第1話

文字数 25,747文字

 そう、ぼくはそのことを知ってしまったのだ。今さらあとに戻ることはできない。昨日までのぼくみたいに、くだらないアニメを観て喜んでいる場合ではないのだ。ぼくは気付いてしまったのだ。自分が火星人だったことに。

 

、とぼくは思う。この十二年間の人生というもの、ほとんどずっと暇つぶしをしていたようなものじゃないか? なにしろ真実を見ていなかったのだから。ああ、なんてぼくは馬鹿だったんだろう!

 ぼくは土曜日の夕方に、一人でひたすら街を歩き続けながら、考え込んでいる。果たしてこれまでの人生とは何だったのか? そしてこれからの長い人生を、どのように生きていったらいいのか・・・。

 でも答えは最初から明白だった。

。これまでの人生は一種の準備期間のようなものだったのだ。そしてこれから本番が始まる。ぼくはこれ以上嘘を見続けるわけにはいかない。戻りたいと思っても、もう二度と戻るわけにはいかないのだ。なぜならぼくは自由を愛する火星人だからだ。孤独を愛する火星人だからだ。寂しくても、逃げ出したくても、自分自身と正面から向き合うしかないのだ。



 ちょっと順を追って説明しようと思う。そうしないとみんなにうまく伝わらないと思うから(順を追ったところで伝わるかどうかはちょっと謎なのだけれど・・・)。それはとても気持ちの良い秋の土曜日で、ぼくは午前中にサッカークラブの練習に行った。ぼくはようやくレギュラーになって――たまに外されるけど――結構それなりにうまくなってきたところだったのだ。まあディフェンダーだから得点なんかは取っていないけど、試合に出たときはとにかくサボらず走る。相手の嫌なことをする。ガムテープにくっついた髪の毛みたいにぴったりとマークに付く。身体を寄せる。スライディングをする・・・。一番うまいってわけでもないけど、まあそれなりにチームの役には立っていると思う。

 ええと、それはそれとして、ぼくはその日いつものように練習に行った。水筒に飲み物を入れて、リュックを背負って、行ってきますとお母さんに言って、練習に行ったのだ。そのあとはまあいつも通りだ。ちょっとコーチに怒られたけど、もっと怒られていた子はほかにいた。でも最後はほんの少しだけ褒められた(なにしろ厳しい人なのだ。うちのコーチは)。紅白戦で絶好のゴールチャンスがあったけど、あさっての方向に吹っ飛ばしてしまった(みんな笑った)。まあもともとがディフェンダーだから、と都合良く自分に言い聞かせる。ぼくらのチームは負けて、罰としてグラウンドを三周した。なぜかコーチも一緒に走った。勝ったチームはニヤニヤしながら、そんなぼくらのことを眺めていた。「負けた方が最終的には強くなるのさ」とコーチは言った。そんなものかな、とぼくは思いながら走っていた。

 そのあと家に帰ってきて、お母さんが用意してくれていたお昼を食べて(お好み焼きだった。珍しく)、あとはひたすらゲームをやっていた(携帯ゲーム機のやつだ)。先に宿題をやりなさいよって言われたけど、そんなものやるわけない。適当に学校に行ってから終わらせればいいさ。あんなもの。先生だって本当は興味ないんだ。ただ出すことになっているから出しているだけ。人生の役には立たない。

 まあとにかく、ぼくはそうやってゲームをやっていた。弟がやらせてくれって言ってきたけど、もちろんやらせたりはしなかった。あいつがやったらどんなことになるか・・・。きっと一瞬で負けちゃって、泣き出して怒り出してデータを消しちゃうんだ。そんなところが(せき)の山さ。

 ぼくがやっていたのは戦士が失われた心を取り戻すゲームだった。「失われた心」って何のことかよく分からなかったけれど、とにかく敵をやっつけていればそれは取り戻せるらしい。ぼくは念入りにレベル上げをやって、十分強くなったところで、ボスのところに行くつもりだった。中途半端な状態で行って、簡単に負けちゃうのはつまんないからね。きっと。

 それで、二時間くらい経ったところで、突然ドアを誰かがノックした。ぼくは急いでゲームを隠して、宿題をしている振りをしようとした。きっとお母さんだ。ぼくを監視しに来たのさ。なにしろ最近私立の中学に入れるとか入れないとか、そんなことを言っていたものな・・・。

 ぼくがゲームを隠すか隠さないか、というところで、ドアがひとりでに()いた。ギー、という(きし)みが鳴って、ほんの少しだけ()いて、またバタンと閉じた。ちなみに弟は今ではすねて一階のリビングの方にいた(ぼくの部屋は二階にある)。たぶんアニメのDVDか何かを観ているのだと思う。ぼくはあいつになんか興味はなかった。勝手に好きなことをやっていればいいさ。お母さんに告げ口したりされるとちょっと困るけど・・・。

 ぼくは最初それは弟なのだと思った。ノックをして、ちょっとだけドアを開けて、すぐ閉める。お母さんはそんなことはやらない。きっと弟が幽霊の振りをして、ふざけているだけなのだ。

「そこにいるのは分かっている!」とぼくは言って、ドアを思いっきり開けた。でもそこには誰もいなかった。とにかくしんとしている。あれ? と思ってあたりを見回す。でも誰もいない。なんだかいつもよりずっと静かだ。何が起きたのだろう・・・?

 ぼくは一旦部屋に戻る。ドアをきちんと閉めて(バタン、という音が鳴った)、元の場所に戻って、隠していたゲーム機を取り上げて(ベッドの中に突っ込んだのだ)、その続きをやろうとする。でも何かが変だ。こう、空気の流れが変わっているのだ。ぼくはあきらめてゲームをスリープモードにして、顔を上げた。なんだかちょっと薄暗いような気もする。明らかにさっきあのノックが聞こえたあとのことだ。あのあたりで、何かがいつもとガラリと変わってしまったのだ。

 ぼくは耳を澄ます。もしかして幽霊の足音とか、呼吸の音とか、言葉とか、そういうものが聞こえるんじゃないかと思って。いつもならもちろんそんなことはしない。ぼくは科学を信頼しているし、論理的でないものを信じるのは馬鹿げていると基本的には思っている。でもそのときだけは違った。そのときだけは、明らかに何か、いつもと違ったことが起きていたのだ。

、とぼくは思う。弟でもお母さんでもない何かが。たぶん目に見えない何かだ。心臓がドキドキと高鳴っているのが分かる。なぜかは知らないのだけれど、一階の方からも何も聞こえない。普段ならお母さんの足音とか、野菜を切る音とか、弟が走り回っている音とか、テレビの音とか、とにかくそういうザッタな物音が聞こえるはずなのだ。それが何も聞こえない。恐ろしくしんとしている。ぼくは寒気を感じた。ブルブルと身を震わせる。鳥肌が立ったのが分かった。なんだかすごく怖いぞ、とぼくは思う。まだ昼間なのに、まるで夜がこの部屋にやって来たみたいだ。深い深い夜が。そんな匂いが、あたりに充満している・・・。

 ぼくの頭の中で、カチンという音が鳴った。金属と金属が強くぶつかるときのような音だ。ぼくは間違いなくそのタイミングでその物音を聞いた。だってほかには何も聞こえなかったのだもの。せいぜい自分の心臓の鼓動くらいだ(ドクドクとそれは鼓動を打っていた)。聞き逃せっていう方が難しい・・・。

 その音はぼくのおでこの少し先の方で鳴っていたみたいだった。ぼくにはそれをちゃんと感じ取ることができた。何なんだろう、これは、とぼくは思う。どうしてぼくの頭の中で――おでこの少し先で――こんな音が鳴らなくちゃいけないんだろう? そんなところに金属があるわけがないじゃないか? あるいはぼくは機械だったんだろうか? 人間だと思い込んでいただけで、本当はロボットだったのだ。あの、映画で見たターミネーターみたいに・・・。

君は機械じゃない」とそこで誰かが言った。聞き覚えのない声だった。でも、なぜかどこかで聞いたような気もする。どこかずっと遠いところで、はるかずっと昔に・・・。

 ぼくはあたりをキョロキョロと見回した。でも誰もいない。でも誰もいない。ぼくは一人ぼっちで、自分の部屋にいる。

「誰かいるの・・・?」とぼくは空気に向かって訊いてみる。

 するとまたカチンという音が同じ場所で鳴って――おでこの少し先だ――急にくらっとめまいがした。ぼくは一度目を閉じた。電気と、窓から差し込む日光のせいで完全には暗くならなかったけれど、少しは

はましになったみたいだった。(まぶた)の裏に変な図形がいっぱい浮かんでいた。一度も嗅いだことのない変な匂いを嗅いだような気がした。甘い匂いだけど、お菓子とか、花とかの匂いじゃない。もっと変な匂い。人工的に作り出された、でもどこにもない匂い・・・。

 あたりの静けさは、目をつぶってしまうと、もっと強調されるように感じられた。ぼくはすごく心細くなって――昼間にそんなことを感じるのは珍しかったのだけれど――急いで目を開けようとした。でもなぜか開かなかった。まるで木工用ボンドでくっつけたみたいに、それは()がれなくなってしまっていたのだ。あれ? どうしちゃったんだろう、とぼくは思う。ぼくは目を開けたいのに、身体が言うことを聞かない。そのときまたカチンという音が鳴った。これまでで一番大きな音だった。ぼくの中で何かが動いていた。それがよく分かった。

「君は機械じゃない。でも人間でもない」とさっきと同じ声が言った。どうやらぼくのすぐ後ろにいるみたいだった。知らない誰か。でもどこかで一度――もしかしてもっとたくさんかもしれない・・・――声を聞いたような気もする。心がキュンと(ちぢ)まるのが分かった。なんだかすごく哀しい気分だった。どうしてこんな気持ちになるのだろう・・・?

「君はね、実は火星人だったんだ。ずっと黙っていたけど」

「火星人?」とぼくは驚いて言った。火星人? 火星人? そんなことが、本当にあり得るのだろうか?

「本当だよ」とその人は言う。ちなみに男の、たぶんまだ若い人の声だ。声変わりしたばかりみたいな声。でもその声だけから、どんな姿をしているのか想像するのは難しい。後ろを見られればよかったのだけれど、目も開かないし、なんだかほかの身体の部分も動かなくなっちゃっているみたいだった。ぼくは床のカーペットの上に座り込んで、間抜けにも身動きが取れなくなってしまっている。心臓がドキドキと高鳴っているのが分かる。相変わらず物音はない。その人の声のほかは、ということだけれど。

「君は実は火星人だったんだ。生まれたときからずっとね」

「火星人って・・・つまりあの宇宙にある火星で暮らしていた、ってこと?」とぼくは訊く。

「そうさ」とその人は言う。「正確には君の祖先が、だね。今ではあそこはあまりにも冷たくなってしまっている。今生き残っているのは、本当に(わず)かだけだろうな」

「あなたも火星人なの?」とぼくは訊いてみる。

「まあ、ね」とその人は認める。「君と一緒さ」

「だからケハイがないの?」

「そう言えなくもない」

「でも日本語をしゃべっている」

「それは・・・ちょっと君に合わせてやっているのさ。実はいろんな言葉をしゃべれる」

「ふうん」

「なんだよ、そのふうん、ってのは」

「だってさ、すぐには信じられないじゃない」とぼくは言う。「火星には生物はいないって教科書に載っていた。ぼくは学校は嫌いだけど、さすがに教科書に嘘は載せないと思うんだ。しかもそれだってさ、きっとアメリカのNASAの職員の人たちがさ、めちゃ高性能な望遠鏡とか使ってさ、みっちりと観察した結果、たどり着いた結論だと思うんだよ。だとしたら、火星人なんかいないと考える方が普通なんじゃないかな?」

「でも実際に人間が行ってたしかめたわけじゃない」とその人は言った。その声には確信がこもっているように、ぼくには思えた。「火星人はね、みんな穴の奥の方で暮らしているんだよ。昔からそうだった。だから写真くらいでは見えないのさ。それにね、今では我々は姿を根本的に変えている」

「それは・・・どういうこと?」とぼくは訊く。

「実はね、ぼくらの祖先は人間の肉体を乗っ取ったのさ。彼らは自分たちの星がどんどん冷えていって、住むのに適した場所じゃなくなってしまうことを知っていた。それで自分たちの身体をすごくすごく小さく圧縮して、すごくすごく小さな宇宙船に乗せて、地球に乗り込んだんだ。そのときの地球人たちはまだ文明というものを持っていなくて、みんなウホウホと野原を駆け巡っていた。チンパンジーより少しは頭は良いけれど、オランウータンほどじゃない、って感じだったかな。でもまあ、肉体的には我々が寄生するのに最も適していた。別にオランウータンだって良かったんだけど、彼らには発展の余地というものがなかった。彼らは哲学者で、発展してもあまり意味がないことをすでに悟っていたんだ。でも人間は――ホモ・サピエンスは――そうじゃなかった。なんか無目的に発展しよう、進化しようという意思のようなものが感じられたんだな。実際にその一部は宗教を発明しようとしていた。壁画(へきが)なんか描いたりしてね。それでぼくら火星人の祖先は、これはちょうどいいぞ、と思ったらしい。それで小さくなった自分たちの肉体を、彼らの脳の中に植え込んだ。正確には(しらみ)と一緒に頭皮の隙間から、頭蓋骨の内部へと入り込んだみたいだがね。うまく行った者もいたし、うまく行かなかった者もいた。でもまあなんとかうまく脳に寄生できたものは、彼らの肉体を乗っ取ることに成功した。なにしろ意思の決定機関のようなものを制御したわけだからね。好き勝手に身体を動かすことくらいは簡単だった。それでまあ、そうやってぼくらは次々に肉体を乗り換えて、この地球上で暮らしてきたんだ。そのうちの何人かはウホウホの地球人たちを指導して、文明を形作った。だからまあ、君が今暮らしているこの世界は、基本的には火星人によってつくられたと言っても過言ではないんだよ。本当に」

「でも・・・」と――相変わらず目をつぶったままで――ぼくは言う。「そんなこと教科書には全然載っていなかった。お父さんもお母さんも、先生だってそんなことは言っていなかった。ぼくらは地球人で、昔はサルだったけど今は進化して・・・」

「それはね、みんなが本当のことを知るとまずいから、ごまかしているだけなんだ。そうやってね」

「ごまかしている?」

「そう」とその人は言った。「実は火星人たちは最初の方から気付いていたんだけど、ほとんどの地球人は真実よりも安定を愛するんだ。分かるかい? 本当のことよりも、本当らしい嘘の方を好むのさ。なぜなら自分たちが生きている、という事実を認識するのが怖いからさ。生まれて、(つか)()現れて、そして死んでいく、その事実を受け入れるのが怖いからさ。だから宗教なんてものを生み出したんだ。それは彼らの不安や寂しさを――あるいは恐怖を――一時的にせよ、(やわ)らげるのに寄与したんだ。まあ今だってそうだよな。学校、会社、家庭、テレビ、ゲーム、スポーツ・・・。全部その〈嘘〉を生み出すための道具さ。意識を狭い枠組みにはめ、真実を見ずに、適当に時間をつぶすことを可能にする。そして時が来れば実際に死ぬ。そのあとするのは何だ? お葬式さ。形だけの、中身のないお葬式。金を稼ぐために坊さんがお(きょう)を読む。ハッハ。笑えてくるね。そうやって人間たちは意味のない人生を送ってきたのさ」

「本当に全部嘘なの?」とぼくはすごく不安になってきて訊いた。というのもなんとなく――あくまでなんとなく、だが――この人の言うことの方が真実なんじゃないか、っていう気がしてきたからだ。あるいは目をつぶっているせいなのかもしれない。実際に姿を見られれば、少しは気持ちは明るくなるはずなんだけど・・・。

「本当に全部嘘だ」とその人は言った。「こんなこと、君くらいの歳の子に言うのはなんだけどね・・・」

「でも、大人になっても、ほとんどの人は嘘を見て生きていくわけだよね?」

「まあそうだ」とその人は言った。「大体九十八パーセントくらいはそうだな。そして死ぬ。確実にね。彼らはある意味では幸福なのかもしれないな。もしかしたら」

「どうして?」とぼくは――目をつぶったまま――訊く。「だって嘘なんでしょ?」

「彼らはそのことに気付かない」とその人は言った。「というか自分から目を逸らしているんだ。なにしろ怖いからね。みんな一緒になって、ニコニコと、くだらないことをして時間をつぶす。肉体的には運が良ければ八十くらいまでは生きられるだろう。最近は医療も発達しているからね。でもそれだけだ。魂は発展を止めている。一生グルグルを続けて・・・パチン!」(指を鳴らしたような音がした)「ジ・エンドさ。あとは闇に消える。記憶もなくなる。原初の混沌に戻るんだ」

「なにそのゲンショのコントンって・・・」

「要するに

のことさ」

?」

「そう。〈ぐしゃぐしゃ〉だ。みんなそこから出てきたし、最後はみんなそこに帰る。誰もその運命から逃れることはできない。君も。僕も、ね」

「ねえ、じゃあ、もしそれが本当のことだとしたらさ・・・」とぼくはなんとか頭を働かせる。(まぶた)の裏の図形はすでにどこかに消え去っている。なんだか闇が深くなっているような気がする。変だな。光は入ってきているはずなのに・・・。

「もしそれが本当のことだったとしたら?」とその人はぼくの言葉を繰り返した。

「ええと」とぼくは言った。「ぼくはどうしたらいいんだろうね? だって今もなぜだか身体が動かなくなっちゃっている。あなたの声はよく聞こえるけど、どこにいるのかも分からない。カチン、っていう音が鳴ったのは聞いた。おでこの、ちょっと先あたり・・・。ねえ、ぼくはどうなっちゃうんだろう? もし火星人だったとしたら、もう学校にも、サッカークラブにも戻れないの?」

「もちろん戻ることはできる」とその人は安心させるように言った(もっとも口調は冷たかったけれど)。「それはもう、全部君次第だ。君はついさっき自分が火星人であることを悟ったんだ。それが意味するのはつまり、

、ということだ。どのような規範も、今君を縛ってはいない」

「キハンって何?」

「ルールってことだ」とその人は言った。「君は火星人であることを悟った。それはつまるところ、真実を見通すことができる、ということを意味するんだ。もう狭い世界なんかに閉じこもっている必要はない。だから君は自由なんだ。その自由な君が、もし、物好きにも、学校やサッカークラブに戻りたいのだとすれば、戻ればいいさ。誰も止めたりはしない」

「でもなんだかそれが間違ったことであるみたいな口調だよね」とぼくは言ってみる。

「だってたぶん耐えられないだろうから」

「耐えられない?」とぼくは不思議に思って訊く。

「そう」とその人は言う。「君はね、ついさっきある一線を越えたんだ。それは実はずっと前から決まっていたことだったんだ。君の意識にはタイマーが設置されていてね、ある年齢に達したときにはっと悟るように事前にプログラムされていたんだ。それがちょうど今日、この時間だったっていうわけ。これより前だと脳が発達していないし、これよりあとだと意識が固まり過ぎてしまう。火星人なのに、地球人と同じような状態になってしまうんだよ。要するに視野が狭い、ということだけれど・・・。だからここが一番良いタイミングだったんだ。君にそれを知らせるためにね」

「もしかして・・・みんなそうなの? つまり火星人たちはってことだけど・・・」

「そうだね」とその人は言う。「もっとも年齢は人それぞれだけどね。君の場合は十二歳だったけれど、もっと遅い人も結構いる。そういう人たちは固まらない意識を大人になっても持っていられる人たちだ。この間は五十になってから気付いたおじさんもいたな。まあ〈おじさん〉なのはあくまでウホウホの肉体だけであって、意識の方はまだ若いんだけど」

「火星人ってどれくらいいるの? つまり地球上に」

「さあどれくらいかな・・・」とその人は言って考え込む(ような気配があった)。「全人口の一パーセントもいないと思うね。もっとずっと少ない。ただ統計を取ったわけじゃないし、正確なところは分からない。いずれにせよ、我々はあまり増え過ぎることを好まないんだ。人間と違ってね。一人の女性が何人もの子どもを産む、ってのとはちょっと違っているのさ。要するに。つまりさ、我々は人間に――ウホウホの人間に――寄生したわけだけど、やっぱりその人間が死ぬと一緒に死ななければならない。それはもう、仕方のないことだったんだ。でも最後の最後に自分のコピーを生み出すことができる。ただ一つだけだけどね。いくつもできるわけじゃない。そしてそのコピーを、今度は別の人間の脳に植え付けるのさ。大体は赤ん坊だけどね。都合の良い赤ん坊がいないときには、柔らかい思考を持った大人のところに行くこともある。まあその辺はケースバイケースさ。ただ問題はコピーを生み出すと

ってことだ。まったく。誰がそんなこと決めたのかは分からないけれど、なぜかそうなっている。もう決まっちゃっているんだ。だから空気に乗って――そのものすごく小さい宇宙船に乗せるのさ。要するに――赤ん坊の脳味噌に到達したときにはもう、我々自身もまた赤ん坊みたいにまっさらな状態になっている。また一からいろんなことを学ばなくちゃならない。すごく非効率みたいだけどね。でも仕方ない。そんな風にして我々は生き延びてきたのだから」

「でもさ・・・それってつまり・・・火星人だからものすごく頭が良くなる、とか、そういうわけじゃないってこと? 結局は地球人と同じように、一からいろんなことを学ばなくちゃならないんだよね?」

「まあそうだな」とその人は言う。「だから君は特殊だけど、ある意味ではさほど特殊でもない、ということになる。でもだね。火星人であることの意味というのは、さっきも言った〈真実を見通す力〉にある。我々には地球人にはない視力が(そな)わっている。そしてある種の感覚器官。いいかい? 我々火星人はなによりも自由を愛するんだ。それはもう、一億年前くらいから決まっていたことさ。そう遺伝子に刻み込まれているんだ。試しにそう言ってごらん? 我々火星人はなによりも自由を愛する、と」

」と機械的にぼくは言う。そのときまたカチンという音が、おでこの少し先のあたりで鳴った。暗闇はさらに深くなっていた。「言ったよ」とぼくは言う。

「そう。それでいいんだ。それでこそ火星人というものだ」とその人は言った。「要するにだね、大事なのは我々がその資格を引き継ぐことができる、ということなんだ。それが火星人が火星人であることの一番の意味だ。さっきは言い忘れていたけどね。僕らは死んで、コピーを生み出すときにあるお土産(みやげ)を持たせるんだよ。小さな小さな箱に入れてね。それを〈ブラックボックス〉と僕らは呼んでいる。そしてそれを、タイマーをセットして、意識に植え込んでおくのさ。適切な時が来たら解凍されるようにね。そしてその時が来ると、はっと悟ることになる。ああ、自分は火星人だったんだな、と。そして世界の本当の姿を見ようと

ことになる。これはまあ、自然な欲求だな。正確に言えば。そのあとでブラックボックスの残りの部分を開封する作業に入る。手段は人それぞれだけどね。そのようにして、我々は生きる意味を探求することになる」

「生きる意味」とぼくは言う。

「そう」とその人は言う。

「でもそれって、別にやらなくてもいいんでしょ?」

「もちろん」とその人は言う。「もし君がその状態に耐えられたら、だがね。一度真実を見た人間が――火星人が――元の狭い世界に戻るというのは、正直自殺行為に等しい。実際に自ら命を断った火星人も結構たくさんいる。彼らは自らの運命がもたらす重荷に耐えられなかったのさ。自殺した火星人は大抵コピーも生み出さずに闇に消えていく。あとに残るのは無だけだ」

「ぼくは・・・どうすればいいんだろう?」とぼくは訊く。

「君はどうすればいいんだろうね?」とその人は言う。本当に分からないみたいだった。ぼくは、この人がさっき言ったみたいに、本当に自由なんだろうか・・・?

「ねえ、そのブラックボックスってさ」とぼくはふと思って訊く。「たとえばカチンって音を鳴らしたりする? おでこの少し先のあたりで」

「前頭葉だ」とその人は言った。「正確に言えば。まあ音は人によって違っているが、君の場合はカチンという金属音だったのだろう。そう。それがつまり解凍の合図だ。でも全部解けるわけじゃない。あくまで最初は〈資格〉の継承。それが第一。そのあとで、その〈資格〉を使って、君がどうするかを決定する。自由な意思による方向性の策定。要するにそういうことだ」

「全然分からないんだけど」とぼくは言う。「ちょっと難し過ぎるよ」

「まあやりたいようにやれってことさ」とその人は言う。「君はさっきその事実に気付いた。それがまず第一だ。実はこの僕もね、そのプログラムの一部だったのさ。君に教えるべきことを教える。それは今より前でも駄目だったし、今よりあとでも遅かった。ちょうど今この瞬間がベストタイミングだったんだ。そして君をあるべき方向へ導く。もちろんあるポイントまでということだけどね」

「あるポイントってどういうこと?」

「要するに事実を事実として説明するポイントさ。そこから先は、君が火星人として自分の責任で生きていかなくてはならない。なぜなら・・・」

「火星人は自由を愛するから」

 パチン、と彼は指を鳴らした(彼に指なんてものがあるのかどうかは分からなかったが・・・)。「そう。その通りだ。やっぱり君は優秀だね」

「そう言ってもらえるのはありがたいけど・・・」とぼくは言った。そこでふと部屋の静けさがさっきよりもずっとずっと深くなっていることに気付いた。さっきまでの比じゃない。まるで全然別の場所にいるみたいだ。(まぶた)の裏にも光は見えないし・・・。ここはどこなんだろう? もしかしてさっきこの人が言っていた〈ゲンショのコントン〉なのだろうか・・・?

「なんだか静か過ぎない?」とぼくは訊いてみる。「ここは本当にあのぼくの部屋なの?」

「君は火星人であることを悟った」とその人は言った。「それはつまり、真実を見通す力を得た、ということを意味する。そこでちょっと細工をしたんだ。感覚をいじくった、というところかな」

「感覚をいじくった?」とぼくはよくわけが分からずに訊いた。「それって・・・どういうこと?」

「つまりさ」とその人は言う。「君は要するに、地球人と火星人の混合物なわけだ。ウホウホの地球人の身体に、真実を見通すことのできる火星人の意識が寄生している。分かるかい? 

火星人である、というのはそういう意味でなんだ。つまり〈認識〉さ。意識というものは結局のところ認識の総体に過ぎない」

「ちょっと難し過ぎない?」とぼくは文句を言う。「なんたってぼくは小学生なんだからね」

「はいはい」とその人は言った。「まあ要するにさ、身体は地球人で、心は火星人ってわけだ。そしてその心の一番中心に、さっき言ったような〈ブラックボックス〉なるものが潜んでいる。そんで・・・ええと、そうそう、時の認識についてだ。君は時は一直線に流れるとでも思っているんじゃないのかい?」

「だってそうでしょ」とぼくは言う。「過去があって、今があって、未来がある。まっすぐに進む。時計の針だって、時計回りにしか回らない。昨日が明日になったりしたら困っちゃうじゃない」

「そう。それが普通の認識だ。地球人の認識、というか」

「火星人は違うの?」

「そう。火星人は根本的に違ったものの見方をしなくちゃならないんだ。というかそう決められているんだよ。あらかじめね。遺伝子に組み込まれている。君は今まで〈眠った火星人〉だったからそれでよかったけれど、今は目覚めてしまった。そして一度真実を見たらもう元には戻れないんだ。そう望んだとしてもね。それで、ついさっきその感覚をちょっといじくった。実は今のところ時はほとんど止まっている。〈ほとんど〉というのは原理的に無時間というものはあり得ないからなんだ。死んでしまえば別だけどね。少なくとも生きている限りは。君は今時の狭間(はざま)にいる」

「時の狭間?」とぼくはよくわけが分からずに訊く。時の狭間?

「そう、時の狭間」とその人は言う。「要するに過去でも未来でもない。でも今でもない。隙間みたいなところにいるのさ。もちろんいつまでもここにいられるわけじゃないけどね。あくまで一時的にだ。ここにいるのは、ちょっと身体に悪いことだから」

「どんな風に?」とぼくは心配になって言う。

「まあこれくらいなら大丈夫だ」とその人は笑いながら言った。「心配するまでもない。というか今の君には必要な状態だったんだよ。今までの感覚の自明性を(くつがえ)すためにね。こういった場所があるんだと実際に示す必要があった。ここが身体に悪いというのは、つまりここが何かを

ための場所だからだ。それを

べき場所じゃないんだよ。生きるべき場所はやはり地上だ。いつもの君の部屋だ。学校だ。校庭だ。公園だ。街だ・・・。要するにあちらの世界さ。ここは一人で集中して、自分と向き合うための場所であり、時間なんだよ。ちなみに今君は身体はなくなっている。あると思い込んでいるだけさ。君は今純粋な意識になっている。まあだからこそこんな〈狭間の世界〉に下りてこられたわけだけど」

「だから目が開かないの?」

「そう。というか目がないんだ。(まぶた)もない。今までの(くせ)であると思い込んでいるだけでさ。そんなものは脳が錯覚した感覚に過ぎない。君は実際には、光のない狭間の世界で、純粋な意識の流れになっている。透明な流れだ。そして実を言うと僕もそんな感じなんだ。だから会話を交わすことができる。まあそんなところかな」

「身体に悪いってのは・・・もしかして元の世界に戻れなくなるかもしれない、ってこと?」

「十分な力がないのに深入りした場合にそうなることもある」とその人は心持(こころもち)厳粛な口調で言った。「たしかに今までにそういった例もあった。君は本当は徐々に徐々に力をつけて、真の意味で自分と向き合えるようになったときに、この世界にやって来るべきなんだ。一人きりでね。でもまあ、今は僕がいるから大丈夫だ。離したりはしない。ガイドがいる限り、安全ではある。しかし本当の深みには行けない」

「弟はこの辺にはいないってこと? お母さんも」

「物理的な距離は意味を()さないんだ、ここでは」とその人は言った。「もちろん君の地球人としてのウホウホの肉体は、まだ君の部屋にいる。その一瞬を切り取って、我々は狭間の世界に下りてきたわけだ。こうして長々としゃべっているけれど、あちらではきっと一秒の一億分の一くらいの時間しか流れていないと思う。何か不具合が生じていなければ、だけれどね。なにしろ闇にはわけの分からないものがうようよしているから・・・」

「なにそのわけの分からないものって?」とぼくは心底不安に感じて訊く。「幽霊とか?」

「幽霊よりもウィルスの方が怖い」とその人は言った。「いわば時のウィルスだ。我々の感覚器官を浸食する。知らぬ間に時がものすごく流れていたりするんだ。それに感染すると。さっき説明したように、我々はものすごく小さくなって、人間の脳に寄生したんだ。そうするとね、似たような小さいウィルスに狙われることになる。そうやって多くの火星人たちが命を落とした」

「そうすると残ったウホウホの肉体はどうなるの?」

「大抵気が狂って火に飛び込む」とその人は言った。どうやら冗談じゃなさそうだった。「あるいは(がけ)から飛び降りたりする。運よく生き延びても、まあ大抵は一生精神病院の中だ。火星人が寄生したせいで、健全な理性が成長しなくなってしまっているんだ。ある意味では意思決定機関がぽっかりと空いた状態になる。ブルドーザーが操縦者不在のまま暴走しているようなものさ。生き延びることは不可能ではないが、生き延びる意味がなくなる。まあそんなところかな」

「ぼくら結構危険な状態にいるってこと?」

「いいかい?」とその人は教え(さと)すように言った。「安全な場所なんてどこにもない。我々は真実を見なければならないんだ。視野の狭いウホウホの地球人とは違っている。

。そんなものは視野の狭い大人たちの頭の中にしかない。あるいは怯えきった子どもたちの願望の中にしか、ね。君はサンタクロースを信じているわけじゃないんだろう?」

「馬鹿にしないでよ」とぼくは言った。「あれはお父さんとお母さんのことさ。一昨年(おととし)気付いた。弟にはまだ言っていないけどね。ぼくは大人だから」

「そう。それでいい。でも実はサンタクロースは存在するんだ。だいぶ年を取ってはいるがな。そして離婚した奥さんへの養育費の支払いとか、メタボリックシンドロームとか、頻尿(ひんにょう)とか、そういったもろもろの問題と闘っているのさ。そんなこと気にも()めていないって顔をしてね。彼だって大変なんだよ。なにしろ毎日顎髭(あごひげ)をシャンプーしなければならないからね。あれは本物でなければならないんだ」

「それで・・・結局何を言いたかったの?」

「ああ、すまないね。つい・・・。つまりさ、安全で、ハッピーで、なにもかもうまく行っている世界なんかどこにもないってことさ。地球上にもないし、火星にもない。意識の深みの中にもない。魂の真の暗闇の中においては、時刻はいつも午前三時だってね」

「何それ?」

「つまりそれくらい深くて孤独だってこと」

「午前三時は寝ている時間じゃない?」

「まあ良い子はそうだな。でも君は今日から良い子ではなくなった」

「悪いことすればいいわけ?」

「場合によってはな」とその人は言った。「一度火星人であることを悟ってしまうと、善悪の基準は一気に流動的なものになる。これまで当たり前だと思っていたことが、当たり前に見えなくなってくるんだ。まあ実際にそうなんだから仕方がないよな。全部奇跡の産物なんだ。にもかかわらず、そのほとんどが退屈だときている。なぜか分かるかい?」

「全然分からない」とぼくは正直に言う。

「地球人にはそういった(ころも)が必要だからだよ。退屈さとはつまり出口を塞いでしまうことさ。物語の出口をね。そうすると一気に色彩が失われることになる。スリルもなくなる。成長もなくなる。真実が覆い隠されてしまう。その代わり、決まり切った灰色の枠組みが、姿を現すことになる」

「ぼくはどうすればいいんだろうね?」

「要するにその枠組みを破壊することじゃないかな。もちろん建設的な破壊だけどね。君はある意味ではテロリストになるべきだ、ってことさ。なあ、格好良いじゃないか? 火星人のテロリスト。ウホウホの地球人たちに真実を見せる」

「でもテロリストって・・・悪い人たちでしょ? なんか爆弾とかで街を破壊したり、人を殺したり・・・」

「君がやるべきなのは人々の意識の壁を破壊することさ。もちろん結果的に、だけどね。まずは自分の意識の壁を破壊する必要がある。そのためには・・・自らの内なるブラックボックスを開封する必要が出てくる」

「どうして?」

「どうしてって・・・つまりそれこそが君の本質だからさ。実を言うとその奥に何が潜んでいるのか僕にも分からないんだ。誰にも分からない。なぜならそれは場所によって、時によって形を変えるからだ。君はそれを、あちら側で、死にながら生きなければならない」

「なにその〈

生きる〉って?」

「やってみれば分かるし、やってみなければ絶対に分からない。まあとにかく君は自由にならなくちゃならないってことさ。なぜなら・・・」

「火星人は自由を愛するから」とぼくは先を読んで言った。

「そう。その通り。よく分かっているじゃないか。じゃあここまで分かればもう大丈夫だな。僕はそろそろお(いとま)するよ。原初の混沌に帰る。僕は実はただのプログラムに過ぎないんだ。君に基本的な事実を教えてあるポイントまで導く。それが僕の役目だ。それで、それがめでたく終わったなら・・・死ぬ。ジ・エンドだ。さようなら。少年。うまく生きるんだよ」

「ねえ、待ってよ!」とぼくは焦ってきて言う。「嫌だよそんなの。こんなところに置いていかないで! 死なないでよ!」

「いいかい? 僕は正確な意味では魂を持っていないんだ。あくまで君のエネルギーを借りているだけでね。それこそ寄生虫みたいなものさ。これ以上存在していると、君に悪影響を及ぼしてしまう。本来君が使うべきエネルギーを僕が吸い取ってしまうのさ。それは間違ったことだ。火星人は自由を愛するが、同時に孤独をも愛するんだ。分かるかい? それが嫌なら一生ウホウホの地球人として生きればいいさ。好きにすればいい。でもね。一つだけ断言できることがある。それは・・・」

「それは・・・何?」とぼくは訊く。

「自由は素晴らしいってことさ。さて、そろそろ時間だ。タイムリミット。

時は止まっているけれど、

止まっているわけじゃない。その(わず)かな違いが、結構意味を持っている。今度は一人でここまで来るんだよ。そうすれば何かが見えてくる。ウィルスに気をつけて。あとちゃんと歯を磨くんだよ。虫歯になると十分に集中できなくなるから・・・」

「え? 本当に行っちゃうの? ちょっと待ってよ・・・」

「さようなら。少年。いつかまた会う日まで。たぶん会わないけど・・・」



 ドクン、という大きな鼓動の音が鳴って、ぼくは自分の部屋に帰ってきている。(まぶた)が突然()いて、いつもの自分の部屋の光景が飛び込んできた。ドアが少しだけ()いて、弟が顔を出していた。ぼくの方を疑わしげに見つめている。きっとゲームがやりたいのだろう。ぼくはそれを床から取り上げて、彼にちゃんと貸してやる。ありがとうと言って、彼はスイッチを入れる。ぼくは見るともなくそれを見ている。

、とぼくは思う。でもどうやら、少なくとも傍目(はため)には、いろんなことは元に戻ったみたいだった。実はあれは全部夢で、ぼくは全然火星人なんかじゃなくて、ウホウホの地球人で、ものごとはこのままいつも通りずっと続いていくのかもしれない、とぼくはふと思う。でもそう思った途端に、例のカチンという音が頭の中で鳴った。前頭葉だ、とあの人は言った。ぼくは目をつぶり、また目を開けた。そうすると、何かがちょっと変わったように見えた。また目をつぶり、そして再び目を開けた。そうすると、さっきとは違った何かが、またちょっと変化している・・・。どうしちゃったんだろう、とぼくは思う。この世界がおかしいのか。それとも

おかしいのか・・・。

「なにぼおっとしているの?」と弟が不思議そうな顔をして言う。

「ぼおっとなんかしていないさ」とぼくは強がって言う。でもそう言いながらもなお、弟の顔って、こんなんだったっけ、と思っている。もっと別な風な顔を、ぼくは想像していたのだ。でも実際には、かなり変な顔をしている。いびつだし、産毛(うぶげ)が生えている。動き方も変だ。なんかこう・・・全然落ち着かないのだ。いつも動いている感じ。あるいは

こんな風に動き続けているのだろうか・・・?

 弟が突然笑った。「なんか変な顔しているね。お兄ちゃん」

「ぼくは火星人だから」とぼくは言う。ドクン、と心臓の鼓動が鳴る。

「本当に?」と弟はすごく嬉しそうな顔をして言う。「じゃあぼくは土星人だ。あの輪っかのあるやつ」

「そうだな」とぼくは言う。「君は土星人だ」

「火星人ってビーム出せるの?」

「出せるよ。おでこからさ」とぼくは言う。そしてぱっと動いて、彼にこちょこちょ攻撃を仕掛ける。脇の下が、彼の弱点なのだ。「ほら! こちょこちょビームだ!」

 彼は身をよじらせて逃げようとするが、ぼくは逃がさない。「いや! やめてったら。それはビームじゃない! 反則だよ! お兄ちゃん!」

「土星人ならこれくらいは耐えられるはずだ! ほら! 逃げるなって」

「もう! やめてったら。お母さん! お母さん! お兄ちゃんが火星人だって! 

って! やめてったら、もう!」



 ぼくはそのあと一人で外に出て、街のいろんな場所をほっつき歩いて、その(かん)もひたすら考え事を続けていた。秋の乾燥した風がみんなの上を通り過ぎていった。ヴェールのような白い雲がやって来て、そっと空を覆って、そしてやがてはどこかに消えた。鳥が鳴いていた。ぼくは正直なところ、どれだけ歩いても落ち着いた気持ちになれなかった。心が一カ所に留まっていないのだ。常に動き続けている。まったくもう・・・。何がおかしいのだろう、とぼくは思う。でもよく分からなかった。いろんなものがこう、

気になってしまうのだ。まるで本当はここにないものなのに、とりあえず外見をごまかすために置いている、みたいな。中身は空っぽだけど、見た目さえ取り(つくろ)えばそれでいいだろう、みたいな・・・。

 ちなみにぼくはいつも通りの格好をしていた。いつもの休日の服装。いつものジーンズに、いつものTシャツに(リバプールのやつだ。モハメド・サラーがぼくのお気に入りの選手だった)、いつものスニーカー(ニューバランスのやつだ)。いつものキャップ(どっかのアメフトのチームのもの)。そして、なによりも、お気に入りのジャンパー(去年叔父(おじ)さんに買ってもらった。紺色で、テカテカしていて、後ろにわけの分からない英語の文句が書いてある)。でもなんだかそれすらも、正直間違った服のように感じられた。

、とぼくは思う。ぼくはいつもこれを着ると、なんだか誇らしい気持ちになったものだった。だってこんなもの誰も着ていないもの(それはすごく珍しいジャンパーだったのだ)。ぼくはぼくで、ほかの誰でもない、っていう感じがしていた。でも今に限っては、全然そんな感じがしない。むしろ過去の自分をなぞっているだけみたいな感じがする。本当は別の生き物なのに――例えば火星人とか――無理矢理演技をしている、みたいな・・・。

 ドクン、と心臓の鼓動が鳴る。ぼくは街を歩きながら――街もまた、いつもとは違った風に見えた。なんだかすごく灰色なのだ。ものすごくつまらない。そこを歩いている人々も正直張りぼてみたいにしか見えない。どうしちゃったんだろう、とぼくは思う。でもそんなこと思ったところで、ものごとの見え方はまったく変わらない・・・――自分の胸に手を当てる。なんだか変な鼓動だな、と思いながら。そういえばあの人は意識は火星人で、身体は地球人――

地球人だ――と言っていたような気がする。だとすると、この心臓は地球人のぼくの方に属している、ということになる。そう考えるととても不思議な気持ちになった。ぼくはこうして心臓が動いている状態が当たり前だと思っている(思ってきた)。でも本当はそうでもないのかもしれないぞ。本当はこうして動いていられる状況そのものが、一種の奇跡みたいなものなのかもしれない・・・。

 ぼくは街のいろんなところを歩き回って、いろんなものを見て回った。でもそのどれ一つとして面白くはなかった。ぼくが過去の自分をなぞっているように、みんなもまた――そこにはたくさんの大人たちが含まれている。立派な大人たちだ――過去の自分たちを――あるいは想像上の「こうあるべき」という自分たちを――なぞっているだけのように見えた。正直なところ「服を着たゴリラ」にしか見えなかった、というのが本当の気持ちだ。川沿いの道に寝転んでいるアル中の汚いおじさんは、何の振りもしていなかったけれど、

だらしなかった。その目は深い哀しみを(たた)えているように、ぼくには見えた。

 不思議なことに――あるいは全然不思議ではなかったのかもしれなかったけれど――これまですごく面白いと思えていたようなものごとも、今ではどうでもいいと思えてきてしまった。たとえばゲームセンターを覗いてもどうでもよくなっちゃったし、スポーツウェアのお店に行ってリバプールのユニフォームを見ても心は踊らなかった。友達の何人かとすれ違ったけれど、彼らはただの子どもにしか見えなかった。ファンタジーの中で暮らしているのだ。「物語の出口が閉じられている」とそういえばあの人は言っていた(あれは本当は誰だったんだろう・・・?)。たしかにそんな感じだな、とぼくはまわりの人々を見ながら思っていた。閉じられているのはなにも子どもだけではなかった。むしろ立派(そうな)大人たちがそうだった。老人たちだってそうだった。みんな何かの振りをしているのだ。そして時間をそのまま後ろへと押し流している。まるで何事もなかったかのように。自分たちは全然危険な場所にはいなくて、死も孤独も存在しなくて、みんなでニコニコと――まあニコニコしていない人もいたけど、とにかく――こうやって時間を過ごしているのが当たり前のことなんだと言わんばかりに・・・。

 ぼくは歩いているうちにすごく寂しくなってきてしまった。本当に、この地球上に、仲間が誰もいないみたいな感じ。さっき経験した

を誰かに話せたらいいのだろうけれど・・・でもどこにもあれを理解できそうな人はいないような気がする。両親も駄目だし、先生だって駄目だ。今横切った工事現場のおじさんも駄目だろう。同級生たち? あいつらはわあわあ騒いで走り回っていれば幸福なのさ。猿と一緒さ。サッカークラブのコーチも、監督も、保護者会の代表のトシキ君のお父さんも、駄目だろう(トシキ君のお父さんは弁護士である。背が高くて、格好良い。いつも高級そうなスーツを着ている)。なぜならあの人たちは、みんな地上で生きているからだ。地上のことだけを見て生きているからだ。だから「振り」をしていても大丈夫なのだ。そういった状況に耐えられるのだ。なぜなら真実が見えないからだ。ああやって、歳を取って、実際に死んでいく。その瞬間でさえ、きっと自分の人生が何だったのかなんて、理解できないに違いない・・・。

 ドクン、とまた鳴る。ぼくはまた自分の胸を押さえる。ぼくのウホウホの地球人の肉体。健康な心臓。順調に背が伸びている。でもだからなんだっていうんだ、とぼくは思う。なんだか腹が立ってくる。

だ? 全部無駄じゃないか? 全部地上のことじゃないか? 学校の成績も、サッカーのゴールも。女の子も・・・。全部地上のことだ。ぼくは火星人なのだ。そんなことには、もう興味が持てなくなってしまっている。なぜなら真実が見えてきてしまったからだ・・・。

 待てよ、とぼくはそこで思う。そういえばあの人は全人口の一パーセントもいないかもしれないけれど、火星人はある程度はいるって言っていたような気がする。だとすると、本当によく探せば、ぼくのほかにも真実が見える人がいるのかもしれない・・・。ぼくはそこであたりをキョロキョロ見回してみる。でもそれらしき人の姿はない。みんな振りをしているか、あるいはただ単に()けているか(老人たちだ)、それともファンタジーの中で生きているか、人生にシツボウしているか・・・。そのどれかだ。要するに自分たちの人生が不毛であることに気付いていないのだ。あるいは気付いていたとしても、それをなんとか前向きな方向に持っていこう、という努力をしていない。それは正直不思議な光景だった。まるで動物園を上から見下ろしているみたいな気分だ。服を着た――着せられた――動物たちが、(おり)の中をうろうろ歩き回っている。腹が減ったら(えさ)を食べる。その時期が来たら――たぶん――交尾なんかもするんだろう・・・。でも実のところ檻の鍵は開いている。ぼくはそれを知っている。ぼくはそれを知っている。ぼくの火星人的な部分がそう言っているのが聞こえるのだ。彼らはあくまで自分から外に出ようとしないだけなのさ。なぜなら危険だからだ。そして死を見つめなくちゃならない、ときている。いいかい? 本当の世界の裏にはいつも死が存在している。空気にも、光にも、よく見ると死がちゃんと含まれているんだ。我々はそれを摂取しながら生きている。いいかい? 死を見つめた意識だけが、本当の意味で生きることができる。それはもうずっと前から決まっていたことだ。君が生まれるもうずっと前から、ね。

 その声はあの人の声にも似ていたけれど、たぶん違うと思う。そういえば「ゲンショのコントンに帰る」って言っていたしね。あくまで自分の内側の声なんだと思う。そういう観点で言うと、ぼくはやっぱり一人ぼっちだ、ということになる。誰にも理解されないし、まわりに火星人もいない。それにきっといたとしても、その人は孤独を愛するんじゃないだろうか、とぼくは思う。火星人は自由と孤独を愛するのだ。ウホウホの地球人みたいに簡単に群れたりはしない。そのあたりのことはなんとなくぼくにも想像できた。みんなで集まって同じことをするのが好きな人は――すぐに学校のことが頭に思い浮かんで溜息が出たが。ハア・・・――たぶん自由を愛さない人たちなんだろうな、とぼくは思う。むしろ「振り」が好きな人たちだ。みんな俳優みたいなものなのさ。演技をして、時間を押し流す。それは二度と戻ってはこない・・・。

 

、というのが、今ここにある課題だった。いや、「

」なんかじゃなくて、これからの人生ずっと付いてまわる課題なのかもしれないぞ、とぼくは思う。ドクン、とそのとき大きな音が鳴って、ぼくはまたとっさに胸を押さえる。まるで心臓が「その通りだ。少年」と言っているみたいだった。だとすると、やはりぼくのウホウホの肉体も、きちんと生きることを望んでいるのかもしれない。そりゃそうだよな。一生檻の中で行ったり来たりし続けるなんて、正直クソみたいな人生だ。それが分かっていなかったらまだいいけど、ぼくは気付いてしまったのだ。全部振りだって。だとしたら、本当のことを見て、本当にやりたいことをやって、生きていくしかない。それが火星人としての義務じゃないか? 自由を愛する火星人としての。

 ぼくはやっぱり歩きながらそんなことを考えていたのだけれど、

、という点に関しては答えは出なかった。みんなみたいに振りをしているわけにはいかない。これまでみたいに家に戻って、ニコニコとくだらないゲームをして(それがとことんくだらないものであったことをぼくはすでに悟っていた。ああ、なんという大量の時間とエネルギーを、あれに費やしてしまったのだろう!)、家族と話をして、そして眠りに就くというわけにはいかないのだ。

。それが重要なところだ。ぼくは自由を愛する火星人であり、死を――本当の死を、自分自身の死を――見つめることができるようになった。みんなが振りをして生きていて、ホンシツテキには不毛なのだと理解することができる。あらゆる言葉が台本通りで(つまらない台本だ。もちろん)、あらゆる行動が徒労に過ぎないことを知っている。なぜなら全部地上のことに過ぎないからだ。みんなウホウホの地球人なのだ。でもまあ、いつまでもそうやって文句を言っていても始まらないだろう。ぼくはそのこともちゃんと知っている。だってみんな変わったりはしないだろうから。ずっとそうだったのだ。そしてその状況は今日明日(あす)で劇的に変わったりはするまい。きっとイエス・キリスト様の時代からそんな感じだったのだろう。と、すると、もしかしたらイエス様は火星人だったのかもしれないぞ、とぼくはふと思う。だってそんな目をしていたものな。美術の教科書に絵が載っていた。あれはたしか後世に想像で描かれたものだったはずだけれど、それでも不思議な表情をしていた(すごく透明な感じなのだ。この辺にいる大人とは全然違っている)。もしかしたら本当に彼の脳にも小さな――すごく小さな――火星人が寄生していたのかもしれない。だから真実が見えたのだ。そしてその結果――あまり想像したくないけど――十字架に架けられて、殺されることになった・・・。

 ぼくは一度身震いをした。ぼくはイエス・キリスト様じゃないけど、もしかしたらあんな風に十字架に架けられるのかもしれない。火星人だということで。みんなが見ていないものを見ている、という罪で・・・。でも今の日本にさすがにあんな刑罰は存在しないだろう。でもそういえば死刑そのものはあるんだった。拘置所――だったか、留置場だったか、刑務所だったか忘れたけど、とにかくそういった施設の中で――床がバタンと開いて、首にかけられたロープがぎゅっと締まる。息ができなくなる。おしっこを漏らしてしまう。スーツを着た役人が、ガラス越しにこちらを見ている。ぼくは(あえ)いで逃れようとするのだけれど、そうすればするだけロープは強く締まってくる。死が近づいてくる。本当の死が・・・。

 ぼくは死刑になんかなりたくなかった。でもとにかくたしか人を殺さなければ、今の日本では死刑にならないはずだった。ふう・・・。でもその想像がもたらした寒気は――冬の朝に裸で外に出ていくよりも寒い――いつまでもぼくの身に残り続けていた。心臓が一生懸命温かい血液を全身に送り届けていたけれど、それでもまだ足りないみたいだった。ぼくはまたひたすら歩き出した。そうすれば少しはポカポカすると思って。それでも歩けば歩くほど、ぼくは不毛になっていくみたいだった。ぼくはたぶん、心のどこかで、まだ例のあの話を信じられないでいて、誰かが突然「全部夢みたいなものだったのだから。心配しないで。君は安全だよ。難しいことも考えなくていい。死なんか存在しない。暖かい家庭で、温かい食事を取って、暖かいベッドで眠っていていいんだ。悪いものは君の身には近づけっこないんだからね」とでも言ってくれるのを期待していたのだと思う。でもそんなことは全然起きなかった。というかもし起きたとしても、ぼくはその人の顔を疑いの目でもって眺めていたと思う。こいつだって演技をしているだけなんだ、とね。だからぼくはその寒気と共に――コンゲンテキな寒気だ。たぶん――歩き続けることになった。目的地も持たずに。なぜならぼくは自由だったからだ。そして自由であるということは、

、ということを意味する。



 夕暮れが近づいてきて、ぼくはふと、あの人が言っていたことを思い出す。たしかぼくは元の世界に戻ることはできるけれど・・・たぶんそれには耐えられないだろう、という話だった。たしかにそうだ。一度こういった光景を見てしまっては、もうあとには戻れない。全部なかったことにして、ニコニコと暮らし続ける、というわけにはいかないのだ。じゃあどうすればいいんだろう、とぼくは思う。そういえば「ブラックボックス」がどうのこうの、って言っていたような気がするな・・・。時の狭間(はざま)の底の方にそれは存在していて・・・ぼくの中心と結び付いている。いや結び付いているんじゃなくて、ぼくの中心そのものだったんだっけか? まあとにかく「生きる意味」を探求するためにそれを開封する必要があるって言っていたな。いまだに何のことなのかよく分からないけれど、なんとなく感覚的になら理解できるような気がした。要するに本当に自分が何をしたいのか探るために、ひたすら一人になって集中するのだ。そうすればウホウホの肉体を離れて、純粋な火星人としてのぼくになれる。そのあとで、深い暗闇と孤独の中で――「魂の真の暗闇の中においては、時刻はいつも午前三時だ」――ぼくは何かを発見できるかもしれない。

。それはあくまで可能性に過ぎない。ぼくにだってそれは分かる。それにあそこには――あの時の狭間には――そういえばウィルスもいるって言っていたな。だとしたらすごく危険な場所なんだ。あの人がいればいいけれど、もうゲンショのコントンに帰ってしまった。だとすると、ぼくは――もしそうしたいと欲するならば――一人でその先に進まなければならない・・・。

 心が決まらないまま、しばらく同じペースで歩き続けていた。相変わらず外の世界はつまらなかった。

のだ。いろんなものがあるのに、真に重要なものはなんにもない。まるで空っぽの容器みたいなものだ。街そのものが容器なのだ。本当は何かを注ぎ込むべきなのに、誰も注ぎ込む人がいない。それは・・・あるいはぼくのことなのだろうか?

 そのときまたドクン、という大きな心臓の鼓動が鳴る。これは――このときどき鳴るすごく大きな鼓動は――一体何なんだろう? 明らかに普通の鼓動とは違っている。普通はもっと静かに、気付かれないように――かどうかはよく分からないけれど、とにかく――鳴っているものじゃないか? 別にぼくが意識して動かそうとしなくても、勝手に鳴っている。寝ているときも、考え事をしているときも、食事を取っているときも・・・。

 ドクン、とまた鳴った。どうやらそれはぼくに向けられた一つのメッセージみたいだった。というかそう考えるほかなかったのだ。だからこそきっと、こんな風にして大きな音で鳴っているのだ。たぶんウホウホの地球人の方のぼくが、意識としての火星人のぼくの方に、何かを伝えたがっているのだと思う。しかし「ウホウホ」の方はちゃんとした言葉を持たない。だからこうやって、心臓を大きく鳴らすくらいしか方法がないのだ。じゃあ今それは何を伝えたがっているんだろう?

 ドクンとまた鳴った。それはどうやらぼくに「上を見ろ!」と言っているように思えた。違うかもしれないけれど、ふとそう思ったのだ。ぼくはそこで立ち止まり、上を見上げる。急に立ち止まったせいで後ろにいた自転車のおじさんがベルを鳴らしたけれど、そんなことは正直どうだっていい。きっとなんにも見られない人なのだから・・・。

 ぼくは上を見上げる。そこには薄い雲と、夕暮れに近くなった――でもまだ夕暮れではない――青い秋の空が広がっていた。乾燥した風が吹いていた。なんだ。なんにもないじゃない、とぼくは思う・・・。と、一羽のカラスが通り過ぎていった。真っ黒なカラスだ。カーカー、と鳴いている。もちろんカラスなんて珍しくもなんともない。毎日見ているといってもいいくらいだ。ゴミを(あさ)って、その辺に散らかして、片づけもしないで呑気に飛び去っていく。お母さんがいつも文句を言っている。弟は一度突っつかれそうになって、ひどく彼らを恐れている。「あれは悪魔の使いなんだよ」と彼は言っていた。そういった絵も描いた。いずれにせよ、ぼくにとって――というかたぶん誰にとっても――カラスなんて珍しくもなんともない、ということだ。美しくもない。ただの汚い、うるさい、都会に()み付いた「できればいない方がいい」鳥だ。そいつが今空を横切っていったのだ。

 秋の澄んだ空を背景にすると、否応(いやおう)なくその鳥はすごく黒く見えた。なんだかいつもよりもさらに黒い感じ・・・。墨を煮詰めて、それをさらに煮詰めて、世界中の闇を溶かし込んで、魔女の秘密の杖を使ってかき混ぜたみたいな・・・そんな黒さなのだ。ぼくは思わず目を奪われてしまった。そう思って見ていると、そいつの鳴き声もまた、普通とは違っているように聞こえた。カー、カー、とそれは鳴いていた。音そのものは普通なのだけれど、

がちょっと違っている。ぼくにはそれが分かる。「余韻」とでもいうのかな・・・。とにかくその声の裏には濃密な闇が含まれていたのだ。そしてさらにその奥には、確実に死の気配が存在している。背筋がすっと寒くなるような、「終わり」の感覚・・・。ジ・エンド。あとに残るのは無だけだ・・・。

 そのときまたドクン、と鳴った。そこでようやく悟ったのだが、カラスはずっと真実を見ていたのだ。ぼくには今それが分かった。ぼくは火星人であることを悟った結果、このようにして真実を見通す力を得た。人々は狭い世界で

を続けている。自分たちの人生が一回限りのものであることにも気付かずに――あるいは意図的にそこから目を逸らして――くだらないことで時間とエネルギーを浪費しているのだ。そしていつか実際に死ぬ。あるいはそれは彼らの救いなのかもしれない・・・。いずれにせよぼくが今気付いたのはそんなことではなくて、カラスたちがずっとそのことを認識していたという

なのだ。たぶんカラスだけじゃなくて、ほかの動物たちもまたきちんとものごとを把握していたのだろうな、とぼくは思う。だからあんな哀しい目をしているのだ。彼らはきっと我々に訴えかけていたのだ。

、と。この貴重な人生を――(つか)()の人生を――そんなことに(つい)やしていいのか、と。

 でもだからといってカラスたちが何かまともなことをやっているようには思えないよな、とぼくはふと思う。せいぜいガーガー鳴いて、ゴミを漁って、フンを落っことして・・・それくらいが関の山じゃないか? ぼくにはよく分からなくなってきてしまう。じゃあ動物になればいいってわけでもないのかな・・・。彼らは真実を見ているけれど――少なくともウホウホの人間よりは、ということだけれど――かといって人間のような行動の自由を持っていない。きっとホンノウだけに動かされて生きているのだろう。そして交尾したりして、子孫を()やす(あまり想像したくないけど・・・)。そういった流れの中でずっと生き続けてきたのだ。じゃあ人間は? というか火星人は? ぼくたちはその流れの中で、一体何を

なのだろう?

 そのカラスは遠くに行って、また戻ってきて、グルグルと何度か輪を描いた。ぼくはただじっとそれを見ていた。小さな黒い羽が一枚ヒラヒラと落ちてくるのが見えた。すごく小さかったけれど、ぼくにはちゃんとそれが見えたのだ。どうやらそれは少し離れた場所にある、児童公園のあたりに落ちたみたいだった。正確にそこかどうかは分からないけれど、まあ行ってみたら、もしかしたら見つかるかもしれない。まあ見つからなくたっていいのだけれど――別にカラスの羽なんて今さら欲しくもないしね――でも今に限っては、ぼくはそれを探しに行きたいと思った。それはあるいは、あまりにも何をしていいのか分からなかったせいなのかもしれない。あの人は「ブラックボックス」を開封しろ、って言っていたけど、ぼくにはそもそもブラックボックスって何のことなのかも分からない。それにひどく混乱している、ということもある。長く歩いていたせいで脚も疲れてきている。ドクン、とまた心臓の鼓動が鳴った。元気なのは心臓くらいだな、とぼくは思う。ぼくはとにかく、その羽が落ちたあたりを目指して歩いてみることにする。少なくとも一時的な目標ができたことが、ぼくを安心させている。カラスそのものは、もう一度輪を描いて、「アー」と一声怒ったように鳴いたあと――一体何に怒っていたのだろう。あるいはぼくだろうか?――どこかに本当に消えてしまった。あとには澄んだ秋の空だけが残った。ぼくは速足で、その児童公園に行ってみることにした。

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