第2話

文字数 10,644文字

黄昏時の図書館。しっとりしたような、籠もってるけど不快感のない図書館にしか無い空気。どこか懐かしいようで、落ち着く匂い。

 問題集とにらめっこする二人の間に、そんな空気がいつもと違うささやかな音を届けた。

「あれ先輩、雨です。」

ふと顔を上げた久保が気の抜けた声を出した。

「えぇ…マジ?ただの夕立かな。」

「家出る前は降水確率30%だったので折り畳み傘だけ持ってきましたけど、こんな普通に降るとは思わなかったですね。」

そう言いながらポケットのスマホを取り出して検索をかける。

「あーダメですね。明日の昼くらいまでずっと90です。前線が停滞しちゃってるみたいで。」

「あーなんかよく聞く気がするけど意味わかんねえよ前線とか低気圧とかなんとか。てかそろそろ終わりにしようぜ勉強。疲れたし結構進んだっしょ。」

「そうですね。休みましょう。
…前線ってのはですね、あったかい国の風と寒い国の風がぶつかる境界線くらいに思っとけば良いんじゃないですかね。あったかい部屋に冷たいコップ置くと水着きますよね。ちょうどこの上の空でそれが起きて雨になってるんですよ。梅雨とか秋雨の時期はいつも日本の空で冷たい風と暖かい風が決着のつかない押しくら饅頭してる感じですね。」

「すっごめっちゃ分かりやすいじゃん。その試合、どうか別の会場でやっていただきたいんだが。」

「あっははそうですよね。でも雨が降らないと美味しいご飯が食べれないんですよ。
ほら、勉強だってこうして役に立つこと、あるじゃないですか。」

「あーはいはい。でもお前がいれば俺が覚えとく必要もないんだな。持つべきものは友ってやつだ。」

「僕が知ってることならなんでも教えてあげます!それで?先輩はどうするんですか帰り。」

考える間、シーンという音が無いような、でも確かに耳には届いているような不思議な空気が流れる。
高い空からたくさん水が落ちてきてるのに晴れの日よりも静かなのがちょっと不思議。
時折雨がガラスの向こう側を濡らしては流れ、別の雨粒とくっついて滑り落ちていく。

「この雨の中帰りたくねぇな…俺濡れるの大嫌いなんだよね。手洗った時とかに袖口に水たれてくると腕切り落としたくなる。」

「あー分かります!あと踏みしめるたびに音を立てる靴下とか自転車で冷たくなるお尻とか僕もすごく嫌いです。あとメガネが濡れるとですね、たったこれだけの小さいレンズに小さな水滴が付くだけなのに、それだけで上手く動けなくなる自分が雨粒よりも小さく見えますね。」

「えーとなんだって?なんで自分が小さくなるんだ。」

「水滴程度で乱れてしまう心が、弱いなって。だからちっぽけなんです。体の大きさに関係なく。」

「ほーん。弱いのと小さいのを掛けてんのか。」

「あぁー、多分つまりはそうですね。でも自然に思いすぎて比喩とすら気づいてませんでした。物語とかだとふつうに使われる表現なので。
…先輩と居ると凄く楽しいです。知ってるのに実は分かってなかったこと、こうやってたくさん気づけます。」

不意に雨が強くなる。暗い灰色の空、どこからともなく急に目に入る無数の水滴、一変した日常の景色。

「…ねえセンパイ。僕たちはこの雨ってやつに慣れちゃってますけど、もし雨を知らない人が居たら凄く驚くんじゃないかって思うんです。だって当たり前に乾いてる街が、急に水浸しになるんですよ。」

「はぁ?そりゃそういうもんだし…あ、そういうことね。たしかにな。知らなかったらびっくりしそうだよなこれは。
軽い災害だよな雨って。当たり前にできてたことが出来なくなるんだし。」

「そうそう…先輩、笑わないんですね。」

「なにが?」

「僕のこういう思ったことそのまま口に出すような喋り方、結構珍しいんで面白く映るらしいんですよ。急に何ポエム作ってんのとか、何のセリフ?とか冗談だと思われることが多くて。
だから真面目に聞いて正直に分かるとか分からないって言ってちゃんと考えてくれる先輩、すっごくありがたいです。」

「ふーん…だって真面目に考えてんだろ?」

「そりゃ笑わせようなんてしてないですけど、実はそんなに考えてないです。いつもいろんな言葉が頭の中飛び回ってて、目に入った言葉並べてるっていうか、ぼーっとしてるだけですよ僕は。」

「それ常になんか考えてるってことじゃん。凄くね。俺なんかただにも考えずに過ごしたりしてるぞ。考えるの疲れるし。」

「羨ましいんですよそれ。僕はずっと頭の中ノイズみたいにどうでもいいこと考え続けちゃって、何か思った次の瞬間には別のこと思ってて。会話とか話し合いとか、終わったあとになってあそこでああ言えばよかったとかずっと悩んじゃって。
…一人反省会、いつもやっちゃうんですよ。」

「苦労してんだなお前も。能天気チビじゃ無かったわけだ。俺は全然分かんなかった。」

「僕が持ってないもの色々持ってるから、僕は先輩と居るの好きです。憧れます。無いものねだりだしわがままで正解があるわけじゃないですけど。」

久保はティッシュを出して鼻をかんだ。変わらない一定の音程を保つ雨空が、少しずつ少しずつ、暗くなっていく。まるで図書館が少しずつ暖かく明るくなっていくようにも感じられた。

「ふぅ…でも僕は、先輩が僕の話を笑わずに静かに最後まで聞いてくれて、ゆっくり考えて、素直な感想を言ってくれるその優しさに気づいてましたよ。初めてファミレスで会って話したときからずっと。だからすみません。いつも甘えちゃって。朝早くに起こしたりしちゃって。」

優しいオレンジの照明が徐々に明るく感じられる。もう遠くが見えないくらい、空は暗くなっていた。うつむいて影になった久保の顔が、夕闇に沈んでいる。

「はぁー。急に落ち込むなよ。もう反省会始まっちゃってんじゃん。なんかお前みたいなよく考えるやつのことは分かんないけどさ、もっと自分勝手にすりゃいいよ。
みんな私善人ですみたいな顔しながらポイ捨てとか割り込みとかしながら生きてんだからさ。
それに他人にされた迷惑とかいちいち覚えてねえって誰も。
どうしたって人に迷惑かけずになんか生きれねえんだよ俺達は。
俺は嫌なら嫌って言うから。
言いたいことも言えねえやつとなんかいたって楽しくねえだろ。」

「…そう…ですね。分かってはいるんですけどね。どうしても。すみません。実は結構内気でいつも無理しちゃってるんです。僕。」

「あーそれは最初からなんとなく気づいてたかも。んで?ここんところなに遠慮してんの?」

「…はい?」

久保不思議そうな顔でゆっくりこちらを見る。

「ずっとモヤってんだよこっちは。なんか言わずにいることあるだろお前。急に近づいてきて馴れ馴れしいかと思ったらいきなりよそよそしくなったり。なんなの?はっきりしてくんね?なんか罰ゲームでも受けてんのお前。」

「…なわけないじゃないですか!」

キッ…とこちらを睨む眼鏡に水滴がついていた。屋内なのに。

「言えるわけないじゃないですか。今が大事ですもん。壊したくない。嫌…」

「はぁあ?なぁお前何泣いてんのやめてくれよマジで。俺そんなひでぇこと言ったか?」

「違うんです。違うんですよ。…先輩は悪くなくって、だから大丈夫ですから。すみません根暗で。僕、人との距離感上手くつかめないだけなんです。
嫌われちゃう…ダメだ…」

眼鏡の水滴が増える。雨に打たれたように縮こまった肩がすごく小さい。

「はぁーめんどくさ。んで?俺どうすりゃいいの?泣いてるやつの扱いなんか分かんねよ友達いねえもん。」

「…じゃあわがまま、いいですか。さっき言いたいこと言えって。」

「はいはい好きにしろよわざわざ許可とんなマジで面倒くさい。」

「じゃあ…肩、肩を貸してください。…ね、こういうこと言っちゃうんですよ僕。だから我慢してたのに。でももう何したって一緒ですよね。
最後に1つだけ、好きにします。もう終わりにしてくれて良いです。
迷惑かけちゃってすみません。」

そう言いながら久保は俺の左腕を両手で掴んで、肩に寄りかかった。伺うように俺を見上げ、メガネを額縁にした雨に輝くガラスみたいな目をそっと閉じて、頬を腕に寄せた。
軽く細い久保のわずかな体重と息使いがぬくもりと一緒に伝わってくる。

開きっぱなしの問題集、暗い空に雨の音。
柔らかく二人を照らすオレンジの照明。さっきから何も変わらない。ただゆっくり、世界と切り離されたような時間が過ぎた。

「…なあどうしたんだよ。そんなくっついて。」

「…雨じゃないですか今。だから先輩が太陽です。あったかくていい匂い。ひなたぼっこ、ですねぇー…癒やされます。」

「はぁ?意味わかんねえこと言ってはぐらかすなよ。」

だいぶ身長差のある久保の頭をぼんやり見ていると、シャンプーのしっとりした香りが鼻をくすぐった。

「…僕、なんか分かんないんですけど、先輩の隣すごく安心します。男同士なのにベタベタして変なやつですけど、どうせ許してくれるんでしょ先輩。優しいもん。
…僕が言いたくて上手く言えてなかったこと、それだけです。すみません。ずるくって。」

少しかすれるような柔らかい声が雨音と混ざって耳に染みる。

「…好きにしろよ。でもなんで?俺といて何が嬉しいんだ一体。」

「いつも笑わずに聞いてくれて。
 いつも笑って話してくれる。
それだけで本当に嬉しいんです。
もっと素直になっても、引かないですか。
先輩の卒業までで良いんで、たくさん迷惑掛けちゃってもいいですか。」

「…好きにしろよ。こんなやつ初めて見た。」

「…本当に優しいですね。ありがとうございます。全然こんなこと言う気じゃなかったんですよ僕。
でも負けちゃいました。センパイのあったかさに。
…雨、止まないみたいですしうち来てくださいよ。傘2人で入って歩けば20分くらいで家つきます。ちょっと寝てまた勉強して、ポールとヴィルジニーの感想とか、聞かせてください。明日帰れば良いでしょ。」

「…良いのか?助かるけど、お前は家族とか居るだろ。」

「連絡しますから。変な髪の毛だけど本当に優しい人だから大丈夫だよって。お構いなくって。」

「はっはは変とか言うなよけっこー似合ってるだろコレ。ま、お言葉に甘えよっかな。んでも俺気使われるの嫌だからさ、マジで晩ごはんとか用意しないでくれよ。」

「僕はその髪良いと思いますけど、一般的には高校生で茶髪ってのは、平気で人殴るような悪ガキに見えますから。」

「はぁ…就活とかあるもんなぁ。さすがに黒くしないとなぁ…」

「…そう言えばなんで先輩は髪、染めてるんですか。」

「…いじめられないで済むからだよ。中学時代の奴らと反対方向の電車で通学してるのもそう。中学の同級生と関わらずに済む。」

「先輩も、いじめられてたんですか。」

「あんま周囲と馴染める性格じゃねえしな。雑で怒りやすくて孤立して。無口だったから良いサンドバッグだったんだろ。直接殴られたりは無かったけど。靴が消えるとか画鋲入ってるとか筆箱トイレに突っ込まれてるとか、そう言うの。犯人なんかクラスの奴らのニヤケ顔見てりゃだいたい分かるけどさ、やり返さなかったから卒業まで続いたよ。
だいたい教師と仲良くて勉強も部活も優秀で表向きはお手本生徒みたいなやつだった。」

雨粒が大きくなって、帰りを急ぐサラリーマンの傘が通り過ぎていく。

「…先輩は後輩の男子にこんなふうにくっつかれて、嫌じゃないんですか。振り払って良いんですよ。」

「そりゃびっくりしたけどさ、なんか俺もあったかいしいいにおいするし。落ち着くってお前が言うのも分かるよ。さみしい時には欲しくなる感覚だよな。俺も他人の体温なんて感じた記憶無いもん。
物心ついた頃にはクソ親父と二人暮らしだったから母親の愛情とかぬくもりとか知らねえし。顔も名前も知らねえ。別にどうでもいいけどな。きっと居たら居たでクソババアとか言ってんだ俺のことだから。」

「あっはは。きっとそうですね。あーもう本当に優し過ぎますよ先輩は。
でも反抗期ですもんね、センパイ。
それで、いじめられてなんでやり返さなかったんですか。もっと感情に素直なタイプだと思ってたんですけど。」

「暴れたことなんか無かったよ。怖いじゃん。自分が分からなくなるのが。だから周りがどんだけクソでもさ、自分が自分でいれるように必死だった。何か変えようとか、直そうとか、そんなこと考える余裕無かったね。」

「…僕、先輩のこと誤解してました。高校入ったら上級生の胸ぐら掴んだりおっさん線路に突き落としたりする荒くれ者がいるって聞いてどんなヤンキーかと思ってたんですよ。でも偶然見かけた先輩は全然怖くなくって、優しくて寂しそうに見えたんですよね。あんな顔でも人殴るなんて人は見かけによらないんだなとか思ってましたけど、やっぱり人って見かけによるんですね。安心しました。良かったです。こんなに優しい人に出会えて。」

「やめろよむず痒い。でも胸ぐら掴んだのもおっさん落としたのも本当だからな。そうやつだよ俺は。」

「いいえ。絶対違います。だってこんなにあったかくて優しい腕していますもん。なんで教えてくれないんですか、先輩。」

「…なんか、言いにくいんだよ。俺の行いが間違ってたのは事実だろ。何言ったって言い訳になっちまうし。」

「じゃあ言い訳でも良いです。聞かせてください。」

「…っはぁーー。ったくすげえ圧。しょうがねえなぁー…絶対言うなよー?このまま平穏に卒業したいんだから。」

「絶対言いません。僕だけの宝物にします。」

「はっはやめてくれよそんなすげえ話じゃない。…盗撮してたおっさんをな、他のサラリーマンたちにつられて追いかけて腕掴んだらさ、暴れて落ちたんだよ。ケンカして殴ったとか、そんな武勇伝じゃない。ショボい話だよ。誰かが勝手に盛って広めただけ。」

「っふふ。そんなんだろうと思ってましたよ。先輩ですもん。上級生の胸ぐらは?」

「…やっぱ言いたくねえ。思い出すのもしんどい。それにお前優しいじゃん。結構汚い話だから多分嫌な思いするぞ。」

「嫌です。言わないと腕離しません。」

ぐっと力を入れて、左腕をきつく抱きしめる。

「どっから話せば良いのやら…俺、そんな長い話できねえよ。」

「…じゃあ僕が聞きます。僕だって聞くの怖いです。今までにないってくらい勇気出してます。もし先輩が本当に酷い人だったらどうしようって。でも、知らないままよりはもっと怖いから。
上級生の胸ぐら掴んだの、後悔してますか。もう一度その時に戻ったら、違う選択をしますか。」

淡々と、下を向いて腕にしがみついたまま言った。

「それがさ、実は後悔なんかしてないし、何回タイムスリップしても同じようにするよ。」

「じゃあ、ゆっくり始めから教えてくださいよ。絶対笑ったりバカにしたりしませんから。」

「多分すげえ長ったらしくなるぞ。しかもその割につまんねえからな。」

「なんでもいいです。知りたいんですよ。時間はいっぱいありますから。」

大きなため息を1つ。だって人生で一番俺が感情的に動いた事件だ。他人に話す日が来るなんて、思いもよらなかった。

「…俺、高校入学してすぐバスケ部入ったんだよ。もともと好きだったし他にやりたいこともなかったから。強豪とかじゃないし結構ゆるい雰囲気で気に入ってたんだけど。
でも3年の藪原(やぶはら)ってやつとその友達数人が部室でたまにタバコ吸っててさ。吸い殻入れたプロテインのボトル部室に置いてたの。それがある時先生にバレて。そん時2年の佐久間って先輩に罪なすりつけて知らんぷりした。多分軽い障害あって上手く話せないやつだったんだよ佐久間先輩。結果不登校になって退学しちゃってさ。話したこともない先輩のことなんかどうでもよかったし、俺は楽しく部活できりゃそれで良かったからしばらく忘れてたんだけど。
相変わらず藪原たちは部室棟でタバコ吸ってんの。臭えし早くバレねえかなって思ってた。チクったりなんかしたら絶対後でボコボコにされるから誰も先生に言わなかった。
それにな、藪原ってスポーツも出来て生徒会入ってたから教師どもからの評価良くってさ、俺みたいな落ちこぼれがタレコミしたところで信じてもらえないって、多分みんな思ってた。どうせ待ってりゃ3年なんかすぐ受験シーズンで部活来なくなる。それだけを待ってた。
…しばらくしてさ、学校帰りヨレヨレの服着た佐久間先輩にばったり会ったんだよ。力になれなくてすみませんでした先輩は悪くないですとかお世辞言ってヘコヘコしてたよ俺。
そしたらなぜかめちゃくちゃ謝られて。泣きながらずっと顔の右側だけ動いてて滑舌悪くてやっぱ何か障害はあるっぽかったけど、でも目はすげえしっかりと怒りに燃えててきつくこっち見てんだよ。
「和を乱して後輩にまで迷惑かけて、俺は本当にダメな奴だ。本当に申し訳無い」
みたいなこと言って顔歪ませてさ。意味わかんねえじゃん。
なんであんたがそんなに気に病んでんだよって聞いたら
「藪原に注意も何もせず関わりたくないからって理由で見て見ぬふりしてた俺も同罪だ。だからすまない。きっと藪原は反省なんかしないし、これからも色んな人に迷惑かけながら生きてくんだ。俺は退学して終わったけど、内藤君たちはずっと苦労しちゃうんだ。先生に言い返せなかった俺のせいだ。事なかれ主義で本当に俺はダメな奴だ。」
って。
話変えて今何してんのか聞いたらさ、ラブホの清掃やってなんとか生きてるけど親の借金が消えないから今から別のバイト行くんだってそそくさと去って行ったんだよ。
小さくなる佐久間先輩の背中眺めてたら、なんで教師に気に入られたクソ野郎が得して本当に良い奴がこんなに苦労しなきゃいけねえんだろうってすっごい腹立っちゃってさ。
次の日部室の床座ってタバコに火点けた藪原見て我慢できなくなっちゃって。
胸ぐら掴んで佐久間先輩が今どれだけ苦労してるか大声で怒鳴りつけたんだよ。
でもその時、いつも仲良かったはずの部員たちは後ろ向いてた。
見て見ぬふり、事なかれ主義。ああこれかって思った。藪原はニヤけながら殴ったらお前も佐久間とおそろいで退学だぜとか抜かしやがった。
俺悔しくって怒りでおかしくなっちゃってボロボロ涙出ちゃって。
藪原の顔なんか涙で歪んじゃって見えてなかったけど、佐久間先輩の辛そうに謝る顔思い浮かべながらめちゃくちゃ強く拳握って一発殴ったんだよ。
そう。気づいたら殴ってた。自分が怖かったよ。
その後は何言ったか覚えてないけど、すげえ大声で怒鳴りまくってさ。
その騒ぎ聞きつけて近くの体育準備室から体育教師が二人とも来て、そん時俺を止めたのが生活指導の三芳。止められてなかったら2発目3発目行ってたと思う。止めてもらえて良かった。
俺が三芳、藪原が海老川先生に別々の教室連れてかれて。そん時鼻血まみれの顔でニヤニヤ笑ってたんだよ。藪原のやつ。
すぐにクソ親父呼び出されてさ、三芳が俺に説明しろって。嘘ついたら藪原と食い違うから分かるんだぞって。親父までお前みたいなクソ野郎は家出てけとか言って誰も俺のことなんかかばっちゃくれない。当然見てた部員たちも関わりたくないから誰一人証言してくれなかった。
なんであんな奴が信用されて俺が疑われるのか意味がわかんなくってさ。
一応は恥ずかしいこと何も無い正しいことしたつもりだったのにすっげえ悪いやつに見られて。
藪原と佐久間の顔が交互に浮かんで殴った時以上に怒りが湧いてきて本当に血管が切れるんじゃないかと思った。
人に信じてもらえない不条理がこんなに苦しんだって思った。
結局その日は上手く言えなくてそのまま帰されてさ、自分の部屋めちゃくちゃにして一晩中泣いて手の甲血だらけにしながらずっと壁殴ってたよ。
次の日の授業中はずっと体育準備室で三芳とお話。藪原どうしてるって聞いたら鼻折れて入院だって。だから俺は大笑いしながら言ったよ。ザマァ見やがれ天罰だって。ああいうやつは痛い目見ないと調子乗っちゃうんだって。
その勢いで全部話したよ。ガキみたいに泣きじゃくりながら大声で怒鳴り散らかして。全部藪原が悪いのに佐久間先輩の人生めちゃくちゃにして、次は俺を疑ってあんなクソ野郎が悲劇のヒーロー扱い、俺はただの不良クソヤンキー。あれもこれも藪原のせいだけじゃねえぞお前らクソ教師が調子に乗せたせいだぞ。佐久間っていう一人の人間の一生を潰した自覚あんのかよ教師失格だやめちまえって。
そんな感じのことを三芳にぶちまけた。
三芳のこと未だに嫌いだけどさ、頭悪いけどいい教師だなって思ったよ。事実確認とか俺になんか言うとかじゃなくて、顔真っ青にしてすぐに佐久間先輩の連絡先調べて電話して、姿なんか見えねえのに土下座しながら号泣して受話器に謝りだした。すまねえすまねえ辞めても詫びても詫びきれねえって。
そしたら佐久間先輩、その後息切らして体育準備室来てさ。
今度は号泣してる三芳を佐久間と俺が慰める訳わかんねえ空間になって。
そのあと佐久間先輩にさ、俺が話聞いた勢いで藪原の鼻へし折ったって言ったら腹抱えて泣きながら大笑いしてありがとう救われたって言いながら笑顔で帰ってった。
だから俺は後悔してないよ。何も解決なんかしなかったけど。
結果、教師からも生徒からも人気のエースが受験寸前で退学になって、クソみたいな俺が学校に残ったの。
…どうだ?全然スカッとする転生モノみたいな話じゃねえだろ。事なかれ主義壊して正義のヒーロー気取ってみたところで、周りから見たら人殴るようなヤツでしかない。
一応藪原の退学以外は部内だけで収まったから大きい噂にはならなかったし理由が理由だからって学校が上手く収めてくれたけど、でもそれもそれで事なかれ主義なんだよな。
部員には口止めしたはずなのに知らねえ生徒にしょっちゅう絡まれたし後ろ指さされてよく笑われた。その1ヶ月後に今度は駅でおっさん殴り飛ばしてパトカー押し込まれて。誰が見たってヤベえやつだろ。
三芳は慰めてくれたけどそんなの何の足しにもならない。
だから俺はクソみたいないじめから逃げるために髪染めたんだよ。
あの鬼の生活指導三芳が俺に黒染め強要しないのは、三芳だけは全部知ってるから。いい歳こいたおっさんのくせに泣きまくってる三芳を慰めてたの、佐久間先輩と俺だったから。」

話すのをやめた。喉が痛いくらいに乾いている。ガラスはまるで真っ黒の壁で、あるいはかすかな雨の音を流すスピーカーだった。

「…んぐっ、ぐすっ。ごめんなさい泣いちゃって。」

「はぁあなんで?泣くような話じゃねえだろおい。」

「わかんないですよぉ…分かんないけど…なんか悔しくって…ずずっ。でも、先輩が良い人で良かった。良かった…」

「あと俺は良いことしようと思ったんじゃないからな。
怒りに任せて訳分かんなくなっちゃっただけだからな。
良いやつじゃねえぞ全然。お前みたいに人の話でいっぱい笑ったり泣いたり出来るやつは良いやつだと思うけど。」

「…なんか聞きたいこと、言いたいこといっぱいあったのに。すみませんもういっぱいで。なにも出てこないです。」

静かに肩を震わせながら、俺の腕にしがみついて泣き続ける。

「いいよ。でも俺も他人に話したの初めてだから、なんか整理ついた気がする。あんがと。」

「…ありがとうございます。教えてくれて。」

ゆっくり泣き腫らした顔で俺を見上げて、にへーって笑った。

「ほらお前顔拭けよ。鼻水出てるぞ。」

「あっ、すびません。ぐすっ。」

鼻をかんでメガネを外して涙拭ってもう一回、俺を見てニッコリと笑った。
こいつ、メガネ取るとすげえかわいい顔してる。男のくせに。
さっと顔をそらした。

「そろそろ行こうぜ。あ、水筒貸してよ喉乾いた。」

「はい、どうぞ。甘いですけど。」

「え?何だよ中身。」

「冷たいカモミールティーです。普通甘くしないんですけど僕好きで。」

「ふーん。まぁ今はなんでもいいや。」

横のボタンを押すとぽこっと音を立てて蓋が跳ね上がって、花みたいな香りがする。
それをそっと喉に流し込むと、優しい甘みと鼻に抜ける爽やかな香りで嫌な思い出がすっと落ち着くように感じた。

「ふぅ…あ、甘いのに嫌じゃない。むしろ安心する。へんなの。」

「んふー良かった!えっとえっと、今日だけでたっくさん先輩のこと知れました。本当に出会えてよかったです。さ、もう行きましょうそろそろ閉館時間です。本の感想とか聞かせてくださいよ。明日も休みですし、お菓子いーっぱい買って楽しいお話しませんか。暗い話はしばらくやめやめ!」

やたらと早口で喋る久保の笑顔で、一気に図書館が明るくなったように感じた。

「おっ、いいね!ありがたくお邪魔するぜ!」


雨の中を小さな折りたたみ傘で二人。時折ヘッドライトに照らされながら、内藤の右肩と二人の足を濡らして夜の雨がずっと降り続けた。

「先輩、僕人にああやって触れたの、初めてでした。人との距離感掴むの苦手で、仲良くなったと思ったら急に近づいちゃうんですよね。自分でも分かってるんですよ実は。だからいつもあとになって一人反省会。
それを気持ち悪いとか変とか言わずに好きにしろって受け入れてくれたのは、先輩が初めてです。だから、本当にありがとうございます。先輩となら、一人反省会やらずに済む日が来るかもしれないです。
だから、あまり近づかないでください。部屋で落ち着いたら多分また甘えてしまいます。僕は人との距離感掴むの、すっごい下手ですから。
それにきっと先輩は嫌がらないで受け入れちゃいますよね。それがすっごく怖いんです。
だから、どうか普通に仲の良い先輩と後輩でいてください。
この、大人になったら絶対過ごせない高校生の青春って感じの限りある時間を、僕は大切にしたいんです。今日のこの日は二度とやって来ません。それに先輩とゆっくり過ごせる最後の梅雨かもしれません。」

なにか返事しようと思ったけど、別にそういう感じじゃなかった。
二人静かに前を向いて、傘からはみ出そうな小さな肩を抱き寄せる。濡れて冷えた肩に少し痛みを感じた。

「ずっと冷たい雨が降ってるみたいな息苦しい高校生活だからさ、こうやって小さな傘で二人寄り添って雨宿りしてる感じで、ゆっくり歩いていこうぜ。」

「はい。先輩となら、濡れた靴も冷えた指先も、許せそうです。もうしばらく歩けば、最寄りのコンビニがありますから。」

歩幅の合わない二人がぎこちなく、お互いのペースを探りながら雨の住宅地を歩いていった。



つづく


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