第1話
文字数 5,047文字
一
一晩中雨が降り続いているせいで、うまく眠ることができない。季節は夏で、天気予報によれば「台風が近づいている」ということだった。私は狭い部屋で一人、パタパタとキーボードを叩く。一体自分は何をしているのだろう、とときどき思うことはあるけれど、結局のところこれ以外やりたいことがないのだから仕方がない。明日もまたアルバイトがある。だから本当はもう眠らなければならないのだけれど、一旦文章を書き始めるとなかなかやめることができない。何気なく書き始めた一つの文章が、ごく自然に次の文章へとつながっていく。そういう感覚が私は好きだ。もっともこんな風に書くことができるようになったのは、あくまでつい最近になってからのことなのだけれど。
私はこの間二十八になった。大学を卒業してからもう六年間アルバイト生活を続けていることになる。始めはただ就職したくない、という思いがあっただけだった。一応文学部を卒業はしたけれど、大学に残って研究者になりたいという気持ちもなかったし、たとえば中学校や高校の教師になりたいという希望もなかった。本を読むのは好きで、もしかしたら翻訳ならやってもいいかな、とは思っていたけれど、実際に取り組むところまではいかなかった。今思えば自信が欠けていたのだと思う。決定的な自信。私は昔からそうだった。実際に能力がない、ということもあるのだけれど、それだけでなく、どうしても自分は自分なのだ、と思うことができない。いつもキョロキョロと周囲の様子を窺 っている。
それでも両親の小言 を振り切って、いまだにこうしてアルバイト生活を続けていること自体は、もしかしたら結構度胸が要ることなのかもしれない、とも思う。もっともそんなことは特に自慢もできないのだけれど。かつての同級生たちはそろそろ結婚し始めている。母親がたまに電話をかけてきて、ご親切にもそういった話を聞かせてくれるのだ。「あんたはまあそういう人だから関係ないけどさ」と彼女は言う。でもその言葉の奥には、世間的な道を進まない娘への無言の不満が感じ取れる。
正直なところ本気で作家になりたい、と思い出したのはここ数年のことだ。それまではただ漫然 と生きていたに過ぎない。自分が振袖 を着て成人式に出ることとか――じゃあ一体何をやりたいのか、という話になると正直さっぱり分からなかった。海外の古典文学を読むことは好きだったけれど、だからといって自分が作家になれるなんて思ったこともなかった。私はただの反抗的な――でも実際に反抗する勇気のない――ただのモラトリアムな若者に過ぎなかった。
友達は全然いなかったわけではないのだけれど、大学を出たあとはほとんど連絡も取らなくなってしまった。私は地元を離れてこうして東京の外れで一人暮らしをしているし、みんなはみんなでそれぞれの生活が忙しくなった、ということももちろんある。でも一番の理由は、私が本質的に彼らに興味を持てなくなっていた、ということだ。
ただ一人ごくまれに連絡を取り合っている相手がいて、彼女は今現役のイラストレーターとして活躍している。そのウェブサイトの登録者数はかなり多い、ということだった。一般的な知名度はまだ高くはないけれど、じわじわと人気を集めつつある、とあるネットの記事で読んだ。
もっともその生活が相当荒 んでいることを私は知っている。何人かの男と付き合って、そのたびにひどく傷ついて別れた。二度中絶手術をした。最近は酒量も増えてきている。彼女の絵は、気持ちが乗っているときには、私はとても好きだった。自然な勢いがあって、女性のイラストレーターにありがちなベタベタ感がない。さっぱりとしていて、孤独だ。線の一本一本に鋭いナイフのような切れ味がある。そこにはときに、男が描いたよりも男らしい潔 さが滲 み出ることになる。
でも気持ちが乗っていないときの作品は、正直私は好きではなかった。陰影が足りず、必然性もない。誰かに依頼を受けたのだからこういう風に描いたのだ、という感じがひしひしと伝わってくる。スタイルそれ自体は彼女自身のものだが、肝心の中身がない。要するにまあそういうことだ。でも世間ではむしろそういうものがもてはやされるのだから私にはよく分からない。
数カ月前彼女に会ったとき、それはそれはひどい状態だった。もともと化粧というものを嫌ってはいたのだけれど――それは私も一緒だ――その顔は正直いって見られたものではなかった。髪の毛はぼさぼさにほつれ、目には隈 ができていた。肌のつやは失われ、吹き出物ができ、瞳には長い間の酩酊 状態がもたらしたと思われるぼやけた輪のようなものが浮いていた。着ている服は意外に高級そうだったが、それは全然彼女に似合ってはいなかった。あるファミレスで私たちは食事を共にした。
「あぁんたはね・・・」と彼女は何杯かのビールを飲んだあとで言った。「こんなことしてちゃらめ(だめ)! ちゃんと書かなくちゃ。いつまでコンビニバイトしてんのさ?」
私は適当なことを言って彼女を宥 め(まあそのうち書くから)、なんとかタクシーを拾って彼女のマンションへと行った。その日はもともとそこに泊まる予定になっていたのだけれど、私はドアを開けた瞬間に目を疑ってしまった。もちろん塵 一つなく清潔だ、とは思っていなかったものの――彼女の性格からしてまずそんなことはあり得ない――さすがにここまでひどいとは想像もしていなかったのだ。
まず玄関からしてひどかった。何足もの靴やサンダルが左右不揃いなまま散らばっている。すぐ脇にはさまざまなブランドの靴箱がまるでタワーのように積み重なっている。カップラーメンのゴミがいくつも散乱していて、廊下はまるで内戦で破壊された中東の市街地のようだった。水道の蛇口からは水がポトポトと執拗に落下し続けていた。部屋自体は私のアパートなんかよりもずっと広く、一人暮らしの女性にしてはかなり高級な部類に属するはずだったのだが、私はこんなところに住むくらいならまだ自分の六畳間の方がずっとましだと思った。私は酔った友人をベッドに連れていき――そこもまためちゃめちゃになっていたのだが――なんとか横に寝かせた。彼女はこれまで付き合った男たちの悪口を叫び続けていた。頭が悪い。毛深い。中身がない。足が臭 い。デリカシーがない、等々。でも本当は好きだったんでしょ? とためしに言ってみると、突然しくしくと泣き出してしまった。それでまた言葉を尽くしてなんとか宥 めることになったのだが、ありがたいことにそのうち疲れて眠り込んでしまった。
その赤ん坊のような寝顔を見て、私はこう思っていた。この人はきっと本当の意味で心から信頼できる友人を欲しているのだろうな、と。もっともそう思いながらもなお、自分がその相手にはなれないことを私は知っていた。彼女は才能を持ったクリエイティブな人間ではあったけれど、基本的には身勝手な人間であった。都合の良いときにだけ、相手に良い顔をするという傾向があった。あるいは私は冷たいのかもしれない。でも本当に正直にいうと、今はとにかく一人になりたかった。
もっともそのまま彼女を置いていくのはさすがに忍びなかったから、そのカオスと化した部屋を可能な限り片付けてから帰ることにした。流し台に山と積まれた食器類を洗い(洗剤とスポンジを探すだけでも一苦労だった)、床に落ちた爆発物の破片・・・ではなくカップラーメンのゴミを片づけ、机のまわりに散らばっていたボツになったイラスト(と思われるもの)をとりあえずひとまとめにして置いておいた。汚れた洗濯物を洗濯機に入れて回し、お風呂場とトイレも――ここもまた悲劇的な状況になっていた――ピカピカに磨いた。そこまでやると、妙な達成感が自分の中に湧いてくるのが分かった。
実のところそこまでやった時点で、すでに空は白 んできていた。彼女の方は何も気付かずにすやすやと眠っている。私は久々に清々 しい気分になって、一度深呼吸をし、そしてあることを悟った。それは
それから新しい作品を書き始めた。それまでもいくつかの作品を仕上げ、雑誌の文学賞なんかに応募してはいたのだけれど、せいぜい一次選考を通るのが関の山で、そこから先には決して進まなかった。正直何か手違いがあったんじゃないか、とも思ったけれど、まあきっとそんなこともないのだろう。それでも私は落ちるたびに少しずつ自分が成長している、という感覚を抱いていた。実際にレベルが上がっている、というだけではなくて、徐々にまわりのことを気にしないで書けるようになってきたのだ。
という状況の中でとりあえず新しい作品に取りかかることにした。いつものように何も頭に入れずにパソコンの前に座り、最初の一文がやってくるのを待つ。それはスムーズに現れることもあったし、ずいぶん時間が経ってからやってくることもあった。でもまあ、とにかく辛抱強く待っていればきっといつかやってくることを私は知っている。そこでは「自分を信じる気持ち」というものがなによりも重要になってくる。
でもそのときに限っては、私はいつもほどうまく空っぽになることができなかった。というのも例のイラストレーターの友人のことが頭に残っていたからだ。彼女はこれから一体どうなってしまうのだろう、と私は思った。単純に「仕事」という観点でいえば、これからも順調にこなしていくのかもしれない。むしろ今までよりもうまく。でもそうすればそうするほどその心は荒 んでいくようにも思える。かといって今から普通の女の人のような生活に戻れるとはどうしても思えなかった。結婚して、子どもを産んで、家事をして、罪のないおしゃべりをしながら年老いていくのだ。それは実のところ私が最も取りたくない道の一つでもあった。
いずれにせよ、彼女には彼女一人の力でなんとか頑張ってもらうしかなかった。それが厳しい道だと分かっていたとしても、だ。才能のある人間にはきっとそれだけの責任が伴 うのだろう。もっとも才能がなくたって、人は生き続ける以上責任を負わなければならないのだけれど。私は多くの母親たちが――もちろん母親だけに限った話ではないのだけれど――自分が生きることの責任を「子育て」という名目のもとにあまりにも安易に捨て去ってしまっていることを知っていた。もちろん子育てそのものが悪いわけではない。それは大変な作業だし、敬意を持たれてしかるべきだ。でもそれだけでは駄目なのだ、という思いがどうしても私にはあった。それだけではむしろ逆に子どもの心を圧迫することになってしまうのではないか。なぜなら私たちは本来自分自身のためだけに生きるべきだからだ・・・。
そんなことを考えているうちに、ふと自分が名前を持たない場所にやって来たことを知る。周囲には白い靄 のようなものが立ち込めている。ここは一体どこなんだろう、と私は思う。でもそれ以上は何も考えない。ここではそれが――つまり何も考えないことが――必要とされている、ということを本能的に知っているからだ。やがてその靄 の奥に一つの文章が浮かび上がってくる。シンプルな、一見なんともなさそうに見える文章だ。でもそれは私自身の内側から浮かんできたものであって、故 に何かを含んでいる。私はそれを知っている。彼らもまたそれを知っている。
一晩中雨が降り続いているせいで、うまく眠ることができない。季節は夏で、天気予報によれば「台風が近づいている」ということだった。私は狭い部屋で一人、パタパタとキーボードを叩く。一体自分は何をしているのだろう、とときどき思うことはあるけれど、結局のところこれ以外やりたいことがないのだから仕方がない。明日もまたアルバイトがある。だから本当はもう眠らなければならないのだけれど、一旦文章を書き始めるとなかなかやめることができない。何気なく書き始めた一つの文章が、ごく自然に次の文章へとつながっていく。そういう感覚が私は好きだ。もっともこんな風に書くことができるようになったのは、あくまでつい最近になってからのことなのだけれど。
私はこの間二十八になった。大学を卒業してからもう六年間アルバイト生活を続けていることになる。始めはただ就職したくない、という思いがあっただけだった。一応文学部を卒業はしたけれど、大学に残って研究者になりたいという気持ちもなかったし、たとえば中学校や高校の教師になりたいという希望もなかった。本を読むのは好きで、もしかしたら翻訳ならやってもいいかな、とは思っていたけれど、実際に取り組むところまではいかなかった。今思えば自信が欠けていたのだと思う。決定的な自信。私は昔からそうだった。実際に能力がない、ということもあるのだけれど、それだけでなく、どうしても自分は自分なのだ、と思うことができない。いつもキョロキョロと周囲の様子を
それでも両親の
正直なところ本気で作家になりたい、と思い出したのはここ数年のことだ。それまではただ
何をやりたくないのか
は結構はっきりと分かっていたのだけれど――たとえばリクルートスーツを着て就活をすることとか、友達は全然いなかったわけではないのだけれど、大学を出たあとはほとんど連絡も取らなくなってしまった。私は地元を離れてこうして東京の外れで一人暮らしをしているし、みんなはみんなでそれぞれの生活が忙しくなった、ということももちろんある。でも一番の理由は、私が本質的に彼らに興味を持てなくなっていた、ということだ。
ただ一人ごくまれに連絡を取り合っている相手がいて、彼女は今現役のイラストレーターとして活躍している。そのウェブサイトの登録者数はかなり多い、ということだった。一般的な知名度はまだ高くはないけれど、じわじわと人気を集めつつある、とあるネットの記事で読んだ。
もっともその生活が相当
でも気持ちが乗っていないときの作品は、正直私は好きではなかった。陰影が足りず、必然性もない。誰かに依頼を受けたのだからこういう風に描いたのだ、という感じがひしひしと伝わってくる。スタイルそれ自体は彼女自身のものだが、肝心の中身がない。要するにまあそういうことだ。でも世間ではむしろそういうものがもてはやされるのだから私にはよく分からない。
数カ月前彼女に会ったとき、それはそれはひどい状態だった。もともと化粧というものを嫌ってはいたのだけれど――それは私も一緒だ――その顔は正直いって見られたものではなかった。髪の毛はぼさぼさにほつれ、目には
「あぁんたはね・・・」と彼女は何杯かのビールを飲んだあとで言った。「こんなことしてちゃらめ(だめ)! ちゃんと書かなくちゃ。いつまでコンビニバイトしてんのさ?」
私は適当なことを言って彼女を
まず玄関からしてひどかった。何足もの靴やサンダルが左右不揃いなまま散らばっている。すぐ脇にはさまざまなブランドの靴箱がまるでタワーのように積み重なっている。カップラーメンのゴミがいくつも散乱していて、廊下はまるで内戦で破壊された中東の市街地のようだった。水道の蛇口からは水がポトポトと執拗に落下し続けていた。部屋自体は私のアパートなんかよりもずっと広く、一人暮らしの女性にしてはかなり高級な部類に属するはずだったのだが、私はこんなところに住むくらいならまだ自分の六畳間の方がずっとましだと思った。私は酔った友人をベッドに連れていき――そこもまためちゃめちゃになっていたのだが――なんとか横に寝かせた。彼女はこれまで付き合った男たちの悪口を叫び続けていた。頭が悪い。毛深い。中身がない。足が
その赤ん坊のような寝顔を見て、私はこう思っていた。この人はきっと本当の意味で心から信頼できる友人を欲しているのだろうな、と。もっともそう思いながらもなお、自分がその相手にはなれないことを私は知っていた。彼女は才能を持ったクリエイティブな人間ではあったけれど、基本的には身勝手な人間であった。都合の良いときにだけ、相手に良い顔をするという傾向があった。あるいは私は冷たいのかもしれない。でも本当に正直にいうと、今はとにかく一人になりたかった。
もっともそのまま彼女を置いていくのはさすがに忍びなかったから、そのカオスと化した部屋を可能な限り片付けてから帰ることにした。流し台に山と積まれた食器類を洗い(洗剤とスポンジを探すだけでも一苦労だった)、床に落ちた爆発物の破片・・・ではなくカップラーメンのゴミを片づけ、机のまわりに散らばっていたボツになったイラスト(と思われるもの)をとりあえずひとまとめにして置いておいた。汚れた洗濯物を洗濯機に入れて回し、お風呂場とトイレも――ここもまた悲劇的な状況になっていた――ピカピカに磨いた。そこまでやると、妙な達成感が自分の中に湧いてくるのが分かった。
実のところそこまでやった時点で、すでに空は
ある意味では自分は彼女よりも強いのだ
、ということだった。私はこれまでクリエイティブな仕事をしている彼女に対し、一種の引け目を感じていたのだった。でもそれはこの一夜の大掃除を通して、徐々にどこかへと消えていった。たしかに私には人に誇れるような能力はないかもしれない。美人でもないし、将来の展望もない。でも少なくとも自分をまっすぐに保っていることはできる、と。自分の文章をもっときちんと身を入れて書いてみよう、と思ったのは、まさにそのときのことだった。それから新しい作品を書き始めた。それまでもいくつかの作品を仕上げ、雑誌の文学賞なんかに応募してはいたのだけれど、せいぜい一次選考を通るのが関の山で、そこから先には決して進まなかった。正直何か手違いがあったんじゃないか、とも思ったけれど、まあきっとそんなこともないのだろう。それでも私は落ちるたびに少しずつ自分が成長している、という感覚を抱いていた。実際にレベルが上がっている、というだけではなくて、徐々にまわりのことを気にしないで書けるようになってきたのだ。
という状況の中でとりあえず新しい作品に取りかかることにした。いつものように何も頭に入れずにパソコンの前に座り、最初の一文がやってくるのを待つ。それはスムーズに現れることもあったし、ずいぶん時間が経ってからやってくることもあった。でもまあ、とにかく辛抱強く待っていればきっといつかやってくることを私は知っている。そこでは「自分を信じる気持ち」というものがなによりも重要になってくる。
でもそのときに限っては、私はいつもほどうまく空っぽになることができなかった。というのも例のイラストレーターの友人のことが頭に残っていたからだ。彼女はこれから一体どうなってしまうのだろう、と私は思った。単純に「仕事」という観点でいえば、これからも順調にこなしていくのかもしれない。むしろ今までよりもうまく。でもそうすればそうするほどその心は
いずれにせよ、彼女には彼女一人の力でなんとか頑張ってもらうしかなかった。それが厳しい道だと分かっていたとしても、だ。才能のある人間にはきっとそれだけの責任が
そんなことを考えているうちに、ふと自分が名前を持たない場所にやって来たことを知る。周囲には白い