第4話

文字数 11,495文字

  蜂谷和樹が釧路空港に降り立った時、待っていてくれたのは、母親の横山初枝だった。母親と言っても、親子らしい生活は二十五年前で止まっている。三歳では記憶の底にも無い。
「飛行機揺れなかったかい」
「うん、平気だった」
 どう挨拶してよいのか初枝も迷ったのだろう、乗って来た飛行機の具合を尋ねてきた。和樹にも返す言葉が見つからず、ありきたりの言葉を述べるしかなかった。
 初枝は釧路川沿いの市営住宅に住んでいた。2DKの狭い造りで、十二階建ての七階の七〇六号室が住まいだった。
「散らかしちゃってるけど我慢してね」
 言葉では卑下してるが、狭いなりによく掃除が行き届いた部屋だ。六畳ばかりのDKをリビング替わりに使い。中央に石油のダルマストーブがでんと据え付けられていた。灯油は建物全体で管理され、使用した分だけガスや水道のように個別のメーターで使用量が分かり、請求される。
「和樹はこっちの部屋を使って」
 母の初枝が玄関入り口の右側の部屋を指差した。
「ありがとう。明日から早速仕事を探すから」
「お前、そんなに急がなくても良いよ。これと思う職場を探してくれたら、私はそれだけで十分だからさ」
「うん」
 その日から、何処かぎこちない親子の生活が始まった。初枝は和樹を一人の大人として接しようとしたが、どうしても三歳で別れた時の感覚が大きく、子ども扱いしてしまい、何にでも口を挟んでしまうのだ。一方の和樹は元々の性格が自我の強い性格だったから、余り口を出されると、つい反抗的な態度をとってしまう。
 和樹の仕事は美容師兼理容師だ。東京で十年ちょっとやっていた。その事も多少は影響していると思う。良い店が見つかればいいねと言いながら、なかなか見つからないでいると、何処から持ってきたのか、美容室の求人案内の広告を持ってきては、どうだいと言って来る。和樹にしてみれば、自分の納得いく店を探したかったのに、と思ってしまうのだ。それでも、せっかくだから初枝が持ってきた求人広告を手にし面接に行く。一週間が過ぎた。和樹は一軒の広告を新聞に見つけた。美容室の求人広告にしては広告スペースが大きい。それと求人案内に理容師も歓迎とあったのが目に付いた。自分に打って付けではないか。店の名前は『ジェムズ』とあった。初枝に尋ねてみる。
「どんな店?」
「結構広い店で、いつ行ってもいっぱい。そこにするの?」
「面接して見てから」
「今日電話を掛けてみるよ」
「うん」
 和樹はすぐに電話を掛けた。すると、先方はすぐにでも面接をしたいのですがどうでしょう、と言って来たので、和樹も了承した。
 午後二時の予定で、『ジェムズ』での面接を控え、和樹は三十分ばかり早く着いた。早く着いたのはワザとで時間まで外から店の雰囲気を知ろうと思ったのだ。店舗と反対側の歩道からじっと店内の様子を窺った。
 活気があった。スタッフがお客様を玄関まで誘導し、ドアを開けて上げている。ちらちらと見え隠れするスタッフ達の動きが機敏だ。
 時間が来た。店へ入り面接で来た旨を告げる。そのまま店の奥の待機室へと案内された。その間もスタッフ達の声が聞こえる。
 待機室で待たされていると、すぐに体の大きな男性スタッフが入って来た。
「お待たせしてすみません。店長を任されている五十嵐大輔です」
「初めまして。蜂谷和樹です。これが履歴書です」
 履歴書を受け取った店長の五十嵐は、すぐさまほうと声をあげて、和樹の方を見た。
「理容師の免許もお持ちなんですね」
「はい。これからの時代は、男性も美容室へ来る時代だと思いまして。働いていたサロンのオーナーの勧めもあって両方取る事にしたんです」
「成る程。現実にうちの店にも男性客が目に見えて増えています。それで、新聞の募集広告にも理容師歓迎と書かせて頂いたんです。蜂谷さんがうちのスタッフに加わって下されば、もっと男性客が増えます。実は、今回の募集は、新たにオープンする店舗のスタッフを募集する為なんです。この店から真っ直ぐ北大通を幣舞橋(ぬさまいばし)に向かって行く途中の右側に約五十坪の広さの店舗を出します。店名は『ジェムズフリー』といいまして、店舗には約十坪の広さでメンズコーナーも設けました。これも、新しく増えてきた男性客へ対応する為です。そういう意味では、蜂谷さんがうちのスタッフになって頂ければこれ程心強いものはありません。お給料は手取りで二十五万円。休みは週一日で交代制で。この条件で宜しければ、うちとしては心からお待ちしております」
「そこまで仰って頂いて光栄です」
「じゃあ、承諾して頂けるんですね」
「はい。私で宜しければ」
「良かった。では明日からでも大丈夫ですか?」
「はい」
「では午前九時半ごろまでこちらの店に来て下さい」
「分かりました。宜しくお願いします」
 席を立った二人は握手し、明日の再会を確かめ合った。
 面接を終え、『ジャムズ』を後にした和樹は、裏通りへ入って行った。何処か静かな店で一杯祝杯でも挙げようかと思ったからだ。暫く裏通りを歩いていたら、地味な通りに似合わない店が目に入った。地下に入って行く階段があり、その階段にはジャズのカルテットの写真が飾ってあって、そのポスターに大きな文字で『ロンリーハーツ』と店名らしきものが書かれてあった。興味が沸いた和樹は、階段を下りて行った。木製の重厚な造りのドアを開ける。左手にカウンターがあり、正面に小さなステージがあった。中へ入ると客は一人もいなかった。
「いらっしゃいませ」
 女性の声で招かれた。
「一人ですけど構いませんか」
「どうぞ、見ての通りお客さんは居ませんから、こちらのカウンターで宜しければ」
「ありがとうございます」
 カウンターのスツールに腰を下ろす。カウンターの奥には誰もいなさそうだ。女性が水とメニューを持ってきた。
「あの、コロナを頂けますか」
「コロナですね」
 何だか和樹はまだ昼を過ぎたばかりなのに、アルコールを飲みたい気分だった。
「はい、お待ちどうさま」
 コロナの瓶の口に櫛切りされたライムが半分ほど刺さっている。人差し指でライムを押し、瓶の中にいれる。冷えてて美味いコロナの味とライムの酸味が相まって堪らなく美味しい。あっという間に和樹は一本目のコロナを飲み干した。
「すいません。お替わりお願いできますか」
「随分ペースが速いんですね」
「喉が渇いちゃって」
「お客さん、うち初めてですよね。何方からかの紹介ですか」
「いえ。外をぶらぶら歩いていたら看板を見たものですから」
「そうなんですか。ライブは夜にやっていて、この時間帯は喫茶店として営業しているんです。今晩もライブあるんですよ」
「いいですねえ。今晩来てみようかな」
 和樹はライブというものに興味はあったが、これ迄一度も観た事は無かった。
「夜は何時からの開店ですか」
「夜は六時の開店で、ライブは七時からになっています。今夜のバンドはアマチュアですけれど、釧路では一番の人気バンドばかり出ますから、楽しんで貰えますよ」
「じゃあ楽しみにして、一旦家へ帰ります」
「はい、お待ちしています。あのお名前を伺ってもいいでしょうか」
「あ、はい。蜂谷和樹といいます」
「私、宇垣真奈美といいます。こんなお店ですけれど、これからも宜しくお願いします」
「こちらこそ」
 ライブハウスの店主とお客の挨拶というより、スナックのママと客のそれといった感じがした。
 家へ帰ると初枝が夕食の準備をし始めていた。
「お帰り。どうだった面接は?」
「うん。明日から働く事になった」
「良かったじゃない。じゃあ今日はお祝いで一杯やらなきゃね」
「あ、大丈夫だよ。もう少ししたら出掛けるから。夕食もいらないよ」
「どうしたの。出掛けるのかい」
 初枝が訝し気に和樹を見つめる。
「ちょっと気晴らしに行って来るよ。このところ面接だの何だのって、自由な時間が無かったからさ。いいだろう」
「そりゃあ、お前の時間だから、どう使おうと構わないよ。但し余り遅くならないでね」
「分かった。ありがとう」
 そう言って自分の部屋へ戻った和樹は着替え始めた。そのままでも良かったのだが、真奈美ともう一度会うのに、少しでも着飾りたい気持ちがあったのだ。
 時間が来たので、自分の部屋から出た和樹は、初枝の冷ややかな視線に送られながら、家を出た。『ロンリーハーツ』迄は歩いて十分もあれば着く。その十分がまどろっこしく、急ぎ歩きになってしまう。店に入ると、カウンターは一杯になっていて、昼間あったボックス席は、かたずけられて、椅子が増やされていた。客数は凡そ五十名前後か。何処に座ってよいのか分からなかったが、店の片隅に空いている席を見つけ、そこに座った。
 昼間は見なかった若い女性が、飲み物の注文を取りに来た。昼間と同様、コロナを注文する。カウンターの奥を見てみると、注文を取りに来た女性を含め中年の男性と大学生位の男性と一緒に注文を捌いていた。注文を運んできてくれたのは、真奈美だった。わざわざ挨拶に来てくれた。
「もうすぐライブが始まりますから。そうすればカウンター席が空きますのでそちらでご覧頂けます」
「はい」
 するとカウンターに座っていた者達がバックヤードへと行き、出演準備をした。
「今日のトップバンドはフュージョンジャズのバンドなの。中高年の人達にも人気があるんですよ」
「フュージョンジャズって聴いた事がありません。何だか楽しみだ」
 照明が落とされた。
 トップのバンドは五人組で、学校の音楽教師や銀行マン、会社員といった顔触れだった。キーボードの前奏から入って、ドラム、サイドギターに遅れてリードギターが加わった。スローでメロウな感じの演奏に、和樹はすぐに釘付けになった。自然と体がリズムを取る。夢中になった。
 休みなしにどんどん曲を演奏していく。曲目の名前も知らず、全てが未知の世界だった。最後の曲を演奏し終わったバンドに、アンコールのコールが掛かる。和樹も同じようにアンコールと叫んでいた。アンコールが終わり、次のバンドへとステージは引き継がれた。二番目のバンドはロックのバンドで、洋楽のコピーバンドだった。和樹も聴いたことのある曲を演奏していた。
 三番目は男女混合のロックバンドで、ボーカルが女性という珍しい構成だ。テンポの良いオリジナル曲を次々と披露し、聴衆は皆興奮した。四番目はいよいよトリ。
「今、釧路で一番人気のあるバンドなんですよ」
 いつの間にか真奈美が傍へ来ていた。
「何だか雰囲気ありますね」
 和樹は三人組という編成に珍しさを感じた。三人共髪の毛を逆立て、メイクを施していた。スポットライトが舞台中央に当てられた。瞬間、ギターの音が甲高く鳴り響き演奏が始まった。和樹は音楽の事はよく分からないが、今ステージにいる三人は間違いなく才能に溢れているなと感じた。彼等の演奏はあっという間にアンコールを含めて終わった。観終わっ客達がぞろぞろと帰って行く。あれだけ騒々しかった店内ががらんとした。和樹は今迄の時間を慈しむように振り返っていた。
「こんばんは。この店のオーナーの宇垣です。家内から聞きました。昼間店に来ていただいたんですってね。ライブ、どうでしたか」
「良かったです。今度から時間があれば顔を出します」
「今日はアマチュアのライブでしたが、月に一度位の割合でプロのライブもありますから、楽しみにしてください」
「はい。ありがとうございます」
「お仕事は何をなさっているのですか」
「美容師をやってます」
「じゃあ今度やってもらおうかな」
 三十代半ば位のオーナーと、そんな話をしている所へ、楽屋から、トップを務めたバンドと、今演奏を終えたバンドの者がカウンターに向かってやって来た。
「お疲れ様」
「お疲れっす」
 総勢九名がカウンターを埋め尽くした。
「一杯目だけは店からの奢り。あとは自腹だよ」
「サンキュウっす」
 オーナーの一言で、皆アルコールを注文した。
「よかったら蜂谷さんも打ち上げと言う事で如何ですか」
「部外者の私ですが宜しいのですか」
「ええ。構いません。袖すり合うも何とかって昔から言いますから」
「すいません。ならお言葉に甘えて」
「コロナで良いですか」
「はい」
 打ち上げは楽しかった。それぞれの演奏について語り合ったり、互いの音楽観について語り合う彼等の姿をみているだけで、面白かった。
「てっちゃん、いつもヘアスタイルが決まらないって言ってたじゃない。今度この蜂谷さんにやって貰ったらいいよ」
「え、蜂谷さんて美容師さんなんですか」
「ええ。この前迄東京で仕事をしてたんですが、こちらへ越して来たんで釧路の店で働く事になったんです。店の名前は『ジェムズフリー』といいます。来月にはオープンすると思いますので宜しく」
「マジでやって貰おう」
「俺もいいすか」
「ええ。千客万来です」
「私もやって貰おうかな」
 真奈美が話の間に入って来た。
「じゃあ俺も」
 マスターも加わる。終いにはアルバイトの大学生の男女迄加わった。
 そろそろお開きとなり、会計を済ませ、和樹は真奈美に今日のお礼を言った。
「すごく楽しかったです。これからもこちらに足を運ばせて貰います」
「いいえ。そんなに畏まらなくてもいいんですよ。気さくさが売り物の店ですから」
「ありがとうございました」
 和樹は、すごく清々しい気分で店を出た。家に着くとまだ電気が付いていた。時間は午後十二時近くになっていた。
「ただいま」
「随分と遅かったじゃない」
「うん、ちょっと盛り上がってね」
「遊んで来るのもいいけど、余り遅くならないでね。心配だから」
「分かったよ。もう寝るよ。朝は遅くとも八時半には起こしてくれる」
「八時半だね」
「ああ」
 少しつっけんどうになったかなと、反省しながら、和樹は部屋へ入った。既に布団が敷かれてあった。初枝のなんにでも口を挟んでくるところが鼻に吐くが、それも二十五年振りに我が子と一緒に生活するのだから、仕方ないかと思うようにした。
 翌朝、指定された時間に『ジェムズ』向かった。行ってみると、既に何人かのスタッフがいた。ブローの朝練をしているという。店の奥の待機室に案内されると、昨日は見なかった四十過ぎ位の年齢で長身の男性がいた。恐らくオーナーかなと思い、
「初めまして。昨日面接で今日からこちらで働く事になりました蜂谷和樹です」
 と、挨拶をした。
「初めまして。蜂谷さんですか。オーナーの小野塚といいます。店長の五十嵐から聞いております。うちの即戦力として頑張って下さい」
 するとそこへ店長の五十嵐が入って来た。
「小野塚先生もいらっしゃっていたんですね」
 先生と呼ばれたオーナーは、手を挙げ五十嵐の言葉を遮って、
「誰か缶コーヒーを買って来てくれないかな」
 五十嵐が店内に声を掛け、一人の若い女の子を呼んで、
「悪いが缶コーヒーを買ってきてくれないか。皆の分も忘れずにな」
 と言った。
 その日は、和樹以外に雇われる事になったスタイリストと見習いの子にインターンの子数名が、『ジェムズ』での仕事の流れを教えて貰った。
 店は七時で閉店で、ラストのお客の受付は午後六時半となっていた。和樹は久し振りにシザーを握った。さり気なく新しい店のPRも出来た。初日としては上々の滑り出しという所か。
 和樹は店の営業が終わると、真っすぐ家には戻らず、『ロンリーハーツ』へ向かった。今夜はライブがなかったが、それはどうでも良かった。和樹の心は真奈美に埋め尽くされていた。一目惚れだった。しかし、相手は人妻。どうにかなるものでは無い。それでも和樹の好きだという感情は消せなかった。
 店内に入ると、カウンターが空いていた。和樹はついていると思った。
「こんばんは」
「いいらっしゃいませ。また来て下さって嬉しいわ。今夜もコロナにします?」
「いえ。今夜はバーボンを頂こうかな」
「I・W・ハーパーかワイルド・ターキーになりますけど」
「じゃあターキーで」
「飲み方は?」
「ロックでお願いします」
 ロックグラスに注がれたバーボンを一口ぐいと煽る。喉から胃にかけて痺れるような感覚が起こる。
「お強いんですね」
「いやあ、量はそんなに飲めないんですよ。今日はマスターにバイトの子達はお休みですか」
「ええ。さっきまでマスターはいたんですけど、暇なので帰りました」
「一人で大変で,ね」
「いつもの事ですから慣れました。私こういう客商売ってやった事がなくて、最初は慣れなくて大変でしたけれど、今ではすっかり慣れました。こういう仕事をしていると、いろんな出会いがあって、それが喜びにもなるんだって思えるようになったんですよ。蜂谷さんもそうじゃありません?」
「自分もそう思える日が来ればいいのですが、まだまだ甘いからお客さんと接してそういう感覚になった事が余り無くて」
「そうですか。でも必ずそう思える日が来ますよ」
 真奈美は優しく言った。和樹の中で新たな感情が沸き起こった。客は自分一人という状況の中で和樹の心の中は様々に揺れた。話をするのは主に真奈美で、和樹は聞き役だった。それが堪らなく甘美なひと時に変わる。和樹は思い返した。過去の恋愛でも一目惚れはあったが、こうまではっきりと自分の感情に気付いた事は無かった。それも強く。
 この日は二時間ばかりいて帰った。もっといても良かったのだが、初枝の姿が目に浮かんだから、帰る事にした。
 この日から連日、和樹は『ロンリーハーツ』に仕事帰りに立ち寄った。時には閉店まで居残ったりした。日に日に和樹にとって真奈美の存在が大きくなっていく。それは、許されない想いだ。真奈美は自分の事をどう思ってくれているのだろう。その事が頭から離れない。
 待ちに待った『ジェムズフリー』がオープンした。宣伝効果もあって、開店初日早々から満員状態になった。和樹も客を掛け持ちで受け持たなければならない程忙しかった。店が忙しくても、和樹は真奈美に会いに行くのを止めなかった。連日、帰宅は午前様になり、その事で初枝と何度も衝突した。
「和樹、あんた分かっているの?自分がどういう立場にいる人間か」
「分かっているよ。分かっているから」
「なら何時も何処で呑んでいるかぐらい教えなさいよ」
「そんなの自由だろう」
「自分の立場が分かってないわ。自由な生活を送ってはいるけれど、和樹は執行猶予の身なのよ。今度何かで捕まれば刑務所へ行かなくちゃいけなくなるの。その事分かっている?」
「分かってるよ。うるさいな」
「分かっていたらそんなに毎晩遅くまで飲み歩く事は出来ないわ」
 そう言って初枝はテーブルの上に『ロンリーハーツ』のマッチを放り投げた。
「どんな店かは分からないけど、間違いだけは犯しちゃいけないのよ」
「母さんが胡散臭がるような店じゃないよ。仕事の癒しでちょっと呑んでいるだけだよ」
「なら、その店で呑まなくても、うちで呑めばいいじゃないの」
「俺が何処で呑もうと勝手だろ。ただ呑みに行っているだけで何も悪い事はしていないんだぜ。もう遅いから風呂入って寝るよ」
 和樹はそう言って着替えを持ち、風呂へ入った。
 初枝はがっくりと肩を落とし、和樹の為に作っておいた夕食をかたずけ始めた。一緒に和樹と暮らすにあたって、初枝は和樹が東京で起こした傷害事件の事は絶対に口にすまいと思っていた。和樹は東京で酒の上でのトラブルで傷害事件を犯したのだが、懲役一年執行猶予三年の判決を言い渡された。裁判を迎える前に、和樹の弁護士から身元引受人になって貰えないかと打診されたのだ。初枝は二つ返事で了承した。初枝は、その事を口にし、後悔した。
 何時もの時間に和樹を起こした。半分寝ぼけ眼で起きて来た和樹に、
「ねえ。遅くなるのは分かったから、夕飯がいるかいらないか位は連絡してくれる?」
「うん」
 そう言って和樹は自分の部屋へ行き着替えた。
「行って来るよ」
「行ってらっしゃい。電話、お願いね」
 和樹は昨夜の初枝の言葉に、一夜明けた今もショックを隠せないでいた。仕事に熱中する事で、忘れようとした。分かっている。自分がどういう立場に今いるのか。分かっているだけに、上から抑えられると、逆に反発してしまうのだ。
 初枝は和樹を送り出した後、昨日の事を後悔した。今の和樹は日々の行動を慎重にしなければならない。和樹の弁護士から、身元引受人の打診があった時、どういう経緯で警察沙汰になったのか聞いた。すると、何でも酒の席で絡まれた見知らぬ男性に暴力を奮ったという。相手の怪我も重傷で、示談にも応じてくれないとの事で、執行猶予付きの実刑は免れないと言われた。
 初枝は、自分が和樹を守らねばと思った。多少は言葉もきつくなるが、これも全ては和樹の為だと思っている。だが、それでもこの件で諍いになると悲しくなってくる。日に日に仕事に送り出す時の和樹の背中が尖った針の山のように感じるようになった。
 その日も、結局真奈美には会いに『ロンリーハーツ』へ寄った。客はいない。二人きりになると、自分の気持ちを抑えられない。毎日顔を合わせていなければ、どうにも感情を抑えられなかった。今夜も真奈美の笑顔に迎えられた。
「いらっしゃいませ。毎晩ありがとう。何だか毎日顔を合わせていると、今日は来るのかな来ないのかなって思っちゃう」
「そう言って頂けると嬉しいです」
「今夜もコロナでいいのかな」
「はい」
 その時、店の電話が鳴った。真奈美が出る。
(はいそうです。ええ、お見えになってます。今代わります)
 真奈美が少し顔を強張らせながら、受話器をを和樹に渡した。
(はい、何だ母さんか)
(母さんかじゃないわよ。あれ程電話を頂戴って言ったのに。そういう事なの)
(悪い。忘れてた)
(そんな事より、今出た女は何なの)
(何なのは失礼だよ。この店のオーナーの奥さんだよ)
(変な店じゃないんだね?)
(ちゃんとしたライブハウスだよ)
(ライブハウスだか何だか知らないけれど、遅くならないうちの帰って来るんだよ)
(しつこいよ。俺は子供じゃないんだから。切るよ)
 和樹から電話を切って話が長引かないようにした。真奈美の表情がまだ強張っている。電話で初枝から何か言われたに違いない。和樹は聴いてみた。
「母に何か言われた?」
「うんちょっと。でも大丈夫よ。それより今夜は早く帰った方がお母様も安心すると思うけど」
「帰らないよ。いつも通り閉店までいるよ」
「お母様が心配するわよ」
「真奈美さん。おかしいと思わない。いい年した子供を心配するが余り、呑んでいる店に迄電話を掛けて来るなんて、どうみても行き過ぎでしょ。十代の子供じゃないんだから」
「前からそうなの?」
「一緒に暮らすのが初めて見たいなもんだから、仕方ないと言えば仕方ないけど」
「一緒に暮らすのが初めてみたいって、今迄ずっと別々だったと言う事?」
「三歳頃までは一緒に暮らしていたらしいんだ。離婚して僕は父親の方へ引き取られたという事。その辺の詳しい理由は教えて貰えないんだ」
「それで必要以上に蜂谷さんの事気に掛けているのね。私も今夜は飲もうかな。隣に行ってもいい?」
「別に構わないけれど」
 真奈美は和樹の為のコロナと、自分用のウイスキーの水割りを持ってカウンターの席へやって来た。
「はい。乾杯。今夜は家の事も忘れて飲もう」
「ありがとう」
 二人は乾杯した。和樹は顔が上気するのが分かった。恥ずかしい気持ちが沸いて来た。腕が触れる。直ぐに離れる。真奈美は何も言わない。こうして並んで袖が触れ合う距離にいる時の方が、何も言葉が出ない。真奈美もひょっとしたら、緊張して言葉少なになっているのかも知れない。
「それでも、お母様が大の大人の蜂谷さんを、そこ迄気に掛けるのは尋常じゃないわね」
「うん……」
 和樹は迷った。本当の事を話そうかどうか。
「どうしても子供の頃のイメージのままで接しちゃうのかも。私も子供が二人いるから、その気持ち分からないではないわ」
 子供がいるという話は初めて聞いた。聞いたとたん、尚更自分がこの人を好きになる権利はないんだと思った。思ったが寧ろ堪え切れない気持ちに火が付いた。
「好きだ。真奈美さんの事が好きです」
 いつの間にか勢いで告白していた。打ち明けられた真奈美は体を強張らせ、少し体を離した。和樹は全部を話そうと決めた。自分が何故釧路に来たかを。
 そして、この地で真奈美という女性と出会った事を、訥々と語った。和樹は、余り感傷的にならないよう、冷静に語った。けれど好きだという感情を打ち明けた時は、身を乗り出さんばかりに真奈美に迫った。
「現実的に、真奈美さんを好きになってもどうにもならない事位分かります。でも、この気持ちを抑える事が出来ないんです」
「そう言って貰って凄く嬉しいけれど、貴方だって分かっていらっしゃるように、どうにもならないのよ。もっと早く知り合う事が出来ていれば、と私も考えるの。でもどう考えても無理なの。結婚していて、子供が二人いる身なの。現実をよく見て」
「だから苦しいんです。どうにもならない現実に、僕はどうしていいのか。寝ても覚めても考えるのは真奈美さん、貴女の事ばかり考えてしまう」
 和樹の告白に真奈美はどう接してよいのか考えた。告白は嫌では無かった。寧ろ嬉しかった。最近、夫の宇垣倫夫との関係が傍で見ている程良くないものだから、一人の女として自分を見てくれている和樹が愛おしく感じられるのだ。このままだと自分も和樹を好きになり、女として彼を受け入れてしまいそうだ。この場をなんとか納めなければ、自分の感情に火が付いてしまう。
「蜂谷さん、分かって。私達は結ばれない関係なの」
「じゃあせめて真奈美さんが、僕をどう思っているか聞かせて欲しい」
 真奈美は考えた。自分の気持ちを伝えながら、それでいて諦めさせる事を。真奈美は両手を伸ばし、和樹の頬に当てた。そっと和樹の顔を引き寄せる。そして唇を合わせた。
「これで分かって。これ以上は望まないと約束して」
 和樹は接吻されて驚いた表情を見せていた。そして真奈美の言葉をどう受け止めてよいのか考えた。
「今夜はこれで帰って。お願い」
「分かった。帰るけど一つだけ聞かせて欲しい。僕の事嫌いじゃないんだね。状況が変われば僕の事を好きになってくれるんだね」
 真奈美は自分の気持ちを正直に打ち明けようと思った。
「貴方の事は好きよ。きっと貴方が思っている以上に」
「分かった。その気持ちを嬉しく思うよ。ありがとう」
「じゃあ、今夜はこれで」
 和樹は真奈美の言う通り帰る事にした。店からの帰り道、和樹は真奈美の接吻の意味を知ろうとした。嫌いじゃないと言う。真実嬉しい。でも今のままだと一生かけても結ばれない恋という事になる。どうにもならない、もどかしさ。いままでこんな思いで人を好きになった事は無い。帰り道、ずっとその事を考えながら歩いた。家に着く。ドアを開けるのが面倒だった。初枝の事だ。案の定、ドアを開け、靴を脱いでいると初枝が背中越しに、
「あの女はどういう女なの。どういうお店なの」
 と、言って来た。
「いきなりなんだよ。どういう女って、失礼だろ」
「電話の女が目当てなのね。そうなのね」
 初枝を宥める気も失せた和樹は、
「風呂に入る」
 と言って浴室へ入った。
 翌日、和樹は公休日で、昼前から出掛けた。家を出る時、初枝が何か言いたそうだったが、和樹は構わず出掛けた。真奈美に会う為に『ロンリーハーツ』の開店時刻に合わせて向かった。
 店に入ると、真奈美はいなく、真奈美の夫の倫夫とアルバイトの子達がいた。
「今日は真奈美さんいらっしゃらないんですか」
「ええ。少し体の調子が思わしくなくてね。このところずっと出ずっぱりだったから」
 余りがっかりした表情も出来なかったので、
「お大事にと伝えて下さい」
 と言った。
「ありがとうございます。本人に伝えます」
 結局、この日は一時間程いただけで帰った。その翌日も、そしてまた翌々日も真奈美は店に出なかった。
 本当に体調が悪くて店に出ないのか。別の意味があって休んでいるのなら、その意味を知りたかった。その意味を知ったのは、真奈美が店を休み続けて五日目の事だった。マスターの倫夫が常連客に嬉しそうに、
「三人目が出来たんですよ」
 と言っている言葉が聞こえて来た時だった。三人目を妊娠して、つわりが少し酷かったので暫く休ませた。との話をしていた。
 和樹は何も聞きたくなかった。店を出る。まだ時刻は昼。当てもなく釧路の街をぶらつき、昼から飲める店を探した。
 
 
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