第4話 置手紙

文字数 1,152文字

「なんだ、これは。一体、どういうことだ」

 思わず部屋の中を見回した私は、枕元にある小さい文机の上に、手紙らしきものが載っているのに気づきました。

「孝雄さんへ」

 妻の字で、宛名は私です。

「孝雄さん。罪ぶかい私を、どうぞおゆるし下さいませ。それでも私はどうしても、治さんと離れることができません。こうなってしまったからには、この家にいる事は、もうできないのです。今まで本当にありがとうございました。私は治さんにどこまでも付いていく心づもりです。私のような馬鹿な女のことなどはやく忘れて、どうぞ、どうぞ、あなただけは、幸せにお暮しになってね。さようなら」

 手紙は、確かに妻の筆跡に間違いありません。が、なんというか、文章から受ける感じが、まったく妻らしくないのです。
 第一に、妻はこんなふうに思い詰めて、内省するタイプとは程遠い。もっとずっと単純で、ご近所のうわさ話にばかり反応するような、単細胞な女なのです。
 それは内容以前の問題で、妻がまるで別人格になったかのような、奇妙な印象を私に与えました。

 ともあれ、手紙から察するに、妻は太宰にくっ付いてどこかへ行ってしまったようなのです。親戚知人を当たりほうぼう探しましたがどこにもいないので、家出人として警察へも届けました。

「夫婦喧嘩でもしたんじゃないですか? まあ、奥さんの話もよく聞いてあげないと」

 警察はどうせ痴話喧嘩だろうと軽くみて、まともに取りあってくれません。しかし、まさか「太宰治と駆け落ちしました」と言うわけにもいかず。
 そんな事を言えば、私が発狂して妻に何かしたのではと疑われて、さんざん責められたあげく精神病院にでも入れられるのがオチでしょう。

 こうなってしまっては、もうどうしようもありません。私は普段通りの生活を、粛々と繰り返すほか為す術がないのでした。

 仕事を終え家に帰り一人の食卓に着くと、妻よりもむしろそこにいた太宰の面影が、色濃く浮かんできます。
 軽口をたたきながらもふと見せる、憂いに満ちた眼差し。額にかかる髪を時おりかきあげる、その神経質そうで繊細な指先。老練で思慮深げな表情から一変して、少年のように無邪気な笑顔を見せる瞬間。

 酒を飲んで気分がよくなると、なにやら大昔の流行歌のような、ロマンチックな歌を口ずさんだりもしていました。

「※思い込んだら命がけ、男~のこころ~……」

 ……気が付くと私は熱い涙を流しながら、確かにそこに居たはずの、太宰の幻影を追い求めているのです。

 ああ、なんという事でしょう。太宰にすっかり惚れこんでしまったのは、妻だけではありませんでした。私自身もまた、いまや彼なしではいられない程に、太宰治のことが恋しくて恋しくて、たまらなくなっていたのです。

※燦めく星座 作詞:佐伯孝夫 歌手:灰田勝彦

 
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