第1話

文字数 1,032文字

 僕が初めて海を見たのは5歳のときでした。砂浜の熱さや潮の匂い、寄せては返す波の音を今でも覚えています。

僕はその年、父と姉、そして付き添いのお手伝いさんと共に海辺の別荘で数週間を過ごしました。何をするでもない日々でしたが、普段と違う環境にいるだけでワクワクしたものです。とりわけ海での思い出が印象深いのは、彼との出会いがあったからに違いありません。

 季節は真夏でしたが、海岸は人もまばらだったように思います。あちこちに岩肌が覗く遠浅の海でした。僕は姉に手を引かれながら、綺麗な貝殻や角の丸くなったガラスを探すのに熱中しました。

砂浜を数歩進んではしゃがむ僕に、根気よく付き合ってくれた姉には頭が上がりません。他にもヤドカリを追いかけたり足を海水に浸したりと、僕は生まれて初めての海を心ゆくまで堪能しました。延々続くように思えた砂浜も終わりに差し掛かり、何気なく辺りを見たときです。砂浜へ続く白い階段に男の人が一人座っているのがわかりました。

 彼は白い半袖のワイシャツに黒のスラックス、白地に紺色のラインが入ったスニーカーを履いていました。恐らく制服なのでしょう。当時の僕からは何歳なのか見当もつきませんでしたが、のちに17歳の高校生だと知りました。

この海岸に僕たち以外にも人がいることを、遊びに夢中になりながらもわかっていたはずです。だというのに彼を見つけた瞬間、僕は本当に驚いてしまいました。ただその場に呆然と立ち尽くし、目を丸くすることしかできません。

 彼、身鶴(みつる)さんは学生鞄を傍らに置き、海を眺めているようでした。潮風になびくベージュブラウンの髪がキラキラ輝いています。汗で前髪が張り付くのか、彼はときおり指先で額を撫でていました。山鳥のように黒く大きな瞳は明瞭な印象を受けるものの、まぶたを少し伏せるだけでとてもミステリアスに見えます。絵に描いたようなくっきりとした二重まぶた、はつらつとした形の眉、右頬と左のこめかみ付近にちょこんとあるホクロ。

しばらくして僕の視線に気付いた彼は、きょとんとした顔をしていました。しかしそれも束の間、身鶴さんはその薄い唇から美しい歯列を覗かせ、僕に微笑みかけたのです。

 あれはなんと美しい瞬間だったでしょう。あのときの高揚感を思い出すと、今でもうっとりしてしまうほどです。僕はもう死ぬのではないかと、若干5歳ながら本気で思いました。人生において得られる充足感のほとんどを、初対面の彼の笑顔ひとつで手にしたような気分でしたから。
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