第1話

文字数 1,599文字

 【主訴】とは、患者が医者に申し立てる症状のうちの、主要なもの*である。(*goo国語辞書から引用した)日常の臨床場面では、医者が初診の患者さんに、
 「今日はどうされましたか?」
とか、(山形県)庄内地方の高齢者の初診患者さんには、
 「お婆ちゃん、今日はどこが調子悪いんですかぁ?」
などと尋ねたその返事が主訴である。
 「あぐどいでぇ」「まぐまぐでゅ~」「先生よぉ、おら、とかとかでゅ~での。」「こえぇの」
 ?????
 庄内に赴任した当初、私は患者さんの庄内弁の主訴を聴いて耳を疑った。それはおよそ日本語からかけ離れていて難解で、しばしば地元出身の看護師さんに通訳を頼んだ。
 診療はこの患者の主訴を聴くところから始まる。論文の症例報告も書き出しは患者の主訴の一文からである。そして原則、主訴は一つである。

 近年、患者も高齢化し、自分で主訴をうまく言えない高齢の患者さんも増えた。
 正確に主訴が伝わらないと、医療は思わぬ方向に展開してしまうことがある。

 その80歳半ばの男性は、数カ月前から続く経口摂取不良(←この症例の場合はこれが「主訴」に当たる)のため近隣の老健施設から当院に転送されてきた。当院で精査加療しても経口摂取量が回復しなければ老衰の診断で看取りとなる可能性が高い旨が紹介状に記されていた。
 その老爺(ろうや)は寝た切りで羸痩(るいそう)**(**[名](スル)疲れてやせること。やせ衰えること。goo国語辞書から引用した)が著明で、検査結果から長期間続いた低栄養状態は明らかだった。ただし全身状態が悪い割には意識レベルは比較的良好に保たれていて、意思疎通は何とか可能であった。
 入院後一応ダメ元で、また飢餓状態での経口摂取再開 ❨re-feeding❩ に注意をしつつ、食事はソフト食1,200 kcal を提供した。老爺(ろうや)は入院当日、何と食事を全量摂取しスタッフを驚かせたが、その後、経口摂取量は日を追う毎に減少し、1週間以降は0~1割程度の日日が続いた。
 担当の研修医が老爺(ろうや)に直接、「何故、食事が摂れないのか?」と尋ねた。
 老爺(ろうや)答えて(いわ)く、
 「ご飯食べると下痢すんなんやだなぁ。んで、すぐトイレさ行きたくなんなやぁ。」
 本人としては、「食べても下痢で全部出て行くし、下痢するとお尻が痛いのが嫌で食べない」という確固たる理由があったのだ。
 この老爺(ろうや)の正しい主訴は「下痢」である。「数か月続く経口摂取不良」は主訴ではなく、主訴の結果であった。
 その後、大腸カメラも含め下痢の原因検索をしたが有意な病気は見つからなかった。内服薬の副作用で下痢を起こす可能性のある薬を調整し、整腸剤の内服で下痢の回数が減少し、次いで便の性状も改善した。経口摂取量も徐々に増え、リハビリテーションを行った。入院して1か月後、身の回りの日常動作はほぼ自立、身体機能も歩行器歩行が可能なまでに回復し、紹介元の老健施設に再入所できた。
 この症例は、経口摂取不良で全身状態が悪化し、周囲が考えた主訴「経口摂取不良」ではなく、本人自身から主訴「下痢」を聴き出せたところが治療経過の分水嶺(ぶんすいれ)だった。
 食べると下痢をしてお尻が痛くなるから食べない。そのため飢餓が進行し命を落とす。本末転倒だと思うが、このようなことは高齢者医療の現場では決して珍しいことではない。
 臨床の奥は深い。

 んだんだ。

 さて写真は、行きつけの地元の居酒屋の”中華風冷ややっこ” \ 380- である。

 豆腐の上に搾菜(ザーサイ)、ハム、葱の千切り、錦糸卵(きんしらん)、そして雲吞(ワンタン)の皮の千切りを揚げたのが盛大に盛られている。冷やし中華の汁?が掛かっていて、豆腐と一緒にこれらを食べる。揚げた雲吞(ワンタン)の皮がパリパリと歯応えがあってしかも香ばしく味を支えている。美味しい。
 近未来に、歳を取って経口摂取不良になっても、私はこの”中華風冷ややっこ”は最後まで食べられそうだと思った。
 んだの。
(2024年6月)
 
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