第6話

文字数 7,769文字

 その店に行くのはもう五度目だ。指名する女の子もいつも同じ。渋谷にあるその店は、俗にイメクラと呼ばれる風俗店だ。
 皆藤健一郎が初めてその店へ行ったのは、会社の飲み会の後に、同僚に誘われて行ったのがきっかけだ。独身を通しているつもりはないが、五十歳を過ぎてもそういう噂が立たない皆藤を会社の人間は面白おかしくからかう。そのせいという訳ではないが、女遊びもせず、黙々と仕事に没頭する皆藤を変わり者とも言っている。役職は、年功序列で係長にはなっているが、同期の者は皆課長職に就いている事を考えると、仕事も与えられた事を黙々とこなすだけと判断されているに違いない。
 その日も最後は女の話になり、結果、風俗へ行こうという事になった。皆藤に付いた女の子は樹里と言った。年齢は十九歳。皆藤はびっくりした。風俗店へ来たのは初めてだったので、樹里のサービスにただただ驚くばかりだった。
「そんな事しなくてもいいよ」
 皆藤がそう言っても、樹里はサービスを止めなかった。皆藤は全てのサービスが終わった後、財布から三万円ばかり出し、
「少ないけれど、これを取って置いてくれないか。この次来る時は、もっと渡せると思う」
 そう言って、お金を渡そうとすると、
「そんなに頂けないよ」
 と樹里は言った。それを無理やり樹里の手に握らせた。
「無理しないでね。チップも嬉しいけれど、指名してくれた方が嬉しいから、又来てくれるだけでいいの」
 何の欲も感じられない言葉だった。
「分かった。必ず指名するよ」
 その日から一週間後に二度目の来店をし、樹里を指名した。二度目の時、健一郎は樹里からのサービスを拒んだ。話をしているだけで良いからと言って、樹里に服さえ脱がさなかった。更には時間も延長し、いろいろな話をした。どうしてこういう仕事をしているのか、との問いに、樹里は、
「ホストクラブに借金があって、すぐに稼げるこの仕事を紹介されたの」
 と答えた。
「借金は幾ら位あるの?」
「三百万位」
 健一郎は頭の中で計算した。今自分が持っている貯金が百五十万近くある。まだ百五十万足りない。それは毎月の給料から樹里に渡せばいいかも知れない。健一郎は、本気で樹里の借金を肩代わりしようと思っていた。それは、樹里を自分の物にしようとか、自分に振り返らせようと考えていた訳ではない。
 それは、樹里に伝わっていた。二十歳にもならないとはいえ、普通の大人以上にいろいろと経験しているから、人の気持ちにに敏感なのである。樹里は健一郎の気持ちを受け取った。樹里は、自分に貢がせようとか考えた訳ではない。受け取らないと、健一郎との仲が終わってしまいそうな気がしたからだ。
 五回目の今日、健一郎は樹里に百五十万もの大金を目の前に置いた。
「君の物だよ」
 銀行の紙袋に入れられた大金を目にし、樹里は戸惑った。
「全額とまではいかないが、ホストクラブの借金の一部は払えるだろう」
 樹里は暫し黙った。そして、伏せていた顔を上げると、
「どうして私にそこまでの事をするの?」
 と健一郎に問い掛けた。
「好きになってしまったから、かな」
「私みたいな風俗嬢に恋をするなんておかしいよ。奥さんとかいないの?」
「結婚はしていない。この年までずっと独身だよ。勿論、私が君の事を好きになったからと言って、君まで私を好きになってくれとは言わない。それは望み過ぎというものだ」
 樹里は再び黙りこくった。
「遠慮せず、この金を使ってくれ」
 漸く口を開いた樹里は、
「分かった。ありがとう。私、馬鹿で頭が悪いから、これがどういう事なのか分からないけれど、言われた通りホストクラブの借金に充てる」
「これで私も安心して家に帰れるというものだ」
 健一郎はすっきりした気持ちで店を出た。好きだと告白出来ただけでも、今日は良しとしよう。そういう思いで胸の中が一杯だった。気持ちに何とも言えない張りのようなものが出来た。それだけでも幸せだな、と健一郎は思った。
 一週間後。樹里に会いに行った。樹里は会う毎に綺麗になって行く。そんな気がした。その事を樹里に言うと、照れ臭そうに、
「皆藤さんのお陰です」
 と言った。
「私のお陰?」
「そう。皆藤さんがいつ来るのだろうと思いながら仕事をしているうちに、ちゃんとお化粧しなくちゃとか、着る物も皆藤さんに好まれるような物で、ちゃんとしなくちゃって思うようになったんです」
「前は違っていたの?」
「ええ。ギャルメイクにギャルが着るような物ばかり好んで来てました」
「確かに今の方が綺麗だよ」
 健一郎の言葉に樹里は俯いて、こくんと頭を下げた。
「ホストクラブの借金はあとどれ位あるの?」
「この前頂いたお金を返したんですけど、店に行けば飲まなくては行けなくて、残りの借金は二百万円程です」
「一回飲みに行くと、どれ位掛かるの?」
「三十万から五十万。これでも少なく抑えての金額なんです。高いボトルとかシャンパンを開けられちゃうと百万じゃ足りない時もあります」
「分かった。君に渡すチップでは追いつかないね。二百万、何とかするから心配しないで。そしてホストクラブにも行かないようにしなくちゃね」
「はい」
 ある日、偶然観たテレビのニュースで、若い女がおじさんを騙して何億と貢がせた事が放送されていた。ホストクラブへ入れ揚げ、人によっては何千万も貢がせた手口が、樹里と重なった。
 いや、あの子は違う。そう思ったが一抹の不安はあった。でも、最初にお金の事を口にしたのは自分からだ。大丈夫。絶対大丈夫だ。そう思い込む事しか出来なかった。
 健一郎は、樹里の残りの借金を返させる為に、金策を考えた。クレジットカードでキャッシングし、足りない分は消費者金融から借りる。或いは親戚筋から金を借りる。それ以外では、住んでいるマンションを売る事を考えた。借金をする位なら、マンションを売った方がいい。居住年数は二十年近くになるマンションは、残りのローンを差し引いても、評価価値が下がっているから、大分目減りしていると思うが、それなりの金額にはなるだろう。そう決めると、健一郎の行動は早かった。買取の不動産屋を何軒か巡り、一番条件の良い不動産屋にマンションを売る事にした。こうして、全ての費用を差し引いた額、一千万円を手にしたのである。
 一か月振りにイメクラへ行った。何時も通り樹里を指名し、長い時間のコースを頼んだ。
「皆藤さん、久し振り過ぎて」
 樹里はそう言って、目頭を押さえた。
「明日は仕事が休みだから、今日はゆっくり話せるよ」
「うん。嬉しい」
 プレイルームに入った二人は、健一郎が買って来た缶ビールで乾杯をした。
「先ず最初に渡しておかなければ」
 健一郎はそう言いながら、バックから銀行の帯封付きの札束を五つテーブルに置いた。
「五百万ある。これでホストクラブの借金を全額返済して、残りはここを辞めた後の生活資金にするんだ」
「ここを辞める?」
「そうだ。何時までもこんな仕事をしてちゃいけない。君ならどんな仕事だってできるさ。だから借金を返した残りで就職活動に使うんだ」
 樹里は暫し無言になった。そして目に涙を一杯に溜めて、
「本当にこれ頂いて良いんですか?」
 と言った。
「ああ。受け取ってくれ」
「お聞きしたいんですけど、どうして私みたいな者にここまでしてくれるんですか?」
「君みたいな子がこんな仕事をしてまで借金を返そうとしているのを黙って見ていられなかったんだ。それに、前も言ったが、恥ずかしいが君の事を好きになってしまったから」
「私も皆藤さんの事好きです」
「ありがとう。そう言って貰えるだけで私は幸せだ」
 タイマーが鳴った。プレイ時間が終了した合図。同時に受付からインターホンが鳴り、時間終了の連絡が入った。
「皆藤さん今日は本当にありがとう。お金大事に使います」
「うん。借金を即刻返す事だよ」
「はい。そうします」
 樹里は健一郎を見送った後、次の客の為の準備をした。それと、ラインでホストの澄人に連絡を入れた。
 新宿歌舞伎町にあるホストクラブ『雅』。樹里が通う店だ。仕事を終え、樹里は通いなれた道を行く。店の前で客引きをしていた顔馴染みのホストに軽く会釈をし、店へのエレベーターに乗る。『雅』がある三階に止まる。店の扉を開けると、ホスト達が一斉に「いらしゃいませ」と言う。客にとってこの瞬間は一種至福のひと時とも言える。ホストが樹里を出迎え、席へと案内する。
「いらっしゃいませ樹里様。直ぐに澄人が参ります。少々お待ちください」
 少し落ち着かない表情で樹里は澄人が来るのを待った。暫し待っていると、高級ブランドのスーツを纏った澄人がやって来た。
「やあ、樹里ちゃん。今日はボトル何を開ける?」
「今日は飲んで行かない。これ」
 と言って樹里は、バックの中から四百万円を出した。
「これで借金は無しだよ」
「ほう。やれば出来るじゃん。俺の言った通り、客のおじさん、良いカモだったろう。まだまだ取れるぞ。もっと貢いで貰え」
「出来ないよ。これで勘弁して。お願い」
「それはないぜセニョリータ。せっかくのカモを目の前にして。樹里だってお金が稼げて良いじゃないか」
「それでも無理」
「じゃあこうしよう。もう一回だけ貢がせろ。いいな」
 樹里は泣きそうになった。その表情を見た澄人は、樹里の肩をそっと抱き寄せ、
「俺は樹里に今の仕事を辞めて貰いたいんだ。それには金が必要だろ。だから俺の言った通りにするんだ。いいね」
 肩を抱き寄せられた樹里は、いつの間にか澄人の言葉の虜になった。
「今夜は軽く飲んで、そのおじさんの事は一旦忘れるんだ。さあ、涙を拭いて。せっかくの美人さんが台無しだよ」
 気付けば樹里の周りは他のホスト達で囲まれ、言われるままに高いボトルを開けさせられた。そして、健一郎から貰った五百万のうち、風俗を辞めた後の生活資金以外に使ってはいけないと言われた百万円を使ってしまった。
 一週間が過ぎたある日。健一郎が店にやって来た。樹里は言葉少なげに、健一郎の方も見なかった。
 様子が変だと感じた健一郎は、プレイルームに入ると、尋ねた。
「どうしたの?具合でも悪いのかい?」
 樹里はすぐには答えず、暫し黙っていた。
「今日はこのまま帰ろうか?」
 樹里が首を横に振る。
「皆藤さんごめんなさい。私、私本当に馬鹿な女です」
 樹里はそう言うと、堪えていたものが一気に溢れ出て来た。声を上げ泣きじゃくる樹里を、健一郎はぎこちない態度でそっと肩を抱いた。
「私に全部打ち明けてごらん。すっきりするよ」
 健一郎の優しい言葉に、樹里は尚更泣きじゃくり、胸にしがみ付いた。健一郎はじっと待った。
「今夜はずっとこうして上げようか?」
 そっと健一郎の胸から顔を上げた樹里は、ゆっくりと話し始めた。
「本当の事を話すと、最初から皆藤さんを騙していたの。ホストクラブに借金があるのは本当の事だけど、それを返すのに風俗嬢になったのは、私に付いたホストの紹介だったの。そのホストに風俗の仕事で騙せそうな客が付いたら、金を貢がせればいいと言われ、それで皆藤さんに何度もお金を工面して貰ったという訳なんです。私は皆藤さんを騙していたんです」
「そうか……」
 暫し瞑目する健一郎。同じように黙りこくった樹里。二人の体の間隔が少しずつ離れて行く。
「少しだけ、私は期待していたけど、五十過ぎのオヤジが二十歳前の女の子から好かれるなんて夢なんだよな」
「そんな事無いと思います。現に私は皆藤さんの事好きです」
 そう告白した樹里は、顔を赤らめ俯いた。
「本当に?」
 こくんと頷く樹里を見て、健一郎は可愛いと思った。
「皆藤さん。今夜は最後迄いてくれませんか?」
「それは構わないけれど」
「良かった」
 そう樹里が言うと、健一郎の方へ近付きしな垂れかかった。
 健一郎はプレイ時間を延長し、樹里の言うまま最後まで一緒にいた。閉店を告げる連絡がフロントから部屋に入ると、樹里は、
「外で待ってて貰えますか?」
 と言って来た。
「分かった」
 健一郎は言われるまま外で待っていた。十五分位すると樹里がやって来た。
「もう電車が無いんでタクシーに乗りますけど良いですか?」
「ああ。構わないよ」
 大通りに出るとタクシーはすぐに捉まった。樹里が行先を運転手へ告げた。中目黒迄来たところで、樹里が運転手に此処でと言った。降りた二人は、目の前のマンションに入って行く。
「いいのかい?」
「え?」
「家に上がっちゃって」
「ああ。来て欲しいからいいんです。一人で部屋に籠ると、ホストクラブへ行っちゃうし」
「そうか」
 女性の部屋へ上がるのは、生まれてこの方一度も無い。上がったらどういう顔をして、どういう話をすれば良いのだろうと思った。
「どうぞ。上がってください」
 健一郎は無言のまま靴を脱いだ。部屋の造りは1LDKになっていて、綺麗に整頓されていた。
「どうぞ座って下さい」
 ソファを指差し座るように言った樹里は、台所に立って何かを作り始めた。
「何も気を遣わなくていいからね」
 そう言う健一郎に、
「出来合いの物をお皿に盛りつけるだけだから」
 と言って、サラダボールに盛り付けられたサーモンのマリネを出した。そして冷蔵庫から缶ビールを出して来た。
「じゃあ、乾杯」
「うん」
 黙々と飲み、マリネを摘まむ。
「家で缶ビールなんて、十七なのにおじさん臭いでしょ」
「十七?十九じゃなかったっけ」
「ごめんね騙してて。お店にも十九で通してるから、ばれると辞めさせられちゃうんだ」
「そうか十七か。私は十七の少女に恋をしたのか……」
「皆藤さん、全然変じゃないよ」
「そう言うけれど十八歳未満の女の子と恋愛関系になって、大人同士の付き合いは犯罪になるんだ」
「ホストの澄人も言っていた。風俗も十八歳未満は雇って貰えないんだけれど、私に他の仕事を探せと言われても、学歴も無い、親もシングルマザーでほったらかしにされているような子は、仕事なんて誰も回してくれないんだ」
 健一郎は、樹里の言葉を聞いて、目頭を熱くした。それに比べ、自分は、不遇はかこっているが仕事には困っていない。健一郎は、益々樹里を何とか今のような地獄の生活から、出してやりたいと思った。
「やりたい仕事って無いのかい?」
 樹里に尋ねてみた。
「特に無い……」
「じゃあ、先ずそれから探さなきゃね。とにかく何でもいいからアルバイトでも正規な社員でも構わないから、先ず働いてみる事が大切かな」
「はい……」
「じゃあそういう事で、私は帰るとするよ」
 健一郎がそう言うと、樹里が立ち上がって健一郎の背中に抱き着いた。
「今夜は一人になりたくない。お願い。一緒にいて」
 健一郎は体を膠着させた。普通の感覚ならば、このまま抱き寄せ、ベッドへ行くだろう。しかし、健一郎にはそういう選択肢は存在していなかった。樹里の背中に回した健一郎の手が震えてる。ぎこちなさが樹里にも伝わる。
「皆藤さん、抱いて」
 健一郎は迷った。抱き着く樹里の腕に一層力が入る。インターホンが鳴った。誰だろうこんな時間に……。そう思いながら、樹里は健一郎の腕の中から出、ドアに向かった。ドアスコープから覗いてみたが、誰だか確認出来なかった。仕方なく、
「どなたですか?」
 と言いながら、ドアを開けた。ドアが開いた瞬間、するりと澄人が入って来た。澄人は玄関にあった健一郎の靴を見て、
「おっと。樹里男を連れ込んだのか?拙いんじゃないの。俺と言う男がいながらこんな事して。上らせてもらうよ」
「やめて。澄人には関係ない事だから。お願い」
 澄人は樹里の懇願を振り切りリビングへ入って行った。健一郎と目が合う。
「お宅が間男のおっさんですか。事は済んだんのかい。まだのようですね。でも今夜は残念ですがここ迄です。樹里の彼氏の俺が来たんでね。ゲームセットです」
 そう言って、高らかに下卑た笑い声で仁王立ちしている澄人。樹里は夢遊病者の如く、キッチンへ行き、包丁を取り出し、両手で握りしめてそのまま澄人に体当たりをした。
「ぎゃっ」
 と悲鳴を上げた澄人は、そのまま仰向けに倒れた。健一郎は一瞬何が起きたか分からず、ただ茫然とその場を眺めていた。血だまりがどんどん広がって行く。樹里はまだ呆然としていて、自分がやった事が良く分かっていなかった。
「樹里ちゃん」
 健一郎の声で漸く正気に戻った樹里は、その場にへたり込み、体を震わせていた。力一杯握りしめられていた包丁を健一郎がもぎ取り、タオルは何処にある、と樹里に尋ねた。
 健一郎は冷静になって考えた。先ずは澄人の命がまだあるのかどうかを調べる事。脈に触れて、次に心臓はどうか確認した。脈は触れておらず、心臓も動いていない。即死状態だった。次にやる事は……。
「樹里ちゃんタオルとかあるかい?」
 樹里が腰を上げ洗面室から何枚かのタオルを持ってきた。健一郎は、一枚のタオルで包丁の握りの部分を入念に拭いた。残りのタオルで樹里に付着した澄人の血を拭かせた。
「いいかい、樹里ちゃん。これから言う事をきちんと頭に叩き込むんだ。先ず、この男を刺したのは、樹里ちゃんではなく、この私だと言う事。原因は三角関係のもつれ。奴が私を罵倒したから、キッチンから包丁を取り出し、刺した。いいね。これ以外の事は警察に話してはいけない。そうだ、ホストクラブで貢いでしまっていたという話はしない方が良い。店には何度か通った事はあった位はいいけど。いいね。これで警察に押し通すんだ」
「そんな事をしたら、皆藤さんが捕まります。ここはやっぱり素直に自首した方が良いと思うんですけど」
「樹里ちゃん。こんな奴の為に刑務所へ入るのかい。そんな無慈悲な。樹里ちゃんにそんな目は遭わせられないよ」
「でも……」
「私の事は心配いらないよ。刑務所に何年か入らなければいけないが、そんな事樹里ちゃんの為だと思えばどうってことないよ」
「私どうしたらいいの?」
「先ず、血を拭くのに使ったタオルを分からない所に隠して。次に私が警察に電話を掛けるから、警察が来たら自分の事で揉み合いになりこの人が彼を刺したんですと言うんだ。それ以上の事はどんなにかまを掛けられても言ってはダメだ。私を指差し、この人が刺したんですって言い通すんだ。いいね。大丈夫、上手くいくから。ここの住所とマンション名を教えて」
 健一郎は、そう言うとスマホを取り出し、110番した。
「警察ですか。今人を刺し殺してしまいました。住所は……」
 樹里は再び泣き出した。自分のせいで健一郎は警察に捕まる。不思議と刺し殺した澄人への罪悪感は無い。警察が来た。
「電話を掛けたのはお前か?」
「そうです」
「被害者はそこに横たわっている者だね」
「はい」
「ねえ君は此処の人?」
 樹里に話しかけた。
「は、はい。そうです」
「一応参考人として署迄来て貰うけどいいね?」
「貴方はこの人とどういう関係?」
「私はこの女性が働いている風俗店の客です」
「そうか。詳しい事は署に行って聞くから。刺した凶器はどれだね?」
 健一郎は血糊の付いた包丁を渡した。刑事が手袋をはめた手でそれを受け取り、ビニール袋へ入れた。
 健一郎と樹里は、刑事達に囲まれながらマンションを出た。外はまだ漆黒の闇の中だった。それは二人の心の中と同じ色をしていた。
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