第1話 孤愁の剣

文字数 28,052文字

【壱】弧愁の剣
  (一)虚無の目

 鋭く、そして速い剣であった。
 助太刀しようと思う間も無く、抜き身を翳す三人の酔漢を斬り伏せてしまった。
 何処ぞの家中らしき三人の酔った侍は、それぞれに手や足の筋を押さえ、顔を歪め耐えきれぬ苦痛に呻きながら、恐れ戦く怯えきった目で、前に立つ着流し姿の侍を見上げていた。
 その痩身の侍の目には、寂しさとも虚しさともいえる陰のような光が宿り、人を冷たく拒むかのような近寄り難い雰囲気さえ感じられた。
 因縁を付けられ困り果てているところを助けられ、礼を言う男と女に、その侍は無表情で軽く会釈をすると、逃げ出すかのように、この騒ぎに集まった人混みを分け去っていった。                           
 ざわざわと落ち着かぬ人垣の中で、荘介は全身に立った鳥肌の収まるのを待った。
 それは、初めて真剣での斬り合いを目の前で見、また人が斬られたというだけでは無い、何かもっと異質のものが、畏れと共に、戦慄のように全身を駆け巡り、荘介の五官を超えたものに迫ったからに違いなかった。
 いくら酔漢を相手とはいえ、あの様に、躊躇いも、動きの淀みも無く、まるで、足下の水面すら乱さず舞を舞うかのように人を斬れるものなのか……、とても自分には出来まい。
 それにしても、あの剣の鋭さ、速さは……。
 そして、対峙する相手との間合いが近く、見え辛かったとはいえ、小手を撃った時も、相手の膝裏を撃った時も、男の太刀筋が自分には確とは見えなかったという事に驚き、また、膝裏を撃ったその動きは、明らかに抜胴へ出たと見えたのであったが、恐らく、致命的な打撃を相手に与えぬよう配慮し、胴を撃てば撃てたであろうに、それをせず、信じられぬ早さで逆に右へ抜け、小さく体を捻るように返しながら鋭く膝裏を撃ったのであった。
 その余りの早さに、思い出すだけでも身震いがしてくるのであった。
 そして、剣を修行する身であるからには、いつ日にか自分の身にもこのような時も来るのであろうかと……。
 やがて役人が人垣を掻き分け現れ、何処ぞの医者にでも見せるのであろう、手下と共に肩を貸しながら、尚も痛がる三人を運れ去って行った。見物人から事情を聞いてはいたが、野次馬の囁きでは、昼間から酒を飲み、通りすがりの若い女をしつこくからかい、見かねて止めに入った町人を斬らんとし、それを阻止せんとしての事だというからして、非は三人の侍にあろうし、ましてや、たった一人に無様にやられてしまったのである、侍である手前、名乗るどころか、藩の名さえ口には出来まい、真に自業自得である。
 
 それからひと月ばかり、荘介は道場に立つ度にあの剣を追い、あの目差しを思い出していた。
 あの身の熟し、刀の運び。手探りをするかのように、自分なりに稽古もし、時には相手を頼み試みても見るのであったが、思い通りに手首や足の筋には入らなかったし、全てに於いて、到底及ぶものではないと思い知らされるだけであった。
 そんなある日、荘介は、師の山地九兵衛に奥へ呼ばれた。
「どうした荘介、あの剣は。何か曰くでもありそうだな」と、師に訊かれ、ひと月ほど前のあの事件を具に語るのであった。          
「多分それは無蓋流であろう、それもかなりの使い手であろうな。儂も幾人かの無蓋流の剣客を知ってはいるが、その男には思い当たらぬ。江戸は広いし人の出入りも多い、知らぬ剣客がいて当然ではあるがの」
 師はそう言い、短い思案の後、一通の書状を認めてくれた。
「儂の知る無蓋流の稽古場が内藤新宿に在る、これを持参し訪ねてみなさい。懐の広く温かい人故、恐らく指南もしてくれよう」
「よろしいのでしょうか、私ごときが他流の門を敲くなんぞと……」
「何を言うか、荘介でなければ儂もこんなものを認めはせぬ。何事も修行じゃ、向こうは強いぞ、門弟にも、かなりの腕の者がおると聞いている、負ける亊は恥では無い、が、ただ負けるでは無いぞ、いいな、何かを掴んでこい」
 荘介は書状を押し頂くと、師に深々と低頭し稽古場を辞した。

 四谷の大木戸を過ぎ、内藤新宿の雑踏を通り抜け、急に静かになった長閑な畑の緑に、ここまで歩いてきた疲れも癒され、なんとは無しの温かさに包まれるように、その稽古場は在った。
 内藤新宿は、本所、深川、品川宿などと共に、俗に江戸の外などといわれるが、四谷、千駄ヶ谷にほど近く、周辺一帯には、大名の下屋敷や武家屋敷なども多く、従って門弟も多いのであろう、道場の方からは、活気に満ちた稽古の響きが聞こえてくる。
 奥へ通され少し待っていると、かなり年のいった道場主らしき白髪の人物が現われ、荘介は挨拶を終えると、山地からの書状を渡し、訪れた次第を語った。
 山地の書状を見、荘介の話を聞き、老師は静かな口調で語り始めた。        
「秋月真一郎ではあるまいかの。儂の知る者ではないが、大分以前に京の方へ参った折、その太刀筋、風貌を聞いた覚えがある。四国の剣客で、噂ではあるが、数多の立ち合いに於いて只の一度も負けた亊は無いのだと聞いた。修業で江戸へ来たのであろうかの」
「ありがとうございます、少し心の靄が晴れてきたような気が致します」
「秋月の事もであろうが、あの筋を断った剣の方にも靄が掛っておるのではござらぬのかな。宜しければ、道場でやってみまするか」
「宜しくお願い申しあげます」と、荘介は、少し気負って大きくなった声で嬉しそうに応えるのであった。
「ははははは、若い者はいいのぅ」と、老師は楽しげに笑い、先に立って道場へ荘助を伴った。
「鈴木!」
 老師に呼ばれ、一人の若者が稽古の集団から離れ、こちらへやってきた。
 年のころは荘介と同じくらいであろうか、その身体からして、鍛えあげられている事はすぐに分かった。
「こちらは、本所山地道場の堀荘介殿、立ち合うて戴きなさい」
「はいっ。鈴木四郎と申します、宜しく御願い致します」
 その溌剌とした声が清々しい。
「堀荘介。こちらこそ宜しく御願い致します」
「我が稽古場の師範代にござる」と、老師が言い添えた。
 この若さで師範代とは、相当の腕であろう事は違いあるまい。
 竹刀を携え、蹲踞の姿勢を取った時、荘介の身体に、久し振りに感じる心地よい緊張感が漲っていった。
 右斜下段に構え、僅かに腰を落とし、「さあ、どこからでも来い」と誘っているような、一見隙だらけのように見えるが撃ち込む事を躊躇させる鈴木の姿に、上段に構えた荘介は、畏怖のようなものを覚えた。
 互いほとんど同時に動いた。
 八相に移した構えから半歩踏み込み撃ち下ろした荘介の袈裟斬りと、それを迎え撃つ形になった鈴木の逆袈裟が、火花を散らすかのようにぶつかり、激しく速く交差した。
 跳ぶように体を退き、再び元の構えに戻る二人。だが、二人の動きはそこでピタリと止まった。
 ピリピリとした緊張の時が流れる。
 対する鈴木も、荘介の晴眼に動こうとはしない。
 互いの力が拮抗しているのであろうか、長い対峙に、額に汗が滲み出している。
「よしっ、それまで」
 老師の声が、道場に漲った緊張を破って響いた。門弟逹の口から、何かほっとしたような吐息が洩れ、僅かな騒めきが起きた。
 ふたりは礼をし、目を見合わせ、どちらからともなく微笑んだ。
 老師も満足そうに笑みを浮かべ立ち上がると、その手に竹刀を持ち歩み出た。
「参られよ」
 荘介が瞬時躊躇いを見せると、今度は、「さぁ」という風に目で促す。
 荘介の躊躇いは、衒う事もなく初対面の若者に竹刀を取り立ち合おうとする、その老師の優しさのようなものにあった。甘えてよいものであろうかと、有り難さの中に、強い畏敬の念が生まれてくるのであった。
 だが、荘介はすぐにそれを振り切り、老師の前に進み出た。
「勝ち負けの亊忘れ、思いっきり撃ち込んできなされ。つまらぬ遠慮なんぞは要りませぬぞ、あの剣を見たいのでありましょう、来なされ」
 荘介は晴眼に構えては見たものの、片手右斜下段に構え木石のように立つ老師に、一分の隙も見出す事が出来無いのであった。
 鈴木でさえあの力量である、とてもこの老師に自分が叶おう筈も無い。が、初めて会った自分に、こうして立ち合い、教えてくれる亊への感謝と嬉しさが、その身の内に充ち溢れてゆくのを覚えていた。
 上段へ構え直し、がら空きの面へ思い切って撃ち込んでゆく。
 老師の竹刀は、軽く荘介のそれを弾き返し、事も無げである。
 今度は右へ回り込みながら、飛びこみ様に肩口を狙う。
 下段に構えていた老師が、あしらうかのように軽く、しかし速く、荘介の竹刀を弾いた。
 荘介は、恐らく小手を狙ってくるであろう老師の返す一撃を、素早く竹刀を戻しながら受けようとした。が、次の瞬間、左の小手、親指の付け根の筋に痛みを感じ、思わず自分を疑った。それも、筋であるがゆえに、当たる寸前に力を弱め、寸止めのような形で撃ち込んで来た。まともに撃たれていれば、親指の筋は痺れ、しばらく竹刀を握る事すらできないであろう。
 そしてそれは、あの時手首を押さえ蹲っていた暴漢に、あの男が使ったあの剣であり、竹刀を弾かれた後小手に来た太刀筋も、あの時と同じように、確とは見えなかった。それに、小手に来ると読めていたにも拘わらず、何故に受け切れなかったのであろうか。
 透かしなのであろうか。が、太刀筋さえも見て取れぬそれは、荘介の知識も技量も、遙か及ばぬものに思え、ただ茫然と立ち尽くすのみであった。
 荘介の耳に、「如何でしたか」と、老師の穏やかな声が聞こえ、やっと我に返る。
「ありがとうございました」
 荘介は慌てて跪き、深々と老師に一礼し、すぐにまた今の動きを追いかけていた。
「思い出せますかな」と、老師が微笑みながら問う。
「はい、ですが、最後の小手を撃たれた時、私の竹刀を透き通った竹刀の速さが……」
「流石ですな、己が負けた立ち合いで、そこまで見えていますか。山地殿の一番弟子との事、大したものじゃ」
 奥へ戻りながらも荘介の頭の中は、あの時の剣と、今の老師の剣とが目まぐるしく絡み合い、自分の竹刀を透き通っていった老師の竹刀の流れを、あの時のあの男の剣に重ね、必死に思い起こそうとしていた。
 まだ得心はいかなかったが、身に余る立ち合いへの思いを込め、荘介は、老師に深々と低頭するのであった。
「残念ながら、膝裏の筋を撃つという技は儂には使えぬ。どうですかな、暫くの間当道場に通いませぬか。秋月真一郎と覚しき者と同じ無蓋流、その剣の何かが掴めるやも知れませぬぞ。本所から来るのも大変であろう故、何なら、泊まり続けられても宜しいのじゃが」
「急ぎ立ち返り、師の許しを戴いて参ります。どうか宜しく御願い致します」
「いや、山地殿の書状、その亊も含め書かれております、気遣いは無用かと」
「はい、が、今日は一旦戻らせて戴き、明日から宜しく御願い致します」
「明日からとは、またせっかちな亊じゃのう。が、若いものはそれでよい、お待ち致しておりますぞ」
「それから、真に申し訳ございませぬが、私、山地道場の一番弟子ではございませぬ。師範代も、先輩の方々もおられます」
「何を謝っておるのじゃ、手紙にそう書いてある、山地殿の目に狂いはあるまい。儂も久し振りに好い剣を見せてもろうた、明日からが楽しみじゃのう」         
 
 斎藤道場を辞すと、先程立ち合った鈴木四郎が門のところで待っていた。
「先程はありがとうございました」
「いえ、こちらこそ。突然お伺いしての御無礼、御赦し下さい」          
「私は四谷ですが、御府内の方へ御戻りでしたら、御一緒させて戴いて構いませんか」
「はい、ゆっくりお話も致したいのですが、今日は取り急ぎ本所の稽古場まで戻り、師に報告せねばなりませぬ故、帰りがてらで宜しければ」
「改めて、某、鈴木四郎と申します。父は御先手組、今は隠居して兄が跡を継いでおります。次男坊の身故、当面気楽といったところです。宜しく」
「堀荘介。父は無役の小普請組、今は金納で、やる亊も無き身。私もその次男坊ですので、もっと気楽でしょうか、あはは」
 鈴木も荘介に釣られて笑った。
 余談ではあるが、家の跡を取れぬ武家の次男三男は、傍目気楽に見えはするが、実際の所、穀潰し同然の部屋住みの身に甘んじるか、他家へ養子に行くか、苦しくもやり場の無い境遇なのである。
「師の許しを戴ければ、明日からでも齋籐道場へ泊り込むつもりです。御手柔らかに御願い致します」
「ほうっ、それは嬉しい。師範代なんて詰まりませぬ。が、明日からはちと張り合いが出来そうです、御手柔らかになんぞとは参りませぬぞ、堀殿だってそのおつもりでしょうから」と、いたって素直なものである。
 どこか馬の合いそうな、兄貴分風の男である。
 四谷の大木戸を潜った先で二人は別れた。

 最初からそうなるだろう亊を見越し、手紙にもそのように認めておいてくれた山地の返事は決まっていた。
「ほう、斉藤先生自ら立ち合って下されたか、それもあの男と同じ剣でのぅ。凄い御方じゃ、師範代とのたった一番で、お前の力を見抜かれたか」
「卒爾ながら、齋籐先生から、当道場の一番弟子なるお言葉丁戴致しましたが、師範代、また先輩の方々を差し置き、分不相応と心得まする。御撤回をお願い致します」
「気にするな、あ奴らは亀の甲より年の劫。が、その謙遜の心、けして忘れるでないぞ。何事であれ修行する者、その心忘れてはならぬ。無蓋流、確と学んで来い。あれで齋籐先生はかなり厳しいからのぉ、音をあげるでないぞ、ははははは。それから、本所から通うのも大変じゃ、家の許しが取れるなら、遠慮なくお言葉に甘えさせてもらい、暫く御世話になるがいい。その方が、ひとり身の先生も喜ぼうて」

「今日は先ず、当斎藤道場の稽古、しっかりと御覧下さい。竹刀、木刀を取っての稽古は午後になります」
 そう言った鈴木の号令で、四十人を超す門弟達が一斉に始めたのは、定寸の袋竹刀を、各々数を数えながら素振りするのであったが、腰を落として振るその様子からして、袋竹刀に何か細工がしてあるらしかった。
「ははは、やはりじっとしてはおれぬようですね。やって見ますか」      
 荘介の手持ち無沙汰のような姿を見、鈴木が笑いながらその袋竹刀を手渡してくれた。が、かなり重い。
「竹刀の中に砂を詰めた袋を入れてあります。定寸の重さで拵えた竹刀より倍以上重いでしょうか、五百回が一応の目当てです」
 きついのであろう、三十、四十、五十回と進む内に、皆てんでバラバラになってゆく。だが、素振りを止める者は一人もいない。
 重い袋竹刀を振る事で、腰の重心を低く取れるよう鍛えるのであろうか、中には五百回を過ぎて尚振り続ける強者もいた。
 何とか最後の者には負けぬ頃に、荘助も五百回を振り終えた。              
「本当は千回が目標なのですが、余り厳し過ぎますと、門弟が減りますようで……」
 鈴木が笑いながらそう言うと、門弟逹も汗だくの顔で小さく笑った。
 休む間もなく、今度は走練であった。
 稽古場を出、淀橋を渡ると十二社権現を抜け、畑の中の道をグルリと廻って稽古場へ戻る。競い合うのではなく、列をなして整然と走り、小半時足らずで稽古場へ戻って来る。勿論、荘介も伴に走ったが、苦にはならなかった。あの重い袋竹刀振りで疲れた筋肉が解されてゆく。基本である足腰を作る事に加え、それも狙いの走練であろうと思われた。
 中食は皆で食った。質素なものではあるが、中々に美味い。賄いの老婆が二人おり、一人は住み込み、もう一人は、近くの百姓家から野菜などを持参で手伝いに通って来るらしい。月三回の稽古休みの日を除き、いつもこうして戴くのだと言う。
 門弟達は、毎日通う者はほとんどおらず、大体が二日か三日に一度、屋敷などの都合の付く日に通って来るらしい。総勢百二十人程で、多い日もあれば、少ない日もあるのだと言う。山地道場も同じようなもの、弁当持参ではあるが、白湯は出される。
「同じ飯を伴にする事で、結束力というか、仲間意識みたいなものが強くなります。すれば無用な諍いもなくなり、稽古にも身が入るというものです」
「同じ釜の飯、ですか」
「そういう事ですね」
 午後は、先ず木刀で素振り、そして形。一通り終えると竹刀に持ち替え修練の度合等により三つに分けられた組別の稽古が始まった。
 初心の者達は掛かり稽古から入り、それ以外の者は、勝負がつくと順番に交替してゆく、所謂地稽古である。その中を縫うように、師範代の鈴木と、他に三人いる補佐役の腕の立つ者が、それに割り込むように対戦したり、指導をしたりと、忙しく動き回る。
 かなりの時間が経って、稽古が終った。
「堀殿、一番」と、鈴木の声が道場に響き渡り、「はいっ、お願い申す」と応じた荘介の声に、稽古が終わりほっとして騒めいていた道場に、一瞬にして緊張感が漲った。
 門弟達の皆が両側の壁際に正座し、固唾を呑んで見守る。
 張り詰めた空気が道場に満ちた。だが、昨日と同じような形になってしまった。
「これでは稽古になりませぬ。ゆきまするぞ」
 鈴木がそう言い、意味ありげな笑みを浮かべると、素早く攻勢に出た。
 鈴木の竹刀が右斜下段から逆袈裟に走る。小さく仰け反りながら右斜後ろへ跳んだ荘介の竹刀が、八双から袈裟斬りに出る。が、鈴木もそれを小さく体を捻り躱す。
 たった一度の攻防で、二人の表情は一変した。まるで真剣で立ち合っているかのようである。だが、勝負は次の瞬間あっけなく終わった。
 また鈴木が逆袈裟に来た。
 荘介は鈴木によって詰められた間合いの中で、それを上段から払った。
「バシッ」と鳴った竹刀の音の余韻が消えぬ内に、鈴木の返した竹刀が、荘介の小手を捉えた。
「それまでっ」
 凛とした老師の声が道場に響いた。
 いつの間に道場へ現れたのか、老師が上座の入口に立っていた。
 荘介は、いつもと少し違っていた自分の身の熟しに首を傾げる。
「あれを振ったな、堀殿。いや、只今からは荘介と呼ばして戴いて宜しいかな」
 未だ腑に落ちぬのだ、荘介は老師の言葉に黙って低頭しながら小首を傾げる。
「鍛えられた身体ではあろうが、初めての重い袋竹刀振り、腕の筋肉の疲れが、いつもより僅に動きを鈍らせたのよ。特に上段から振り下ろし返そうとする時は顕著にそれが出る。のぉ四郎、己もそれを狙っておったのであろうが」
「申し訳ございませぬ、少しでも油断や隙をみせれば、こちらが危ういと思いまして。御赦しあれ」と、小さく頭を下げながら、チラリと悪戯っぽい笑みを見せる四郎に、 
「お見それ致しました」と、荘介も屈託なく笑って返す。
「四郎、良かったのぅ、荘介が参って」
「はいっ」
「皆も荘介の剣を盗め。剣に流派はあれぞ、優れしもののゆくところ、真実はひとつぞ。荘介の来た祝いに、今日は少し皆と飲みたいの。誰ぞに屋敷への言伝を頼み、四郎も泊ってゆけ。皆も都合の付く者は少し付き合ってゆくといい。それに、ちとシカ婆さんの手伝いも宜しくな」

 暫くしたある日、稽古が終わった後、二人は内藤新宿まで出た。何処ぞで飲もうかというのである。
 馬喰達や職人風の男達で賑わう一膳飯屋の片隅で二人は酒を酌み交わしていた。
「堀殿、鈴木殿ではなんだか息が詰まる。どうです、これより四郎、荘介と、互い呼び捨てでは」
「私は構いませぬが、年嵩の鈴木殿に対して、呼び捨てはちと」
「十も二十も離れている訳でもありませんし、高々二つ、構わぬではありませんか」
「では、四郎兄者と呼ばせて戴きます」
「兄者かぁ、下には妹しかおらぬで、お尻の辺りがちとこそばゆいなぁ」
「では、契りの杯と致しますか。宜しく御頼み申し上げます、兄者」
「こちらこそ宜しくお願い申す、弟殿」
「私は荘介と呼び捨てで……。ははは」
 齋籐道場へ世話になる事になったあの件の経緯など話しながら、二人は杯を重ねてゆく。
 ほんのりと酔いの回ってきた頃、縄暖簾を分け、一人の浪人が店へ入ってきた。
 丁度入口を見るような形で座っていた荘介が、何気なしにその男を見、ハッと驚き、身を固くした。
 あの男であった。
 背中がゾワリとし、荘介の顔から一瞬血の気が引いてゆく。対面して座っていた四郎がそれを見逃す筈は無く、振り返るようにし入口の方を見た。
 そして、浪人と目線が合い、その目が、ちょっと訝しげな色を見せたが、そのまま何事も無かったかのように静かに目を逸らすと二階へ消えた。
「件の浪人だな。あの目か、荘介の心から離れてゆかぬのは。俺もそう感じたが、あの空虚な目、一体何を見ているのだ……」
 急に二人の杯が滞り、短い沈黙の後、「今日は、これで止しにしますか……」と、荘介が拍子抜けしたかのようにポツンと言い、「そうだな……」と応える四郎の声も、何処か張りが失せていた。
 あの目の所為だ、と二人は思った。が、互い、それを口にはしなかった。
「いつも来られるのですか、先程二階へ上がられたお方は」
 荘介は、出しなに店の者に尋ねて見た。
「一年ばかり前から時々いらっしゃいます。いつもお一人ですが、静かに飲んで、良いお方でございますよ。お知り合いなのですか」
 荘介は、顔の前で手を横に振って否定した。
「秋月真一郎かなぁ、店の者も名前は知らないらしい……」
「新宿にいるのかな、それとも、何か用のあってのついでかな……」          
 四谷の大木戸に向かう四郎とは店の前で別れた。道場に戻っても、ずっとあの男が気がかりであったが、老師には黙っていた。

 (二) 刃引きの刀

 その夜、荘介は夢を見た。
 暗い静寂の中で、あの目と向かい合っていた。
 右手に真剣を帯び、闇の静寂に立つ秋月らしき男。
 荘介の手にも真剣が握られていたが、あの目に射竦められたように身体が強張り、動く事が出来ない。
 あの目が迫る。
 白刃が稲妻のように鋭く闇を切り裂き、目の前が真っ赤になり、斬られた!と思ったその瞬間、目が覚めた。
 全身に滲み出た脂汗。襟首の汗を手の甲で拭いながら、あの目を思い出していた。
 いつの日か、秋月真一郎という剣客と自分が立ち合う亊があるのであろうか。その時が来れば、臆せずに戦う心構えはある。が、出来得れば、真剣で立ち合いたくは無いと思うのであった。

 重い袋竹刀を振るのにも大分慣れ、このところ、稽古の終わりは荘介と四郎が立ち合って仕舞いとなるのが常であったが、五分と五分、取ったり取られたりの毎日であった。
 四郎の動きに倣って目で追い、身体で追う。無蓋流、それに拘れば、まだ四郎には遠く及ばなかったが、老師の指導もあり、小手を撃つあの透かしの剣は、徐々に自分のものとなってゆくのであった。が、膝の裏を撃つあの剣には、まだ端緒に付く事すら出来ずにいた。
 そろそろ半年になろうかという頃の午後遅く、ひとりの浪人が稽古場の門を潜った。
 門弟に案内され道場へ現れた男を見、荘介は我が目を疑った。             
 あの男であった。
「立ち合いを所望し案内を乞うたのではござりませぬ。無蓋流の看板を見かけ、時折、その武者窓から拝見させて戴いていたのですが、中々の稽古、間近でと思い、つい声をお掛けしてしまいました。宜しければ、下座にて拝見させて戴きたいのですが」
「秋月真一郎殿でござるかな」
 荘介の顔色の変化を素早く見て取ったのであろう老師が、それと察し、男に問うた。
 男は瞬時戸惑いを見せたが、直ぐに普段を取り戻し、
「齋籐先生にございますか、某、秋月真一郎と申します。失礼の亊、平に御赦下ださい。幼少の頃より無蓋流を学んでおりますが、故あって、今は浪々の身。が、何故私の名を存じおられまするか」と、低頭し問い返す。
「以前、京の友を訪ねた折、貴殿の亊を耳に致しました。天才的な剣の持ち主、敵う者、そうはおらぬと。もし宜しければ、この者共に御指南願えますれば幸いなのですが」
「実を申しますと、知り合いから無蓋流の稽古場があると聞き、先日来時折窓から拝見させて戴いておりましたのですが、素晴らしき若者達、暫く稽古らしい稽古もしておりませず、ついウズウズと致しまして……。お恥ずかしき次第で」と語る姿は、何処か清々しさを感じさせた。
「それは有り難い。鈴木、お教え戴きなさい。皆は控えて拝見させて戴きなさい」
 勇んで立ち上がった四郎に、当然の事、荘介も、次は俺だと、内に昻る血を抑えきれずにいた。
 四郎は動けなかった。 
 右斜下段。同じように構えては見たものの、隙だらけのように見えはするが、秋月には一分の隙も無く、下手に動けば一撃でやられるのは目に見えていた。
 明らかに相手が遙かに勝る、四郎は迷っていた。
「四郎、稽古だ、撃たるるを恐れて何とする、負けて覚ゆるものは多いぞ。ゆけ、心してゆけ」と、滅多には声を挟まぬ老師が檄を飛ばす。
 四郎は踏ん切りをつけ、逆袈裟に来るであろう秋月の一刀に対し、竹刀を右肩深く担ぎ込むよう八相に構えると右へ動いた。だが秋月は左足を軸に静かに体を動かし、正対を保つ。
 ふっと秋月の体が沈んだ。そして、やはり逆袈裟に来た。
 四郎、読み通りの秋月の動きに自分も動いた。が、それに応じた八相からの四郎の袈裟斬りを軽く弾くと、透き抜けるように秋月の竹刀が四郎の右小手を襲った。
 あの時の剣だ、無頼の侍を斬り伏せたあの時の……。そして老師が教えてくれたあの剣であった。
「参りました」と、礼を返す四郎の声が、なぜか遠く、荘介の耳に聞こえた。
「速い、速過ぎる。小手に来ると分かっていても避けられなかった。右手首の筋が痺れて指が動かぬ。が、明らかに手加減して撃ち込んでいる」
 四郎が横に戻り呻くように呟いているのも上の空、荘介は内に昻ってゆくものを抑えきれず、竹刀を取ると立ち上がった。
「堀荘介、お願い致します」
 勢い込み中央に進んだ荘介の全身に気迫が漲ってゆく。
「ちょっ、ちょっと待って下だされ、このところの稽古不足、怠け者の身には、達者なお二人、立て続けではちときつい、少々休ませては戴けませぬか」
「……」
 勢い込んだ荘介の目が、何処か嬉しげにそう言う秋月の目と合った。
 あの翳りを浮かべた目の光が消えていた。いや、その目には、喜びのような、今この時を楽しんでいるかのような生き生きとした光が溢れんばかりに宿っていた。
 いつ消えた、何故消えた。
 四郎と立ち合い、蹲踞するまでは、確かにあの目であった。
 荘介は、太刀筋を追いながら思い出そうとした。
 四郎が小手を撃たれた、あの時か。いや、立ち合いの流れと太刀筋を追うのに気を取られ、目の光までは……。
 息なんぞ寸分も乱れてはいない、休む必要は無いのではないのか。何か、今のこの雰囲気を、この時を、じっくりと噛み締めながら楽しんでいるかのような気もするのであった。
「では」と立ち上がった秋月に誘われ、荘介は我に返った。
 四郎の時と同じようにやや右足を引き、両の手を下げ静かに立つ秋月は、ただ立ち尽くす木石が如くに見え、一見隙だらけのように感じられた。
 いつでも、何処からでも来い。そう誘われていると荘介は感じるのであった。
 あの四郎が、いとも容易くやられてしまった。迂闊に撃ち込めば四郎の二の舞であろう事は目に見えていた。
 ひょっとしたら老師よりも強いのではなかろうか。静かに立つ秋月に気圧され、動く事さえ儘ならぬ。荘介、初めての経験であった。
 到底敵う相手ではない。だが老師の言うように、これは稽古である、何も出来ずに参ったとは言えない。
 あのもう一つの剣を見たい、どうすればあの太刀筋を見られるのだろうか。荘介の頭の中を、あの時、あの無頼の侍を斬り伏せた、もう一つの剣が駆け巡る。
 あの時、読み損なったのではあるが、秋月は抜胴に出たと荘介は見た。なればその流れを作ってみよう。そう思い、晴眼から上段へ構えを移し、がら空きのような秋月の面を狙う。右上へ強く弾き返された竹刀を素早く引き、踏み込み様二の太刀で同じく面に出ようとした瞬間,抜胴に来たと見えた秋月の体が、風のように荘助の右脇を走り抜けた。
「来たっ」と感じ、逆を取られたその動きについてゆこうとした時、「パンッ」という袴の鳴る音が聞こえ、右膝の裏に軽いが鋭い痛みを感じ、膝がガクンと落ちた。 
 荘介の全身に、あの時と同じ鳥肌が漣のように広がっていった。
 もし真剣であったならば、膝の筋は完全に断たれていたに違いない。
 撃たれた時、「これだっ」と、荘介は直感した。が、その太刀筋を見て取る亊は出来なかったし、それを読めていたにも拘わらず対処できなかった事に愕然とした。
「参りました」
 深々と礼をした荘介が頭を上げて見た秋月の目は、どこか満足げに笑っていた。
 やはりあの寂しげで虚ろな光は見られ無かった。が、勝者である事の笑みでは無い、心底からの優しさを感じさせるそれであった。
「今日は良い稽古をさせて戴きました。道場で稽古をするのは、そう、十何年振りにもなりましょうか、出来得れば、時々御伺いいたし、今日のように稽古させて戴く亊、叶いませぬでしょうか。勿論、その都度謝礼も」
 秋月の言葉に、老師の方を哀願するが如く見詰める二人。
 老師は微笑みながら、
「こちらからお頼みしたきところでござった。御断りでもしようものなら、この二人の冷たき視線に、日々耐えなければなりませぬ。謝礼なんぞと、こちらの方で御出しせねばならぬというもの。宜しくお願い致します」と応えるのであった。
 二人は、やったとばかりに顔を見合わせ、老師に礼をし、秋月にも、「宜しくお願い致します」と、嬉しさを隠しきれぬ笑顔で低頭するのであった。

「見たか兄者、あれだ、あの太刀だ。残念ながら、今日も太刀筋は見て取れなかった」
 秋月と老師が奥へ消えた後、荘介が少し興奮気味にまくしたてる。
「俺も抜胴に出たと思ったが、そうと見た荘介の体勢からは見えなかっただろうな。あの速さ、荘介の右横を抜けたかと思った瞬間、振り向きもせず竹刀を返した。その竹刀が、膝の裏を、まるで偶然のように、流れるように払っただけ、風だな、風、掴み切れぬ風のようだ。俺のやられた小手とて、切っ先一分違わぬ正確さで、手首の内側に近い筋を打ってきた」
「いや、あの剣が見たく、抜胴に誘ってみたのですが、それですら見えなかった……。強くも無く、弱くも無い、心地よい風のような剣か……。何故あれほどの人が、主も無く、寄るべき稽古場も無く、この巷を彷徨うているのだ」
「故あって浪々の身、とか言っていたな」
「……」
 一体、その事情とは如何なるものなのか。その孤愁の剣客の起こした風による漣は、幾重にも反芻し荘介の胸中に打ち寄せ、いつまでも収まりゆく亊はなかった。恐らく四郎の胸中も同じであったろう。
 二人とも、それきり黙りこんでしまった。
 荘介は解せなかった。あの日以来、自分の中で思い描いて来た秋月の姿、それは、夢で見たあの暗い静寂の中でしか思い出せぬ姿であった。だが、今日立ち合ってくれた秋月の目にその翳は無かった。いや見られぬだけでは無く、嬉しそうであり、かつ優しさすら感じられたではないか。
 強いというだけでは無い人間の魅力を秘め、越えねばならぬ剣客がそこにいた。荘介はその喜びに、暗い天井を見つめながら、いつまでも寝付けなかった。

 待ち遠しかった。
 まるで恋する女人を待つかのように、二人は秋月の再訪を待ち続けるのであった。
 当然の事、毎日の稽古にも力が籠った。
 稽古の終わりに二人が立ち合うと、明らかに秋月の動きを探っているのが、互いにも、ほかの門弟達にもビンビンと伝わり、稽古場に活気が漲ってくるのであった。
 十日もした頃の午後、待ち焦がれた秋月がやって来た。
 今度は荘介が先に立った。が、苦も無く、まるで逸る悍馬を宥めるかのようにあしらわれ、荘介を抜き胴に撃ち取り、続く四郎も敢え無く同じ抜き胴に撃ち取られてしまった。
 明らかに、先日の膝裏を撃たれたあの剣が伏線にあり、抜胴に来たと感じた瞬間、僅かな迷いが生じ、その隙を突かれたに違い無かった。それほどにあの剣は二人の脳裏に強烈な残像を刻みつけていたのであろう。
「……」
 二人は顔を見合わせたが、言葉にはならなかった。多分秋月は、違う二人の相手を、意図して同じ抜き胴に撃ち取って見せたのではなかろうか、そして、あの剣に備える事だけであってはならぬと教えてくれたのではなかろうかという思いが、四郎も抜き胴に撃ち取られた後、すぐに生じたからである。
 秋月は、暫くほかの門弟逹の面倒を小まめに見ていたが、一刻ほどして稽古場を辞した。
「どうじゃ、今日の秋月殿との稽古は」と、奥から顔を出した老師に尋ねられた。
「到底足元にも及びません。それにしても、意図して二人ともに抜き胴に撃ち取られるとは、口惜しゅうございます」
「兄者もそう思いましたか、あれは、違い無くわざとですね。修行が足らぬと言われたようなものですね」
「ははははは、それが解っただけでも大収穫ではないか。精進、精進」
 老師が、二人の口惜しさをよそに楽しげに笑った。
 
 その口惜しさは、火に油を注いだかのように二人の稽古に拍車を掛けさせた。
 稽古の最後、二人が立ち合いに入ると、門弟逹は壁際に正座し食い入るように見守った。
 火の出るような、まるで真剣で勝負しているかのような気魄に圧せられながら、二人から何かを学び取ろうという姿勢が道場に満ち満ちていた。そしてそれは、老師の思う壺でもあったのである。
 当然、午後の道場に老師の座る日も以前よりずっと多くなり、指導も増え、道場全体に、何か力みたいなものが漲っていた。
 そして、また十日余りした日の午後、秋月真一郎は道場へ現れた。
 今度は俺からと、当然のように四郎が勢い込んで前に出た。
 遮二無二攻めている。一見そのように見えるが、四郎には目算があった。当然勝とうとするそれでは無く、相手を動かし、その動きを確かめたいがためであった。
 が、やはり、秋月の風のような剣は、鋭く、速く、全てを読み切ったように、終には四郎の首筋を撃った。
 だがその竹刀は、強く撃ち込まれたにも関らず、見事その一点にピタリと止められていた。
 この速い流れの中で、あの強さで撃ち込んだ竹刀を、死に繋がる急所である事を気遣い、あのように既の所で止められるものなのか。四郎とてかなりの腕、荘介は、自分の腕ではあの動きの中で、とてもあそこは撃てぬと思った。そして、改めて秋月の力量の淒さに身震いがしてくるのであった。
 荘介が立つと、「ちょっと待ってくれ、お主ら二人続けては、ちときつ過ぎる」と、秋月が、真顔で座り込んだ。
 荘介が機先を制せられ苦笑いをする。何か、逸る心の奥までをも読み取られているかのようであった。
 荘介は、敵わぬまでも相撃ちを狙ってみようと、右斜八双に深く担ぎ込むように竹刀を構えて動いた。
 秋月の眼の色が一瞬変わった直後、その顔に僅かに笑みを浮かべた。既に荘介の思惑は見て取られたようであった。
 相撃ち狙いに来るなら来いというかのように、秋月は右斜下段に構えたまま、荘介との間合いをジリジリと詰めてくる。
 タンッ!と、小気味好い床を蹴る音が道場に響き、秋月の体が荘介の左宙へ飛んだ。追い縋るように体を捻り、荘介は秋月の足を狙って竹刀を振り抜いた。が、何と、後ろ向きに近い体のまま左手一本で持たれた秋月の竹刀は、バシッ!と鋭く荘介の竹刀を払い、間髪を入れず返され、その首筋へ飛び、そして四郎の時と同じようにピタリと止められていた。
「速過ぎる」
 見ていた四郎の口から、思わず感嘆の言葉が漏れた。
 こんなにも速く、体を、刀を、返せるものなのか……。
 礼が終わると、秋月が嬉しそうに笑い、そして、フーッと大きく息を吐いた。
「手強くなってゆくなぁ」 
 秋月の口から、誰に言うでも無い独り言が洩れた。
 またも同じ所をやられた。
 荘介も四郎も、撃たれた首筋へ手をやりながら目を見合わせた。負けたという亊には得心がゆく。だが、今日も二人同じ首筋を取られた、こうも簡単にあしらわれてしまう亊に、口惜しさを通り越し、納得がゆかない。ジリジリとした歯痒さのようなものが蟠ってゆく。

 二人の立ち合いが、前にも増して凄まじくなってゆく。
 その我武者羅さに、それまでとは違う兆しが見え始めたのは、もう直半年にもなろうかという頃であった。だが、未だ秋月の剣に翻弄され、納得のゆく立ち合いなんぞは望めもしない有様であった。
 何故なら、秋月の動きというのか、体の切れが、前よりも遙かに良くなり、二人の必死の修練を嘲うかのように、鋭く、速く、強くなってゆくのであった。
 そして二人は、秋月の心がその充実と共に何かから解き放たれ、蒼く澄んだ空を逝く白き雲の如き清しさに包まれゆくのを感じていた。
 そんなある日、いつものように秋月がやってくると、「今日は、私もひとつ御願いできまするかな」と、老師が意味ありげに笑い、秋月を見た。
「秋月殿、真剣にての模範試合、それで宜しいかな」
 秋月の顔に、一瞬緊張の色らしきものが走り、あの翳が差した。が、「はい」と、静かに応えた時には、その翳はもう消え去っていた。
 荘介と四郎は、その翳を消させたものを、同じ思いで見つめていた。それは、半年になろうかというここでの稽古の刻が生じさせたものであるに違いなかった。
 道場にピーンとした空気が張り詰めてゆく。
 刃引きでの形の稽古は、ある程度修練の進んだ者同士であれば、何処の稽古場でも行われる。が、真剣での模範試合となると、年頭に、老師と四郎が恒例として行うのであるが、それは、安全を期し、ある程度の打ち合わせに乗っ取り行われる。
 それをせずに二人は立ち合おうというのである、その緊張で静まり返る道場に、鋭く真剣のぶつかり合う音が響く。
 二人の動きには一分の無駄も無い。時には静、時には動。まるで、水の流れの如き流麗さを感じさせられるのであった。
 老師の刀が、秋月の小手を捉えて一本。そして、二本目は、秋月の刀が老師の頭上にピタリと止められた。
 三本目の始めに、二人が目線を合わせ笑ったかのように見えた。
 老師の見せた上段からの一瞬の誘いのような動きの隙をつき、秋月が風のように動いた。
 老師の膝裏へ走った秋月の刀は、袴に触れ、瞬時止まって次の流れへと続き、そこで二人の動きは終った。
 二人は軽い息の乱れを整えると礼をし、満足の笑みを交わした。
「ふーっ」と、道場に吐息が流れ、皆の緊張が解れてゆく。
 荘介と四郎は、「今のを見たか!」と言うかのように目を見合わせ、驚きの表情を顕にした。そして、老師と秋月の笑みの意味するものに気付くのであった。
 真剣での模範試合を続けて三本もやるなんぞと、老師の身を案じた二人であったが、二本目までは流れの中で、そして、三本目は明らかに意図して……。
 二人の剣客の力量、その域に達する事の果し無さを目の当たりにし、荘介と四郎は、新たなる闘志を胸の内に沸々と湧き上がらせていた。
 真剣での模範試合、相手を傷付けぬよう、当然、刀を寸前で止める。太刀筋を見極めるには恰好の機会である。二人は、荘介と四郎の力量を知るが故に、身を持ってその手懸りを教えようとしたのである。
「どうだ、四郎、荘介」と、老師が、二人に問う。
「はい、ありがとうございました」
 荘介と四郎は、二人に向かい深々と低頭し、そして、居並ぶ門弟達も、同じように頭を下げるのであった。
 秋月が老師に促され、共に奥へ消えた。
 二人はすぐに竹刀を取り稽古に入った。皆の間を回りながら、二人の頭の中は、さっきの立ち合いを振り返る事で一杯になっていた。
 いつもの二人の稽古が始まると、常にも増した緊張感が道場に満ちた。
 互いに注文を付けながら、あの時の老師と秋月の動きを追ってゆく。
「今日はもう少し納得のゆくまでやってみようと思います、御用のある方は随時御引揚げ下ださい」
 四郎が、控えて見ている門弟達にそう告げた。
 藩の屋敷や格式ある武家は門限が早い、四郎の気遣いに、門弟達は三々五々腰を上げ帰って行った。                           
 秋月が道場を覗いて帰って行った事にも気付かず、二人は暗くなるまで懸命に稽古を続けていた。
 
 稽古が休みの午後遅く、四郎が稽古場へ現れた。
 グイッと杯を呷る仕草をし、勘定は任せろと、ポンと懐を叩いて見せた。荘介は大きく頷き返すとシカ婆さんに一声かけ外へ出た。
 件の一膳飯屋である。二人の下心は、もしや秋月が現れるのではないかという期待である事は見え見えであった。
「荘介、今朝、大木戸のところで秋月殿の後ろ姿を見た。内藤新宿へ向かっていたが、稽古が休みなのは知っている筈、多分来るぞ」
 果して、秋月は現れた。
 飲み始めたばかりの二人は慌てて立ち上がり、秋月に一礼をした。
 秋月がニヤリと笑い、「上へゆくか」と、目で二人を二階へ誘う。
 階段を上りながら、荘介は少しホッとしていた。
 あの寂しげな虚ろな眼の光が見られない。二人の姿を見止めた時のあの笑い顔、道場で見る時と同じように、心から嬉しそうであった。
「飲みかけですが」と、四郎が下から手に提げて運んできた酒を注ぐ。
 秋月が黙ったまま目で笑いながらそれを受け、ゆっくりと噛み締めるように杯を干し、「美味いなぁ」と一言、しみじみとしたものを感じさせながら、言葉を吐いた。
「今日は特別に美味く感じるのやも知れぬな。こうして巷で人と飲むのは久し振りだ。本当に久し振りだ、忘れてしまうほどに……」
 その姿、言葉には、流離いし時の重みであろうものがひしひしと感じられ、何故か秋月らしくもあった。
 銚釐と肴を運んできた若い女が、「やはり、お知り合いなのですか」と、秋月に尋ね、意味深に笑い二人を見た。
「稽古敵だよ、これの」と、秋月が人差し指を立て、剣術の素振りをした。
「稽古敵だなんぞと、とんでもございません」
 二人、声を合わせるように手と首を振る。
「違うのか、いつも目を剝いて襲いかかってくるではないか。まるで、ここで遭ったが百年目と言わんばかりに」
「それは……」
「ははははは。悪気で言っておるのではないよ、半分、冗談だよ、冗談」
 二人の畏まった様子に、
「そんなに構えるなよ、ここは稽古場ではないぞ。折角の美味い酒が不味くなってしまうではないか、こんなところでは無礼講だろ。無礼講、無礼講。さあ」と、銚釐を差し出し、杯を促すと二人に注いだ。
「それにしても益々気魄が籠ってきたなぁ。儂も少し鍛えねばと、この頃は早起きし、木刀片手に近所の原っぱまで走り身体を鍛えておるぞ。この腕を見てくれ、少し弛んでいたのが、今ではこうだ」と、袖を捲って二の腕に力瘤を作って見せ微笑むのであった。
 二人の日々の精進を嘲笑うかのような秋月との立ち合いを思い出し、やはりそうであったかと、二人は顔を見合わせ、
「畏れ入りました。まだまだ到底敵いそうもありませぬが、宜しくお願い致します」と、頭を下げるのであった。
「今日は稽古の亊はもう止そう。色々聞きたい亊、互いにあろうが、今日は止そう。今日は嬉しい、このままゆっくりお二人と飲みたい」
「はい、そう致します」
 荘介も四郎も、それでいいと思うのであった。
「儂は、お二人に遭えて良かったと、熟々思っている。お二人に遭うことが無ければ、心荒んだあのままに、道を違えていたやも知れぬ。この年になって流れ着いた江戸で、少し荒んでいた身も心も、お二人に救われた。道場の武者窓からお二人の稽古を覗き見、思わず惹き込まれ門を敲いていた。あれ以来、若い頃に戻ったように浮かれているよ。これからも宜しく頼む」
「勿体ない。私たちこそ、何かこう、毎日が底の底から変わってしまいました。秋月殿が参られるのが待ち遠しくて、玄関に声が響くと、もう舞い上がってしまうようで……」
「ははははは、まるで恋女ではないか。ありがとう」
 四郎の言葉に、秋月が、笑いの奥にちょっとしんみりとしたものを込めて言い、そして、
「堀殿、鈴木殿、御願いがあるのだが。この際、年の差、立場を抜きにし、友としてお付き合い願えませぬか」と、続けて切り出すのであった。
 二人は驚き、顔を見合せた。恐らく一回り近く年も違うであろう、まして剣の上では師とも仰ぐ秋月であった。いきなりの申し出に、二人は完全に狼狽していた。
「お二人が儂を超えるのは時間の問題だよ。最初はのう、良い稽古場だ、皆溌剌としていると武者窓を覗き、そして、お二人の立ち合いに自分の昔を思い出しての、間近で見たい、その雰囲気に浸りたい、それだけのつもり、軽い気持ちで門を潜ったのよ。だが、斉藤殿に立ち合いを勧められ、久方忘れていた心の昂ぶりを覚えた。まだ自分の内にこんな血が残っていたのかと狼狽したよ。おかしいとお思いであろう、恥ずかしながら、若者のように胸が高鳴ったのよ。何回か通わせてもらい、お二人と竹刀を交えている内に、本気になっている自分に気付いた。そして、儂にもし、お二人にお教え出来るものがあるなればと……。立ち合っていても、道場に座っていても、心底楽しかった、嬉しかった。幼い時、父に初めて木刀を手渡され、遮二無二向かっていったあの時のようにな」と、秋月は静かに話す。
「ですが、友というのは……」
「兄ではどうかな、兄では。堀殿は鈴木殿を兄者と呼んでおられるではないか。儂も糅ててはもらえぬか」
「兄者なんぞとお呼びして宜しいのでしょうか。荘介と私の仲とは違うような気が致しますが「そこを曲げて頼む。儂は天涯孤独の身、今はもう親もおらぬし、兄弟というものも知らぬ。義兄弟と雖も、弟が出来るとなれば、こんな嬉しい事は無いのだが」
 秋月のその言葉に、四郎が荘介の目を見頷くと、             
「何か畏れ多く、老師にお叱りを受けそうな気も致しますが、宜しければ、これからは兄者と呼ばせて戴きたいと思います。未熟者ですが、どうか宜しくお願い致します」と、応えるのであった。そして、荘介も同じ思いで応じ、並んで頭を垂れた。
「兄者が二人、嬉しゅうはございますが、ちと呼び辛く、ややこしくもありますが」と、荘介が少し照れ臭そうな顔で言えば、
「四郎と呼び捨てにしてくれ。もうそんな仲で良いのではないか」と、四郎が笑い、
「そういうことなれば、秋月殿も私達を呼び捨てにして下ださい」と、秋月に頼み込む。
「それ、もう秋月殿が付いておる。四郎、荘介、宜しく頼む」と、秋月も笑い、
「はい、こちらこそ、兄者」
「宜しくお願い致します。では、契りの杯を」と、三人は、なみなみと杯を満たし、「宜しく、兄弟達」と言う秋月の言葉で、義兄弟の契りを交わした。
「ところで荘介、道場の名札に客分とあるが、武者修行の旅の途中なのか」
 武芸を奨励する藩では、武者修業の武芸者を受け入れる宿所があり、旅の武芸者の多くはそこに泊めて貰ったり、気に入られた稽古場に長逗留したりし、修業に勤しむ事が出来た。秋月は、自分の旅の経験から、稽古場の荘介の名札を見、そう思ったのであろう。
「いえ、私は本所の生まれ、山地道場の門弟です」
「山地殿は確か、一刀流ではなかったか」
「はい、師同士が仲の良いお知り合いで、故あって無蓋流をお教え戴く事に相なりまして。言われてみれば、武者修業のようなものですね」
 荘介の口調が、あの時の事に触れてもよいものかと、少し尻すぼみになってゆく。
「ほう、その故とは何か、よければ、教えてもらえるかな」
 荘介の逡巡に気付いたのであろう秋月の問いに、荘介は少し躊躇いはしたが、件の話をするのであった。
「あの場にいたのか。それでここで初めて会った時、驚いたような目で儂を見たのだな。お粗末な所を見られたものだ、面目無い」
「いえ、お粗末なんぞと。今でも、あの時全身に鳥肌が立ち、中々消えてゆきませなんだ事、しっかりと覚えております」
「済まぬ、普段なれば、少し加減したのであろうが、あの頃はちと心が荒んでおった。相手が腕の達者な者でなく幸いだった。申し訳ない事をしたな、赦してくれ、荘介」
「いえ……」と応え、小さく低頭した秋月の心を思い遣る荘助であったが、まだそこまで秋月を知らぬ荘介に、その心奥に思い至る事は出来なかった。が、その時、荘介は見た。秋月の眼の奥に、一瞬ではあったが、あの寂しげな虚ろな光が宿ったのを……。
 この浪々の剣客の身に、一体何があったのであろうか。
 荘介は、それを聞く事を躊躇った。
 いや、聞いてはならぬ事のように思えた。 
 そして、その事が、あの目の寂しさ、虚しさに由来しているのは違いないのだと思うのであった。

「来いっ、四郎!」
 道場に三人の遠慮会釈無い声が響き渡り、一層激しく竹刀のぶつかり合う音がするようになっていった。そして、真一郎も頻繁に稽古場を訪れるようになり、二人の技量は確実に進歩を見せ、時には真一郎も必死の攻防を余儀なくされるようになってゆくのであった。
 老師は三人の変わりように気付いてはいたが、それに対して何か問うという事も無く、静かに微笑みを浮かべ、どことなく嬉しげに三人の稽古を見守っていた。
 ある日、稽古が終わり井戸端で汗を拭いながら、「これを見ろ」と、真一郎が、左の二の腕の赤く変わった所を見せた。
「あっ!」
 荘介が小さく声を上げた。
「気付いたか荘介。儂の竹刀が荘介の撃ち込みを弾くのが一瞬遅れた。初めてやられたな」
「やったな、荘介。明日は俺だ」と、四郎が勢い込むと、
「おい、おい。儂は明日来るとは言ってないぞ」と、真一郎が嬉しそうに言う。
 が、荘介に、その実感は無かった。
 あの時、「ここだっ!」と感じると同時に身体が反応し撃ち込んだのであったが、既のところで、ものの見事に弾き返されたのであった。僅かではあるが当たっていたとはいえ、それは竹刀の撓りによるものであろうし、この手に確と手応えの無ければ、一本取れたとはいえず、喜ぶほどの事でもあるまいと思うのであった。だが、真一郎の体を、初めて僅かでも捉えられたのだ、その身の内に、更なる闘志の湧いて来ぬ筈は無かった。
 真一郎は嬉しそうに二人を見つめながら、もうそんなに遠くない日に一本取られそうだなと感じていた。
「木戸が閉まるまでにはちとあるな、例の所で飲むか」と、刻を気にしながら真一郎が二人を誘った。勿論、二人に異存のあろう筈も無い。
「はい!」と応じた時、廊下から老師が、
「宜しければ、今日はここで飲まれてはいかがかな、折良く到来物の佃煮もござる故。四郎は、誰か帰る者に屋敷まで使いを頼みなさい」と、にこやかに勧め、真一郎も泊ってゆく事になった。
「ほう、もう荘介の竹刀が当たりましたか。二人ともよく頑張るからの、四郎もすぐに一本取れそうだの。この頃は見ていても凄味を感じ、この老体では相手をしとうは無いが、頼もしくも嬉しいかぎりじゃ。これも皆秋月殿の御蔭じゃな、真にありがとうござる」
「何を仰せられます、何処の馬の骨とも分からぬこの身を、客分として気儘に稽古させて戴ける稽古場など、この江戸の何処にございましょうか。ましてこの二人の図抜けた才、差し出がましいとは思いますれど、ビシビシと鍛え、遠からず、私の全てを伝えたいと、また、盗んでもらいたいと思うております」
「良かったのぅ、四郎、荘介、秋月殿に巡り遭えて」
「はい」と、二人は口を揃えて応える。
「ところで、三人この頃は、まるで兄弟のようじゃのぅ。立ち合う時は敵のようじゃが」と、老師が笑う。
「お気付きでございましたか。去る日、内藤新宿の一膳飯屋の二階にて一献酌み交わす機会がございまして、その折、義兄弟の契り、互いに交した次第にございます。勝手な振る舞い、どうかお赦し下さい」と、真一郎が老師に赦しを乞うた。
「こちらからお願いしたきところ、願っても無い事、案ずるより産むが易しじゃの。この老体では、元気な二人、そうそう立ち合ってもやれぬで、儂も嬉しい。この二人を相手にした日は、もう真底疲れ果て、楽しみの晩酌も、ようは飲めぬわ。ははははは」と、如何にも嬉しくてたまらぬといった風情で老師が笑うのであった。 
「あの日以来、二人の目付きが一層怖くなり、無遠慮に襲いかかってくるようになりまして、ちと早まったかと、今になって少々後悔致しております」
「ははははは、さもあらん、さもあらん。まるで荒行の如き稽古、見ているだけの儂でさえ、ちと怖いでのぅ」
「そんなつもりは……」
 四郎が、言いかけて言葉に詰まった。
「気にするな、気にするな、兄弟なのであろうが、兄弟喧嘩、兄弟喧嘩。そんなもの誰も止めはせぬわ、もっと派手にやったら良かろうて」と、老師は益々嬉しそうに笑うのであった。

 真一郎から先に一本を取ったのは四郎であった。
 真に一瞬の出来事、その時四郎は茫然としていたが、逆に真一郎は嬉しそうに微笑んでいた。
 荘介はそんな二人をじっと見ていたが、心の中で今の二人の立ち合いの流れを、噛みしめるように追いかけていた。
 それは、しっかりとした流れの中で撃ち取った一本であった。力みも無く、偶然でも無く、明らかに四郎が作りだした流れの中で、真一郎の小手を見事に捉えていた。
 まだ茫然としている四郎。
 ややあって、二人がやっと礼をし別れると、四郎を押しのけるように荘介が立ち上がった。
「荘介、参る!」
「おう!」と、真一郎が応じる。
 凄まじいばかりの荘介の気魄である。さすがの真一郎も防戦一方、ジリジリと後退を余儀なくされ、終に壁を背にして詰まった。
 上段から撃ち下ろした荘介の竹刀を、真一郎が頭上で受けた。
「バシッ!」
 まるで、竹刀から火花でも出るのではないかと思える程の音が、その気魄と共に、道場に響き渡った。  
 次の瞬間、荘介は小さく鋭く退き、真一郎の咽を突いた。
「やったぞ!」と、荘介が感じたのと同時であった。壁を背にして小さく屈んだ真一郎の突きもまた、荘介の胸元にあった。
「うっ!」
「相撃ちかな」と、真一郎が四郎の時と同じように、嬉しそうに笑った。
「いえ、私の方が遅かったのではありませんか」
「いや、同時だな、確かに相撃ちだ。それにしても同じ日に二人に撃ち込まれるとはな。今日は完敗だ。ちと悔しいがな、でも嬉しい。だが、これからだぞ、いいな」
 真一郎が一段と厳しい目に戻って言えば、「はいっ!」と力強く応え、互いの顔を見合わす荘介と四郎であった。
 道場に居なかった筈の老師が奥へ戻ってゆく姿が見え、その背中にも嬉しさが漂っていた。が、夢中にあるような三人がそれに気付く事はなかった。
「それにしても、上段からの撃ち下ろしを頭上で受け、撃った俺より速く、透かさず突きに来るとは。やはり兄者の剣は速い」
「いやぁ、道場の壁ごと外へ突き出されるかと思ったぞ、凄まじい気魄だったな。四郎に先を越され、火の付いたようなあの形相も淒かった。恐ろしや、恐ろしや」
 三人、語らいながら井戸端で汗を拭いていると、「今宵もまた一献お付き合い願えますかな。荘介と四郎もな」と、老師が誘う。
 三人顔を見合わせ、無論のこと承知である。
「今日は尾頭付きの鯛でも馳走したいところじゃ。のぉ、秋月殿」
「はい、このところめきめきと腕を上げてきておりましたので、こちらも万全を期してはおりましたが、残念ながらやられてしまいました。が、この次は、今日のようにはゆかぬという事を教えてやるつもりでございます。それにしても嬉しゅうございます」
「失礼ですが、秋月殿の静の剣、この頃は、ちと変わられて参りましたかな」
「私自身もそんな感じが致しております。この年になり、何か若い頃の熱き血のようなものが、体力と気力と共に蘇ってくるのを覚えまする。それにこちらの方も一層美味しくなりました」と、杯を持ち上げ、笑いながら言う。
「いや、秋月殿、お歳はまだ三十路半ばでありましょう。その御歳であの静かなる剣、常人では遠く及ばぬもの。私なんぞ、月丹先生に倣い、愛宕山に半年以上も籠りましたが、中々……」
「老師も愛宕山へ……」
「もう二十年以上も前になりますが……」
「私も……。その後になるのでしょうが……」
「その若さで愛宕山へ……。何か、故あっての事でございましょうかな」
 真一郎、少しの躊躇いを見せたが、それを噛みしめるように口を開いた。
「実は私、仇持ち同然の身なのでございます」
「お伺い致しても宜しいのですかな」
 荘介も四郎も一瞬驚いたが、黙って二人の話を聞いていた。
「今日まで誰として打ち明けた事はございません。が、荘助や四郎に撃たれ、何か本当の兄弟となれたような気が致します今は、この心の内を語りたいと、心底そう思います。二人にも、そして剣の先輩として尊敬致します老師にも、この事、お知り置き願いたいと思います」

 真一郎の父は、四国のある城下に稽古場を構えていた。無論、無蓋流である事は言うまでも無い。
 真一郎十歳を過ぎた頃、父は剣術好きの藩主の催す公開の御前試合に出る事になった。藩の並み居る使い手を事も無く退けられ、気に召さぬ藩主の命で、その場で剣術指南役と立ち合う事になってしまった。それも、真剣でやれと言うのである。
 父は固辞するのであったが、半ば腹立ち紛れの藩主は聞き入れる由も無く、仕方なく父は立ち合いを承知した。
 日頃から、剣術とは人を倒すもの、やるからに勝たねばならぬ。そう、無蓋流の教えを説く父であったが、人を斬る、殺すなんぞという事はあってはならぬ。斬らんとし刀を抜くは、己の命や人の命を守る時のみ、まして剣を取り人の命を断たんとするは、己の大切に思うものを守る時のみぞ。出来得るなれば、いかなる時も真剣なんぞは抜かずに済むよう、己の剣を高めておけというのが持論であった。
 明らかに父の技量が勝っていた。
 斬らずに済む呼吸を探り、流れるように動き、そして指南役の頭上にピタリと真剣を止めた。
 一瞬の後、「勝負あり!」と、立会人の声が響いたが、相手は何を思ったか、残心より、ふっと息を吐き、刀を引こうとした父の無防備の胴を払った。
 血飛沫を上げ、父は倒れた。                       
 期せずして、周りから、「おー!」「卑怯な!」という声が一斉に挙がった。
 稽古場の高弟達と共に、真一郎はその一部始終を目の当たりにした。十を過ぎたばかりの真一郎に、なす術のあろう筈もなく、ただ茫然と事の成り行きを見ていた。
 藩主は烈火の如く怒り、指南役に対し、その場で謹慎を叫んだ。
 父の遺体を伴って稽古場へ戻る。
 母は亊の次第を高弟に聞き、指南役を討つと血気に逸る門弟達を抑えた。
 仮にも御前試合、それも真剣での立ち合い。寸止めが暗黙の了解とはいえ、命を懸けた戦いであることに違いは無く、それを解せぬ卑劣な相手に父の心根が裏目に出、理不尽に斬られたとしても、仇を討つ事は出来まいと、門弟達の中に藩の者が大勢いる事をも配慮し、母は皆を思い止まらせたのであった。
 十日ほどし、自らの短慮を恥じ、指南役は切腹して果てたと伝えられた。
 だが、父の死が気の病の元となったのであろうか、母は床に臥す事が多くなり、真一郎、十五の年に他界してしまった。
 稽古場は二人の高弟に支えられ、真一郎は若き主として、その二人や皆に見守られ育っていった。そしてまた、その天分ともいえる才を鍛え磨かれ、めきめきと腕を上げ、二十歳を過ぎる頃、その腕は二人の高弟おも凌ぐほどになり、稽古場は益々盛り上がっていった。
 そんなある日、ひとりの旅の武芸者が稽古場を訪れた。他流試合が望みなのだと……。
 来る者は拒まずの無蓋流、無論これを断ることは無く、師範代を含め三人の門弟が竹刀にて立ち合った。が、この旅の武芸者、相当の腕、師範代には少し苦戦をしたが、全て退けてしまい、当然のように、主である真一郎に立ち合いを求めてきた。
 際疾い攻防が続いたが、何とか真一郎が勝った。だが、相手は治まらない。なればもう一番、今度は真剣でと捲し立てる。
 この時、真一郎の胸の内に、父の事件が鮮やかに甦って来た。が、真一郎は常々、剣の道を志す以上、いつかは真剣で立ち合わなければならないのだ、それを避けて通る事はできないのだ、いや、父のあの時を見ていた自分であればこそ、それを越えねばならぬのだという思いを強く胸に抱いていた。
 門弟達の不安げな視線を感じながらも、真一郎は黙って頷くと刀を取った。
 その時、真一郎は、不思議な感覚に包まれてゆく自分を感じていた。
 体中に、力のような、感動のような、故知れぬものが充ち溢れ、刀を抜こうとする右手が小刻みに震えた。
 勿論、この時まで、何度となく真剣は抜いてきた。が、それは、己が身に初めて感じる、故知れぬものであった。
 父に初めて真剣を手渡され、その鈍色の光に身の引き締まるような感動を覚えたあの時とは、明らかに違うものであった。
 歓びにも似た、今その身の内を駆け巡る感動に、真一郎はしばし身を任せるのであった。
 が、それを怯えからくる躊躇いと見た武芸者は、獲物を追い詰めるが如く、嵩にかかって真一郎に迫る。
 初めての真剣勝負、父の事も相まって、真一郎の心のどこかに躊躇いは確かにあったであろう、が、追い詰められた時、真一郎の身体は、自分とは違う何かに操られるように、自然に動いていた。
 多分それは、あの得体の知れぬ感動をもたらした何かであったのではなかろうか。そしてそれは、真一郎の身体を流れるように操った。
 そして次の瞬間、武芸者は首から血飛沫をあげ、道場の床にドウッと崩れ落ちた。
 この時、真一郎の心は、自分でも驚くほどに静かであった。
 が、直ぐに、「しまった!」と、その同じ心に後悔が走り、父のあの時が甦った。
 そしてまた、予期せぬ出来亊がその場に展開されてゆくのであった。
 バタバタと廊下に足音が聞こえ、旅姿の少年が、悲鳴のように、「父上!」と叫びながら草鞋のまま道場へ駆け込んで来た。
 その時、真一郎は己の身体を、心を、稲妻のように引き裂いてゆく痛みを感じた。
 そして、あの日の光景が……。
 同じでは無いか。

 同じでは無いか、あの時と……。
 同じ心の痛み、苦しみを、この少年に背負わせてしまった。
 血の海に横たわる父に縋り泣きじゃくる少年に、誰も皆、なす術も無くただ呆然と立ち尽くすのみであった。
 稽古場では切なかろうと、高弟の一人が少年を預かり、葬儀も稽古場を挙げ、秋月家の菩提寺で執り行われた。
 ひと月ほどし、唯一の縁者であるという、越前に住む叔母からの使いの男が稽古場を訪れ、少年は引き取られて行った。
 別れの時、少年は健気に、しっかりと高弟に礼を言い、この後剣の修行に励み、父を超え、必ずや真一郎に立ち合いを願いに参りますと言い残し、連れられて行ったと言う。
 少年の母は、彼が生まれて間もなく死に、父と二人、仕官を求めながらの武者修行の途中であったと言う。思い遣るに、その旅は計り知れぬ苦難の旅であったろう。そんな少年に、自分と同じ天涯孤独の悲しみを背負わせてしまったのであった。
 父の名は安宅六郎太。少年の名は俊之助と言った。               
 この事件の後、真一郎は人が変わったかのように鬱ぎ込む事が多くなり、剣の稽古も全くやらなくなってしまった。
 心配した高弟達に、暫く旅にでもゆけば気も紛れるのではと勧められ、海を渡り、畿内を流離った。
 それから一年を過ぎた頃、真一郎は、無蓋流の祖、辻月丹の籠ったという、洛外愛宕山にいた。
 剣を捨てよう。そうも思い悩み、一年も仏の前に座り続け、自問自答を繰り返すのであったが、己の中の剣への執着が如何に強いものであるのか、苦悩し踠けば踠くほど、それを思い知らされるばかりであった。
 ある夜、夢の中の闇に父を見た。
 父は笑っていた。その微笑みは、幼き頃、真一郎に何かを厳しく諭し、その厳しさが消え普段の優しい父に戻ってゆく時の、あの優しい笑顔であった。
 剣は勝つためにある。剣を持ち対峙した以上、相手を倒さねばならぬ。だがそれは、人を斬る、殺すという事では無い。出来得れば、人を殺さず、傷付けずに勝つ。己の剣をそこまで高めれば良いのだと……。
 常日頃から父はそう言い、真一郎に剣を教え、剣客の心構えを説いてくれたのであった。
 父の教えを噛み締め、幾度となく剣を持とうとしては躊躇うのであった。
 やっと木刀を持てたのは、愛宕山で二度目の冬を迎えた頃であった。       
 身を切るような冬の風に向かい木刀を持ち立った時、真一郎は冬枯れの木立の中に、己を包む言い知れぬ寂寥を見たような気がした。
 久し振りに手にした木刀の風を切る音と、木立を渡る風の音が、それを弥増すかのように共鳴し、乾いた音色を奏でるのであった。
 しかし、季節が春に移りゆく頃、己を包む周りの全てに、それまでとは異なった不可思議な力が醸し出されてゆくのを覚えるようになっていった。
 鬱蒼とした杉木立の緑の中に、確実に春に応え蘇り芽吹き始めた草木の柔らかな緑、そして林間に聞こえる鶯や名も知らぬ小鳥達の囀り……。                          
 木刀を持ちその中に立つ時、漲るような力とは相反する不可思議で静かな力が、四囲の静寂を通して己の身体に伝わり、新たなる力を与え、生まれ変わり蘇らせてくれるような気がしてくるのであった。 
 それは、いつしか真一郎の内に溶け込み、己が剣客であるという事さえも忘れさせ、柔らかな優しさで包んでくれるのであった。
 更に一年の後、信念を基に創りだされた剣を携え、真一郎は山を下りると四国へ戻り、稽古場を守っていてくれた高弟達と己の剣を磨き、またそれを教えた。
 一朝一夕とはゆかない、それは重々分ってはいた。が、その全てを完璧に伝えるには時間が無かった。
 何故なら、ここに居れば、確実にあの少年がやって来る。
 立ち合いの上での事とはいえ、少年にとっては父の無念を晴らす、いわば仇討ちなのである、来れば、立ち合わぬ訳にはゆかないのだ。
 稽古場を高弟の一人に譲り、真一郎はまた旅に出た。
 もう、この山河へは戻れぬのだという思いを心に秘めて……。

「あの頃は、自分の腕に、心のどこかで増長しておりました。その慢心が、自分と同じ苦しみ、悲しみを、あの少年に背負わせてしまいました。それを一番知るであろう己が……。私にはまだ真剣を持って立つだけの心、そして剣、全てに於いて修行が出来てはいませんでした。未熟者でございました……」と、真一郎は心の中の苦汁を吐き出すように、呻くが如くそう語るのであった。
「そうでしたか、それで……」と、老師が何かを言いかけ、真一郎の心を慮り、言葉を切った。
「あっ、この刀の事でございますか」
 真一郎が、少し遅れてそれに気付いたのか、右手に刀を取った。
 そして、その場の重苦しさをわざと払いのけるかのように、「ちょいと失礼」と笑いながら刀を抜いた。
「勿体なかったでしょうか。我が家伝来の業物、死んだ父が見たら、目の玉ひん剝いて叱かられましょう」
「いやいや、父上もお喜びになられるのではございませんかな」
 何の事だか飲み込めぬといった面持ちの二人に、「よく拝見させて戴きなさい」と、老師が笑う。
 四郎に手渡されたその刀には、刃引きが為されてあった。が、その刀身の鈍く沈んだ光の中に波打つように浮き出た刃文は、それが並の刀では無いことを如実に物語っていた。
「あっ!」と、小さく声を上げた荘介の脳裏に、あの時の光景が甦った。
 あの斬り合いの時、確かに血は出てはいた。だが、あれほど痛がっていたのだ、真剣なれば、もっとひどい出血であったに違いないではないか。
 しかし、彼らの袴も、刃引きで斬られたとは思えないほどスッパリと斬られていたのではなかったか。刃引きの刀で袴を斬ったと同時に膝裏の筋をも撃ったのか。なんという剣なのだ。畏れのようなものを感じた荘介の全身に、またあの時のように鳥肌が広がってゆくのであった。
「気付きませんでした、不明の至りです。何せ、真剣での斬り合いを見たのも、人が斬られるのを見たのも初めての事でした故」
「子供でもあるまいし、大の大人が刃引きの刀を振り回すなんぞと、誰も思いはしまいよ。ははははは」
 老師が、さも愉快そうに笑うのであった。
「人を斬るということは、そういうことなのだ。二人も心しておきなさい。無闇に刀なんぞ抜くものでは無い、人の心を傷つけ、己もまた傷つく。が、人を斬って、己の心が傷つきもせぬ、そんな剣客にはなるまいぞ」
 老師の言葉の重さに頷き、また、真一郎の心を思い遣る二人であった。
 その夜、荘介も四郎も、中々寝付けなかった。
 人の心奥の悲しく寂しい内を知るということは、重く、そして辛いものであろう、まして、今では兄とも慕う真一郎の事であれば、なおさらの事であった。
 荘介も四郎も、真一郎のあの目の光を思い出し、暗い天井を見つめていた。
「消える事は無いのであろうな」と、四郎がその闇に呟くのであった。
          風の如くに【壱】「孤愁の剣」(その三、老師の死)へ続く
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