第3章 スランプは「死に至る病」である

文字数 4,022文字

3 スランプは「死に至る病」である
 この探偵のアナロジーを用いて、合理的思考による歴史研究の必要性を説き、「歴史探偵方法論」を提唱した作家が要る。坂口安吾である。彼は『歴史探偵方法論』(1951)を発表、皇国史観を始め特定のイデオロギーに囚われた歴史学を厳しく批判している。ちなみに、安吾の「歴史探偵」に影響を受けたのが半藤一利である。

 その安吾は『高校野球』(1953)において豊田を絶賛している。しかも、発表当時は西鉄ライオンズとの契約をすませていたけれども、まだプロでプレーしていない。安吾は高校生の彼のパフォーマンスにほれこんでいる。「豊田選手は図体は相当に大きいけれども、スタートは早いし、肩はよし、打撃はふるっており、抜群の素質を示していた、めったに出てくる選手ではない。(略)この豊田君が加入のせいで、私はちかごろすッかり西鉄ビイキになってしまった」。

 豊田は、茨城県立水戸商業高校3年の1952年、夏の甲子園に出場、開会式で選手宣誓を務めている。チームはベスト16まで進み、彼は高校ナンバー1ショートの評価を受ける。

 安吾はかねてより野球をよく見ている。『キャッチボール』(1953)は彼が戦前には人気のなかった職業野球も観戦していたことを語っている。名前の言及はないが、イーグルスの捕手バッキ―・ハリスが座ったまま二塁に送球をする強肩で、マウンドに置いた樽の間を通して投げる余興をやっていたと伝えている。

 『高校野球』によると、安吾はそれまで直接目にした旧制中学性(新制高校生)の中で日大三中(現日大三高)の関根潤三と荏原中(現日体大荏原高)の浜田義雄がよかったが、豊田は彼ら以上と評価する。関根潤三は近鉄パールズ(バファローズ)で投手、東京ジャイアンツで外野手として活躍、15年の現役生活後は広島カープやジャイアンツのコーチ、ホエールズやスワローズの監督を歴任、2003年に競技者表彰により野球殿堂入りを果たしている。また、浜田義雄は東急フライヤーズで二塁手として活躍、11年の現役生活後は東映フライヤーズでコーチを10年間務めている。いずれもいい選手ではあるものの、プロにおいては豊田の活躍には及ばない。

 なお、安吾は、『高校野球』の中で、中学時代に関根が左利きなのに、セカンドを守っていたことがあると証言している。彼はホエールズの監督の際に、新人の高木豊を辛抱強く使い続け、リーグを代表する二塁手に育て上げている。それを思い返すと、興味深いエピソードである。

 安吾と豊田は、無頼派と水戸っぽという激しさもさることながら、繊細さや合理的思考を重視する共通点がある。それは論理性を重視するだけでなく、暗黙知を明示知にするといった言語化への意志とも言い換えられる。

 安吾は『教祖の文学』(1947)において「美しい『花』がある。『花』の美しさというものはない」という小林秀雄の態度を「言葉の遊び」と批判する。「小林に曖昧さを弄もてあそぶ性癖があり、気のきいた表現に自ら思いこんで取り澄している態度が根柢にある」。小林秀雄は曖昧な物言いにより物事を「這般の奥義」にしてしまう。

 実は、その小林秀雄は豊田を題材にした『スランプ』(1963)という随筆を著している。豊田は物書きにとって執筆意欲を掻き立てられるアスリートである。小林秀雄は、国鉄スワローズに移籍した豊田が自宅を訪ねてきた際、ウイスキーを飲みながら、「スランプ」とは何かと尋ねる。この作品はそうしたやり取りを小林秀雄が記したものである。ただし、脚色されており、岡崎満義の『中西太と豊田泰光』に収められている豊田の証言とは少々食い違っている。

 小林秀雄の描く豊田は彼の願望で、威勢のいい達人である。「スランプ」は「得体の知れない病気」だ。「スランプが無くなれば、名人かな--こいつは何とも言えない。だが、はっきりした事はある。若い選手達が、近頃はスランプなどとぬかしたら、この馬鹿野郎という事になるのさ」。「だが、どういうわけだか当らない。つまり、どうするんだ、と訊ねたら、よく食って、よく眠って、ただ待っているんだと答えた」。ここで登場する豊田は「スランプ」という暗黙知を明示知にすることなど野暮だと言わんばかりの態度だ。このように小林秀雄は「スランプ」も「這般の奥義」に閉じ込めてしまう。

 そもそも、豊田が小林秀雄に向かってこんな口調で語れるはずもない。小林秀雄は1902年生まれで、三原監督より9歳も年上である。豊田は緊張してしどろもどろに話したという。小林秀雄について二つのことが彼の記憶に残っている。一つは豊田の座り方で腰の悪いことを見抜いた洞察力である。「人間って、座っているとき、悪いところを必ずかばうから、姿勢でわかるんだよ」。もう一つは、時々、話の論理のつなぎ目が見えなくなったり、言葉の用法が独特で何を言っているのかわからなくなったりすることだ。小林秀雄は豊田に、その際、書くことはいいけれども喋りが苦手だと弁解している。小林秀雄は鋭い洞察力を持っているものの、それを論理的に展開することに少々難があるということになるだろう。

 豊田は、『中西太と豊田泰光』によると、「スランプ」について言語化している。それは、一口で言うと、ゼーレン・キルケゴールの「死に至る病」である。

 この「死に至る病」は『ヨハネによる福音書』第11章4節の「この病は死に至らず」に由来する。「死に至らない病」が「希望」であるのに対し、「死に至る病」は「絶望」のことで、それは自失の状態を意味する。ただ、これは自分を見失っているのみならず、神との関係を喪失したことでもある。だから、絶望は「罪」である。

 絶望の状態には段階がある。絶望は本来の自己の姿を知らない無自覚の状態から始まる。自覚のない時にすでに絶望が用意されているというわけだ。さらに深まると、真に自己たらんとするか否かという自覚的な絶望の状態に入る。つまり、絶望が絶望を呼ぶようになる。だが、そうした深化こそ真の自己に至る過程である。

 キルケゴールによれば、人間は真のキリスト教徒でない限り、それについての意識の有無にかかわらず、絶望している。だから、絶望は罪であり、その死に至る病の治療にはキリスト教の信仰が必要である。神の前に自己を捨てることが信仰で、それが病の回復につながる。

 豊田は、『中西太と豊田泰光』の記述を要約すると、「スランプ」についてこのような説明をしている。どの投手に対戦しても打てない。配給の読みや打撃フォームを変えても結果が出ない。練習に励んだりゲン担ぎをしたりしても、ヒットが打てない。監督やコーチ、チームメートが白眼視したりうわさ話をしたりしているのではないかと疑心暗鬼に陥る。食事ものどに通らず、夜も眠れない。だが、疲労困憊の極致に達した時、やけっぱちになって睡眠がとれ、ホームランが生まれる。「あとで考えてみると、いいホームランを打ったりすると、この感触を忘れないように、という意識が過剰になって、いつの間にかオーバースイングになっているんです。そこから知らず知らずに打撃が崩れていく。スランプになる。じたばたし、やがてあきらめる。そのうちに思わず肩の力が抜けてポーンとホームランが飛びだして嘘のようになおる。また快打の連発だ。ぼくにはホームランは毒であり、また薬でもありました」。

 スランプは自己喪失の状態である。その回復は絶望を自覚し、進化させていくことしかない。ただ待っていれば治るものではない。

 プロ野球選手は相手投手やチームメート、観客などの関係の中で毎日のようにゲームを行う。プレーも自分だけで結果が出るものではない。しかし、それを忘れて、自分に囚われる時、スランプに向かっていく。関係を見失い、自分だけで自己たらんとする時、スランプという病にかかってしまう。「人間は精神である。しかし、精神とは何であるか?精神とは自己である。しかし、自己とは何であるか?自己とは、ひとつの関係、その関係それ自身に関係する関係である。あるいは、その関係において、その関係がそれ自身に関係するということ、そのことである。自己とは関係そのものではなくして、関係がそれ自身に関係するということなのである」(『死に至る病』)。

 もちろん、スランプに関するこれくらいの説明は他のプレーヤーもしているだろう。重要なのはキルケゴールが絶望からの真の回復に神との関係を示していることで、豊田にもその認識があることだ。キリスト教の神ではないが、豊田も打席に立っている際に「神」を感じる瞬間をめぐって、『中西太と豊田泰光』によると、次のように語っている。

 豊田は「こんなチャンスに出られるのは、神様のお恵というものだ」と思う。体が震える。唇も手も、胸の筋肉も小刻みに震えてくる。なぜか心だけはスーッと澄んでいる。体の震えはボールを打ちに行く瞬間、きれいに消える。バットが鋭く振られ、ボールが飛ぶ。たとえば、2点リードされた9回裏、二死でランナーが1、2塁。ホームランがでれば逆転サヨナラ。「そんなとき、脇の下から二筋三筋スーッと冷や汗が流れる。そうなれば最高です。必ずヒットが打てた」。

 豊田は自身の意思を超えて今ここに置かれていることに能動的に臨む。「神様のお恵」とはそういう意味だ。これこそ、キルケゴールの言う「死に至る病」からの回復の瞬間である。プロ野球選手にとってプレーの目的はチームの勝利に貢献することである。無意味な一発は自覚なきスランプ状態だ。スランプからの真の回復はプレーがその目的を果たした時に訪れる。田は伝説的なクラッチヒッターであり、その勝負強さの理由はここにある。「もう一度生まれ変われたら、今度は、お客さんのために、どんなときでもハッスル・プレーを忘れないようにしたい」(豊田泰光)。
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