第4話

文字数 5,898文字

Ⅳ 帰還

 扉が閉まり、ニルヴァは階段を走り降りた。ニルヴァに投射する光りが不規則に瞬いた。
――女神が、小さくなっていた。
 ニルヴァを見下ろす程の身丈が、今ニルヴァと同じ位の高さになっていた。そして、見ている間にも、次第に縮んでいった。
「ニルヴァ、早く船に戻りなさい」女神が鋭く叫んだ。
「どうしたの? 何が…」
空間内に衝撃が走った。ニルヴァは薙ぎ倒された。
「今、説明はできない。早く船に戻って!」
 ニルヴァは起き上がり、ごつごつした凹凸の、硬く凍結した水面を走った。再び衝撃が空間を貫いた。ニルヴァは固い水の表面に身を伏せた。空間全体が軋んでいるような音を立てた。ニルヴァが船にたどり着くと南風号が大きく揺れ始めた。振り落とされそうになりながらデッキに上がり、ブリッジに飛び込んでハッチを閉めた。
「もう大丈夫。通常時空へ戻ったら、すぐ次元推進に入りなさい」
女神の発する「ことば」が、ニルヴァの頭の中で響いた。
「何が起こったんです?」
ニルヴァは、次元推進入出力スティックのストッパーを外しながら声を出して叫んだ。船がひどく揺さぶられ、ニルヴァは、ヤンが凍り付いたままで座っている椅子につかまっていた。女神は、ブリッジの窓からは、ほとんど姿が認められない位の小ささだった。
「内世界はまもなく崩壊します。帰ったらあなたの仲間に伝えて、すぐ退去しなさい。そしてニルヴァ、あなたはいつか空の城へ行けるでしょう」
「ちょっと待って! そのためにはどうすればいいの?」
 ニルヴァの問いも空しく、女神は閃光を発して消えてしまった。そしてその瞬間、ニルヴァは通常時空へ帰った。元々の時間の流れに放り出されたのだ。南風号は今、渦の直下の巨大な空洞の中へ落ちたばかりで、渦から流れ込む大量の水の瀑布にもまれていた。ニルヴァはスティックを起こした。
 コックピットのインディケーターに淡いピンク色が点灯した。南風号は複雑な水の動きに、滅茶苦茶に動かされていた。インディケーターが濃いオレンジ色に変わった。即座にニルヴァはスティックを前に倒した。南風号を乗せた流れは空洞の壁面に真っ直ぐ向かっていた。水流は岩盤にぶつかって跳ね返された。が、次元推進に入った南風号は、するりと岩の中に潜入した。
 船は、ユニーク力場が岩盤内で形成する、グレーのチューブ状のトンネルの中を疾走した。覚醒した電脳は、基地への帰還を目指していた。
 次に人間たちが目を覚ました。(と言っても、彼らが意識を失っていたのは、船内時間で僅か一分間に過ぎなかったが…)
 ヤン、ヒューイ、トモナガが次々に目を覚ました。
「何とか生きているらしい」
ヒューイが周囲を見回して言った。
「渦に落ちてから…」ヤンが時計を見た。
「一分だ。船は渦の下の空洞へ落ち込んだ」
「空洞?」トモナガが聞いた。
「渦の中心に落ちる直前、排水口の下に空洞のような空間があることに俺は気付いた。皆に知らせる前に気絶しちまったが…」
「でも、いつの間に次元推進に入ったんだい? 電脳も含めてみんなブラックアウトしてたはずだぜ」
ヒューイが首をひねった。
「ひょっとして、君じゃないのか?」
 トモナガがニルヴァに問うた。ニルヴァは南風号の同僚たちの前で、〝一分間の出来事〟について真実を言わないわけにはいかなかった。内世界が破滅に瀕していると告げられたことも――。南風号の仲間は、ニルヴァの話に衝撃を受けた。だが、内世界の崩壊自体は冷静に受け止めた。トモナガが言った。
「予想できないことじゃない。前にも言ったように兆候があったんだ。でも我々の航海の時とはね。それより君は、本当は何者なんだい?」
 ニルヴァは困惑した。仲間に話していないことがある。多分誰にも話せない。自分がラプサイト文明を読み解くキーマンの家系であると―。
「惑星ホルスの一部の人間は、ラプサイト人のメッセージを受信することが出来ると聞いた」
トモナガがさりげなく付け加えた。が、ニルヴァが聞かないふりをしたので、それ以上追及しなかった。そして、船の電脳が基地への接近を告げ始めたので、その話題は突然終わった。電脳が次元推進の解除シークエンスを朗読しはじめた。「港」が間近だった。南風号の船内に、何とも言えない安堵感が広がった。無事に帰って来れたという仲間の思いに、ニルヴァも同感した。と同時に、あと一歩で「空の城」へ入り込めたのに…という落胆した気持ちもあった。
 「空の城」への〝入国手続き〟さえ済ませていたら、「内世界」の事象と完全に切り離されたのではないか。ラプサイト文明の進化過程で一段上のステージを垣間見る機会だったかも知れないのだ。

基地の大空洞内に、七度目の警報音が鳴り響いていた。
「また一隻帰ってきたらしいぜ」
疲れ切った回収班の作業員があわただしく集まった。
「あと何隻残っている?」
「最後の船らしい」
「やれやれだな」
 二十時間前から三時間毎に帰還する次元船を、今までに計六隻収容していた。内世界に重大な異変が起こりつつあることは、空洞内に流入する水が急激に増加したことで推測された。水位は破局的に上昇し、すでに「港」の放棄が決定されていた。埠頭の大半が水没し、今は、回収作業班が待機する最上段のフロアーまで水が押し寄せていた。
 南風号の希薄な輪郭は、岩肌から飛び出ると、今は大瀑布となった滝をすり抜け、徐々に実体化した。水面を掠めるように浮遊しながら、水没していない唯一の場所へ漂っていった。
「何てことだ、水浸しじゃないか」
ヒューイががなりたてた。
「これは早く着けないと危険だな」
 ヤンは手動で船を操った。トモナガは、慌てて船倉へ戻った。全ての収集品を運び出すのは無理だと悟り、大急ぎで収集品を選んだ。南風号は、フロアーの船架に降りた。回収作業班が船を固定し、ニルヴァらがフロアーに降り立つ頃には、水はフロアーの縁すれすれまで来ていた。緊急警報が鋭く断続的に鳴った。作業班は途中で回収を放棄した。彼らがエレベーターに乗り込む時には、フロアーを乗り越えた水の先端が彼らの方へ向かっていた。

再会

「総裁のガロアだ。トモナガ一行はすぐ私の元へ来るように」
 地上へ向かうエレベーター内に、委員会総裁からのメッセージが届いた。トモナガらは顔を見合わせた。「なかなか忙しいじゃないか」
 南風号の乗組員は、エレベーターを乗り継いで基地のオフィスへ向かった。基地全体が騒然としていた。ニルヴァたちは、廊下で何度も委員会の職員にぶつかりそうになった。彼らが総裁室に入る際にも、僅か一回チェックされただけだった。トモナガたちが部屋に入ると、ガロアは電話をすぐに切り、眼鏡を掛け直して一行に向き直った。
「君たちが得た結論と同じ結論を私も得たと思う。南風号の電脳からメッセージが届いたが、じかに君たちから話を聞きたかったのだ。内世界は崩壊するというのだね?」
 トモナガは頷いた。
「間違いありません。合理的な説明はつきかねますが」
「ふむ。というと?」
「ニルヴァ―今回の航海のゲストですが」
「それは知っている」ガロアが素早く先を促した。
「われわれの船は危機的状況に陥りました。しかしニルヴァただ一人が、内世界の時空から抜け出して助けてくれました。その際、ラプサイト神に出会って、内世界の終焉を告知されたと…」
 ガロアがニルヴァを向いて言った。
「ニルヴァ、ラプサイトの神はどんな姿形をしていたかね」
 ニルヴァは一瞬ためらった。
「―進化した爬虫類のように見えました」
「なるほど…」ガロアは何か考えていたが、電話が鳴って中断された。
「もっと君の話を聞きたいものだが、今は時間が無い」
 ガロアは受話器を取りながら言った。
「退室してくれ、ご苦労さん。――それと、君たちが二年も戻れなかった訳が分かったよ」
「何ですって。われわれが二年間…」
トモナガたちは絶句した。
「会議室へ行きたまえ。他にも懐かしい連中に会えるさ」

 会議室は帰還者の臨時収容場所だった。医学検査、回収品の整理、調査航海の聞き取りなど、七隻の次元船の、帰還に伴う一連の手続きでごった返していた。トモナガたちは、二十年前に消息を絶っていた船の乗組員を見た。昨日出航したばかりといった雰囲気の二十年前の連中は、明らかに混乱していた。ヤンが呟いた。
「まさに、自覚されざる、さまよえるオランダ人だな」
 トモナガは五年前から未帰還だった船のクルーと再会した。抱き合い、乱暴に叩き合った。
突然、場内が静まり返った。総裁名で、基地からの即時撤収命令が出たのだった。短いアナウンスがまだ終わらない内から場内は騒然とした。南風号の元乗員たちは、誰からも指示を受けられず通路へ出たが、退出者で混雑していた。そして、ごったがえす人の流れの中で、ニルヴァはミツコと再会した。ニルヴァは忘れられない瞳の色に、その場にくぎづけになった。ミツコはすっかり大人の女性になっていた。二年間の歳月を、ニルヴァは思い知らされた。ミツコの眼とニルヴァの眼が合った。しかし次の瞬間、ミツコの視線は、後に逸れた。ミツコの視線の先にトモナガがいた。ミツコはトモナガの胸に飛び込み、激しく泣きじゃくった。通路の片隅で、人の流れが停滞した。退避の指示が、矢継ぎ早にアナウンスされていた。ヒューイに促され、彼らはふたたび通路の雑踏に混ざった。ニルヴァはズボンのポケット中の石を、服の上から握りしめながら、のろのろと彼らの後から付いていった。

新たな旅へ

 遺跡都市の崩壊は、直接的にはユニーク場の消失の結果である。局所的な物理力であったユニーク力が、如何なるメカニズムによって発生していたのか、結局分からずじまいだったが、遺跡都市のどこかに設置されていた発生源から生じる一種の斥力が、内世界を押し潰そうとする強大な重力に拮抗し、釣り合っていたのは確かだった。
 大地の圧力を支えてきた、目に見えない支柱が無に帰せば、たちまち大地の力に負け、さしもの壮大な地下都市も、分厚い地層に埋没してしまう道理である。
 かくて六百万年以上存在し続けた、ラプサイト人の壮大な地中の庭園は、永遠に消え去った。発掘によって遺跡の残骸が見出されるだろうが、夢のように美しい庭園都市を巡ることは、もう出来ない――。
 ユニーク場の消失に伴って、遺跡都市上部数百メートルの厚みの地層は、直径二十キロメートルの円形状に、遺跡都市の天井の高さ分だけ沈み込んでいった。さらに周囲の大地もつぎつぎに引き摺られて地滑りを起こし、全体として巨大なへこみとなった。基地の建造物群は、その大半が辛うじて窪みの縁の外に残っていたが、頻繁に続く小規模の地滑りによって、いつかは倒壊する運命にあった。盆地の一角で起こった大規模な地形の激変は、遺跡都市外縁から二十キロ離れた空港にも、激しい地震として影響が及んでいた。が、施設は大きな被害から免れたので、基地職員らの仮住居となった。

 窓から青白い月の光りが部屋の中に射し込んでいた。日没から出ていた青い月、エンリルは、夜半頃、大きく傾斜しながら西の山脈の彼方へ沈んだ。公転周期の長い銀白の大きな月、イシュタルは一夜かけてじりじりと、タルサの夜空を横切っていた。
「崩壊」から二日目の晩だった。
 ニルヴァは、仮宿舎にあてられた空港施設の一角の病室に、ヤンとともに収容されていた。二人は、他の多数の入院患者と同様に、「崩壊」時に生じた空気中の夥しい土埃を吸い込んで、気管支炎を起こしたのだった。医師によると、内世界での「冒険的な旅」による過労も一因だったようだが。
 夜半が過ぎても、ニルヴァは眠らずにいた。数回まどろんだが、何とか眠らないようにしていたのだった。ニルヴァは、ミツコに渡すはずだった石を、掌に乗せてながめていた。
―どうして自分に気があると思い込んでしまったのだろう。それに…必ずしも、ミツコがトモナガを「意中の人」と思っていないかもしれない。単に同僚を気遣うだけの気持ちだったのではないのか。
 この二日間、ニルヴァは空しい自問自答を繰り返していた。徒労に過ぎないのだが、苦痛の源に触れてみたかったのだ。
 しかしどうあれ、ニルヴァたちが内世界に旅立つ前の日のようにはならぬ。遺跡都市も無くなってしまった。ここを去る時だとニルヴァは考えた。
 ニルヴァは右眼に石を近づけて、月の光りに透かしてみた。結晶軸に沿って、様々の波長の光りが瞬いた。まるで、小さな石の中に星夜が封じ込まれているようだった。
ニルヴァはベッドから起き上がり、静かに服を着た。眠っている同室の患者に気付かれないようにそっと部屋を横切り、ドアを開けた。振り返るとヤンが上体を起こし、ニルヴァを見ていた。ニルヴァは小さい声で「さよなら」と言った。ヤンは何も言わず、微かに笑って頷いた。

 ニルヴァはとっておきのテクニックで、出入口の電子錠をまんまと騙して建物の外へ出た。法規に違反して抜け出る以上、トモナガやヒューイにも別れを告げられないのは、仕方がなかった。
 空港の敷地を出ると、銀色の月光の下、一本の道路が南の山脈へ真っ直ぐ伸びていた。来る時に通った道だった。道路の端にタクシーが停まっていた。ニルヴァが近寄るとライトが灯った。扉が開いた。老運転手が笑った。
「これは…前に乗せたお客さんだ」
 ニルヴァを乗せてタクシーが浮上した。道路がひび割れてタイヤでは走れなかった。
「料金が高くなるよ。深夜割増になるしね。それにしてもお客さん、遺跡都市はどうなったね? 消えちまったという話だが」
「崩れたのさ、ガラガラとね」
ニルヴァは乾いた声で言った。
「じゃあもう用事は無いって訳だ」
運転手が言った。
 ―そうさ。用事は終わった。
ニルヴァは心の中でつぶやいた。タクシーは険しい山道を上った。盆地を見おろす崖の上でニルヴァはタクシーを停めた。来た時と同じように、遺跡都市の一帯を見下ろした。頃合いよく、タルサの第二の月、青い宝石のようなエンリルが、今夜二度目の登場となった。二つの月に照らされて、盆地の地形がおぼろに浮かび上がった。
 遺跡都市のあった場所はクレーターのようにへこみ、暗い影のために穴の底が黒く見えた。来る時に見た、すり鉢を伏せたような地形がきれいに反転していたので、ニルヴァはちょっとおかしくなった。
 峠を越すと後は下り坂だった。タクシーは夜道をすっ飛ばした。

―さて、これからどうする?
ニルヴァは自身に問いかけた。
―また新しい旅だ。
―何のために?
―ラプサイト人に会うために。だから、とりあえず駅へ―――。
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