第3話 どこへ行った

文字数 1,351文字

 一歩外に出れば、そこにはいつも通りのせわしない朝が広がっています。通勤途中の会社員、通学途中の学生服、ゴミ出しついでにおしゃべりに花を咲かせる奥さん連中。
 私はついさっきまでのおかしな光景を、ぶるぶるっと身震いする事で払い落とそうとし、駅までの道のりを急ぎました。
 さてさて、さて。今日の予定はなんだったかな。会議はたしか11時からだったか。よしっ気を引き締めていくぞ。
 私は頭の中を無理やり仕事で満たし、余計な事が入るすきまを作らぬよう努力しました。

 会社に行き仕事をしいつもとまったく変わらない一日が過ぎていきました。少し残業をして、もうすぐ7時。さあて、そろそろ帰るとするか。私は電車に乗り最寄駅につき、やや疲れた足どりで家路へと向かいました。

「ただいま」

「お帰りー」

 そして私を笑顔で出迎えた妻の横には、またしても太宰治が立っていたのです。

 その日から、なんの因果か、私の家にはどうやら文豪が住み着いてしまったようなのです。

 事態を重くみて考え過ぎると頭がおかしくなりそうなので、私は極力気にしないよう、努めて冷静に振る舞いました。朝は今まで通り仕事に行き、帰宅後は夕飯をとり風呂に入る。ただそこには、妻の他にもう一人同居人が増えているというわけですが。

 そうそう、妻はどう思っているのか? 

 日中の事はわからないけれども、朝食や夕飯時に見ている限りでは、私のことなどそっちのけで、太宰とえらく楽しそうに何やらおしゃべりをしています。
 さすがと言うか何というか、上手い小説を書く男はなるほどおしゃべりも面白く、その軽妙な語り口に私も思わず引き込まれ笑ってしまうのでした。

 太宰治が家に居るという異常な光景が、日常の一コマとして私の中で認識できるようになって来た。そんな時に事件は起きました。

 ある日、いつものように会社から帰宅すると、玄関まで迎えに出てくるはずの妻と太宰がいません。奥の部屋にでもいるのかと居間の方まで行きましたが、そこにもいない。

「おーい、どこだ、帰ったぞー」

 寝室や仏間、家じゅうを探しましたが、二人の姿はどこにもありません。買い物にでも行ったのか? しかし、二人そろって? 時刻はもうすぐ8時半になろうとしています。とにかく腹が減っていた私は、やや不機嫌になりつつ冷蔵庫から缶ビールとカニカマ、キムチを出して一人晩酌を始めました。

 太宰はともあれ、妻のやつ。夕飯の支度もせずに一体どういうつもりなんだ。そもそも、最近は飯の時も太宰とばかりしゃべっているし、俺を蔑ろにし過ぎなんじゃないのか。この家の(あるじ)は俺だぞ。帰ってきたら説教してやる。

 私は苛立たしい気持ちを抱えながら、机の上に置いた三本目の缶ビールを飲もうと右手を伸ばしました。すると缶にうっかり手が当たり、倒してこぼしてしまいました。

「ああっ! しまった」

 帰宅後まだ着替えを済ませていなかったので、仕事用のスラックスにビールがしみ込んでいきます。 

「まったく、腹の立つことばかりだ!」

 私はやり場のない怒りで憤慨しながら寝室に着替えを取りにいき、洋服ダンスを開けました。ところがそこで非常な違和感を覚え、しばし呆然としてしまいました。なぜといって、そこにあるはずの妻の衣類が、ごっそりとなくなっていたのですから。




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