第3話

文字数 12,565文字


 目を覚ましたとき、彼女は自分が何かを失ったことに気付いた。何か非常に大事なものだ。しかしそれが何だったのか、どうしても思い出すことができない。唯一分かるのは、その部分に()いた穴の存在だけだった。彼女は自分が孤独になったことを知った。あるいは以前そこにあったのは、他人と自分とを結び付けることができる、人間的な温かみのようなものだったのかもしれない、と思った。しかし今そこにあるのは、氷のような(ひや)やかさだけだった。例の男の「無」になった股間が、いまだ鮮明に目の奥に焼き付いていた。そしてあの赤ん坊。あの子は結局は死んでしまったのだろうか?

 でもそれについてはどれだけ考えても答えは出なかった。あれだけ綺麗に皮を()ぎ取られたのだから、その出血によるショックで死んでしまったと考える方がむしろ自然だった。しかし彼女の中には、あれはあのような赤い(かたまり)になってしまってもなお生きていたのではないか、という思いが執拗に残っていた。なぜかは分からないが、そう考える方がものごとの辻褄(つじつま)が合うような気がしたのだ。

 いや、「辻褄(つじつま)」じゃないな、とすぐに思い直した。そうじゃない。それはもっと全体的な「流れ」のようなものだ。というのもあれはものすごく死に近い何かであったにもかかわらず、基本的には生に軸足を置いていたからだ。彼女には本能的にそれが分かった。あの一連の過程は、私に何かを悟らせるための儀式だったに違いない。だとすると、それは一体どういうことだったんだろう?

 でもどれだけ考えを(めぐ)らせたところで、結局は何も解決しなかった。あのイメージはあのイメージとして彼女の中に残り続け、最後に聞いたゴォー、という地鳴りの音と共に、まさにそのままの形で脳の片隅に保存されることになった。その後(おり)に触れてその記憶は――といっても本当はただの夢に過ぎなかったのだが――鮮明に(よみがえ)ってきた。そしてそのたびに彼女はこう思うことになった。世界の本質は、おそらくは「無」なのだと。


 男と寝たくて仕方がなくなったのはその頃のことだ。相変わらず過食嘔吐は続いていたものの、それに加えて激しい性欲を感じるようになったのだ。ただそれを通常の意味での「性欲」と呼べるのかどうかについてはいささか疑問が残る。彼女にとっての「食欲」が今では何か別のものに変わってしまっているのと同じように、それもまたまったく違った性質を持ったものに変化していたからだ。それは欲望というよりはむしろ「穴」に近いものだった。決して埋められることのない穴。彼女は何かから逃げるためにその中に入り込む。しかしその奥にあるのは、おそらくはもっと大きな穴だ。逃げれば逃げるほど穴は広がっていく。しかしその何かはどれだけ進んでも追跡を()めることはない。むしろよりスピードを増して追いかけてくる。執拗に、どこまでも。本当のことをいえば彼女にだってよく分かっていたのだ。そこにいるのがおそらくは自分自身なのだ、ということを。


 その後数人の男と付き合ったが、どの関係も長くは続かなかった。彼女は本質的には相手の男に興味を持っていなかったにもかかわらず、自らの性的な衝動を抑えることができなかった。もっともそれでいて「消耗している」という感覚はなかった。というのもその瞬間に限ってはお互いが行為に満足しているようだったし、ごく客観的に見れば相手の男たちもさほど悪くない人間だったからだ。でもその一番の要因はきっと私が無であることにあるのだろう、と彼女は思った。なにしろ「無」にはそれ以上()り減ることはできないのだから。

 あるいはそれらの関係が続かなかったのは、むしろ男の方が一種の引け目を感じたからだったのかもしれない。というのも例の夢を見てからというもの、彼女には――いまだ絵はろくに描いていなかったにもかかわらず――ある種独特なオーラが(そな)わっていたからだ。普段はもちろん表には出さないようにしていたのだが、ふと気が(ゆる)んだときなんかに本音が(にじ)み出てくることがあった。そういうとき彼女の目はどっしりと座り、どろんとして、何かいわく言い(がた)い重みを獲得することになった。その輝き――あるいは輝きの

――の中には明らかに死に近接したものがあった。男たちはセックスのあとなんかにその気配を察し、(ひそ)かに身ぶるいすることになった。俺はもしかしたらとんでもない女と寝ているのかもしれない、と。

 そんなことをしているうちに連絡はまばらになり、実際に会うことも少なくなる。そしてあるポイントでぱたりと止まる。彼女は以前よりもさらに孤独な状態でこの世界に取り残されている。

 そういう関係が二人ほど続いたあと、三人目の男と出会った。その前の二人が客観的に見てもそれなりにまともな男だったのに対し(定職に就き、清潔で、穏やかな話し方をした)、この男はどこからどう見ても尋常ではない雰囲気を持っていた。彼は彼女より二つ年上の(自称)ミュージシャンだった。仲間とバンドを組んで、いまだアルバイトをしながらではあったものの、クラブハウスで演奏したり、どこかのイベントでライブをやったりしていた。彼はギターの担当だった。

 事の発端は、彼女が働いているコンビニに彼が小型のギターアンプを忘れていったことだった。ケースに入っていたせいで最初は何かの爆発物かとも思ったのだが、あとから電話してきた若い男によると、「それはアンプだ」とのことだった。電話を受けたのは彼女だったのだが、彼はどうしても抜けられない用があって、なんとかそれを届けてほしいと――さほど悪びれもせずに――言った。もちろん普段はそこまではやらない。なにも店に責任があるわけではないのだから。そもそも一体なぜコンビニにアンプを持ち込んで、それをその場に忘れていくのだろう?

「いやATMでお金をおろしていたらさ、そのまま置いてきちゃったんだよね」と彼は言った。

 彼女はほかの店員にばれないよう、その頼みを承諾した。彼女には多少の好奇心があり、それを抑えることができなかったのだ。もちろんその時点で彼と寝たいと思っていたわけではない。しかしその声に含まれるある種の不敵な自信のようなものに、興味を惹かれないわけにはいかなかったのだ。というのもそれは彼女がずっと獲得したいと願いながら、これまでどうしても獲得することのできなかったものだからだ。

 勤務のあとにそのケースをこっそり持ち出して(もしばれたら交番に届けたのだ、と言うつもりだった)、彼が指定した場所に持っていった。そこはあるさびれたビルの入り口で、彼女は携帯のアプリを見ながらなんとかそこに辿(たど)り着いた。自分の住んでいる街にこんな場所があったなんて、これまで全然知らなかった。落ちかかる夕陽が、あたり一帯を寂しげに照らしていた。その場所の空気だけが、明らかに周囲と比べて流れが悪くなっていた。()えた油のような(にお)いが鼻を突いた。壁に描かれた卑猥(ひわい)な落書きが、通り過ぎる人々に自らの存在を主張していた。

。彼女はそこでドキドキしながら待っていた。教えられた電話番号に連絡を入れると、「オーケー。すぐ行くよ」という彼の――いささか軽過ぎる――返事が返ってきた。やがてその数分後に一人の男が建物の中から出てきた。

 彼はどうやら彼女よりも少し年上で、髪の毛が長かった。若いのに不精(ひげ)を生やしていたが、それは案外その不敵な雰囲気に似合っていた。ジーンズには穴が開き、スニーカーはひどく汚れていた。両耳にピアスをしていた。

 彼女は実のところ普段はこういった男に興味を惹かれることはない。もっと清潔で、できればハンサムな男の方が好みだった。しかしこの男の内部には単なる「自信過剰」というだけでは言い切れない何かが含まれているような気がした。その立ち居振る舞いの粗雑さにはいささか意図的なものが感じられなくもなかったが、それでも十分彼女の目には魅力的に見えた。この男は一体何を考えているのだろう? 彼女はしばらくの間ぼおっと突っ立ったまま、ただそのギターアンプを両手で抱えていた。

 男はほんの少しだけ笑ったあと、「ありがとう。恩に着るよ」と――反省している様子は一切見せずに――言い、その四角い、爆発物のように見える忘れ物を受け取った。そしてくるりと背を向け、足早に建物の中へと去っていった。彼女はたった一人、その見知らぬ場所に取り残されていた。久しぶりに心臓がドキドキと音を立てているのが分かった。呼吸が浅くなり、身体全体が熱を持ち始めていた。どこかでカラスが鳴いていた。(はる)か遠い場所で、救急車のサイレンが執拗に鳴り続いていた。私はあの人に恋をしているのだろうか、と彼女は思った。でももちろん、誰にもそんなことは分からなかった。


 やがてその数日後に、また男が店にやって来て、彼女の姿を発見した。狭く清潔な店内において、その姿は異様に(きわ)()って見えた。彼は煙草(たばこ)を買い、その帰り際に「今日このあと会えるか?」と小さく(たず)ねた。「ほら、この間のお礼をしたいからさ」

 彼女は一瞬迷ったものの――こんな男と関わって良いことなどきっと一つもあるまい――気付いたときには小さく頷いていた。心臓がまたドキドキと鳴り出したのが分かった。


 退勤後、ようやくのことで外に出ると、彼が煙草を吸いながら待っていた。背後の夕陽(ゆうひ)がその顔に深い陰影を与えていた。こう見ると意外に悪くない顔をしているんだな、と彼女は思った。彼らは二人連れだって歩き始めた。心臓が高鳴り、なにもかもがまるで夢のように感じられた。涼しい風が、二人の間の狭い空間を通り抜けていった。彼がその日彼女を連れて行ったのは、ある小さなライブハウスだった。どうやらここで今日演奏をする、ということらしい。

「別のバンドの前座なんだけどさ」と彼は言った。「まあちょっとは聴いてってくれよ」

 彼は店の主人と奥にいたバンド仲間に「俺のおともだち」と言って彼女を紹介した。彼女はなぜか真っ赤になりながら下を向いていた。部屋中が煙草と汗の(にお)いで満ちていた。正直なところこういう場所に来るのは初めてだったから、ひどく居心地が悪かった。でも、それにもかかわらず心は高揚していた。店の主人が、彼のおごりだ、と言って飲み物を持ってきてくれた。彼女はそれを一口すすり、そしてまた目の端で彼の姿を探した。

 やがて客が集まり、演奏が始まった。彼らの演奏は、想像していたよりもずっとレベルが高いものだった。せいぜい素人に毛が生えたくらいのものなのだろう、と思っていたのだが、運さえ良ければこのままCDデビューもできるんじゃないか、というくらいのしろものだった。ボーカルの声が少々弱いような気はしたが、ほかのメンバーたちの演奏はお世辞抜きでなかなか聴きごたえがあるものだった。荒々しさの中にも繊細な部分があり、時折見せるそういったフレーズが聴衆の心を不思議なやり方で慰撫(いぶ)した。もっとも彼女の目にはほとんど最初から最後までギターの彼の姿しか映ってはいなかったのが。彼は途中二度ほど彼女の方を見て、少しだけウィンクをした。あとはただひたすら演奏に集中していた。

 彼女は彼らの演奏だけを見て、すぐに店を出た。出口付近でうろうろしていると、すかさず彼が汗をかきかきやって来て、ねえ、またどっかで会えないか、と訊いた。私に会ってどうするの? と彼女は訊いた。

「いや、どうするっていわれてもよく分かんねーけどさ」と彼は言った。「俺たち結構気が合うんじゃないかって気がするんだ。なんとなくね」

 彼女は結局また会うことを承諾し――というかそれ以外の選択肢などなかったのだが――それから彼らは付き合うことになった。彼女が画家志望なのだ、ということを聞いて、彼はひどく喜んだ。「ほら、やっぱ俺の目は間違っていなかったんだ。俺たち同類だよ」

 彼らは何度も性的関係を持ったが、彼女が快感(に近いもの)を感じることができたのは、せいぜい最初の数回だけだった。それ以降は単なる苦痛に過ぎなかった。それでも断らなかったのは、彼を失いたくなかったからだ。愛想の良い始めの数カ月が過ぎると、彼は彼女を「そこにいて当たり前の存在」として扱うようになった。何かの理由があって彼のもとに行けない日があると、ひどく怒り出した。「そうか、俺のこと想ってくれてないんだな」と彼は言った。

 彼は実のところ性差別主義者であり、アルコール中毒者であり、拝金主義者であり、おまけに安っぽい権威主義者でもあった。その兆候は徐々に現れていった。もっともだからといって簡単に別れることはできなかった。彼女の心は彼のその込み入った――というか言いようによっては(ゆが)んだ――システムの中にすでに完全に組み込まれてしまっていたからである。

 彼はよくほかのミュージシャンたちの悪口を言ったが、彼女がそれに同調しないとすぐに怒り出した。「お前はどっち側の人間なんだ?」と彼は言った。暴力をふるうこともしばしばだった。そういう場合には大抵酒が入っていたが、そのあとすぐに平身(へいしん)低頭(ていとう)して謝った。自分は一体何をしているんだろう、と思うこともしばしばだったが、それでも彼のもとを離れようという気にはなれなかった。

 彼女は過食症のことを告白したが、彼はそれを聞いても驚いたりはしなかった。「なあ、それは俺の酒と一緒だよ」と彼は言った。「いいかい? 俺たちは芸術家なんだ。

。分かる? あいつらとは違っているんだよ」。ちなみに「あいつら」というのは、ごく普通の社会生活を送っている大多数の人々のことである。

「これはもうどうしようもないことなんだ。俺たちにとってはね」

 もっとも彼女にはそれは単なる言い(わけ)にしか聞こえなかった。彼は酒を飲むことによって自分をきちんと前向きに扱うことから逃げ回っているのだ、と思った。なぜならそれは耐え(がた)いほど孤独なことだからだ。


 その後の日々はひどかった。彼女は二度妊娠し、二度中絶手術を受けた。費用は全部自分で払った。彼はアルバイト先の酒屋で商品を盗んだことがばれて、クビになった。その間の生活費は彼女がまかなってやらなければならなかった。

「悪いね」と彼は全然悪びれもせずに言った。「そのうちなにもかもうまくいくからさ」

 彼の最初のバンドは仲間内の口論が原因で解散したものの、そのあとに加入した別のバンドがレコード会社の目に()まり、めでたくメジャーデビューすることになった。特に彼のギターソロは関係者の間でかなり高い評価を得ている、ということだった。彼らは珍しく高い料理を食べてそれを祝ったが、彼女の方はこれを機に彼が自分から離れていってしまいそうな気がして、心配でならなかった。

「大丈夫だよ」と彼は例のひどく軽い調子で言った。「俺は君のことを忘れたりしないさ」


 もっともその心配はなかった。というかこれから二度とそんなことはないだろう。というのもCDデビューした二カ月後に、彼は突然この世を去ったからである。

 彼はようやくミュージシャンとして生計を立てられるようになったわけだが――デビューしたおかげでライブの出演も格段に増えるようになっていった――そのお金が彼女の方に回ってくることはほとんどなかった。二人が会う機会は徐々に減っていき、メールをしてもめったに返信は返ってこなかった。彼女がライブ会場に行っても目配せすらしないこともあった。それでもごくまれに電話がかかってくることがあり、そのときは決まって彼が彼女の部屋にやって来て、セックスをするのだった。彼女は彼が今や身体のためだけに自分を利用していることは分かっていたにもかかわらず、その誘いを断ることができなかった。寂しかったということももちろんある。でもそれだけではない。「俺たちは同類なんだ」といういつかの彼の言葉が、彼女の頭にはことあるごとに(よみがえ)ってきた。

 二人はまるで機械のように(まじ)わり、そして行為を終える。前戯(ぜんぎ)すらないこともよくあった。彼女も、そしておそらくは彼の方も、もはや自分たちの間に愛情が存在しないことはよく分かっていた。しかしもっと別の種類の何かが、二人を強く結び付けていた。おそらくはもっと不毛なものが。

 もっとも黙々と行為をこなしたあと――「

」という言葉がぴったりだと彼女は思った――彼は基本的にはいつも良いときの彼に戻るのだった。つまり誰かの悪口を言ったり、酔っぱらったり、暴力をふるったりするときの彼ではなく、もっと陽気で、楽天的な彼に戻るのだ。彼女はそんな彼の顔を見るのが好きだった。なんだかんだいっても、この人には人を惹き付ける魅力があるんだ、と思った。

 でも最後に彼と(まじ)わったときだけは様子が違っていた。それは彼が死ぬ二日前のことだった。もちろんそのときの彼女には――そしておそらく彼自身にも――そんなことはまったく分からなかったわけだが、あとから思い出してみると、やはりあそこには何かがあったのかもしれない、と考えないわけにはいかなかった。つまりそのときすでに一種の徴候が現れていたのだ。

 いつものように黙々と(まじ)わったあと、彼らは彼女の狭いベッドに二人で横になっていた。描きかけの絵が――それはもう数カ月の間まったく進んでいなかった――隅の方に立てかけられている。彼は最近疲れ気味だった。ハードなライブのスケジュールをこなさなければならなかったし、名が売れてきたことによるフラストレーションも溜まっていた。これまではただの無名の貧乏バンドに過ぎなかった。しかし多少売れてきた以上、その音楽性に批判的な者が出てくるのは避け(がた)いことだった(そして彼は性格上、そういった批判にいちいち反応せずにはいられなかった)。さらに金銭的な問題でメンバー間のいざこざがあった。リーダーのボーカルとあまりうまくいっていない、ということだった。「あいつ自分の才能だけでここまでやってきたと思ってやがる」と彼は言った。

 彼女はそんな話を聞くともなく聞いていたのだが、そのとき彼が突然黙り込んだことに気付いた。それは普段あまりないことだった。彼はいつもおしゃべりだったし、彼女が先に寝込んだりするといつも真剣に腹を立てたからだ。それで首を曲げて彼の方を見てみると、そこに浮かんでいたのはまるで小さな子どものような表情だった。たしかにもともと幼い顔立ちではあったのだが、そこにあったのは明らかに親とはぐれてしまった、怯えている小さな子どもの表情だった。何があったのだろう、と彼女は思う。どうしてこんな顔をしているのだろう? そのとき彼が天井あたりにある何かを見つめていることに気付く。

 そこにあったのは意外なものだった。まさかこれがこんなところにあるなんて。もっとも「意外」とはいっても、彼女にとってまったく馴染みのないもの、というわけでもなかったのだが。

 それは「穴」だった。今彼女のアパートの見慣れた天井に、黒い穴が()いていたのだ。しかしその奥に夜空は見えない。屋根も見えないし、星も見えない。あるのはただの純粋な穴だった。それが彼女にとって馴染みがあったのは、過食をするときに頭に思い描いていたのがいつもこの穴だったからだ。大きさも、形も、ちょうどこんな感じ。その奥にあるのは、おそらくはより大きな穴だ。なにもかもを吸い込んで、それでも決して満足することはない。おそらくは永遠に。

 それが今二人の頭の上に出現したのだ。彼は言葉を失ったまま、ただじっとそれを見ていた。どうやら怯え過ぎて目を逸らすことさえできないみたいだった。彼女は何かを言おうとしたが、ここでは言葉は失われていた。どのような言葉も、一切頭に浮かんでこなかったのだ。それでしばらくの間ただひたすらそれを見つめていた。その穴もまた――微動だにせず――ただひたすら二人を凝視(ぎょうし)し続けていた。このいささか問題を抱えたカップルを。

 やがてゴォー、という地鳴りに似た音が聞こえてきた。それは大型トラックや――実際に大型トラックが通り過ぎるとこの部屋は小さく揺れた――地震の音にも似ていたが、本当はそうではないことを彼女は知っていた。これはあの音だ、と彼女は思っていた。例の夢の中で見た、あの音だ、と。

 その音は徐々に大きくなっていった。部屋の中には――その音を別にすれば――普段と違っていることなど何もなかった。でも分からない、と彼女は思った。もしかしたらこの瞬間、通常の意味での時は止まってしまっているのかもしれなかったからだ。人々は眠ったまま動きを止め、月も星もすでに光を(はな)つのをやめてしまっているのかもしれない。

 もっとも彼女と彼だけはきちんと意識を保ったままそれと(あい)(たい)していた。なぜそんなことが起きたのかは分からなかったが、今何かの加減で世界の穴がこの部屋の天井に現れたのだった。その奥にあるのが「無」であることを彼女は知っていた。あるいは彼は知らないのかもしれないが、彼女には体感的によく分かっていた。世界の中心にあるのは「無」であり、つまるところ何一つ意味なんかないのだ、と。

 ゴォー、という音はさらに強くなり、やがてピークを迎えようか、というところで突然()んだ。彼は相変わらず顔を上に向けながら、彼女の身体に強くしがみついていた。本当に幼い子供みたいだ、と彼女は思った。

 やがてその無音の中で、かつて見たのとまったく同じ光景が繰り返された。例の赤ん坊と、自ら去勢をする男の姿だ。穴自体が小さかったため、彼らの姿もまた縮小されてはいたのだが、なぜかものすごく鮮明にその細部を(とら)えることができた。まず最初に穴の奥に白い世界が現れ、そして赤ん坊、さらには例の不精(ぶしょう)(ひげ)を生やした男・・・。すぐ隣にいる彼が自分とまったく同じものを見ていることはその表情からも明らかだった。彼はやはりそこから目を離せなくなってしまっているようだった。もっとも彼女としてはもはやどのような驚きも感じることはなかった。なにしろすべてが二度目だったのだから。どのような流れを辿(たど)ってその「行為」が(おこな)われるのか、頭の中にはまだ鮮明に記憶が残っている。

 やがて男が赤ん坊の皮を()ぎ、自らの性器を無表情で切り落としてしまうと(なぜかそれはものすごく巨大に見えた)、穴は次第に閉じられていった。彼女はあの肉の(かたまり)になった赤ん坊がまだ生きているのかどうか最後に確認しようと思ったのだが、その暇もなく天井はもとの姿に戻ってしまった。時がまた動き出した、という感覚があった。次第に外の世界の音が部屋の中にまで入り込んでくるようになった。道路を走る車や、バイクの音なんかだ。もっともすべてが終わってしまったあとでもまだ、隣にいる彼は目を開けたままでいた。まるで「(まばた)き」という行為が存在していたことすら忘れてしまったかのように。彼女は何かを言おうとしたのだが、やはり言葉はやってこなかった。そもそもあんなものを見て、一体何を言えばいいのか? それでぐずぐずと考え事をしている間に、知らぬ間に眠り込んでしまった。予想外にもそれはとても穏やかな眠りだった。無意識がそっと彼女を包み込んだ。乳白色の(もや)が視界を覆っていった。いろんなことが(はる)か遠くにあるように思えた。かすかな波の音が聞こえた。

、と彼女は思った。


 でももちろんなにもかもそんな風にはいかなかった。翌朝目を開けると、隣にいたはずの彼がいなくなっていた。いつもは彼女がアルバイトに行ったあとまでもずっとぐうぐう眠っていたものだったが。もっとも彼女はさほど驚かなかった。昨日の夜あんなものを見せられたのだもの。いつまでもこんなところにいたくないと思う方がむしろ普通なんじゃないかしら。

 彼女はためしに彼にメールを送ってみたが、案の定返事は返ってこなかった。それはまあいつものことではあったのだが、今回に限っては少々不吉な予感がなかったわけではない。彼は最近精神的に参っているように見えた。もちろんいつだって安定はしていなかったのだけれど、最近は特にそうだった。そこにあんな光景を見せられたのだ。あんな()生臭(なまぐさ)い光景を。もしかしたら、あれは

現出させたものだったのだろうか?

 彼女はそんなことを考えながらいつものようにアルバイトに行った。彼のことは心配ではあったものの、生活のためにはきちんと働かなくてはならなかった。その後の二日間は驚くほど(すみ)やかに、そして穏やかに過ぎ去っていった。むしろいつもよりずっと。

 電話がかかってきたのは、そろそろ眠りに就こうか、と思い始めた深夜のことだった。その日彼女は仕事が終わったあとに珍しく絵を描いた。簡単なスケッチのようなものだったが、自分では意外と気に入っていた。それはごく普通の街の景色の中心に、真っ黒な穴が存在している絵だった。

「もしもし」と彼女は少し警戒気味に言った。というのもその番号は連絡先に登録されていない番号だったからだ。

」とどこかで聞き覚えのある声が言った。少しして気付いたのだが、それは彼のバンドのリーダーの声だった。「ホテルの部屋でさ。ついさっき警察が来てさ、俺たちもいろいろ訊かれたんだ。もしかしたら君ん()にも行くかもしれないぜ」

 そのとき彼の後ろの方から誰かが何かを叫ぶ声が聞こえてきた。たぶんほかのメンバーも一緒なのだろう。

「一体何があったの?」と彼女は訊いた。自分の声が予想外にも落ち着いていることを知って、驚いた。「もっと詳しく事情を教えて」

「いや、実はさ、俺にもよく分からないんだ。でもこれだけはたしかだ。あいつは死んだ。もう戻ってはこない」

 

、と突然回線の切れた電話を握りながら、彼女は頭の中で何度も繰り返していた。そのとき頭に浮かんでいたのは、当然のことながら例の穴のことだった。世界の中心にある、恐ろしく空虚な穴。彼はその奥に例の()生臭(なまぐさ)い光景を見て、その結果死に至ったのだ、と彼女は思った。そこに因果関係がないと考えることは不可能だった。あの人は本当に怯えた表情をしていた。きっと彼の中の

は、あれに耐えることができなかったんだろう。

 もっとも彼の死そのものは、彼女にそれほど大きなショックを与えなかった。あんな風にでたらめに生きていたのではきっと長生きはできないだろう、ということは知っていた。しかしそれだけでなく、心のどこかではこう思っている自分もいたのだ。

、と。

 リーダーが言ったように、警察は彼女のもとにもやって来た。もっとも彼らとしても彼女が何かしらの手がかりを握っているとは信じていないようだった。あとから聞いた話によれば、彼には最近別のガールフレンドがいたらしい。そして死ぬ前日にはそちらの女性のところに行っていたらしいのだ。もっとも彼女としてはもはやそんなこともどうでもよかった。というのも今さら何をしたところで彼はもう戻ってはこないのだから。

 ニュースや新聞などで取り上げられた情報によれば、彼は都内のホテルの一室で人知れずこの世を去っていた、とのことだった。直接の死因は吐いた物を(のど)に詰まらせた窒息死だった。当時ものすごく泥酔していて、あるいは薬物を使った可能性もある、ということだった。それだけならまあ単なる「事故死」というだけで終わったのだが、状況を異質にしていたのが、

、という事実だ。それはものすごく鋭利な刃物で切断されていたらしく、検視官によれば「本人だって最初はそのことに気付かなかったのではないか」とのことだった。もっとも彼が死んだ

に切り取られたのか、あるいは死ぬ

に切り取られたのかは微妙なところだった。問題だったのは周囲に争った形跡がなく、他人が入り込んだ可能性がかなり低い、ということだった。さらにいえば刃物はどこにも見つからなかったし、切り取られた性器そのものも完全に姿を消していた。警察は頭をひねったが、死因そのものは窒息死、ということでほぼ間違いなかった。一体何が起きているのだろう、と彼らは思った。バンドメンバーも、彼女もそう思った。でも結局は何一つ解決しなかった。唯一たしかだったのは、彼がもう二度と戻ってはこない、という事実だけだ。


 やがて週刊誌やワイドショーなんかがその猟奇(りょうき)的な事件に飽きてしまうと、彼女のもとには以前と変わらない穏やかな日々が戻ってきた。アルバイトをして生活費を稼ぎ、気が向いたときには絵を描く。時折やってくるものすごい食欲は相変わらずだが、性欲の方は――ありがたいことに――身を潜めていた。彼が死んでからというもの、もう男と寝たいとは思わなくなっていた。もっとも彼に対して引け目を感じていたわけではない。あんなのはろくでもない男だった。それはこのようにして距離を置いてみると、明らか過ぎるほど明らかなことだった。子どもっぽかったし、なによりも身勝手過ぎた。私のことを単なる都合の良いセックスの相手ぐらいにしか思っていなかったのではないか? でもそういうこととは別に、彼と過ごしたいささかでたらめな毎日の記憶が、彼女の中の何かを動かしていたのだ。

。それは彼女が長い間触れようとしながら、決して触れることのできなかったものだった。その先に進むには孤独に耐える強さと、根拠のない――と彼女には思えた――自信が必要とされる。もしかしたら今ならそこに触れることができるのかもしれない・・・。

 その方法は、おそらくは絵を描くことでしかなかった。ここ数年の間――というか考えてみれば生まれてからずっと――あまりにも長い歳月を無駄にしてきた、という感覚があった。そろそろ自分自身と向き合ってもいいのかもしれない、と彼女は思った。

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