第2話

文字数 1,020文字

「こんにちは」

夢見心地でその場に立ち尽くしている僕に向かって、彼は言いました。その声のなんと清々しいこと!夏が言葉を発するのならこんな声をしてるに違いありません。同時に、決して痩せているわけではないが骨の形が目立つ、硬い感触のしそうな彼の肩が大きく動きます。身鶴さんは腕を高く上げ、手を振ってくれているのです。

「こんにちは」

黙りこくっている僕の代わりに、姉が手を振り返して答えます。瞬間、不安が押し寄せました。このまま世間話など始まったらどうしよう。僕は彼に認識されただけでいっぱいいっぱいなのです。挨拶すら返せないのだからお話などもってのほか…だというのに、少しでも長くこの時間が続いたらという思いもありました。

「ご姉弟ですか?見かけない方ですが、観光に?」

そんなことを考え俯いていると、彼の方から近寄ってくるではありませんか。砂を踏む音と声が近付くにつれ、僕の体温はみるみる上昇していきます。

「ええ。家族で数日間、こちらに滞在しているんです」
「やっぱり。身なりが違いますもん、洗練されているというか」

すると彼は気の良さそうな声で笑いました。それからすぐに息をつき、言葉を続けます。

「こんな何もないところへようこそ。退屈でしょうが、楽しんでください」

こうして姉と一緒にいるとき、誰かから話しかけられることがしばしばあります。そんなとき、人見知りの僕を守るべく彼女はたいてい自分自身に注目を向けさせました。知らない大人から一方的に話しかけられることは多くの場合、僕にとってストレスであることを理解してくれているのです。
しかしこのときは違いました。姉は礼を述べると後ろに下がり、僕と身鶴さんを真っ向から対峙させる姿勢を取ったのです。

「退屈だなんてとんでもない。私も、弟の夏於留(かおる)も楽しんでいますよ」

不思議なもので、姉はいつだってなんとなく僕の考えがわかるのでした。僕が本当は彼と話したくてたまらないこと、仲良くなりたいと心の底から思っていることを、彼女は察していたのです。

「夏於留くんっていうんだね。僕は身鶴、三瀬身鶴(さんぜみつる)です」

身鶴さんは僕の前に屈むと、そっと右手を差し出しました。関節が張って大きいけれど、なんだか華奢な手。目線を上げると彼の黒く大きな瞳が僕を見ています。あれほど緊張していたのに、近くでその目を見るととても落ち着きました。磨き抜かれた鏡のように静かな輝き。僕は彼の手を取り、ぎゅっと強く握ります。

「はじめまして、十一夏於留(じゅういちかおる)です」
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み