第1話

文字数 21,157文字

プロローグ

「よーっす内藤せんぱいっ!図書委員終わったのでファミレスいきましょー?」

3年の教室。放課後何をするでもなく椅子にふんぞり返って机に足を乗せ、ぼーっと5月の空を眺めていると小さい男の子みたいな無邪気な声が聞こえた。

「声がでかいなチビメガネ。てかお前やっぱ図書委員やることにしたんだ。めっちゃそんな気がしてた。」

「メガネじゃないです久保です!チビですけど!どうせおひるもカップ麺ですよね。ダメですよ育ち盛りなんだから栄養取らなきゃ!っていうか先輩昨日よりちょっと髪色赤めですよね。染め直しました?」

「はー?なんでわかんだよ。クソ担任にすらバレなかったんだぞ?てかお前が育ち盛りの栄養とか言ってもマジで説得力ねえけどな!さってと、行くか!」

机から足をおろして、横に掛けた軽いカバンを雑に持ってゆっくり立ち上がった。スマホとイヤホン、定期、財布、あとはヘアワックスとガムしか入ってない。

「そいやお前、部活とか入る気ねえのかよ。いいのかー?お坊ちゃまがこんなクソ浮いてるヤンキーなんかとつるんでて。」

階段を降りながら後ろの久保に声を掛ける。テニス部の掛け声と吹奏楽部の個人練の外れた音がカーテンを揺らしていった。

「僕は部活よりも本を読んだり勉強してる時間が好きですから。それにあんまり人多いの苦手なんで…」

「けっ!勉強が好きとかいうやつお前以外見たことないぞ。じゃあなんでこんな俺でも入れるような高校来てんだ?」

「いや逆じゃないですか?なんで僕が入るような高校にこんな茶髪をツンツンに固めたヤンキーが居るんですかびっくりしましたよ。」

「ほんの2駅で近かったからとりあえず受けたらなぜか受かったんだよ。おかげで授業なんもわかんねえしホントにやる気出ねえ。夏休み前のテストまでに勉強教えてくれよ天才なんだろ?」

「分かるわけないじゃないですか3年生の内容なんて。メガネかけてたら頭良いヤツとか思ってます?僕なんかまだ入学して一ヶ月、中学のおさらい終わったあたりなんですからね?」

「じゃあ教科書あげるからさ、読んでこいよ。読むの好きなんだろ?俺の飯なんか心配してる場合じゃねえって。卒業掛かってんだから。なんとかしてくれ。」

「えっ先輩、クラスに友達いないの…?」

「いないのー?じゃないよ全く。居ねえよ。だから困ってんの。俺の以前の話とか聞いてねえの?」

「あーあれですか?入学早々部活の先輩の胸倉掴んだ話?クラスのバスケ部が3年に一瞬で退部したやつがいるらしいって話してましたよ。」

「それもあるけどさ。別にあの件では避けられなかったよ。クラスでもしばらく普通に話してたもん。」

「えっじゃあ知らないです。一体何やらかしたんですか。」

「1年の夏休み前くらいかな。朝の駅でおっさんと言い合いになってさ、殴ったらホームから落ちちゃったんだよ。轢かれなかったけど腕骨折ったの。電車は緊急停止するし駅前は救急車やらパトカーやらで大騒ぎ。通学中の生徒いっぱいいる中パトカーに押し込まれてさ。みんな遅刻した理由が俺のせいって分かったら一気に有名人だよ。まぁ当然だよな。別にみんなが悪いとは思ってないぜ。」

「それはだいぶパンチ効いてますね。一発殴っただけでそこまで事が大きくなるとは。あ、パンチと掛けてないですよ。」

「いや殴っただけとか言うんじゃねえぞお前。立派な犯罪だからな?」

「それはそうですけど、でも殴った当の本人が言っても全然説得力ないですからね。てか何言い合ったんですか一体。」

「ほらもう着くぞ。あんま掘るなよもう終わったことなんだから。やめやめ。どうせなら面白い話しようぜ飯が不味くなる。」

大通り沿いのファミレスについて、先を歩いてた俺がドアを開ける。新学期早々、放課後ここのファミレスでこの1年坊主に度々鉢合わせして以来、たまに誘われて一緒に行くようになった。

ボックス席に向かい合って座って、注文するのはいつも同じ。一番安いミートソーススパゲティとドリンクバーのセット。コンビニでご飯買うより安いし閉店までずっと時間を潰せる貴重な場所だ。

「僕はやっぱり甘いものが良いので、このパ…いや、プリン食べます。」

「今遠慮しただろ。良いじゃねえか自分の金なんだから好きに食えよ。べつに羨ましいとか思わねえから。俺甘いもの苦手だし。」

「本当ですか!じゃあ抹茶黒蜜パフェにします!」

「はっは。んじゃあ頼んどいて。俺いつものだから。トイレ行って飲み物取ってくる。オレンジジュース?」

「はい!ありがとうございます!」

いつも通りになった、放課後のルーティーン。ちょっと前までは静かな一人の時間だったのにやたら騒がしくなってしまった。

「はいおまたせ。そいやお前体育の担当誰?海老川?三芳?」

「えっとあの声かすれたマッチョの…」

「あー三芳ね。俺あの先生嫌い。」

「それ絶対生活指導だからですよね。普通に明るくて優しい先生ですよ?僕みたいな体力無い生徒にも優しいのですっごくありがたいです。」

「あーたしかに非力なやつは苦労するよな体育は。筋肉バカが成績取ってガリ勉の成績下げてうまく均すための授業だから。俺はそれで助かってるけどな!」

「中学の時は大変でしたよ。なんの説明もなく野球始まっちゃって、転がってきた球投げるところ分かんなくて点取られちゃって。ピッチャーとかベンチからすごい怒鳴られて以来、球技はトラウマです。」

「あっははいたいたそういうやつ!クラスのカーストなんて体育出来るやつ順みたいなもんだもんな。チビには大変だよな。」

「本当に大変でしたよ。頑張ってるのに成績だって3とか付けられてましたからね。」

「俺は体育だけは5だったから助かってたな。ほかは絶望的だったけど。」

店員が盆を持って軽くお辞儀をして、ミートソーススパゲティとパフェ、伝票を置いて去っていった。

「フォーク取ってー。あんがと。んで、お前は得意科目何?」

「国語と…歴史ですかね。読み物好きなので。数学とか理科はあんまりです。」

「へぇーメガネでも苦手あるんだ。」

「バカにしてますよね先輩。」

クリームを唇の端っこに付けながらむっとする。

「いや本当に割と何でもできる気がしてたから。」

「全然ですよ。テストだって国語と歴史以外は平均がやっとでしたもん。」

「充分すげえよ。んでさ、お前は高校生活始まって1ヶ月経ったわけじゃん。なんで3年の俺と遊んでんの?友達いねえの?」

「…いないですね…僕全然話さないので空気になってます。でもゆっくり本読めるんで、別に悲しいとかは本当に全くないんですよ。それに先輩が居ますから。大丈夫です。」

その笑顔がちょっと寂しそうに見えるのは気のせいだろうか。
溶けかけたアイスとフレークをすくって、口に含んでニコニコ笑った。

「大丈夫、ね…まぁ勉強出来りゃ困ることもそんな無いよな。俺もぼっちだけど勉強以外全然困ってない。」

「そうですね。勉強頑張るのが学生の本分ですから。」

「おいおいマジでそれやめてくんない?気が滅入る。」

「あっはは!先輩はもっと勉強頑張ってくださいよー!教科書かしてください。僕も先取りすれば学びが増えますし。軽くなら教えられると思います。」

「おっマジ!?すっげえ助かるありがとな!明日持って来る!」

「あー2年生の教科書も忘れないでくださいね。3年生のいきなり見ても分からないです多分。」

「分かった探しとく!でも自分の点数落とさないようにな!せっかく勤勉なんだからもったいねえだろ!」

「大丈夫です!っぷはぁ!」

パフェを食べ終わって、オレンジジュースを飲み干した。

「じゃあそろそろ帰ります。今日も塾なので。先輩本当に毎日閉店まで居るんですか。23時ですよねここ。」

「そんくらいに帰れば親と顔合わせずに済むんだよ。夜勤だから。何してんのか知らねえけど。」

「あぁ…そういうおうちもあるんですね…すみません。」

「なーんで謝るんだよ。両親がいてお金があるってめちゃくちゃ良いことじゃねえか。胸張っときゃ良いんだって。」

「…はい。わかりました。もし困ったことあったら教えてくださいね。ぼくなんかに何が出来るんだって話ですけど。」

そう言いながら重そうなカバンを開け、革の財布を出した。

「お金置いときますね!じゃあお疲れ様でした内藤先輩!」

「おうおつかれ!」

話に夢中で半分くらい残ったままの、冷めたスパゲッティをすすりながら食べた。目の前に置かれたお札がエアコンの風でなびく。

「あの野郎…2千円は多いだろ…明日絶対返してやる…」

かすかなBGMと厨房の雑音だけが耳に届く。
1ヶ月前までの2年間何百回も繰り返された見慣れた店内が、やけに静かに感じた。

「こんな味薄かったっけ…」

*    *    *

ブーッ、ブーッ。
翌朝、不快なスマホの音で目が冷めた。一瞬遅刻か?って思ったけど、土曜日の、何時だよ今…誰だよ…
ボサボサの茶髪をわしゃわしゃしながら、とりあえずスマホの通話ボタンをスライドした。

「ん…はいもしもし…?」

「あぁーっ起きましたぁ!!!?おっはようございますセンパイ!!!」

聞き覚えのある、幼い男の子みたいな高くて艶のあるトゲトゲした声。あまりのうるささに思わずスマホを遠ざける。

「っっっるせぇなボケ!」

「あーごめんなさいっちょっとテンション上がっちゃって!センパイ、一緒にスイーツ食べ行きませんか!」

「やだ。俺が甘いもん嫌いなの知ってんだろ拷問かよ。じゃーな。」

「わーまってまって!お願いです!スイーツバイキングのペアチケット明日までなんですよ!お金かからないししょっぱいのもあるんで!」

「…はぁ…てかお前さぁ…休みの日くらい友達とか女の子とか誘う口実にしろよそういうの…有効に使えよ…」

「えぇー?先輩がいいんですけど…駄目、ですか…?」

ぶりっ子ぶった女子みたいな話し方しやがって。でも多分、素なんだよなこいつ。こんなよくわからねえ距離感の男、そりゃ友達できねえわ。

「えぇー…ぜんっぜん気乗らないんだけど…」

「どうせやること無いんでしょ先輩!2年と3年の数学の教科書、持ってきてくださいよ。一緒に勉強しましょ?お店も図書館とか駅の近くのステーションプラザなんで近いですよ。」

「おっけ。何時にどこ行きゃ良い。」

「あっはははは!先輩かわいいっすね即答じゃないっすか!じゃあ12時にステプラの駐輪場で良いですか?」

「12時ね…はいはい…てか今何時…?」

「えーっと、7時半ですね!」

「…なぁ久保。」

「なんでしょう!」

「次休みの日に電話で起こしたら殺す。10時までは寝かせろ。」

「ひっ!」

スマホのバツボタンを押して枕元に放り投げた。

「クッッッソこんな時間に起こしやがってよぉおおおお!」

頭をかきむしる。俺は一回起きるとなかなか二度寝できないし、昼寝とかすると頭ボーっとしちゃってダメなんだ。んでなんだっけ。ステプラ?あいつんちの最寄り駅じゃねえかよ…
自転車で行くか210円払って電車で行くか迷って、どうせ時間あるし金ないし自転車で行くことにした。
自転車で30分くらい…今が7時半で12時集合だから、4時間も暇がある。

「図書館で暇潰すか…家にいたくねえし。」

パジャマにしてるジャージの上から黒い毛玉だらけのパーカーを羽織って、いつもの通学カバンに財布とスマホを放り込んで、ああそう言えば教科書か。
部屋の隅に積み上がった段ボール箱を何個か開けると、くしゃみといっしょに新品のままの教科書がいくつも出てきた。

「数学Ⅱ…たぶんこれかな。」

適当にめくると、新しい紙の匂いと暗号の羅列。微分積分とか三角関数とか、なんか言われれば聞いたこと無くもないような単語が目に入ってくる。

「ふぁーあ、こんなん試験以外何の役に立つんだよクソ…」

何度目かわからないあくびをしながら教科書を乱暴にカバンに放り込むと、カバンの奥からヘアワックスを取り出して枕元の鏡をテーブルに載せた。

「…いやなんか面倒くせえわ休みの日にわざわざこんなん。」

フタを開けかけたワックスを閉め直して、布団に放り投げた。
代わりに少し伸びて邪魔になってきた前髪だけかき上げて、適当にヘアピンを突っ込む。
面倒くせえな休みの日にチャリ20分も乗るの。まぁ暇だから良いけど。
適当に準備してカバンを持って、恐らくキッチンの奥の部屋で寝てるであろう夜勤明けのクソ父親を起こさないようにそっと家を出た。

5月半ばにもなれば軽くパーカー羽織る程度で全然大丈夫だけど、さすがに8時前の曇り空はいつもより寒かった。雨…大丈夫かな。まぁ良いや。
アパートの駐輪場から自分のママチャリを引っ張り出して、家の前の坂道を下る。隣の畑の爺さんが何かしゃがんで手入れをしていた。
いつも隅っこに座ってタバコすってるだけの爺さんかと思ってたけど、どうやらこの時間は野良仕事してるらしい。
坂を下りきって細い5差路を左へ。そのまましばらく走れば、駅前の商店街にぶつかる。
土曜日の朝にここを通るのは初めてだった。いつもいるスーツ姿の通行人はほとんどいなくて、曇り空と合わさって暗いシャッター街みたいだ。まぁ実際半分くらいはシャッター閉じっぱなしなんだけど。
商店街を進めば駅のすぐ近くに出て、あとは線路沿い走っていればステプラに着く。ステーションプラザ、若い奴らはみんなステプラって呼んでるその商業施設は田舎にありそうな店は大体入ってるデカいショッピングモール。
逆に言えば他には周囲に何も無い。田舎のオアシスって感じ。
学校帰りとか休日にぶらつけば必ず知ってる顔とすれ違う。
だから俺はほとんど寄り付かないんだけど、どうせ影で「アイツ、ステプラに居たぜ笑」とか言われるんだろうな。どうでもいいけど。

「いや待てよ…」

俺みたいな悪い噂ばっかのヤンキーとつるんでるところ見られて、あいつ噂になったりしないかな。きっとあいつは全然気にしないんだろうけど、暇な田舎の高校生どもがどれだけ噂話が好きか俺はよく知っている。
でもそれで一回痛い目見れば、もう少し普通に友達作ったり出来るかもしれない。
絶対その方が良い。入学早々こんなのにつるむのは絶対間違ってる。

とか考えてる間に図書館に到着。数年前に新築になって、壁際にイスがたくさん並んでガラス張りになっている開放的な建物だ。
駐輪場にママチャリを置いて入口に着くとちょうど8時の開館を待っていた人が奥に進むのが見えた。
あとはひたすら、暇つぶし。本なんか読むガラじゃないし、向かいのステプラの駐輪場が見える辺りに座ってスマホを出した。
通知が4件。

「先輩、もしもっと早めでも良ければ先に図書館行きませんか」

「あっやっぱり家事手伝うんで11時ころになります」

「もし先に図書館着いて暇だったら、著者サンピエールのポールとヴィルジニーでも読んでてください。読みやすくていい本なので」

「2階のカウンター横のパソコンに題名入れると場所出てきます」

急だなぁ。圧が強い。それに俺は全く本なんか読まない。
文庫本読むのなんて教室で隅っこぐらししてるやつくらいだと思う。電車でたまに読んでるおっさんとか居るけど、図書館こんなにたくさん本おいてあってそんなに読むやつ居るんだろうか。
でもまぁ、暇だし。急に活字なんか見て、俺本読めんのかなってのが少し気になった。
数分ぼんやりしてからゆっくり立ち上がって、眠気が覚めた代わりにちょっとつかれた足を動かしてカウンターに向かった。
傍らの端末に題名を入れると、画面に地図のように表示された本棚の1つが赤く点滅する。
それに従って窓際を通ってゆっくり歩くと、図書館には色んな人が居るのが分かった。
いかにも頭良さそうな初老の男、
図鑑か何かの内容を付箋だらけのボロいノートに書き移しているおばさん、難しく悩んだ顔でじっと本を見つめる若い男。絵本やマンガなんかは一階みたいだから、一階はまた客層もずいぶん違うんだろう。

E,F,G…あったJの棚。

端末に表示された通りの場所に、その本はあった。

「誰だよポールとヴィルジニーって…男と女かな。ヴィルジニーってあんま可愛い感じしないけど。」

独り言を呟きながら割と薄めのその本を取って、さっき座っていた椅子に戻った。いつの間にか人が増えて、隣の席に落ち着いた30くらいのお姉さんが座っている。
横を通り過ぎながら一瞬俺の顔を見て茶髪に気づいて怪訝な顔になってから、持っている本に目を落とした。

「初読ですか?」

すれ違いざま、ささやき声が聞こえた。

「え?俺?あ、声でかいすね。
…んで、なんすかしょどくって。」

立ち止まって、声を抑えながら聞き返す。
丸い小さなメガネをクイッと上げて、女性は日本人形のように整った髪と顔ではっきりとこちらを見た。どこか現実味のないような、とっつきにくい雰囲気。

「初詣の初に、読むと書きます。初めて読む本のことを、初読と言うのですよ。因みに、気に入った本などをまた読むことを再読と呼びます。その本は、初めてですか。」

「…そうだけど。後輩に勧められたんで。俺全く本なんか読まないんで読めるか分かんないっすけど。見ての通りただの不良なんで。」

女性が赤い唇でふっと笑った。

「左様ですか。それならその本を勧められた後輩さんはきっと人思いの優しい方でしょう。」

「ってことは知ってるんですかこれ。ポールとなんちゃら。」

「よく児童書などでも勧められる本ですね。古典的な、日本で言う昔話を少し難しくしたようなものでしょうか。大昔のヨーロッパの小さな島で生まれ育つ男女の純愛のお話ですよ。初めて出会う読書がそのお話というのは、本当に幸福なことだと思います。世にはろくでもない書物が蔓延っていますから。」

お姉さんはメガネを外して、開いたままの本に置いた。分厚い外国語の本だった。

「その本を読んで感じた素直な感想を、ずっと大事にするんですよ。大切な一本目です。ゆっくりでも早くても、理解できても出来なくてもまずは最後まで読んでみなさい。読み切ることが大切です。でも雑に飛ばしてはいけませんよ。本は心の友ですから。」

「ほーん、そっすか。お姉さん友達少なそうだもんな。」

「ふふ、あなた高校生でしょ?良いわねその遠慮のない純粋な心。本当に本に触れるには最高のタイミングだと思います。その後輩さんのことはずっと大切にするといいですよきっと。急にその本を勧めるなんて、よほどあなたを気にかけてるんでしょうから。学校では馴染めずに教師からよく怒られてるでしょあなた。」

「余計なお世話っすよそのとおりだけど。」

「書いてないことのほうが多いんですよ本は。見えないことのほうが多い人間と同じ。これみたいに図鑑や評論は違いますけど。本に書かれていないことは、心に描く。それはあなたの怒りや葛藤までもを形に出来る訓練で、武器になります。時に退屈な授業よりもずっと大事なことを教えてくれます。それが物語の楽しさです。とりあえず読んでご覧なさいよ。こうやって話しててもなんですから。」

変な女。話噛み合ってないしやたら上から目線で、何か知ったような口を聞く。ちょっとイラッとした。
ため息をつきながら椅子に座り、とりあえず開いてめくって一文目を見つけた。何も書いてない1ページ目、要らなくね?さっさと始めろ。

1ページ。めくって、1ページ。意外と、読めなくはない。でも景色とか植物の説明ばっかで正直全然入ってこない。しばらく読み進めて、変な疲れが来て指を挟んで閉じた。前を向くと眩さに目が眩む。一瞬窓の外がぼやけて、ゆっくりピントが合う。
あ、今の天気、さっき書いてあった呪文みたいな描写とは違うんだって、ふと頭に浮かんだ。

「どうですか。何を最初に思いました?」

「え?いやずっと見てたの怖いんだけど。」

「すみません。そういうつもりはないんですけど。空をじっと見つめてるもんだから。」

「…ああ、今の天気と違う天気なんだなってくらいはわかった。まだ10ページも読んでないし、そのくらいしか入ってこねえよ。難しすぎる。」

「ちゃんと入ってますよ実は。登場人物の心情や景色の描写は経験してから初めて実感できるものですからね。
…読書はね、読み終わったら終わりじゃないの。人生の終わり、死に際思ったり考えたりすることがあなたの人生で読んだ本すべてのあとがきの総集編。
読了は死に際。死ぬまではすべての本が読みかけで未完成。
今はただそうしてゆっくり読むだけでいいんですよ。人生は長いんですから。」

「ふぅん。てかお姉さん誰?急にこんな不良のガキに話しかけてさ。何いってんだかよくわかんねえし。」

「私は中学校で音楽を教えています。きっとあなたは嫌いでしょう?教師って生き物。大丈夫。教師もみんな他の教師が嫌いですから。それに私は自分が教師とは思ってないので。」

「えっお姉さん教師?全然そんな感じしなかったけど。真っ赤な口紅なんかして。だから俺みたいな子供に話しかけたんだ。」

「…ふぅ。チャイムと同時にお願いしますとありがとうございましたを言われて人に何かを教えるほど大した人間ではないですからね。
そういう仕組みだからそうしていますけど。
自分の無力さを棚に上げて生徒を叱る教師がたくさんいるのは、考えることに疲れてしまったからです。
私は別にあなたを叱ろうとか注意しようとかじゃありませんよ。ただおせっかい心がくすぐられただけです。教師の悪いクセですね。ちょっと近く寄りなさいよ。声が大きいと良くないですから。」

俺はお姉さんのそばに寄った。こんな教師がいるんだな。記憶に出てくる教師はバカにした心が見え透いた最低なやつばっかだったのに。

「素行の悪い生徒は私の中学にも居ますけどね。でも経験上そういう生徒のほうが独創性や思考力は優れています。だってあなたは周りに流されること無く何かを自らの手で選んでるでしょう。言われた通りの事だけが人生の正解じゃありません。教師はそれを嫌がるでしょうが、あなたは自分で信じたものを追いなさい。でも、少なくとも学校で習うことはちゃんと知ってないと、社会に出てから弾かれますからね。型破りと型無しは違うんですよ。あなたはまだ型無しの子供です。授業が嫌なら、本が型となりお手本になってくれます。」

「なんでそんな知ったようなこと言えんの?俺のこと何も知らないでしょあんた。」

俺はまたイラッとした。

「ええ、悲しいくらい人のことは分かりませんよ。だって教師ってのは…」

一旦ため息を付いて唇を舐める。

「教師ってのは、社会に出ていませんから。学校を卒業して学校で働いています。だから学校での正解以外を知らないんです。それしか知らないからそれを信じて自分の疑問や葛藤を苦しみながら押し殺すしかない。
教師も被害者なんです。ろくでもない生意気な教師だと思っても教師である以前に一人の人間ですから、きっとその教師にも良いところはきっとあります。
でも教師になる人間ってね、悲しいけど正義感がやたら強くて傲慢な人が多いのも事実。
答えをすぐに出したがる。だからあなたみたいに髪を染めたりルールを破る人間の気持ちが理解できない。
やらなきゃ良いのになんでやるんだって思う。だから異物を排除しようとするんです。
もちろん、そうじゃない素晴らしい考えの先生方もたくさんいます。あなたの学校にもきっといます。それを見つけられると良いですね。」

「へぇー。あんた、マジで教師らしくねえな。俺もあんたみたいなのが担任だったら助かるんだけど。」

「それは違いますよ。人の出会いは一期一会、すべて意味があるしその人でないと得れないものが絶対にあるの。だから嫌いな教師にもチャンスをあげて。
本当は眼の前のむかつく教師が何を思ってるのか、考えたり聞いたりしてみて。
きっとあなたをバカにしたくてストレス発散してるわけではないはず。不器用で学校という仕組みにがんじがらめになってるだけで、きっとゆっくり話せば分かり合えるわ。」

「そういうもんかね…じゃあ俺のイライラは何?あんたならなんでも分かるんだろ。何やっても文句言ってくるクソ教師と何を話し合えってんだよ。」

「それは…担任?」

「まぁ、一番苛つくのは担任だ
な。次に生活指導の体育教師。」

「その担任は大声で叱りつける?あなたを否定で埋める?」

「マジその通り。」

「それならきっと、図書館が良いわ。絶対大声出せないもの。図書館に呼んで、結局何が言いたいんですかどうしてほしいんですかって、静かに聞いてみたら?絶対に大声になっちゃダメよ。感情に支配されて何も会話できなくなっちゃうもの。」

「はあー?嫌だよそんなの…顔も見たくないんだよ。」

「私はいつも土曜日の午前中はここで過ごしてます。来週もお話しましょ?平日は5日間もありますから。怒られたタイミングとかで勇気出して話振ってください。話し合いましょうよって。きっとあなたに感情をあらわにして怒るってことは、口に出してない思いや葛藤が幾分と詰まってるはずですよ。
じゃ、私は帰りますから。ゆっくりそれを読んで、後輩さんにたくさん感想を言ってあげてくださいね。さよなら。」

床に座った俺を残して、お姉さんは静かに去っていった。

「へんなの。」

ポケットからスマホを出す。
9時15分。
いつもの休みならまだ寝てる時間なのに、こんなにいろんなことが起きてるなんて不思議な感じだ。

「はぁ…読むか…」

なんか色々言ってたけど全然うまく思い出せないっていうか整理できない。モヤモヤする。
今はただ本を読んでれば、とりあえず他のこと考えずに済みそうな気がした。

24ページ、25ページ。
10時のチャイムが静かに鳴る頃には30ページくらいまで進んでいた。ほんの15枚の紙でも意外と厚みがあって、意外と出来るもんだなって思った。
久保は11時くらいに来れるって言っていた。あと1時間。30ページくらいはまだ読めるかもしれない。
それに、やっと話が進んできて大体雰囲気がわかってきた。同じ小さな島の隣同士の家の、家族みたいな関係だけど血がつながってない幼い男女が自然に親しんで優しく生きてる。そんな感じ。
なんであいつがこんな昔話を勧めてきたのかはまだ全然分からないし、初めての読書には最高とか言ってたお姉さんの言葉もわからない。絵本を小難しい文章にした感じ。読みにくい。

 一息ついて読み進めて、スマホが鳴ったのは11時10分ころだった。いつの間にか1時間以上経っている。本って意外とすごいかもしれない。今まで1時間が勝手に過ぎたことなんて無かった。

 通知が2件。

「つきました。まだ家ですか?」

「とりあえず図書館にいますね」

返信、しとくか。それにこれ以上読み進める気力はもうない。疲れた。ページ数は…

「ななじゅう!?

静かな図書館で大声を出してしまった。こんなに進むとは思わなかった。さっと本を閉じて横に置き、スマホを開いた。

「暇だったからポールなんとか読んでた。いまどこ?」

「ちょうどその本おいてあるはずの棚見て無いなって思ってました」

「んじゃ行くー」

本を持って立ち上がって、カバンを手にさっきの本棚に向かった。
久保が無言のまま手を振っている。私服だ。当たり前だけど。黒いスキニーパンツと淡い水色の緩いパーカー。大きめの黒いリュックを背負ってて、なんか女の子っぽい。

「おはよ。とりあえず出ようぜ。もうステプラ開いてるだろ。」

「はい!」

静かにコソコソ声で話して、無言のまま図書館を後にした。久保はいつも通り斜め後ろを歩いている。たまに振り返って顔を見ると不思議なそうな顔で首を傾げて、俺が前を向くとまた笑顔になってついてくる。

「もう店行く?少しぶらつく?」

前を向いたまま、横断歩道を渡った辺りで声をかけた。

「とりあえず自転車漕いで疲れたんで、フードコートで話しましょうよ。今食べたら吐きます。」

「あっはは。おっけー」

エスカレーターに乗って、3段後ろに久保が立つ。

「なんで微妙に後ろ歩いてんのいつも。落ち着かねえんだけど。」

「えっ!いいんですか!じゃあ横行きますね!」

エスカレーターを降りて踊り場を歩く間に、早歩きで久保が近づく。次のエスカレーターに乗ったときには隣りにいた。

「お前何センチ?低くね?」

「僕152です。クラスで1番、学年でも2番か3番目くらいに小さいですよ。先輩は結構高い方ですよね。」

「俺は177センチ。まあまぁくらいだよ。別にもっとデカいやつ何人も居るし。」

3階について、まっすぐフードコートに向かった。歩幅の合わない久保が少し早足で隣に来て追い越し気味にこちらを見上げた。
早足の歩調に合わせて艶のある長めの黒髪がぽふぽふと揺れる。

「ってことはですよ。25センチも差があるんですね。多分先輩の肩辺りが僕の身長じゃないですかこれ。いいなぁー。」

「まぁ背小さくてバカにされるのなんて中学までだろ。俺のクラスの学級委員、クラス1小さいけど人気者だぜ。」

「…そうでも…ないですよ。」

一瞬寂しそうな顔をして、すぐ前を向いた。リュックから手足と頭が生えてる感じ。

「んでどこ座る?あそこの端っこのボックス席良いんじゃね?」

「はーい!」

ボックス席の奥にカバンを置いて座ると、久保はリュックをテーブルに置いて言った。

「トイレ行って水持ってきますね!リュックに問題集あるんで、良かったら見ててください。」

パーカーから黒い棒が生えたみたいな生き物がてくてく走り去っていった。
久保のリュックを開けると見えたのは書店の紙袋。その中には3冊の問題集か何かが入っていた。優しくとことん基礎!とか書いてある。1,2,3年の3冊。

「あいつもしかしてわざわざ買ってきたんかこれ…」

パラパラめくってみると確かに教科書よりはだいぶ隙間が多くて、問題がいくつも載っている。これならゆっくりやれば出来る…かもしれない。
パラリ。赤いクリアファイルみたいなやつが床に落ちた。

「なんだこれ。」

席を立って拾い上げると、奥に会いたくもない知った顔が目に入った。
薄汚れた白いバッシュでダボダボジーンズの短髪男。

「えっマジうけんだけど内藤じゃん。よぉ何してんのお前。」

陽キャの極みみたいな誰にでも話しかける奴で、悪いやつでは無いんだろうけどかなり苦手な部類のクラスメート。
そいつがいかにも野球部な歩き方でニヤニヤしながら近づいてくる。

「はぁぁー1番会いたくねえ奴に会っちまったよ。なんで休日だと話しかけてくるんだよ。普段はシカトこくくせに。」

「だってお前と話してるところ見られたら俺まで悪い噂立つじゃん。俺だってちょっとヤンチャして目つけられてるし。一緒に歩いたりなんかしてみろ生活指導まっしぐらだお前。てか赤シートなんか持ってもしかしてお前がお勉強?おもしろ。」

「なぁーそっとしといてくれよー。俺はこのまま平穏に卒業したいの。だから平均くらい取らないとヤバいの。あんたら陽キャと違って勉強教えてくれるやつ全然居ねえんだから。」

「はっはマジで勉強かよ似合わねー!俺が教えてやろうか!」

「あーいいよなぁコミュ力もあってバカキャラでウケて人気者なのにそこそこ点取れて。腹立ってきたわ殴っちゃいそう。」

「ぎゃっははマジウケる!それはやべえわ。でもムカつくやつ歳上でも容赦なくぶっ飛ばしたって話、俺はかっけえと思ってるぜ。んじゃまぁがんばれよ殺人未遂!」

「うるせえよクソ!」

「じゃーなー!」

嵐が去った。

「あのー先輩…友達、ですか…」

柱の陰で待ってたらしい久保が戻ってきた。

「なわけねえだろあんなやつー。ただのクラスメート。」

「今殺人未遂って…あ、水どうぞ。」

「あんがと。そりゃホームからおっさん落としたら殺人未遂だろ。朝のラッシュで骨折で済んだのが奇跡だぜマジ。」

「あぁ…そういう…先輩、もう二度とケンカなんかしちゃダメですからね!絶対ですよ!」

「俺ケンカなんか全くしたことねえよ。大丈夫だって。」

「心配だなぁ…」

敬語じゃない。きっと独り言。困り眉でちょっと下を向いている。

「んで、これわざわざ買ってきてくれたの?」

「はい!僕も良い予習になりますから!一緒にやりましょ!」

急に明るくなった。表情がコロコロ変わって、疲れるやつだ。

「ありがてぇ…マジサンキューな。やる気出さなきゃって気になってきた。やる気のやる気が出た?あれ?…んでも適当に雑談して飯行って、その後図書館でゆっくりのほうが良いよな。まだ午前中っしょ?」

久保がポケットから出したスマホを見た。

「11時21分ですね。一息ついたら行きますか!」

「おう。俺いつも朝飯食わないタイプだし、いつでも。ああわりいわりい勝手に開けてそのまんまだったわ。」

テーブルに出したままの問題集をまとめて久保に差し出す。

「あ、ありがとうございます。やっぱ優しいですね。センパイ。」

久保は笑ってるわけではないけど、少し朗らかな顔でリュックに目を向けてチャックを閉めた。

「何言ってんだよ全く。」

「僕思ったんですけど…あ、いやまたあとにしましょう。今はスイーツです!」

久保が立ち上がってリュックを背負い、空になった紙コップを手に軽い足取りで歩き出した。
それを追いかけるようにして、横に並んだ。

「何言おうとしたんだよ変なやつ。俺が食えるもんあんのかー?」

「ありますってー。こことおんなじ3階に入ってる店なのですぐそこです。その代わりたっぷり勉強一緒に頑張るので!門限無いんでしょ先輩。」

「ねえよ。でもお前は家族と晩ごはん食べたりとか、家族っぽいのがあるだろ。あんま遅くなんなよ。」

「でもその後先輩どうするんですか。」

「適当にまたファミレスだよ。父親の休み不定期だからいつ休んでんだか知らねえし。でも土日はいつも夜居ねえからどうせ今日も夜勤まで家にいやがんだろ。」

「そうですか…あ、ここですここ。」

久保が指さしたのは白い塗り壁に花なんかがたくさん飾られた明るい雰囲気の店。入口のメニューに平日バイキングとかアフタヌーンティーセットとか色々書かれている。

「カフェっぽいな。」

「品揃えのいいカフェって感じですね。だから昼の早い時間は穴場なんですよ混まないから。あ、ふたりでーす。」

久保が店員にピースする。

「あ、二人ってそうやるんだ。知り合いかと思った。」

「あっはははは変なセンパイ!あ、奥どーぞ。」

「そもそもファミレス以外金なくて行かないし。誰かとなんて尚更だよ。知らなくても笑うなよなー。」

通されたのは壁際の席。人は俺ら以外に2組だけで、全員明るい感じの女性。カウンター沿いにケーキなんかが10種類くらい並んでいる。
久保はささっとチケットを出して、店員の若い女性がそれを受け取りながら軽く何かを話して去っていった。

「センパイ!いきましょ!」

「あ?もう行っていいのか。はいよ。」

立ち上がる俺を待つ間もなく、小さな背中がケーキに向かって走っていった。端に積まれた皿を持って、見たことないような笑顔で顔をキラキラさせながらケーキを見ている。

「ははっ。お前本当に甘いもの好きな。気がしれねえ。」

「向こうにしょっぱいのありますよ!」

カウンターの反対側、壁際に置かれたのはお玉みたいなスプーンが添えられた大皿のドリアと、フライドポテトと鍋2つ。上にカレーって書いてある。じゃあもうひとつは飯か。

「助かった。普段よりいいもん食えるじゃんサンキュー!」

とりあえずしょっぱいの全種類皿に盛れるだけ盛った。

席に戻ると既に水とカトラリーが置かれ、久保は浮いた足をパタパタさせて山盛りのケーキの写真を楽しそうに撮っている。

「おまたせ。食おうぜ。」

「はい!いただきます!んーどれからたべようかな…これ!はむっ。んん〜!」

「ははっ。そんな美味そうにケーキ食う男初めて見た。」

「あ、声出てました!?だってすっごいおいしいんですよここのケーキ!てか先輩そんなに欲張んなくても何回でも取り行けるんですからね?」

「あぁ、そっか。まー仕方ねえだろ貧乏性だからな。バイキングなんていつぶりだろ。」

「じゃあ食い溜めってやつですね!」

「おう!晩飯要らねえってくらい食ってやる!」

「あっはは先輩おっかし!」

会話が途切れた。二人とも食べるのに集中して、皿に当たる金属の音だけが響く。でも食べてるものも表情も、全然違う。
俺はカレーライスを4皿平らげて、水をお代わりして一息ついた。さすがに腹が苦しい。

「いっぱい食べれました?」

「おう。ありがとな。少し休んだらあと2皿はイケる。」

「ふふっ、あっははは!センパイって感じですね!」

「お前は小さいくせによく食うなぁ。」

「甘いものはいくらでも食べれるって感じするじゃないですか。いやするんですよ。んでもさすがに辛くなってきましたね。
そう言えばなんで甘いもの苦手なんです?最後に食べたのいつですか。」

「小学校の給食のケーキ。あれが死ぬほど苦手で。一生クリームなんか食わねえって思った。」

「じゃあ…試しにこれ、食べてくださいよ。学校給食で出るのは多分植物油脂系のホイップクリームで、ちゃんとした生クリームじゃないです。まずはこれ。ベリータルトです。酸っぱいから甘ったるくないですよ。」

左手を添えたフォークに、小さく切られたツヤツヤした赤いタルトが差し出される。

「んあー」

渋々口を開けると慣れない味が一気に広がる。

「んむっ!?んん…うぬーん…」

「なんですかその反応!かわいいんですけど!」

「可愛いとか言うなよー。」

「それでどうでした?初めての味は!」

「…甘酸っぱかった。でもよくわかんない。もうちょっと大きめのくれよ。いけそう。」

「えっ本当ですか!はい、あーん。」

「あーん」

ぱくっ。香ばしい生地の香りと甘いクリームの苦手な味。それをみずみずしいベリーの酸味と爽やかな香りが打ち消してくれた。

「ああ、これなら食えるわ。わざわざ食べようとは思わんけど。新しい発見だ。ありがと。」

「本当ですか!よかった!ねえ次はこれ!これ食べてください!あーん!」

「えぇー?もう甘いもんは良いってー…んあ。」

とりあえず差し出されたフォークを口に入れてみる。苦い。
コーヒーの香り。ザクザクした苦いクッキーと、コーヒー味のクリームだ。

「あーでも後味がクッソ甘い…これここまで甘くなかったら食えそうかも。」

「わーーーい!じゃあまたスイーツ食べいきましょうよ!センパイが食べれるスイーツ探したいです!」

「え、なんで?」

「…あ、嫌ですか…すみません…」

「嫌じゃないけどさ、なんで俺がスイーツ食うとこ見たいんだよ。」

「…だって、今まで苦手だったりなんとも思ってなかった相手を徐々に知っていく過程で好きになるってすごい素敵じゃないですか。もっと先輩の好み、知りたいです。」

「ふーん。良いけど。あんま甘くないので頼むぜ。あ、あと高いのもナシな。」

「…気づいてない…分かりました!」

本当に表情がすぐに変わるやつだ。たまに何言ってるか分かんないし一緒にいてすげえ疲れる。まぁ俺がバカだからかもしれないけど。テンションの乱高下がずっと雨が降ったり晴れたりを繰り返してるみたいで、見てるこっちが風邪でもひきそう。

「そろそろ行きますか?図書館勉強会。」

「いや今動けねえわ…腹が…んでもここの椅子小さいし落ち着かないし、図書館行って休むか。」

「そうしましょう!あ、最後にモンブランもう一個だけ食べていいですか!」

「まだ食うのお前!好きにしろよ…」

「はーい取ってきますねー!」

結局そのもう一個だけってのは3回続いた。

「はぁー食った食った。久しぶりにこんな腹一杯になった。マジ感謝。ありがとな久保。」

エスカレーターを下って、図書館に向かう。

「いえいえ!僕も先輩のレアショット見れたんで!」

「はっはは意味わかんねえよ。てかなんで渡り廊下くらい付けてくれなかったんだろうなここ。図書館とショッピングモール繋がってたら本読む奴増えそうじゃん。」

「んですよねぇ!?雨の日とか大変なんですよここ。」

「へーよく来るんかここ。」

「月に3,4回くらいですね。結構本借りるんですよ僕。ってそう言えば先輩、ポールとヴィルジニー本当に手にとってくれたんですね。びっくりしました。」

「あー、クソ早い時間に起こされて暇だったし俺に文章が読めるのか気になったからな。70ページまで読んだぜ。全然理解とか出来てないんだろうけど。」

図書館の自動ドアが開いて、落ち着く不思議な匂いがふわっと顔を包んだ。図書館の匂いって、何なんだろうね。

「あああ言い忘れてた!起こしちゃって本当に自分すみませんでした!でもすごいじゃないですかいきなり読んで70ページも進むなんて。」

「やっぱそう?自分でも驚いたんだよね。あっそういやさ、さっき変な女に話しかけられた。」

「えーなんすかそれ…あ、3階の奥勉強スペースになってるしいつも全然人居ないんでそこいきましょう。」

階段を駆け上がって3階へ。久保の斜め後ろから着いていくと、本当に小さい。もし今腕を伸ばして肩に触ったら壊れてしまいそうな線の細さが、ちょっと怖く感じた。

「そこ人居ないですね。ちょっとそこ座って聞かせてくださいよなんですか女って。」

「いやなんか怖いって。いや俺も全部は思い出せないんだけどさ。なんか本が好きで友達居なそうな、おかっぱで日本人形みたいな自称教師だった。」

「えっそれ、かのちゃんじゃないですかもしかして。」

「いや誰だよかのちゃんって。名前なんか聞いてねえよ。」

「黒くて小さい丸メガネ、真っ赤な口紅、左目の下に泣きぼくろ、ずっとふざけたみたいな性格でした?」

「あーほくろ。たしかにあった。見た目はまんまだけど、全然ふざけてなかったぞ。すげえ落ち着いた優しい大人って感じでさ、後輩に勧められて今から読むんだって言ったらすげえ色々教えてくれたよ。
読み切るのが大事だとか、読了は死ぬ寸前にあなたが考えるあとがきだから一生読書は続くんだとかそういう変なことたくさん。
あーあといい後輩さんですね大事にしなさいとか言ってたけどあったこともねえのにな。てかなんで知ってるん。」

「僕の中学の音楽教師ですそれ。絶対そう。」

「そっかお前家この辺か!確かに音楽教師って言ってたわあいつ。」

「変わり者だけどみんな大好きな先生でした。先生って感じしなくて、もっと歳の近い親戚とか知り合いのお姉ちゃんみたいな感じですね。初めての授業の話聞いてくださいよ!」

まるで遊園地に行った自慢話をする幼児みたいな顔で、久保はその女教師の話を始めた。





「はーいみんないますかぁー。始めましてー。」

呑気な女の声が始業5分後の音楽室に響く。

「まぁ居なくてもいいんだけどさ。とりあえず座ってよ。自己紹介しろって教頭に言われてんだから一応私も言う事聞かないとさ。ほら早く。」

やたら艶のあるお姉さんの声が音楽室に響たのは、入学してから一番初めの音楽の授業だった。5分も遅刻して、ごめんも何も無し。出欠確認も起立礼も無し。
黒板の横の台に出欠簿を置いて、みんなと同じ椅子を出してきて座った。黒い細めの長袖ワンピース、黒いおかっぱ、泣きぼくろに黒いメガネ。濃いめの化粧。いかにも友達も彼氏も居ない変な人って感じ。みんなサンダルの上履きなのに、黒いエナメルのローファーを履いている。

「あーありがたいわーすぐ静かになってくれて。ありがとね。はい、教頭のハゲにやれって言われたから自己紹介やるよー。あ、教頭に言うなよ成績めっちゃ下げるぞ。
えーと、かのみちっていいます。名前は翔子。彼の道って書いて、真ん中カタカナにすりゃ彼ノ道。マジ変な名字だよね意味わかんない。
てかさ、私絶対みんなの名前なんか覚えられないからみんなも覚えなくて良いからね。記憶力勿体ないよ。
とりあえずかのちゃんとか呼んで。
私は興味ないからさ、みんなの自己紹介とかやんなくて良いよ。逆に質問あったら何でも聞いて。音楽の授業なんて嫌々やるくらいなら寝てたほうが楽しいんだから。とりあえず雑談しよーよ。ハイ質問ある人ー?」

あまりの展開の早さと自由奔放な教師の発言にみんな唖然としながら、しばらくすると数人が手を上げた。

「はいそこの栗頭。」

指を指された最前列の野球部員が声を出した。

「先生彼氏いる?」

「いねえわバカ。あんた授業中ふざけたから欠席ね。はい次。」

「先生のほうがふざけてんじゃん!」

「じゃあ私も欠席でいいよ別に。授業してないし。」

「あっははは!かのちゃんマジウケる!」

一気に空気が柔らかくなった。笑いの中、さっきよりもたくさん手が上がる。入学直後の緊張が漂う教室が一気にほぐれた。

「先生、中学の音楽ではどんな授業やるんですか。」

背の高いメガネの男子が少し真面目な質問をした。

「あ、その先生って呼ぶのやめて。なんか責任感じちゃう。かのちゃんでいいよみんな。
んーとねぇ、実は他の教科と違ってね、音楽って結構単元とか指導要綱が自由なのよ。だって他の教科に比べて明らかに学校っぽくないでしょ。音楽の成績悪くて怒られるイメージ無くない?
じゃあなんで限られた学校生活の時間を削ってまで音楽の授業なんてやるんだろうね?」

逆に質問を返した。

「えっと…人生が豊かになるとかですか。」

真面目メガネが悩みながら答える。

「えっマジ!?中学生こわ!頭良いかよそのとおりだよあっはは!
…んーそうだねぇ。例えば国語が出来なくても好きな人に手紙は書ける。数学が出来なくても仕事で困ることなんかほっとんど無い。電卓使えよって話。英語は出来るとめちゃくちゃ良いけど、でも中学で習う英語なんか何の役にも立たないから。じゃあなんでやるのって話。
それはね、意味があってもなくても、何かをやって、上手くいかなくて、それでも続けて、あとで気づいたら結構成長してるっていう経験をみんなにさせたいからなんだ。学校の授業頑張れなくても、何か熱中できることがあれば良い。
でもみんな自由時間だけだったら遊んじゃうでしょ。それじゃ子どものまま誰からも必要とされない悲しい人間になっちゃう。
だから大人になる前にたくさん無理して頑張ることを覚えるとね、その後の人生変わるのよ。だから私以外の授業はしっかりめちゃくちゃ真面目に受けなさい。絶対損しないから。授業中疲れるだけで将来広がるなら安いもんでしょ。そんなのも頑張れないなら何やったってダメよ。
その代わり。
私の授業では何しても良い。歌の時間とかリコーダーの時間とか一応決まってるからやるけどさ、音楽なんて元々娯楽なのよ。無理にやるもんじゃない。本読みたいならそうすれば良いし、絵描きたいなら絵の具でもなんでも持ってきな。眠いならたくさん寝とき。成長期なんだから。ぜったい怒らないし私の目が届く範囲に入ればちゃんと出席にするし、出席さえして周りに迷惑かけなければ成績は4絶対につけたげる。でも真面目に受けたい人と差がないとさすがに可愛そうだから、真面目ちゃんは5。気に入らないやつは2。栗頭は失礼だったから1。」

みんなが笑った。

「授業放棄するわけじゃないわよ。ちゃんと怒られない程度に授業はやる。楽しくないなとか疲れたなとか水飲みたいなとか、適当にぶらついて貰って構わないからね。音楽で遊ぶの好きって人だけ私と遊ぼ。
んじゃとりあえずさ、白紙配るから上に出席番号と名前書いて。」

そう言うと適当に掴んだコピー用紙を前列に配る。

「後ろの人紙余ったら床置いといて。全く数えてないから。
名前書けたら好きな曲とかアーティスト書いてよ。あと魅力もちゃんと教えて。無いなら嫌いな曲とかでも良いし、関係無い趣味でも良いよ。公開処刑とかしないから自由に書いて。」

静かな時間が過ぎる。みんな不思議に思いながら、思い思いの好きな曲なんかを紙に書いていった。

「書けたらちょうだい。あ、私動くの面倒くさいから持って来て。上手く書けなかったら今じゃなくて次回でも良いよ。私への質問とか人生相談とか書いても良いし。彼氏居ない暦とか聞いたら耳潰して授業受けれなくするよ。」

何人かが立って座った先生、かのちゃんに紙を渡しに行った。
ペラペラとめくって軽く目を通して、あくびをひとつ。

「全然わかんないんだけどウケる。次回までに全部聴いとくよ。なるべく魅力たくさん書いてね。」

全員が書き終わるころには授業は残り20分だった。

「結構同じアーティスト好きなやついるねぇ。次回この紙返すから同じアーティスト書いた人の名前だけ書いとくよ。好きなものが同じって、良いよね。同じ曲が好きでもちょっとずつ好きポイント違ったりして、人間の面倒くささを学ぶのよみんな。
はぁー。どうするー?あと20分くらいあるんだけど。とりあえず授業っぽいことしとこっか。みんなこれだけは真面目に受けて。ごめんね!最初の課題、校歌!どうかこれだけはおねがい!真面目にやって!」

顔の前で手を合わせた。
みんなが笑う。
面白い先生だなって思った。
その後は急に授業っぽく校歌のCDを何回かリピートで流して歌詞追って、終わり。

「はーい5分前だし終わろっか。チャイム鳴ったら出て良いよ。じゃーねー。」

かのちゃんが立ち上がって後ろにある準備室の扉に手を掛ける。

「えっあのせんせ…かのちゃん?」

学級委員が声を上げる。

「ん?なに?」

「終わりの礼は…」

「だって私何も教えてないよ?そうでしょ?」

「えっ…いやまぁ…でも授業時間の終わりって感じしないっていうか…」

「あぁ…一応なんかやっとかないと締まらないか。じゃあばいばいとかで良いんじゃない。ばいばーい。」

軽く手を振りながら防音扉をがこっと開ける。みんな戸惑いながら、ばいばーいって言いながら手を振った。





話し終わった久保はリュックから水筒を出した。静かな図書館、喉の音が耳に届く。

「そりゃだいぶ変な教師だな。」

「ですよね。でもそのあと3年間、授業中ふざけたりするやつ誰も居なかったんですよ。授業自体も面白いし、雑談半分、大声で歌うの半分。歌うのもみんなが好きな曲ばっかりで、それをピアノで弾けるように覚えてきてくれて。ここの転調が良いよね転調ってのは…みたいな解説とか、この3曲は全部カノンコードって言ってさ…とか、みんなが好きな曲のこと教えてくれたんですよ。だからみんな大好きでしたかのちゃん。」

「俺が話したの絶対その人だ。でも全然印象違ったぞ。落ち着いてて寂しそうな、他の教師の悪口とか毒吐きながら全然笑わずに哲学っぽい難しいこと言ってた。」

「えええ本当ですか!?終始ふざけた日本語変な人でしたよ。でもなんか、それもわかる気がします。多分すごいみんなに気使ってくれてたんですよかのちゃん。愚痴言える人も居ないで。だから先輩に話してくれたんじゃないですかそれを。」

「なーるほどねー。女って怖。そういや次の土曜日の午前中も同じところで本読んでるからおいでって言ってたぞ。一緒に行こうぜ。」

「えっ絶対行きます!かのちゃん会いたいです!一番大好きな先生なので!」

「へー良いね好きな教師居るとかマジで羨ましい。あとさ、クソ担任と落ち着いて静かに話してみなって言われた。次の土曜日にその報告してって。俺すっげえ嫌なんだけど。」

「あぁーあの先生、そういうおせっかいいつも焼いてくれるんですよ。最初に配った白紙、あのあとも毎回授業の始めに配られて。悩みとか思ったこととか、音楽に関係ないことを書いてねって。次回には絶対長文でアドバイス書いてあって、結構みんな救われてました。」

「へー俺もそんな先生が良かったなー。あ、これ言って怒られたわ。」

「なんて言われたんですか。」

「その先生でしか学べないことが絶対あるから逃げずに話しなさいって。だからその次の土曜日までにって話になったんだよ。」

「あっそういうことだったんですね。でも読了は死ぬ時って、僕なんとなく分かるんですよ。先輩も今僕と話してて色々思い出してるじゃないですか。物語の内容も、あとになって急に出てきて助けてくれたりします。読んだことある本、閉じたはずなのにずっと人生のどこかでペラペラ音立ててる感じ。だから僕は本が好きです。賑やかになります。」

「なるほどねー…とか適当に今返事してたけど意味不明だよ何だそれ。難しこと考えてたら疲れたし、気分転換に数学、やろうぜ。1年の始めから。なんかそのかのちゃんの言うことなら聞こうって気になった。間違ったこと言わなそう。」

「わーー良かった!じゃあ一緒に見ましょ!隣行きます!まずは中学のおさらいですよ!えっと2桁とか3桁の掛け算割り算できます?あーそうじゃなくって…」

昼下がりの、暑くも寒くもない明るい図書館の端っこ。
二人のぎこちない勉強の話だけが静かに本棚に染みていった。


つづく


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