浅読みのすゝめ ~蓮實重彦『夏目漱石論』は愉しい~

文字数 2,000文字

 この本は危険だ。
 そして、この本は(たの)しい。
 蓮實重彦の『夏目漱石論』について読者が知っておくべきなのは、この二点だ。理由は共通している。つまり、この「漱石論」は他のどの「漱石論」とも似ておらず、それも過激なまでに似ていないので、うっかり手に取って宿題のレポートの参考にしてみようかなどと思って読み始めたりしては

いけない、ということだ。お勉強には江藤淳の『夏目漱石』や平川祐弘の『夏目漱石』あたりから始めるのがたぶん良い。それらを読んで課題をぶじ提出してからこの本を開けば、あなたはニヤリとし、姿勢を変え、そして夜を徹して夢中で読みふけることになるだろう。
 例えば、冒頭はこうだ。

 漱石をそしらぬ顔でやりすごすこと。誰もが夏目漱石として知っている何やら仔細ありげな人影のかたわらを、まるで、そんな男の記憶などきれいさっぱりどこかに置き忘れてきたといわんばかりに振舞いながら、そっとすりぬけること。(中略)それは、ほかでもない。その漱石とやらに不意撃ちをくらわせてやるためだ。
   (蓮實重彦『夏目漱石論』講談社文芸文庫、9-10頁)

 あなたが大学生ならこんな文章を小論文の中に引用してはいけない。まちがいなく教官の失笑を買うだけだ。まして、次に引くのはこの本の目次の一部だが、こんな章立てで卒論を書こうなどとしては絶対にいけない。卒業できなくなる。たぶん。

序章 読むことと不意撃ち
 漱石をやりすごすこと 文学という名の悪しき記憶 (中略) 「作品」とその困難
第一章 横たわる漱石
 仰臥と言葉の発生 午睡者と遭遇 (中略) 風流な溺死者たち (後略)

蓮實節(はすみぶし)」の困ったところは、これにはまると、学校というより蓮實重彦を卒業できなくなってしまうことだ。
 だが、この『夏目漱石論』の真の恐ろしさは、そこにはない。どこにあるかというと、一般に「文学研究」として知られる営みのほとんどが、ようするに、アホくさいと言いきってしまっている点だ。もちろんアホくさいなんてアホくさい言葉は使っていないが、そういうことだ。なのに、いまだにそのアホくさい「ブンガクケンキュウ」が堂々と生き延びているのは、ひとえにこの本の切れ味が良すぎて、一刀両断された本人たちが斬られたことにさえ気づかなかったからだろう。
 つまり。
 他の漱石研究がこぞって、例えば、漱石は兄嫁に惚れていたかもしれないとか、渡英して西洋コンプレックスに悩んだから東洋回帰したんだとか、そんな他人にはわからないはずの漱石の「内面」をほじくりゴシップをむさぼり、ねほりんぱほりん嬉々として語るところを、この本は徹底的に回避する。ダサいものとして。もちろんダサいなんてダサい言葉は使っていないが、ようするにダサいということだ。あの輝かしい『表層批評宣言』、これはその実践編だ、同じ手法で志賀直哉らを論じた『「私小説」を読む』と並んで。「深読み」の拒否。作品の「裏」に隠された作者の秘密を探ろうなどという下品なことを、しない。
 

。そして(たの)しむ。
 漱石の登場人物たちがやたらと「寝ころぶ」ことに蓮實は注目する。そこから物語の展開を一連の「身体運動」として読み解いていく。読む私たちの脳裏に、代助の、三四郎の、生きて動く姿があざやかに浮かぶ。「出会い」の場面に「水」がしばしば関わることも彼は指摘する。私たちの目の前に、池のはたでうちわをかざす美禰子の手が、あふれる湯に身を沈める那美さんの裸体が、白く輝く。漱石を読むとはもともと、こういう愉楽であったはずだ。神経衰弱だの則天去私だの、どうでもいい話ではないか。まったく。
「浅読み」のすすめ。よけいな知識をひけらかすことは深くもないし偉くもないと、この本は優しく、辛抱強く教えてくれる。蓮實重彦は何よりもまず、「愛の人」なのだ。その魅力については『「私小説」を読む』(やはり講談社文芸文庫)の解説で、芥川賞作家の小野正嗣があますところなく語ってくれている。

 最後に一言。
 蓮實重彦を読んでしまうという経験は、ヴァンパイアに噛まれるようなものだ。あなたは突然、第三の目が開き、自分の書くものなどみんなクソだと気づいてしまって愕然とする。自分には彼のように、すみずみまでクリスタルクリアな知性にコントロールされ、しかも一刀両断に斬り伏せた相手を微笑みながら助け起こすほどの愛に満ちた文章は、永遠に書けないのだと知って絶望する。心臓に杭を打ち込まれたまま、何年も、ときには何十年も苦しむことになる。
 そしてある朝目覚めると、あなたは、書けるようになっている。新しい体を手に入れている、彼のほど強靭ではないにしても、あなたの肉体よりはほんの少し長生きするかもしれない、あなたなりの「文体」という名の新しい体を。つまりあなたは、晴れて「書く人」の一族に加えられたのだ。
 新世界へようこそ。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み