第3話

文字数 4,076文字

 果てしない廊下を歩く。足取りは重く、まるでゴルゴタの丘に向かっているような心地だった。軽くなったお弁当が十字架のようにずっしりと重い。きっとひとりでトイレで食べたからだ。お母さんに申し訳なくて、また鼻を啜った。
 永遠のように感じる昼休みほど辛いものはない。時間をつぶすには自席で伏せて眠ることだが、どうしても教室に行くことはできなかった。
 昨日、穂乃佳に背を向けられてから、一晩経ってもついにその背が振り向くことはなかった。「おはよー」と言えば、いつもなら振り向く背中が凍ってしまったかのように動かない。わかっていたことだけど、心に堪える。香奈は、その状況に一瞬首を傾げたが、何かを察したのか、何も言わず自席についた。いつもなら集まって話す朝の時間に休憩時間も、それぞれの自席で過ごした。今日は時間の流れがひたすら遅く、まだ休憩時間が終わらないのかと、何度時計を見上げたかわからない。
 ため息をもらす。いつまでもトイレでお弁当を食べるわけにはいかない。
「あれっ日向じゃん」
 窓から遠山が顔をのぞかせて、手をひらひらと振る。また吐き出しそうになったため息をぐっと飲み込んで、手を振り返した。
「なにしてんの?」
「別に。教室に戻るだけ」
「なに?なんか怒ってるの?」
 へらへらと言われて、余計に癪に障ったが「そんなことないよ」と大人の対応をした。正直、遠山とは噂の件もあるから、変に波風は立てたくなかった。
 ちらりと窓の向こうを見る。遠山は友達とキャッチボールをしているらしく、遠山の番が回ってくるまで、私で時間をつぶしたいという思惑がありありとわかった。その思惑に大人しくのっかる。
「いやぁ暑くて、汗やばいわ」
「よく昼休みまで野球するね」
「あいつらがやろうって言ってさ、俺は嫌だったけど仕方なく」
(俺もやりたかったから)
「あっそ」
「てか、昨日は橋本と帰ったの?」
 ふいに穂乃佳の名前が出て、思考が停止する。強ばった顔を必死に動かし「え?」と聞き返した。昨日の何を遠山は知ってるの。
「いや、昨日の委員会の時に、橋本に言われたんだよ。『今日私美穂と帰るから』って」
「…え」
「なんかあいつ俺と日向がいつも一緒に帰ってると勘違いしてるっぽいな。噂も流れてたしなぁ。知ってる?俺と日向つきあってるっぽいよ」
 遠山の笑う声が遠くに聞こえる。脳裏で夕暮れに染まるひまわりが、ゆっくり揺れた。昨日、ひまわりの前に立っていた穂乃佳。そういえば、どうして園芸の方に来てくれたのか理由は知らない。もし。
 もし、穂乃佳が私と一緒に帰るために寄ってくれていたとしたら。
 穂乃佳は、私に歩み寄ろうとしてくれたのかも知れない。
 心臓が逸る。ぼこっと土から埋めたはずの私が出てきた。でももう冷たい目をしている。
『今更なに?もう諦めなよ。どうせ私は嫌われているんだから』
 そうかもしれない。昨日、穂乃佳はあんなに怒ってたから、もう元に戻ることは無理かもしれない。
 今日の朝も避けられてたし。
「日向、避けてたでしょ?」
「いや、私じゃなくて」
「え?ちがうっしょ。意識しちゃって避けてんの日向じゃん」
 そんなことない、と思おうとして何かが絡まった。固い結び目をひとつひとつほどいていく。嘘つきと言われた。ちがう、言われたんじゃなくて聞いたんだ。なんだか避けられている気がして、本当に避けられる前に私から離れようとした。傷つくたくなくて、帰る時間もずらしたし、ひとりで昼ごはんを食べた。傷つく可能性があるなら最初から離れた方がいい。でも、穂乃佳は昨日私のところに来てくれた。怒っていると言いながら傷ついたような穂乃佳の顔。手を伸ばしたのは手伝おうとしてくれたのかも。私と一緒に帰るために。
 だから、そう、
 避けていたのはー
「まぁ別にいいけどさ。でもちょっと傷ついたかも」
 下唇を噛む。私は穂乃佳に言わなければならないことがある気がする。
 今すぐ穂乃佳に会わないといけない。
「いや、俺日向に避けられてたからって別に怒ってないよ。そりゃあんな噂流れちゃったらちょっと気まずいよな」
「え?噂?」
「え、ほら、俺と日向が付き合ってるっていう」
「あぁ。まだそんな噂流れてるんだ。早めになくなるといいね。じゃあ、私そろそろ行くね」
「え、ちょっと待ってよ」
 遠山が窓から上半身をせり出す。足は教室を向くままに、顔だけ振り返った。
「何?」
「いや、あの、ほら噂だといろいろ気遣うからさぁ、なんならもう本当に付き合っちゃう?」 
「えぇ?いや、ずっと私のことを無視していた人と付き合うとかありえないでしょ」
 逃げるように足早に歩く。ぬかるんだ土に沈んでいる自分に手を伸ばして引っこ抜いて、初めてハイタッチをした。


 昼休みが終わるまで後15分。教室に穂乃佳はいなくて、慌てて渡り廊下の方へ向かった。教室にいないっていうことは、おそらく自販機か女子トイレだ。
 渡り廊下に着いたとき、その脇の花壇に体育座りしている生徒がふたりいた。
 穂乃佳と香奈だ。
 上下する肩を抑えて、前へ進むと上履きが小さい石をじゃりと踏んだ。香奈がそのかすかな音に気づいて振り向く。
「あー、まぁあれだ。もう一回ちゃんと話してみなって。じゃ、もう私行くわ」
「ええ、もう教室戻るの?」
「うん、あとはふたりで話しな」
 香奈の背を追っていた穂乃佳と目が合ったけど、すぐにパッとそらされてしまった。香奈が私の肩をぽんと叩いて小声で言った。
「まぁちょっと話聞いてあげてよ」
「うん。ずっとごめんね。ふたりのこと避けてて」
「あー、いいって。先に勘違いしたの私らだし」
 そう言って香奈はひらりと手のひらを振って、校舎の中に戻っていった。
 日陰の中にうずくまる穂乃佳に近づく。ふわりと空気を孕んだ髪で穂乃佳の表情は見えなかった。
 少し距離を置いて、隣に座る。日陰の中にあったレンガは少し冷たい。
 その冷たさに浸りながら、解いた糸を整理する。結局は、避けられる悲しみを痛いほど知っているくせに、自分の傷に浸って卑屈になって同じ方法で穂乃佳を傷つけたのだ。
 自分だけが傷ついていると思って隠れて、周りを見えていなかった。穂乃佳は、傷つくことに怯えながらも、歩み寄ってきてくれたのに。
「…昨日はごめんね、せっかく手伝おうとしてくれたのに」
 穂乃佳は何もこたえなかった。
「聞いてほしいことがあるの」
 深呼吸して、手に滲んだ汗を握りしめる。私の気持ちをちゃんと伝えなくちゃいけない。
「…昨日、穂乃佳のことを止めたのは、前に、手が汚れるから園芸嫌だっていうのを私聞いてたから。穂乃佳の、心の声を」
「…へ?」
「私、時々人の心の声が聞こえるの」
 汗で張り付いた制服と肌の間に、風が入り込む。じめっとした夏の匂いは嫌いではなかった。
 信じてくれなくても、また『嘘つき』と言われても、手でガードをされても、もう構わないと思った。全てをさらけ出して、受け入れられなかったら「そっか」と私が受け止めよう。
「嘘よ」
 …、…そっか。
 膝を抱える腕で自分の肩を抱きしめる。大丈夫。受け入れてくれる人は必ずいるはずだから、悲しまなくてもいい。
「だって、そうしたら私が今まで何を思ってたかわかるはずだもの」
 蝉の声にかき消されてしまいそうな、小さな、小さな声だった。穂乃佳が今まで何を思ってたか。帰る時間を意図的にずらされて、いつも教室にいなくて、喋った言葉は遮られ、伸ばした手は拒絶され。
「…私に嫌われたと思ってた?」
 あ、と思った時には穂乃佳と目が合った。久しぶりに穂乃佳の顔を見た気がする。薄いピンクのリップに眉毛はきれいに整えられて、目尻が少し赤い。
「…知ってるっていうことは」
「私も、穂乃佳に嫌われたと思ってた」
 大きい目を見開いている穂乃佳を見ていたら、小さく笑みがこぼれた。心の声が聞こえてこなくても、私は穂乃佳の心に歩み寄れたのだ。そのことが、なんだかこそばゆくて誇らしい。
 人の心が聞こえるからと、私はあぐらをかいていたんだと思う。穴に自分を埋めることに必死で、自分のことしか見えてなかった。周りを見れば、こんなにも知りたかった現実が見えてくるのに。
 穂乃佳が口を尖らせる。
「なにそれ、私別に穂乃佳のこと嫌いじゃないし。そりゃ遠山のこと誤魔化されたときはカチンときたけど、ただの噂だってもう知ってるし」
「うん、誤魔化してごめんね。中学の時の自分を知られたくなくて、咄嗟に遠山のこと知らないって言ったの。それ以外に他意はないよ」
「いや、もう全然いいし。もう遠山のことなんかどうでもいいしね!」
「そうなの?」
「そうだよ!私しょうゆ顔そんな好きじゃなかったみたい。近くで見たらなんか違くてさ」
 そう熱弁する穂乃佳に、つい馬鹿らしくて二人して笑った。馬鹿らしくてつい笑っちゃうようなこんな会話を、ずっと穂乃佳としたかった。
「でも、遠山は美穂のことガチで気になってるっぽいよ?美穂はどうなの?」
「いや、絶対ないよー」
「あ!また私に気遣ってるでしょ!もう全然いいから本当のこと言ってよ」
 本当のこと。そう聞いて、穴から這い出て泥まみれのまま体育座りをしていた私がのそりと前を向く。いつも人の心の声にあわせるために隠していた自分が、久しぶりの日差しに怯えながらゆっくりと口を開いた。
「私…、私は、穂乃佳たちと一緒に帰りたい」
 前髪をなでつけて、顔を隠す。かすかに震えてしまった声を誤魔化すために、付け加えた「なんて」に被せて穂乃佳が身を乗り出した。
「私もずっとそう思ってた!」
 一瞬、世界が静かになった、気がした。今度は蝉の声をもかき消すような大きな声に、少し驚いて、それからなんだかおかしくて、また二人して笑った。
 渡り廊下を歩く。教室に向かいながら穂乃佳が尋ねてきた。
「今日は園芸委員会あるの?」
「あー、でも今日は行かなくていいかな」
「そう?香奈と私も手伝うよ?」
「ううん、もういいの」
「え?あ。予鈴」
 早くと急かす穂乃佳の背中を追う。夏の風が心地よく、シャベルの代わりに泥まみれの手を握って走った。
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