第3話

文字数 5,832文字

Ⅲ ラプサイト人の海


 こうして船は、空っぽの都市の運河から運河を下り、忽然として巨大な水面の拡がりへ流れ着いたのだった。それは一個の小世界が自己の内部に湛えた海であった。次元船はこの海で、地球の伝統的な船としての用途を試されることになった。
 南風号は水路から排出された慣性でしばらくゆっくり進んだが、水の抵抗ですぐに停止し、今は陸に近い水面上で漂っていた。
「凪だ。沖へ向かう風が吹くまで待つしかない」とヤンが説明した。
 ニルヴァは船のデッキから周囲を見渡した。南風号が出て来た陸の出口から海岸線が左右に伸びていた。灯火が点々と見える。それ以外に、海を取り巻いているはずの陸は見えなかった。沖の方角は延々と広がる海洋だった。水平線が空と海とを分けていた。そして、光りが失われていく空には、ラプサイト人の世界の星が瞬き始めていた。
 見事にシュミレーションされた海だとニルヴァは思う。
 黄昏色の残る水平線上に、明るい琥珀色の大きな月が現れた。暖かい風がニルヴァの頬を撫で始め、船の喫水で波がちゃぷちゃぷと音をたてた。
 何とも言えず気持ちのいい夕暮れの一刻だった。
「地球の海のようですね!」
言ってからニルヴァは恥ずかしくなった。地球の海を見たことがなかったのだ。
「そうさね、地球と同じ海の匂いがするよ」トモナガは空を見上げた。
「風が出てきたようだ。帆を上げよう」
 南風号のマストにメインセールが上がった。陸から吹き始めた風を受けて、南風号は海面を滑るように走り出す。南風号は洋上を航海する帆船となった。
「どこへ行くのでしょう」
ニルヴァは誰にともなく問うた。
「〝島〟だよ」ヤンが言った。ヒューイが頷いた。
「われわれは海の中ほどの〝島〟を見つけて、〝島〟の扉を探す。そこでゲートを潜って次元推進で元の地点、内世界の〝ターミナル〟に戻る」
「振り出しに戻るんですね」
「いや、もう一度旅をやり直す訳ではないから〝上がり〟と言うべきだ。〝ターミナル〟から、もう一度次元推進で、基地の港へ帰るのさ」
 船の舳先で前方を観測していたヤンが鋭く叫んだ。
「目印が見えたぞ!」
ヤンが指差す方向を皆が見た。水平線上に小さな明かりが瞬いていた。
「島の位置は変わっていないようだ」ヒューイが安堵して言った。
 とっぷりと日が暮れ落ちていた。空の一角に夕日の名残りがあったが、夜空には半月が上がり、その明るい光りが、ラプサイト人の星座を霞ませていた。航海は順調だった。一時間後には島に着くはずだった――。
 

渦の中へ
 
異変に気付いたのはヒューイだった。
「何だか空気が湿っぽくないか」
 確かに、島を示す明かりが霞んでいた。海面から靄が発生していることに皆が気付いた時には、すでに島の明かりが見えなくなっていた。と同時に、雲一つ無かった空一面に、どす黒い雲が湧き出し始めた。
「嫌な感じだぜ」ヤンが空を仰いで言った。
風が止み、雲が低く立ち込めてきた。南風号は帆を畳み、何事かを待ち受けるかのように海面を漂った。そこかしこで稲妻が走った。
 ニルヴァはふと、巨大なプラネタリウムの中の巨大なプールで、自分たちを乗せた小船が浮かんでいるイメージを思い描いた。そして思った。肖像のラプサイト人が予告した「仕掛け」は、まだ全部終わったわけではない。とすると次は…。
 ニルヴァの目の前で、トモナガの髪が逆立っていた。そしてヤンもヒューイも。ニルヴァは自分の頭に触った。自分の髪も同じだった。
「セント・エルモの火だ!」ヒューイが叫んだ。
 船のマストの先端から青白い炎がゆらゆら尾を引いていた。そしてデッキの上の誰もが自分の髪の先や手から、ぼうっと青い光りを放っているのを見た。身体の周りでバチバチと放電する音がした。
「退避だ。全員船室にもどれ!」
トモナガが叫ぶと、みな弾かれたようにブリッジに飛び込んだ。ハッチを閉める間もなく、突風が南風号を襲った。ニルヴァは海面が急にせりあがったように見えた。次に船尾が海面を打って船首が跳ね上がった。まるできりもみ状態の飛行機のようだった。じっさい一瞬の間、船は旋風の超低圧の中心部に吸い上げられて、浮き上がったのだった。
 船室内は惨憺たる有り様だった。四人ともベルトで身体を固定するまもなく、いきなり船ごとシェーカーのように揺さぶられたのだった。船室は厚いパッドで覆われていたが、身体のあちこちをしたたかに打ち、ニルヴァが頭を抱えながらようやく半身を起こした時にも、他の三人は、まだ床の上で重なり合って伸びていた。
 船の挙動はどうやら収まっていた。相変わらず大きな揺れに見舞われたが、南風号は何とか体勢を保っていた。
 ニルヴァは痛む肩をさすりながら、窓の外の海を眺めた。
――一体何が起こっている?
 暗くたちこめた雲間に稲妻が光り、海面を照らした。海は沸騰水のように泡立っていた。船は動いているのか、どこかに向かっているのかニルヴァには分からなかった。
ヤンがうめきながら起き上がった。ニルヴァを見て、
「ボーイ、無事だったようだな」と言うと、足を引きずりながら船の計器を点検した。異常がないことを確認すると医務室へ行った。打撲した足を手当てしてブリッジに舞い戻った。
「機器は大丈夫だが…」
 ヤンは針路計を一瞥した。眉をひそめ、電脳を呼び出して何事かを確認した。
「まずい…」ヤンが唸った。
「どうした?」
頭に包帯を巻いたトモナガがやってきた。ヒューイが続いた。
 ヤンが針路計を指差した。
「船の針路は真っ直ぐ正面だが、こっちを見たまえ」
ディスプレイを切り替えた。
「船のコースだ。突風か龍巻か知らんが、さっきのにやられる前と、現在のデータがある。間のデータは壊れた。たぶん落雷が原因だろう」
「そんなことを言いたいんじゃないだろう?」
ヒューイがいらいらしながら言った。
「もちろんそうだ。おれが言いたいのは、南風号が円周上を廻っているということだ」
「どういうことだ?」
「海流がぐるぐる廻っていて、この船がその流れに乗っているということだ」
 ディスプレイには、円形の海を斜め上から俯瞰した楕円形で表示されている。楕円の中心から、同心円状に周回する海流が示され、円の半径の二分の一の距離で周回している船の位置が、画面にプロットされていた。
「まさか」
トモナガが擦れた声で呟いた。
「そういうことだ」
ヤンは淡々と言った。画面の海流の形が、回流から渦巻き状の形に変化した。南風号は渦を示す曲線上にあった。
「渦の中心に向かっている?」
ニルヴァは息をのんだ。
「確かか?」
ヒューイが喚くように言った。
「九九パーセント以上だな」あっさりとヤンが応えた。
「転針できないか…」トモナガが呟いた。
「無理だね」
「どのくらいで渦の中心に?」静かな声でトモナガが聞いた。
「三十分後」

 その時点で南風号の乗員たちに何ができただろう?
 彼らの乗る船は、次元推進以外の方法で自力で航行する能力を有していなかった。水路内で舵を切るために必要な、ごく弱い推力発生装置しか備えておらず、海全体に起こっている直径九キロメートルにおよぶ巨大な渦巻きに抗うことはできなかった。それどころか、強力な推進力を持つ船でさえ、いま南風号がいる位置では、脱出は難しかったろう。
 もちろん、彼らが手をこまねいて来るべき破局(と思われた)を待っていたわけではなかった。船の各部を念入りに点検し、船体の防水性を強化した。渦の中心から水中に引き込まれても、浸水しなければ生存の可能性が残る。しかし、渦の中心で発生する水の回転による破壊力に、船体がどの程度持ちこたえられるか、誰にも分からなかった。彼らは自分たちの身体を、それぞれベッドやブリッジの座席に縛りつけた。
「沈みゆく船と運命をともにしたという、昔の船長みたいだぜ」
ベッドに結わえられたトモナガが、あまり楽しくないジョークを吐いた。ヤンとヒューイが憂鬱そうな笑い声で応じた。
 ニルヴァに恐怖はなかった。自分が死ぬとは全然思わなかったからだ。ラプサイト見学ツアーで、こういう事態になるとは予想していなかったが、当然一定の危険は予見されたことだ。それよりニルヴァは、ラプサイト人の肖像画の前で示唆された予言の行方を信じていた。それは、「死」をもたらすものでなく、「生」の継続でなければならなかった。なぜならラプサイト巡りでは、ツーリストに「好ましい巡礼」の旅が提供されこそすれ、決してツーリストを排除するものではないはずだから―。ただし、予期しない「事故」はあるかもしれなかった。六百万年前の建設者は善意だったとしても、製作されたものに耐用年限はあるはずだから…。
「なあみんな、こいつを無事に乗り切ったら、取って置きの地球の酒を…」
 トモナガが言い終わらないうちに、南風号の乗員たちは、船が急角度で回転する時に発生するGを感じ始めていた。
 
 南風号は大渦に巻き込まれつつあった。海の中心に出来た排水口へ吸い込まれる大量の水が、壮大な漏斗状の凹みを形成していた。哀れな南風号は、四十五度の角度の巨大な水の壁の縁から、ものすごい速度でぐるぐる廻りながら、渦の中へ落ちていった。
 きりもみ状態の高Gの中で、ニルヴァは意識が遠のきながら、ミツコに手渡すはずだった石を、ポケットの中で握りしめた。ヤンはコックピットで失神する直前、渦の直下にもう一つ巨大な空洞があることをディスプレイの表示で知ったが、仲間に知らせる時間がなかった。

邂逅

それは時空連続帯の中にこつぜんと生じた、もう一つの時空だった。そこでは通常の時間が無限大に引き伸ばされ、事象は無限に遅滞していた…。

 ニルヴァは遠いところから自分を呼ぶ声を聞いたような気がした。そして長い眠りから醒めた。体を起こそうとしたが出来なかった。ふと気が付いて身体を締めつけていたベルトを外し、ベッドから起き上がった。
 ―これは夢なのか?
 頭が朦朧とし、両手で頭を抱え込んだ。小さい頃恐ろしい夢で夜中に目が醒めると、泣きながらそうした姿勢でいた。
 ―ここは家のベッドか、それとも旅籠か。あるいは病院のベッド?
  また自分を呼ぶ声が聞こえた。ニルヴァはのろのろと立ち上がり、部屋の外へ出ようとした。だが、自分の周囲しか視界が利かず、ぼんやりした映像がしきりに揺らいでいた。扉のようなものが見え、ニルヴァは外へ出た。暗がりだった。しかしその暗い一角から細い光りがニルヴァの眼を射した。次の瞬間、ニルヴァはごつごつした凹凸面の上に降りていた。その時、光りのビームは一瞬ニルヴァの横にあるものを照らした。一叟の船が、嵐の中で座礁したまま凍結していた。夢で見た船―南風号だった。
 ―とすると、夢ではないのか。
 ニルヴァの足の下は、荒れ狂い渦巻く海水の集積だった。押し寄せて反射し合い、ひしめく大量の水が、無限大に引き伸ばされた時間によって、固く凍結していた。透明な水と泡立つ水が混ざり合った波の模様のまま、ダイヤより硬く凝結しているのだった。船の周りでささくれだった形の波は、固まったシャーベットのようだった。ニルヴァは暗闇の一角から射してくる光りに誘導されて空中に浮かぶと、そのまま漂っていき、平らな場所に着地した。と、明かりがともった。というより、何かが発光していた。巨大な像だった。見上げるほど巨大なプサイト人の全身像が、ニルヴァの目の前にいた。典雅な衣をゆるやかにまとい、厳かな姿でニルヴァに対している。
――ラプサイトの神か?
 神々しく発光するラプサイト人の全身像は遺跡都市の陸で見た像と瓜二つだった。と、「ニルヴァよ」と呼び掛けられたような気がした。
 そして、もう一度「ニルヴァよ」と呼びかけられた。豊かなアルトの声が響いた。それは耳に達する音声ではなく、直接ニルヴァの頭蓋の内部に伝わってくる「ことば」だった。相対する「神」は女神のようだった。
「ここまでよく来ましたね」
 ラプサイトの〝女神〟が微笑んだように見えた。
「ここが終点ではありませんよ、ニルヴァ。そのまま進みますか、それとも出発点に戻りますか」
 ニルヴァは呆然と女神を見つめるばかりだった。
「どちらを選びますか?」
 もう一度繰り返すと、女神はニルヴァを見守った。
 ニルヴァは大急ぎで考え始めた。――これが夢じゃなく現実だとすると、自分は確かに南風号に乗って、内世界を旅していたんだ。そして海で大渦に遇って、船は渦に巻き込まれたのだった。どうやらまだ終わったわけじゃなさそうだ。これもラプサイト・ツアーに仕組まれた仕掛けだとすると…。
ニルヴァは女神に問いかけた。
「進むとどうなります?」
女神は婉然と笑って答えた。
「空の城へ行けますよ」
「空の城ですって? どこですか、それは」
「近くて遠いところ」
女神は謎めいた微笑を浮かべたきり、それ以上何も語らなかった。
ニルヴァはしばらくためらっていた。
女神はニルヴァの心を見透かすように言った。
「あなたにとって差し当たり、夢か現実かはどうでもいいことですよ。いずれにしても、私はここにいるのですから。さあ、お選びなさい」
 ニルヴァは慌てて尋ねた。
「もし、ぼくが空の城へ行けば、船の連中はどうなります?」
「あなたが仮に城で一生住んだとしても、この世界では一億分の一秒も経ってはいないのです。だからあなたが、お城でお決まりのコースを見終わって、この場所へ帰って来れば船は元通り。そのまま乗って元のまま、彼らの時空に戻れますよ」
 そこまで聞けば、ニルヴァにもうためらいは無かった。
「じゃあ行きます」
 闇の中に明かりが灯り、階段が出現した。ラプサイトの女神が促した。ニルヴァは階段を上っていった。階段を登り切ると大きな扉。扉を開けると、ニルヴァは眩しい光りに目が眩んだ。
 そこはテラスのような場所だった。眼下を雲海が流れていく。風の音。ニルヴァは石畳のテラスの縁に立った。足元から遥か下界に向かって一本の軌道が垂れ下がっていた。先端は雲海の中に消えている。ニルヴァの立つテラスの方へ向けて、一台のゴンドラが近づいて来た。
 ――その時、
 「………」ニルヴァのアームバンドが警報を告げた。内世界の異変を知らせていた。戻らねば…。            
 ニルヴァは反転して扉を開いた。再び階段へ足を踏み入れる直前、テラスに到着したゴンドラから、一人のラプサイト人が降り立つのをニルヴァは見た――。  
  

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