第35話 引っ越し引っ越したのしーな

文字数 2,979文字

 いつかはこうなるだろうと予告はされてたんだけれども、いざ現実となるとものすごーく、大変だね。

 ウチの会社が入ってる古びたテナントビルが、耐震工事のためにしばらく使えなくなることになったんだよね。

 これを機に別のビルに移転しようかという話も社内では出たんだけれども、工事後も現状の格安家賃に据え置いてくれるというビルのオーナーさんに、ウチの社長は工事中だけどこかの仮事務所で仕事して、また戻ってくるという決断をしたんだよね。

 まあ、わたしも今のビルには愛着あるしさ。

「カミちゃん、これも段ボールに詰めて」
「はい〜、仰せのままに〜」

 花蜜花(かみつか)ちゃんはほんわかした雰囲気だけど極めて優秀なインターンだよ。素直だから仕事も一生懸命覚えてくれるし、その覚え方が仕事を『脳内ノベライズ』して骨身に染み込ませるっていうやり方だからおもしろいし。

 なんか、仮事務所への引っ越し作業もはかどる感じだね。

 まあその仮事務所の場所さえ気にしなければ。

「はいー、またまたフィーバー! 3番台のおにーさん、ノリに乗ってますねー! 本日も朝から駆けつけてくださったパチンコファンの皆様、ジャンジャンバリバリ、ジャンジャンバリバリ閉店まで、根腐れるまでお出しくださいませっ!」

 こういう音が仮事務所まで入ってくるのさ。
 仮事務所のあるビルは隣が古風な駅前のパチンコ屋さんで、ホールスタッフがラッパーのように間断なくマイクでがなり立てて、自動ドアが開く度に、ジャラジャラいう玉の音や電子音が漏れて入ってくる。
 花蜜花ちゃんがわたしに不思議そうに訊く。

「エンリ先輩〜、どうしてこんな朝からパチンコしてる人がいるんですか〜?」
「うーん。まあ、夜勤仕事の人とかが仕事明けにやるレジャーとしては手頃だからだろうね」
「ふーん、そうなんですか〜」

 パチンコ屋だけじゃないんだよね。

「それっ! 腹の下に力を込めい!」

 仮事務所の廊下を挟んだ向かい側のテナントが、『気迫道場』っていう不思議なジム? なんだよね。
 しかもギャラリーが見学できるようにガラス張りになっててさー、そこで師範ぽい人が昔の行者のようなボロボロの道着を着て、きえい! きえい! って朝から夜までやってさー。

 仕事になるんだろうか?

「カミちゃん、お昼食べに行こっか」

 一気に引っ越すと業務に支障をきたすんで、耐震工事をするビルでも業務をしつつ、毎日数人で時間を決めて地道に引っ越し作業を進めてる。
 今日はわたしと花蜜花ちゃんの番。
 仮事務所近辺のお昼に使えそうな店をリサーチするためにも外で食べることにしてるのさ。

「あ〜、あれ、興味をそそられます〜」
「ん? あ、カミちゃん渋いねー。入ってみよっか」

 いわゆる個店の洋食屋さん。
 店の表に出てた黒板に板書されたメニューが、『ビーフシチューランチ』。
 うん、いいね、いいねー。こういうのをお昼にいただくのがリーマン女子、って感じでさー。

「いらっしゃいませ」

 店内はカウンターにテーブルが5つ。
 こじんまりとした雰囲気に否が応でも期待が高まる。
 どうやら店主の男性がひとりで切り盛りする店のようだ。

「お客様、ランチメニューはビーフシチューのみなんですがよろしいですか?」
「はい。ビーフシチューランチ2つください」

 わたしがそうオーダーしてるとドアがカラン、と開いてデザインパーマにパチンコ屋の制服を着たちょっと目つきの鋭いおにーさんが入ってきた。

「マスター、いつものやつね」
「はい、トードーさん」

 お? ビーフシチューしか無いって言ってたけど常連向けに裏メニューでもあるのかな?

 トードーさんはスポーツ新聞を広げてタバコを吸い始めた。

「くっそ。またトレードで持ってかれたよー」

 呟く紙面を見ると、どうやらお気に入りの弱小プロ野球チームが主力選手をまた引っこ抜かれたという内容の記事みたい。
 わたしと花蜜花ちゃんはその様子を横目に、ビーフシチューの到着をワクワクしながら待ってたよ。

「お待たせしました」

 マスターが、とん、とん、とわたしたちの前に置いたのは、完璧すぎる外観のビーフシチューの深皿。

 ほんのり焦げているであろうことが瞬時に想像できるデミグラスソースのその深い色と、彩鮮やかなブロッコリー。
 それから、表面に淡い乳白色を見せる生クリーム。

 至高。

 なんてグルメエンタメみたいな表現をおもわず脳内にわたしが浮かべている間に、花蜜花ちゃんが脳内ノベライズを始めちゃったよ!

「この事態をなんと呼ぼうかギールは逡巡していた」

 は? ギールって誰よ?

「戦闘の合間に村人から配給食のように深いズンドウから掬い上げられたその液体。いや、液体などと呼んだら無礼であろう、ソリッドな食べ物。
『腹に貯めろ!』
 隊長がギールたち精鋭部隊のメンバーに厳命した。それはこれからおそらく三日三晩の敵地へ向けた強行軍に備えてエネルギーを過分なまでに充填することが戦略上必至であることを読みきっているのだろう。それは隊長がこれまでに36の激戦エリアを指揮しながら自らが生き残っているその経験から語られるものであった。そして、隊長はこうも付け加えた。
『最後は立って食うんだ! そうすれば胃をまっすぐに伸ばした最大容量で摂取できる! 死ぬ気で食え!』
 しかし、隊員たちは死ぬ気になる必要などなかった。村人たちが時間をかけ、精魂込めて煮込んだそのビーフシチューは、何杯でもお代わりしたくなるようなグラシャスな一品だったのだ!」

 トードーさんが、吸わずに半分ぐらい灰と化したタバコを指にはさんで呆然とした表情で花蜜花ちゃんにつぶやいた。

「すげえな、アンタ」

 わたしと花蜜花ちゃんはしばし時間を忘れてこのファンタジーのようなビーフシチューを食べ続けた。
 最後にはパンでシチューの皿をぬぐって食べるぐらい、虜になった。

「トードーさん、どうぞ」
「お、待ってました」

 マスターがトードーさんの『裏メニュー』をテーブルに並べていく。
 それを見てわたしたちは目が点になった。

「鯖の塩焼き。里芋とイカの煮物。ほうれん草の胡麻和え。けんちん汁。五穀米!?」
「和食です〜!」

 びっくり仰天のわたしたちにトードーさんがフィーバーをがなってるようなガラガラ声で教えてくれた。

「俺はマスターんとこに一年365日通ってんのよ。いくらビーフシチューが美味くたってさすがに飽きるわな。だからマスターが特別に『日替わりランチ』を作ってくれる、ってわけよ」
「で、でも、洋食屋さんなのに和食ですか!?」

 わたしがそう言うとトードーさんがドヤ顔で解説し出す。

「このマスターはな、帝都ホテルのフランス料理部門も、和食部門も、それどころかパティシエの部門も、ぜーんぶ総ざらいしてる料理のプロよ! ジャンル問わず至高だぜ!」
「トードーさん、下積みですよ。褒めすぎです」

 それからマスターはわたしたちに優しくかたりかけてくれた。

「経費がかさむのでどのお客様にもってわけには行きませんけれど、もしご贔屓にしていただけるのならお客様にも『裏メニュー』、お作りいたしますよ」
「え、ほんとですかっ!?」
「はい。さっきの長〜い独白でお褒めいただいたのは、初めての経験でしたので」
「わあ〜、嬉しいです〜!」

 うーん。
 花蜜花ちゃん。
 もしかしたらウチの会社始まって以来の逸材かも!
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