第1話 「孤愁の剣」 決戦、洲崎十万坪

文字数 10,637文字

 (五)決戦、 洲崎六万坪

 相手は一佐の顔を知らない。が、一佐も榊なる男を知っている訳では無い、万が一にも人違いであってはならない、どうしても確とした証を得なければならなかった。
 だが、この榊なる男、自分の腕に傲っているのか、人を闇討にした事を、臆面も無く周りに自慢げに話していたらしい。ただ、闇夜に背後からとは流石に言えないらしく、その辺りは隠し、堂々と勝負したかのように騙っているようであった。
 意気込んで榊の周辺を訊き回った三人であったが、幾日もせずにその確証は得られた。
 何度か榊に付いて湯屋へ行ったことがあるという仲間から、榊の右腕付け根に、一佐の義父が見舞ったらしき刀疵があるとの証言も得られたのである。一佐は、直ぐ様藩の江戸屋敷へ出向き、その旨を伝えた。
 だが、そこから先が、予想通りややこしい事になってしまった。
 旗本と大名。これが、おおよその場合、至って仲が宜しくない。とんでもない暗礁に乗り上げてしまったのである。
 元々が余り質の良くない連中の事である、旗本の威光を嵩にきて榊を庇い立てし、何やかやと屁理屈をこじつけ、とても一筋縄ではゆかず、次第に話が拗れてゆく。
 一佐の藩としても、主命での仇討である、後には退けない。
 仇討を差配する町奉行所とて、旗本には頗る弱い。まして相手は旗本寄合席、家格としては大名に匹敵する。が、待たされはしたが、何とか裁きは出た。
 三日後、四つ刻、洲崎六万坪。双方助太刀、十名まで。
「何だ、これは。まるであべこべではないか、討たれる仇は向こうであろうが。旗本の無理強いですね、これは。闇討なんて、本来ならば罪人でしょ、その罪人に助太刀を付けるなんて前代未聞、聞いた事もありません。それも十人ですよ、奉行所も舐められたものですね。それに、どうして洲崎六万坪なんだ、あんなとこ、塵捨て場ではありませんか」
 荘介が怒りにまかせて不満を捲くし立てるが、なぜか、隣に座る四郎は黙って考え込んでいるようであった。
 これを耳にした門弟達から、十人なれば我もと、助太刀志願者が次々に申し出てくる。だが、真一郎は、荘介の怒りを尤もな事と頷き、何かを深慮し、門弟達を宥め、この事を固く口止めするのであった。
 門弟の中には、旗本屋敷の者も、様々な藩の者もいる。誰を選んで誰を選ばずという訳にもゆかなかったし、その要もあるまいと真一郎は思うのであった。
 旗本であるからには、それなりの剣の修行もしていよう、生半可な相手ではあるまい。が、やはりここは自分達だけでと三人は覚悟を決め誓い合うのであった。
 奉行所の方では、本当にそれで良いのかと心配していたが、こちらは助太刀三名と申し出る。
稽古にも自ずと力が入る。
「加減しておけよ、大事の前に怪我をしては元も子もないぞ」と、真一郎が心配し、苦笑を浮かべながら意気込む三人を抑えにかかる始末である。

 斯くしてその朝は来た。
 内藤新宿から洲崎までは、江戸城を挟み、ちょうど反対の位置にある。
 四人は余裕を取り、朝早く稽古場を出た。
 シカ婆さんが心配そうな顔をし、「みなさん御無事でのお帰りを待っていますよ」と、頭を垂れ、今にも泣き出しそうな顔で言うのであった。
「ありがとう。大丈夫、皆元気に戻ってくるよ、酒の支度をして待っていてください」
 真一郎が頬笑みを浮かべ、シカ婆さんに礼を言う。
 真っ直ぐに四谷大木戸から四谷御門へ。掘割を南へ巡って、紀伊国坂から溜池沿いをゆき、虎ノ門から汐溜橋へ。そして、鉄砲洲波除け稲荷から、日本橋界隈の河岸の朝の賑わいを避け永代橋で大川を渡った。大川端から仙台堀沿いにゆくと、細川家下屋敷裏手が洲崎六万坪である。
 内藤新宿から四谷御門を過ぎると、ここまでの道はそのほとんどがお掘や掘割、若しくは川沿いにあった。
 人は水に依りて生きるのだともいう、初夏のその朝の空気は、水辺特有の落ち着いた雰囲気で冷んやりと四人を包み、寡黙にさせ、何かを内に潜み込ませてくれた。多分それは、四人の心に通い合うものに違いはなかった。
 石島町で、奉行所の用意してくれた天馬船に乗り、洲崎六万坪へ渡る。
 荒涼としただだっ広い原っぱに、松の木が何本がぽつん、ぽつんと立ち、そこここに繁茂し始めた夏草が丈を伸ばし始めているだけである。 その中に白い幔幕が張られ、役人と思しき人々が十四、五人、それに囲まれた広場を取り囲むようにし、その重い空気を押し包むかのように、じっと床几に座っていた。
「越後古志浜藩、吉野一佐衛門殿でござるか。どうぞこちらへ」
 四人は将几の用意された控えへ案内された。
「まだ榊玄十郎は参りませぬ。が、見張りも付けておりますれば、もう直に現れるものと思われまする。それまでの間、しばし御休息を」
「忝うございます」と、一佐がその役人に礼を言う。
「御武運、お祈り申し上げます」と、畏まって言う役人に、一佐は黙って低頭し、三人もそれに倣った。
 一佐が白装束に着替え始め、三人もシカ婆さんの用意してくれた新しい襷を掛ける。
 四人は、稽古場を出てからも、今も、ずっと口を利かない。
 幕の向うが何やら少し騒めいている。どうやら、榊玄十郎達が現れたらしい。
 奉行所の役人が名を改めているらしく、恭しく、「旗本寄合席、何の何某様。旗本、何の何某様御二男云々」と、仰々しい声が聞こえてくる。
 やがて、案内され幕の内へ入る。
 屈強な侍が威圧するように横一列に並び、四人を睨みつけていた。
 ひと際大柄な、真ん中に立つ浪人髷の男が榊玄十郎であろう。
 評定所の方から選ばれたと聞いていた立会人が、簡単な口上を述べる。
「細川越中守様、格別な御計らいにて云々」と、その中から聞こえた。どうやらこの六万坪に決まったのは、すぐ向こうに見える白塀の屋敷の主、肥後細川家の助力があったらしい。
 立会人が両者の間から下がると、その場の空気は一変した。
 口ぐちに罵るような言葉を発し騒めく相手を余所に、四人は最初に目を合わせただけで、一言の言葉を交わす事も、相手に発する事も無かった。
 先鋒の一佐を扇の要に残し、真一郎を中に、右に荘介、左に四郎。互い、やや間を明けて旗本の集団へ雪崩れ込んでいった。
 その素早さに、旗本達は一気に統率を失い散り散りになってゆき、直ぐに何人かが蹲るようにし転がっていた。
 真一郎が、狙うは頭目とばかり、旗本、大久保采女正に迫る。が、出来の悪い旗本の集団とはいえ、流石に何十人かの旗本を束ねる者だけの事はあり、真一郎も四人ほどを向こうに回し少し梃摺っているか。
「新陰流皆伝、うぬらごときに負けてたまるか。畜生!三河以来の旗本、大久保采女正将監を甘く見るなよ」
 だが、真一郎の右斜下段の誘いに、上段から真っ向斬り下しで撃ち込んだ大久保の一刀は、真一郎の逆袈裟に弾き返され、返す刀で首筋を撃たれると、敢え無く悶絶して散った。
 真一郎は刀を納め脇差を抜くと、その髷を断った。
「大久保采女正、討ち取ったりー」
 真一郎が声も高らかに、その髷を頭上に差し上げる。
 大将の死に戦意を失った他の者達は、もうなす術も無く、たちまちの内に荘介と四郎に斬り伏せられてしまった。
「一佐。後は存分にやれい」
 真一郎の声が六万坪に響き渡った。
 一佐は、まだ刀も抜かず泰然と立ち尽くし、既に鞘を払った榊を睨みつけていた。
 真一郎の声に応え、一佐は静かに刀を抜いた。
 榊玄十郎の顔に、明らかな怯えの色が浮かんだ。が、苟も剣客を名乗る者、覚悟を決めたか、晴眼に構えると一佐に対した。
 一佐が八双に構えると目を瞑り、「義父上、一佐衛門参ります」と呟き、義父の形見であるという刀に小さく低頭した。
 榊の動きを待っているかのように一佐は動かない。
 榊の方は、明らかに自ら動く事を怖れている。が、緊張の極み、沈黙の持つ畏怖に堪えきれず、その怖れを振り切らんとするかのように大きく上段へ構えを移すと、我武者羅に一佐へ真っ向斬り下ろしで襲いかかってゆく。
 一佐がそれを弾くと、いきなりあの剣が出た。
 ガクンと膝の折れた榊の右へ抜け様に、追い撃つように背中側から脇腹を撃つ。
 鈍い音がし、大きな朽ち木が倒れるかのように榊が悶絶し崩れ落ちた。
 一佐が倒れた榊に小さく低頭し、その髷を落とすと懐紙に包み懐へ納め、正面に立つ立会人に向かい深々と頭を垂れると、並んだ三人も同じように頭を垂れた。
 緊張の解れた立会人や役人の間から、称賛の声とも溜息ともつかぬ騒めきが湧き、やがて静かに収まっていった。
「御本懐おめでとうござる。見事な仇討、この場に居る事、稀に見る幸せにござる。越中守様御配慮、下屋敷内にて暫時お休み下され」
 立会人の言葉に、下屋敷の侍らしき者が先に立って案内しようとするのを、一佐が丁重に断る。が、この場を設えてくれた細川家に礼を失してはならぬと、真一郎がそれを制した。
「御本懐、おめでとうござりまする。真にもって御見事な次第、感服仕った。お疲れでございましょう、堅苦しき礼は無しに致し、さぁ、お寛ぎくだされ」と言いながらも、随分と礼儀正しく迎え入れられ、客間へ通された。
 一佐を除いては日頃から気楽そのものの三人、先程の勢いは何処へやら、ここへきてすっかり固くなってしまっている。
 人の良さそうな老いた侍が、江戸家老と名乗った後、
「失礼とは存じ申したが、塀越しに拝見させて戴きましたぞ。見事な戦いぶり、圧巻にござった。富田流、それに無蓋流にござりまするか。今日の仇討、この老人、今生の土産にござる。我が殿にもお見せ致したかった。稀に見る天晴れな者達じゃ」と、我が事のように喜んでいる。
「越中守様には、格別の御計らい、真に有難く、お礼の言葉も見当たりませぬ。どうかよしなにお伝えの程」と、真一郎が言い終わらぬうちに、廊下を慌ただしい足音が近づき、忙しなく侍が現れ、片膝を着くと、声を抑え老人を呼んだ。
「御家老!」
「何じゃ、無粋な」
 顔を顰めながら老人は廊下へ出、何やらヒソヒソと耳打ちをされている。
「真か、それは」
 驚きの表情を浮かべた老人が戻ってきた。
「あやつら、皆息を吹き返したそうじゃ。何とした事か」
「一人も死んではおりませぬか。それはようございました」と、真一郎がほっとした様子で確かめるのであった。
「多勢の敵と真剣で戦う事、初めての事でございました故、過って死ぬ者も出るのではと危惧致しておりましたが、幸いです」
「何を言っておるのじゃ、仇の榊玄十郎とやらも、他の者共も、怪我はしておるが死んではおらぬというではないか。何とした事じゃ」
 四人は顔を見合わせ、笑みを交わし合うのであった。
「何を笑っておるのじゃ、その笑いの意味するところは何じゃ」と、江戸家老は怒る。
「例え仇討とて、人を殺すのは好みませぬ。彼らも人の子、ましてあの年であれば人の親であるやも知れませぬ。死ねば、残された者に恨みを抱かせぬという事は至難の事でありましょう。憎しみの連鎖が、今ここで断たれるのであれば、死んでいった者も喜んでくれましょう。我等四人、同じ思いにて剣の修行に励んで参りました。武士道に惇るやも知れませぬが、何卒御容赦のほどを」
「現に真剣で立ち合うていたではないか。遠眼ではあったが、峯を返しているようには見えなかったが、そうであろう」
「御賢察の通りにございます。しからば、失礼仕ります」
 真一郎が刀を抜くと老人の前に翳した。
「刃引きか……。うーん、刃引きの剣で戦うたのか、三人で、十人を相手に……」
 一度言葉を失った江戸家老が、確かめるように一佐を見て言った。
「吉野殿もそうであると言われるのか」
「はい」と、一佐が頷く。
「仇を討たんとする本人までがのぅ……」
 また忙しげな足音がし、「何事じゃ、休息にならぬではないか。済まぬの」と言いながら老人が廊下へ出、また廊下でヒソヒソと耳打ちらしき様子である。
「何!」
 一段と高い声がし、顔を顰めた老人が戻ってきた。
「大久保采女正、息を吹き返した後、腹を切った。それを見、榊玄十郎も喉を掻いて果てたそうじゃ。あ奴等、一応、武士の心の欠片は忘れてはいなんだようじゃの」
「そうでございますか」
 一佐が、無念を噛みしめるように呟いた。
「いや、吉野殿、徒になったなんぞとは思うまいぞ。あ奴等に、武士の心、人の心の一分でも目覚めさせ、自らを守らせた貴殿達の心、之天晴れなり。この老人、無駄に長生きをしたと思うておったが、今日の事拝見させて貰うて死ねるは無上の幸せぞ」
「畏れ入ります」と、一佐も、三人も頭を垂れた。
 が、やはり四人の心に無念の思いは強く残っていた。
「疲れたであろう、大した事は出来ぬが、今日はここへ泊られよ。古志浜藩にも稽古場へも使者を立てる故、是非にもそうなされてくだされ」と勧めてくれたが、四人は固辞した。
「そうか、相分かった。ここに着替えを用意してある、まさか刃引きとは思わぬでの、返り血を浴びたままではと思うたのじゃが、老婆心であったかの」
「有難き幸せにござりまする。御厚情に甘えさせて戴きまする」
 真一郎が深々と頭を垂れ、並ぶ三人も頭を垂れた。
 用意された着物に着替えると、四人は今朝来た道を内藤新宿へ向かった。
 途中、永代橋の袂で待っていた山地道場の面々が、事の成就を総出で祝い、勝ち鬨を挙げ見送ってくれた。
 四谷の大木戸にも稽古場の門弟が二人、今か今かと待ち侘びていたらしく、四人の表情からそれと察し、無事を確かめると、荘介と四郎の手から着替えの入った風呂敷包みを奪うように手に取り、「先ずは、皆に知らせとうございます」と、一目散に稽古場へ向け走って行くと、四郎も屋敷の方へ小走りに走り、すぐに戻ってきた。
 暗くなり始めた稽古場の前で、大勢の門弟達が、今か今かと四人を待ち侘びていた。
「おめでとうございます」
「御無事でなによりです」
 口ぐちに声をかけてくる門弟達を制し、
「皆、ありがとう。この度のこと、お蔭で上首尾に終わった。明日も休みにしてあるが、ささやかな祝いでも致そうと思う、身体の許す者は明日の午後稽古場に来てくれ。今日は四人、ゆっくりと休みたい、宜しく頼む」と、真一郎が門弟達に礼を言い、今日は引き揚げてくれぬかと頼むのであった。
「お怪我も無く何よりでした。お風呂湧いてますよ」と、シカ婆さんも涙声で迎えてくれる。 
「一佐、上屋敷の方はどうするのだ」と心配する真一郎に、「明日朝早めに参ります。細川家の御家老より知らせの走ったよし、もう皆様御安心の事と思いますし、今は殿も国元でございます故」と、気にする様子は無い。
 四人が風呂から上がると、「四郎様のお父上様から、たった今届きましたよ」と、シカ婆さんが角樽を抱えてきた。
「四郎、済まんな、ありがとう。親父様には、明日改めて御礼と御報告に参ろうぞ」と、真一郎。
「心得ました。解っていますよ、父上は」
「そうだな、今度の事は何もかも御父上のお陰だものな……」
「気付いていたのか、一佐」と、四郎が一佐を見た。
「薄々とは……」と、一佐。
「そうか、やはりな。それで解せぬことの全てが解かった」
 真一郎の言葉に、
「解せぬ事は解かっていましたが、何が、やはりなのですか」と、荘介が訝る。
「まあ、先ずは親父様に感謝しながら、この酒で祝うとしようか」
 荘介の不満げな顔に笑みを返しながら、真一郎が杯を差し上げた。
「荘介が怒ったように、人目を避けるかのように洲崎の六万坪。その上、仇に旗本十人の助太刀なんぞと、どう考えても変であろう。それに、四郎や荘介が一佐の助太刀をやるのとは違い、奴等は大臣の家柄、大久保なんて四千石だ、いくら無役と雖も、仇を討つ方ならともかく、仇の助太刀なんぞ許される筈もなかろうが」
「では、何故許されたのでございますか、兄者」
 荘介はまだ得心がゆかぬらしく、真一郎に迫る。
「親父様の策略よ。お前、いつも将棋の相手を承っておるのであろう、一番解りそうなものではないか。そう思うよな、四郎、一佐」
「……」
 二人は、ご機嫌斜めの荘介の手前、どう応えて良いものやらと困惑気味である。
「それにしても、ちょっと教えてくれればよいものを、親父様もお人が悪い」
 真一郎の愚痴に、
「申し訳ありません。薄々は感じていたのですが、将棋仲間とはいえ、幼馴染みの大目付どころか、細川家御家老様までとは、毛頭気付きませんでした」と、四郎が、いかにも申し訳ないといった顔で苦笑いをしている。
「将棋仲間……」
「まだ解せぬのか、荘介」
「あっ、そうか」
「こういう事にはとんと鈍いの、荘介は」
「ははは」
 肴を運んできたシカ婆さんまで嬉しそうに声を立てて笑っている。
「これでは、親父様に勝てるのは何時の事やら」
「我が父は古狸にござりますれば」
 四郎が戯けるように言い、皆が笑った。
 目に余る悪さのし放題、目付筋も持て余し気味の旗本、己が匿う卑怯な仇持ちにまで肩入れし、助太刀をやるなどと横槍を入れてきたのを逆手にとり、将棋仲間の大目付と策を練ったらしい。お上の威信も、旗本の面子もある、あまり大っぴらにやる事は出来ぬ。そこで、人の目の届きにくい細川家の下屋敷裏、洲崎六万坪。同じ将棋仲間の江戸家老にも一枚噛んでもらったという事らしい。勿論、奉行所も日頃から困りものの悪連中、旗本だけに手は出せぬ、その悔しさに幾度となく泣き寝入りを強いられていた。ここぞとばかり大喜びで大目付より持ち込まれた親父様の策に加担したであろうことは、まず間違いあるまい。
「榊玄十郎はともかく、大久保は、ちと薬がきつかったのではございませぬか」
「四郎、そう思うか。かなりの悪だったらしいぞ、あのまま事が収まるという事はあるまい、この件に加担しなくとも、いずれ切腹となるは必定。我らの思いは届かず心残りではあるが、あれで、他の取り巻きの旗本が隠居や軽い処分で済めば、我らとしても、大目付としても、満足のゆく結末ではないのか。多分、大久保は病死という事で家も残せるのではないのかな。それに、榊は闇討ちの件を咎められ、古志浜藩に引き渡されるは必定。そうなれば死罪は確実、返り討ちを果たせなかった以上、奴も覚悟の自害であろうな」
「親父様は、そこまで考えて……」
 そう唸った荘介であったが、その顔はまだ不満そうであった。が、それは多分、今度の事の流れに、自分だけがまるで気付いていなかった事に対してのそれであろう。

「荘介、お前、試したな」と、飲みながら四郎が荘介を睨め付ける。
「四郎、お前だって試していたのではないのか。膝裏をやられた相手の体が崩れる前に、もう一太刀浴びせて気を失わせる。良い思いつきだろう。奴等が、苦しげな呻き声で転げ回っていては、一佐の気が散るだろうと思い、一晩寝ずに考え出したのだ」と、荘介が宣えば、
「嘘をつくな、昨夜は轟々と高鼾を掻いていたではないか。俺も荘介の動きを見て、とっさに真似をしたがな」と、四郎本気のように怒る。
「しかし、お前達、何時の間に刃引きにした」
「もう随分と以前に。荘助と話し合い、共に研屋に頼みました」
「それにしても、一佐まで……。仇を追い求める身でありながら、よくぞ刃引きにする決心がついたものだな」と、荘介が感心している。
「……」
 一佐は、黙っていた。
 真一郎は一佐の心を、一佐は真一郎の心を、そして二人も、その沈黙の重さを解かり過ぎるほどに解っていた。

 一佐の帰国が決まった。
 見事な仇討であったとの評判が江戸城中から洩れ聞こえ、国元の藩主にも届き、大いに喜ばれ、義父の跡を継いで藩の指南役に決まったのだという。それも禄高を加増されてという事であった。
 皆、その知らせに喜んだのではあるが、独り、一佐は喜べなかった。
 藩の指南役ともなれば、そうそう国元を離れる事叶うまい。そうなれば、これが今生の別れになるやも知れないではないかと……。

 一佐の帰国の時が迫ったある日、四郎が、明日夜、祝いの席を設けるので皆揃って屋敷へ来てくれと、親父様の言伝を持ってきた。
「大目付の土居はな、子どもの頃から待ったばかしよ。将棋も同じ、慎重居士なんじゃな。早う言えば優柔不断、それがあの旗本達をのさばらせたのよ。あの夜もな、待ったばかしよ。いい加減に思い切ったらどうじゃ、あまり奴等の悪さが過ぎると、名誉職同然とはいえ、お主の首まで危ないぞ、桂馬の高上がりも、たまには妙手ぞ、ほれ、王手じゃ。なんて宣いながら奴を焚きつけたのよ。奴の将棋は踏ん切りがつけば滅法強い。それと同じじゃったな。奉行所は渡りに舟、度々煮え湯を飲まされ快く思わなんだ旗本共にけじめをつけさせることが出来る。話を聞いた細川様も、これはしたりと、即断なされたそうな。それにしても見事な仇討だったそうじゃな、勿体なかったの、儂も見ておきたかった。公にできれば、瓦版屋が泣いて喜んだであろうに」
 酒を飲みながら、親父様は上機嫌である。
「ところで、四人とも刃引きで戦ったと聞いたが、真なのか」
 その言葉に、いきなり四郎が畳に頭を擦りつけるようにし、親父様に謝った。
「申し訳ございません、戴いた刀を勝手に刃引きに致しました事、御赦し下さい」
「何も謝る事はあるまい、お前の刀じゃ、お前の好きなように使えばいい。が、ちと勿体なかったか、もう少し安い刀にしておけば良かったかの。それにしても、幾ら出来の悪い旗本とはいえ、十人を三人で。それも、赤子の手を捻るが如くと聞いたぞ。刃引きなんぞで撫で斬りにされては、武士としてはたまらぬの。それに、十人も死人が出ては、土居も後始末に大変じゃったろうからの、自刃一人だけで済んだのは上上じゃ、良くやってくれた。お主らのお陰で、儂の出番もこれで終わった、一安心じゃ。土居め、目の上のたん瘤が一つ取れ、大喜びしておったわ。調子に乗りおって、もう一つのたん瘤も取れると、もっと嬉しいのじゃが、なんぞとぬかしおった。もう絶対に待ったは無しじゃと返しておいたがの」
「もう一つのたん瘤でございますか」と、荘介が、真に迫ったように呟く。
「荘介もそう思うのか。土居とは違い、荘介にはちと優しく打っておるつもりなのじゃがの。奴と一緒で、負けた日は悔しくて眠れぬのか」
「飛んでもございません。まだまだ勝てるなんぞと、そんな畏れ多い事は……」と、荘介が少し焦っている。
「それにしても鈴木様の御慧眼、畏れ入ります」と、真一郎が、改めて頭を下げた。
「なーに、将棋に比ぶれば、いとも簡単な事よ。の、荘介」
「はっ!」
「今度の事で、ちと御無沙汰じゃの、荘介」
「ほら来たぞ、荘介」
 四郎が冷やかす。
「近々、改めて御伺いさせて戴きます」
「うん、うん。それから、儂を呼ぶ時は親父様で良いぞ、鯱張る事はない、蔭ではそう呼んでおるのであろうが」
 どうやらその辺りも御見通しのようである。
「申し訳ございません」
 四人が口を揃えるように言い、低頭し謝る。
「気にするな。出来の良い息子が増えたようで、儂もその方が嬉しいでの」
 本当に嬉しいといった感じで目を細めている。
「これよりは、一佐の富田流の第一歩じゃな。励めよ、一佐」
「はい。有難き御言葉、一佐衛門嬉しゅうございます」
 だが、三人には一抹の寂しさがあった。これまでは四人の間の流派なんぞ考えた事も無かったし、互いに切磋琢磨し合う日常の中で、そんなものは意識して存在磨るということは微塵もなかった。
「月丹言うところの一法実無外か。真実求めるものは一つという事か、良き教えじゃ。古きものを捨て去るのでは無く、そこから新しいものを見出してゆく、また創り出してゆくのよ。月丹も、勢源も、そうして無蓋流や富田流を創り出していったのじゃよ、きっと。剣は人也、人の道もまたこれに同じであろう。いつまでも太平の世が続くとは限らぬ、現に、オロシャの船や異国の船が、この国の周りの海に蠢きだしておるようじゃからの。広く大きな目で次代を見つめる事が出来るのは若い者の特権じゃ、儂らの時代は終わった、これからの時代はお前たちの時代だ、もしかしたら剣の道も役に立つ時が来るやも知れぬ。が、人と人が殺し合うような時代は来てほしくはないと、儂は思うのだが、大きな時の流れに、小さな人は逆らえぬ。いや、逆ろうて、己を通さねばならぬ時もあろうが、それも人それぞれじゃ。とにもかくにも、今は努々修業怠るでないぞ」
 何だか今夜は親父様の独り舞台である。
 四郎は父の御託宣がまた始まったと、少しばかり面映ゆかったが、そんな父を嫌いではなかった。
「盛年不重来 一日難再晨 及時当勉励 歳月不待人」と、親父様が、陶淵明の詩を吟じ始めた。

 三日後早朝、三人は高田馬場近くまで一佐を送ってゆく。
 あの日も、そして今日も、四人は寡黙であった。皆で歩く時は、いつも、ずっと黙って歩いている……。
 この別れの重さを、皆解っているのだ。もう二度と会えないかも知れぬという気持ちが、皆の心を支配していた。
 この時代、旗本や御家人、例え無役と雖も、次男三男であろうとも、そう易々と江戸から外へ出る事は許されなかったのである。
 一佐にしても、越後へ戻れば藩の剣術指南役である、簡単に国元を離れる事は叶うまい。ひよっとしたら、今日を仕舞いに、四人共に見える事ができるのは最後になるかもしれないのだ。
 道端に祀られた六地蔵の祠の前で一佐が足を止めると、三人も立ち止った。
「もう切りがございません、本当にいろいろお世話になりました。皆様に暮れ暮れも宜しくお伝え下さい。いつかきっと、きっと戻って参ります。どうかお元気でいて下さい」
 深々と頭を垂れ、一佐が己の未練を吹っ切らんとしてか、きっぱりと別れを告げた。
 一佐も、四郎も荘介も、そして真一郎も、瞼の裏に湧く涙が流れ落ちそうになってゆくのを懸命に堪えるのであった。
「努々修業怠るでないぞ」
 荘介が親父様の口調を真似、戯けるように言った。
 皆一堂に笑い、そして、堪えていた涙が溢れた。
「ゆきます」と、一佐が強い口調で耐えきれぬものを断ち切るように一言言い放つと、歩を速め越後へと向かった。
 振り向かぬ一佐を、三人は見えなくなるまで見送っていた。
             風の如くに その壱「孤愁の剣」終わり
                      その弐「連判状」闇に消えた男へ続く
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