「あ、もしかして放課後はデートとか?」
「違うよー」
 ちゃんと笑って答えられたと思う。ばらばらになった前髪を横に流す。前髪を切るのはまだまだ先になりそうだ。
 生物室の扉を開く。猫背で白髪が目立ち始めた林先生のきょとんとした顔と目が合った。眼鏡がいつもずれ落ちていて、裏ではおじいちゃん先生と呼ばれている。
「どうしました。日向さん」
 優しく聞いてくる林先生に、準備してきた言葉をすらすらと並べる。
「ひまわりに支柱が必要だと思うんです。支柱を立てるのに時間がかかると思うので、今から準備したいんですが、いいですか」
 小首を傾げて、お弁当と後ろめたい気持ちを背中に隠して、まるで世間話のように話す。
「それは、助かります。支柱立てのやり方はわかりますか?私も一緒に」
「いえ、大丈夫です」
 壁に掛かっているキーボックスの中に、一際寂れた『外倉庫』のプレートがかかっている鍵をかすめ取るように取って、生物室を後にした。
 外倉庫の中でひとり、麻紐を10㎝ずつ切っていく。時折、お弁当に手を伸ばし、たまごやきを一口で食べ、咀嚼している間に作業を再開した。今頃、穂乃佳と香奈は何の話をしているだろうか。張り出された中間テストの順位のことか、それとも私のことか。もしかしたら、『察しが良くて助かったわー』と言っているかも知れない。心の声をひそひそと音にしているのかも。『いないほうが楽しいよね』
 心臓がきゅうと締め付けられる。ただの自分の妄想に傷つくなんて馬鹿げている。そう思うのに、口はまた「へ」の字になって、お弁当が全く食べられなかった。


 最後のひまわりの横に支柱を指す。倒れないように、深いところまでさすために思いっきり力を入れる。思いのほか園芸は力仕事だ。それに、突き刺したところに土を盛って固めるから、爪の中に土は入り、手のひらは真っ黒に汚れた。
 結局、昼休み中に支柱立ては終わらず、放課後も作業を続けた。案外、園芸は性に合ってるかも知れない。力仕事だけど、黙々と単純な作業をやるだけだし、何も考えずに済む。それから、植物はしゃべらないけど、こっちが話しかけたら、風に揺られて頷いてくれる。例えば、「今日暑いねー」とか。
「この暑い中よく外にいるね」
 ひまわりがしゃべった、訳ではなく、誰かに声をかけられた。聞きなじみのある声。
 横に穂乃佳が立っていた。
 いつの間にか、何故か、穂乃佳が横にいて、止まっていた頭がぐるぐる動き出す。今はもう放課後で、もう6時を過ぎていて、いつもなら穂乃佳は帰っていて、昼休憩はひとりで食べて、その理由を支柱立てにして、私が話しかけるべきは。
「だよねー」
 いや、違うでしょ。発した言葉に心の中でツッコむ。もっと言うべき言葉はあるはずなのに、頭がこんがらがってもう何も言えなかった。前髪の隙間から見えた穂乃佳の顔は、影になってよくわからない。怒っているような気がして、身構える。
「あとそれだけ?」
 少し傾いたままの最後の支柱を見ながら、穂乃佳は言った。勢い余って斜めってしまった支柱を真っ直ぐに直しながら、口を回す。
「え、あぁ、うん。あとは、水やって、盛った土を固めて終わり」
「ふーん」
 沈黙が怖い。
 穂乃佳は、口数の多い方だ。いつも話のネタを持ち合わせて、たくさんしゃべって盛り上げてくれる。それなのに、ただただ黙って私の作業を見てた。空気が重く感じられ、息がしづらい。
 いそいそと近くの水道に行って、手の泥を落とし、ホースを繋げる。
 穂乃佳が何を考えているのかわからないけど、きっと言いたいことがあるのかもしれない。
 放課後残ってまで、もう煩わしいと思っている私の方に来ると言うことは。
 傷になにか沁みたような痛みが心臓に走る。でも何十回もシュミレーションしたことだから、案外落ち着いて受け止めることができた。そういう風にもう動いていたし、何言われても、聞こえても大丈夫。
 穂乃佳はどこか思い詰めた顔をしていた。ホースを伸ばして、ひまわりの根元に水をかけながら、口を開く。
「…もしかして、怒ってる?」
「え?なんで?怒ってないよ」
(怒ってるよ)
 足の方にしぶきがあたって少し涼しい。本音が聞こえることは、少しすがすがしく、少し痛い。みんなも心の声が聞こえればいいのに。私の心の声が聞こえたら、穂乃佳は笑ってくれるだろうか、それとも呆れられるのだろうか。
「美穂はなんで園芸部に入ったの?」
「んーなんとなくだよ。誰も挙手しないからいいかなぁって」
「えー本当?」
(嘘でしょ)
 嘘だよ。でも、言ってもわかってくれないじゃん。
「なんかさぁ、4組に園芸委員の友達がいるんだけど、1組の園芸委員めっちゃ頑張ってるよねって褒めてたよ。ほとんど自主的にやってるんだってね」
 穂乃佳の言葉の小さな棘がちくちくと刺さる。うんともすんとも言えなかった。何を言ってもまた嘘だと思われると思うと、自ずと口は貝のように動かなくなった。
 土が水を含み今にも溢れそうになって、慌てて蛇口を止める。穂乃佳が話すたびに、穂乃佳の方が傷ついているような顔をした。そんな顔してほしいわけではない。息を大きく吐いて、違う話題を考えた。
 何か違う話題、例えば、中間テストのこととか、数学の先生の変なくしゃみとか、明日の課題とか。
「ねぇ」
 新しくできたクレープ屋とか、マニュキアのコツとか。
「これ、ここを固めればいいの?」
 穂乃佳のきれいな手が、きらきらした爪が、土に触れようとする瞬間が、まるでスローモーションのように見えた。ダメ。いけない。だって、汚れちゃうから。穂乃佳の手が。触っちゃ、
「だめ!!!」
 腹の底から喉を突き抜け響いた言葉は、穂乃佳の肩を飛び上がらせた。穂乃佳が驚いた顔をしてこちらを見る。肩を上下に動かしながら、口を動かす。違う。傷つけたい訳じゃなくて。
「あ、ごめ、あの、ほら、穂乃佳、手汚れるのいやだって言ってたから…」
「…え?そんなこと言ったことないけど…」
「え、だって…」
と、言ってハッとした。これは心の声で聞いたんだった。穂乃佳の顔がどんどん険しくなる。
「…帰ってほしいならそう言えばいいじゃん」
 そんなことない、と言う言葉は、もう背を向け遠ざかっていく背中には届かなかった。
 逆光の中小さくなる背中に見覚えがある。取り残されて、見放され、自分の影だけがまた濃くなっていく。
 また、ひとりになってしまった。
 大丈夫。
 ひとりの方が楽だ。だって、いちいち心の声に怯え、傷つくことはないのだから。
 ざくざくと穴を掘る。嫌だという自分にひたすら土をかけた。言われたことを思い出していくたび、土は水を含みどんどん固まっていった。
『嘘つき』『何言ってるの』『いないほうが楽しい』『好都合』
 ほら、そう思われてるなら、私は。

 …あれ?

 遠くで蝉の鳴いている声が聞こえて、シャベルだけをぎゅっと握りしめる。
 もう私にはどれが現実でどれが妄想なのかもわからなくなっていた。
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