文字数 3,149文字

 セミが騒がしく鳴く山を抜けると湖が見えてきた。 
 我が家では夏休みに家族旅行をすることが恒例となっている。昨年は伊豆の海へ行ったので、今年は山へ行ってみようということで家からもそう遠くない湖へと旅行することになった。 
 海に比べれば正直見どころは劣るようにも感じるが、涼しげな鍾乳洞(しょうにゅうどう)もあるし温泉もあるということは魅力的だった。 
 途中に休憩で寄った駅には河童の像があるなど、思った以上にユニークな場所にも感じた。 
 なによりも宿泊を予定している旅館が格安だったのも嬉しかった。 
 宿屋や食事処などがまとまっている街中からは離れたところであったが、写真で見る限り食事は遜色ないどころか豪華な印象すらあったし、室内も家族で泊まるには充分な広さと造りであった。 
 昨年の家族向けホテルと比較するとコストパフォーマンスは雲泥の差に感じてしまうほどだ。 
 
 湖畔をぐるりと周る国道から地元の家々や畑のある道に入り、さらに細い脇道を上ったところに旅館はあった。 
 まだ西方には橙色に暑そうな太陽が覗いている割に、旅館は薄暗い造りに感じられた。
 いや、実際に暗いのだ。
 思えば室内や食事、風呂などの写真は掲載されていたが、外装の写真は載っておらず到着したときに初めて見たのだ。
 あばら家のような木造で一部は青々としたツタで2階部分まで覆われており、壁はところどころ隙間風があるのではないかというボロさであった。 
 本音を言えば、見た目だけなら旅館よりもお化け屋敷のほうが正しいように思えた。 
 後部座席で疲れて寝ていた息子を妻が起こしていたが、期待外れだったのかボソッと小言のようなものが聴こえてきた。 
 一泊二食付きで温泉もあるのに安いとはしゃいで喜んでいたのは誰だ、と思わず言いそうになってしまった。 

 外装こそお化け屋敷であったが入ってみればそんな印象を忘れさせてくれる旅館だった、と言いたかった。 
 予約をとった部屋へと向かう廊下は歩くたびに音を立てて(きし)むし、客が来るというのにところどころ窓辺の障子は破かれたままになっている。 
 その廊下の最深部は雨戸も閉まっているようで暗いのだが、外の明るさがチラチラ入り込んでおり、雨戸も割れたりしてそのままになっているのだろう。 
 部屋に入るとさすがにそこは写真通りで漸く安心することが出来た。 

 食事まで時間があるので、その間に風呂に入ることにした。 
 浴場までの道のりはキシキシと音を立てる廊下ではあったが、大浴場は岩風呂でちゃんと温泉を用いているとのことで充分に身体を温めることができ、疲れが吹き飛ぶほどだった。 
 妻も「部屋とお風呂は悪くないから、これで食事が美味しければ合格点かな」と機嫌を直してきてくれた。 
 その食事も刺身やら海のものが混ざりつつあったが、山奥らしいマスの塩焼きや山菜なども出てきてバラエティに富んだもので満足ができた。妻の機嫌は完全に良い方向へと向かっていた。 

 温泉で疲れもとれたとはいえ、家族旅行二日目の明日も巡るところはあるので、なるべく早く寝ることにした。
 畳に敷かれた布団に家族三人川の字で寝ることに改めて笑みを浮かべながらうつらうつらとしてきて、いつの間にか寝てしまった。

 早く眠りにつけたのは良いことだったのだが、普段と布団や枕が違うのか夜中に目が醒めてしまった。 
 薄っすらと明るい部屋の外から虫の音や、近くを流れる小川のせせらぎが僅かに聴こえていた。
 もう一度寝ようにも、これはすぐには寝れないやつだなと直ぐに感じた。 
 手洗いに行きたい気もしたが、部屋には備え付けられていないので、一度廊下に出なくてはならない。
 部屋から離れているわけではないものの、大人といえどもどうしてもあの廊下を夜中に歩くのは躊躇(ちゅうちょ)した。
 すると、そのときだ。
 タタタタタタタッ……。
 小走りをしている音。
 それも小さな子が。
 夕刻に明かりが漏れていた廊下の隅のほうから私の部屋へ近付いてくる。 
 タタタタタタタッ……。 
 そして、私たちの部屋の前でその音は止んだ。 
 私は頭上に灯っているナツメ球を見つめることしか出来なかった。
 タタタタタタタッ……。
 僅かな時間立ち止まっていたかと思うと、今度は部屋から走り去っていくようだった。
 私の身体は固まったまま、一瞬だけ寒気を帯び血の気がひいた。 
 いや、もしかしたら私たち以外に宿泊者が居て、そこの子がこんな時間に走り回っているだけかもしれない。 
 有り得なさそうで有り得そうな理由を頭のなかで巡らせるので精一杯だった。
 すると、去っていったであろう方からまた歩く音が聴こえてくるではないか。 
 ペタッペタッペタッ……。
 今度は足を濡らしたまま歩いている。 
 ペタッペタッペタッ……。
 一歩一歩、歩く音とともにギシギシギイギイと朽ちた廊下の床板が軋む音も併せて聴こえてくる。
 また、私たちの部屋の前で音が止んだ。 
 私の身体は完全に硬直したまま、視点は橙のナツメ球から離せないでいた。 
 もしも、戸を開けるようなことがあったらどうしようか。いや、これは夜中だから怖いと思うだけで、怖いと思っている存在は別に怖がる必要の無いものなのだ。
 一生懸命に幽霊だとかそういった類のものを脳内で否定した。
 そもそも、そういうことを想像させるのはこの建物の外見がいけないのだ……。
 ペタペタペタペタペタペタッ……。
 先ほどより長い時間、生じた恐怖からそう感じただけかもしれないが、濡れた足音はやってきたときと異なり走るように廊下の隅へと消えていった。 

 気付けば朝になっていた。
 足音を耳にしてから眠っていたのか、そのまま寝れずにいたのかも分からない。 
 家族をわざわざ怖がらせることもないだろうと、夜中のことは自分のなかに仕舞っておくことにした。 
 私の知っている限り、ぐっすりと眠っていた妻におはようと声をかけると、寝れたかどうか尋ねてきた。 
 もしかしたら、顔に表れているのかもしれないと思い、寝具が合わなくて熟睡出来なかったとだけ伝えた。
「寝れたけれども、走り回るようなドタバタ音が聴こえて起きそうになったわ」
と、一言だけ妻は言った。
 つまり、私が経験したことは私の幻聴などではなく、実際に起こっていた可能性が大いにあると裏付けられてしまった。 

 朝食の際に、旅館の主人と顔を合わせることができたので他に宿泊者がいるのか聞いてみたが、私たち家族以外には居ないことが分かった。 
 足音のことをそれとなく話すと主人は、たまにネズミが走り回ったり、山からサルがやってきたりする、なんてことを述べていた。 
 ネズミのような小さい音ではないし、サルの仕業かもしれないが、屋内に入ってこれるほどここはボロいのかと少し呆れ気味になった。 

 朝食も終え、出発の準備をしていると旅行二日目を楽しみにしている息子が部屋ではしゃぎ始めた。 
 部屋中を走り回ったかと思うと、床の間にかけてある掛け軸が珍しいのか眺めたり、触れようとしていた。 
 傷つけてはいけないと思い、息子に注意したにも関わらず掛け軸を裏返して見せた。 
 その一瞬、私には見えた。 
 長形40号の封筒くらいある白地の紙に赤字でどう読めば分からないものが難しく書いてある。
 ―お札だ。 
 これに気付いた時、私は夜中の出来事が更に怖くなってきた。 

 もう二度とこんなところには泊まりたくない、など思いながらも出発の際には宿の主人や女将さんには社交辞令のように挨拶を済ませ私たちは宿を出た。 
 律儀に宿屋のふたりは車で出発した私たちを見切れるまで見送ってくれた。 
 息子もそれに応えるように後ろを向いて大きく手を振っている。
「また遊ぼうね、お兄ちゃん」 
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