第1話 深夜の珍客

文字数 1,311文字

 うちには、文豪がいます。いや、比喩でもなんでもなく。正確には、いました、と言うべきか。

 そう。あいつは突然やって来ました。

 ふた月前の深夜、もう12時を回る頃でしたか。私はとっくに床に着き、深い眠りの中におりました。ところが、隣の布団でやはり寝息を立てていたはずの妻が、私を揺さぶり起こして言うのです。

「ねえ、ねえ、ちょっと起きて! 誰かが玄関の戸を叩いてる」

 私は眠りを引きずったまま、ぼんやりと目を開けました。すると目の前に、切羽詰まった妻の顔があります。そして確かに、玄関の引き戸を乱暴に、せわしなく叩く音がします。
 私達の住んでいる家はもともと妻の祖母の持ち物で、昭和30年代築の大変古い木造日本家屋です。よって玄関もガラガラとスライドさせて開けるタイプで、手で叩くとバンバンと派手な音がするのです。
 すわ、強盗か!? 驚いた私は飛び起きると、取るものとりあえず小走りで玄関へ向かいました。

「ど、どちら様ですか?」

「俺だ。俺だ。開けてくれ」

 男の声。心当たりはまったくありません。

「こんな時間に、何の御用でしょうか、お名前は?」

「俺だよ、太宰だ。なんだ、この間の事まだ怒ってるのか。金ならまた今度返すからさ。いいから開けてくれよ」

 ダザイ? 変わった名前だな。というかダザイといえば、太宰治しか知らないぞ。こいつはいったいどこのダザイなんだ。
 玄関の中で訝しんでいる私をよそに、男は話を続けました。

「おい、俺はさっきまで、安吾と飲んでたんだ。ところがあいつ先に帰っちまってな。俺はまだ飲み足りねえんだ、だから来た。開けてくれ、今日はおおいに飲もうじゃないか」

 アンゴ? そんな名前の奴は知らない。この男は大方酒に酔って、行くはずの家を間違えているんだろう。私がそこを指摘しようと口を開いた時、背後で様子を伺っていた妻が、私の腕を強く引きました。

 「ねえ、隣の山田さん家の電気が点いたわよ! うるさいのよきっと、近所迷惑よ。あたし明日ご近所になんて言われるか! とりあえず中に入れちゃってよ」

 妻にとっては、強盗の可能性がある深夜の珍客よりも、ご近所の悪評の方が恐ろしいらしい。そして私がもっとも恐れているのは、妻のヒステリイなのです。
 かような力関係にて、私はしぶしぶ戸を開けるハメになりました。

「ああー、酔った!」

 つんのめるように玄関の上がりかまちに倒れ込んできた男は、なんとそのままぐうぐうといびきをかきながら寝てしまいました。どうやら相当酔っぱらっているようです。
 さらに奇妙だったのは、その服装です。腹を下にしてうつ伏せに転がっているので全貌はよくわかりませんが、えらく古めかしい、コウモリのような黒いマントを羽織っているのです。履物は下駄。まだ11月であり、正月の和装には早すぎる時期だというのに。

 ともあれ害は無さそうだし、170センチはありそうな大の男を運ぶのも難儀だと思い、とりあえず毛布をかけてそのまま寝かせておく事にしました。朝方になって酔いが醒めれば、すべてがはっきりするだろう。私は妻に安心するよう言って寝かせ、自分は玄関横の壁にもたれて座り、高いびきの男を朝まで監視する事にしました。

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