第5話
文字数 15,771文字
錫の部下であるという黒づくめの男達数人と俺と錫は黒づくめの男の一人が運転する世間一般に言われるところのリムジンという物に乗って錫の住いだという高層マンションの地下駐車場から外に出た。車道を走り出したリムジンの車窓の外にある景色を見て俺はこの場所が俺の自宅からそれほど遠くない場所にある繁華街だという事に気付いたが余計な事を言うと錫がべらべらと余計な事を話し出すだろうと思ったので何も言わずにおいた。広々とした車内には俺達や黒づくめの男達が座る白い革張りのシートの他に冷蔵庫や小さなコンロのような物までが設置されていた。
「兄ちゃま~。何か食べる? それとも飲む。両方ともいろいろあるんだよ~」
俺の横に座っている錫が俺の腕に自分の腕を絡めながらこれでもかというくらいの上機嫌な様子で声を掛けて来た。
「気持ち悪いだろ。そんなにくっ付くな」
俺は錫の腕を振り解くと距離を置く為にシートの上を錫とは反対側の端に向かって移動した。
「もう~。兄ちゃまったら照れちゃって。初デートなんだよー。もっとくっ付こうよぉ」
いつの間に初デートになったのだ。このサイコクズ。それにこのテンションの高さ。鬱陶しい事この上ない。俺が監禁されているあの部屋に支度をして戻って来た時から錫のテンションはおかしくなっていた。嬉しそうで楽しそうでとにかくよく笑って途轍もなく明るいのだ。
「くっ付かないし初デートでもない。お前は出掛ける時はいつもこうなのか? もう少し大人しくしていろ」
俺は錫を視界から消そうと思い窓の外に目を向けた。
「兄ちゃまが一緒だからに決まってんじゃん。そうじゃなきゃこんなにうきうきしないよー。いつもの錫はもっと暗くってうつうつなんだよ。ねえ? そうだよね? 兼定」
兼定というのは黒づくめの男のうちの一人で俺達の向かい側に座り錫の命令を聞き他の奴らに指示を出している奴の名前だ。錫とのやりとりを見ているとどうやらこの兼定という男が黒づくめの男達のリーダー的な存在らしい。
「はい。あのうつうつなお姿は見ていられません。今のお嬢様は周りの者達を自然と笑顔に変える天使のようです。見ている私どもまで嬉しくなって来てしまいます」
今回は黒づくめの男達は目出し帽を被ってはいなかった。顔が見えるのでだいたいの年齢が分かる。この男の年は四十くらいだろうか。仕事とはいえこんな頭のおかしい子供のお守りをするのはさぞかし大変な事だろう。
「兼定さん。あんたも大変だな。こんな奴のお守りなんて」
俺は心底同情しながら言った。
「兄ちゃま様。兄ちゃま様は誤解されています。お嬢様はとても立派なお方です」
とても立派なお方だと? 何を言い出すのだこいつはと思った俺は睨むような目付きで兼定の方を見た。
「申し訳ございません。余計な事を言いました」
俺の視線に気付いた兼定が深く頭を下げた。
「兄ちゃま様はという呼び方はやめてくれ」
兼定の真摯な態度に俺はそんな風に返す事しかできなかった。兼定の態度からは欺瞞や卑屈なへりくだりなどは微塵も感じられない気がした。ひょっとするとただ演技がうまいだけなのかも知れないが、俺の目には心から錫の事を尊敬しているように見えていた。
「兼定ずるーいー。自分だけ兄ちゃまと仲良くしちゃ駄目ー」
錫がまた俺に近寄って来ると腕を俺の腕に絡めて来た。
「お嬢様は甘えたいだけなのです。どうかお嬢様のそんなお気持ちをお察し下さい」
兼定が頭を下げたまま言った。
「頭を上げてくれ」
こういうタイプは苦手だ。きっと錫の為だと思い俺が何をやっても言っても我慢するのだろう。俺は人を傷付けるような事を平気で言うが無抵抗な相手を一方的にいじめるような事は好きじゃない。
「甘えさせるかどうかは俺の自由だ。そうだろう?」
「は、はあ。そうですが」
顔を上げた兼定が言い淀んだ。
「兼定。ありがと。大丈夫。兄ちゃまは照れてるだけなんだから。ね、兄ちゃま」
兼定を利用するか。こすい奴だ。ここで俺が冷たくすれば兼定の気遣いを無碍にする事になるからな。だが。無駄だ。
「錫。離れろ。離れないのなら今すぐに帰宅だ」
「嫌だよ。そんなのないよ。出て来たばっかりなのに」
錫が至極悲しそうな顔になりながら駄々っ子のように言い、俺から離れようかどうか迷うような仕草をする。リムジンがゆっくりと俺達を気遣うような動きをしつつ信号で停車した。
「すげーなげー」
「こういうのって有名な人が乗ってたりするんですよね。そう聞いた事があります」
歩道にいるクズどもの声が聞こえて来た。俺はなんとなくその声に聞き覚えがあるような気がしてふっと目を声の聞こえて来た方にある窓に向けた。
「祐二? それに、猫服先輩?」
声が我知らずのうちに口からこぼれ出た。
「兄ちゃま?」
錫が俺の様子に気付き声を掛けて来た。
「ここで降りたい。今すぐに」
俺は反射的にそう口走っていた。
「ここ? 何にもないけど、いいの?」
「ああ。早く」
「兼定。降ろして」
「はい。お二人が外に出る。支度を」
兼定が言うとすぐに外からドアが開けられた。俺は深々と被っている黒色のニット帽が額をちゃんと隠している事を何度も手で触って確かめながら開いたドアに向かって座りながらシートの上を移動して行った。
「お兄様。松葉杖と車椅子どちらを使いますか?」
俺は迷う事なく部屋から出る時に使った松葉杖を選んだ。
「松葉杖を」
「ではこれをどうぞ」
車から降り松葉杖を使ってアスファルトの地面の上に立った俺は少し離れた所から俺と俺に続いて降りて来た錫の方を興味津々といった様子で見ている学園の制服を来た男女の方に顔を向けた。
「おお?! 颯太? 颯太だよな? マジかー? 生きてたのかよー!」
「え? え?」
何事が起きたのかと戸惑っている猫服先輩を置いてきぼりにして俺に気付いた祐二が駆け寄って来た。
「颯太。何やってたんだよ。一ヶ月だぞ。お前が急に学校に来なくなってから一カ月も経ってんだぞ。俺は心配したぞー。交通事故だって? 見舞いに行こうと思っても誰もお前がどこの病院にいるか知らないしよー」
祐二が興奮した様子で俺の肩をばんばんと叩いて来た。一ヶ月? あの時から一カ月も経っているだって? 俺がどういう事だ? と考えていると祐二が猫服先輩の方に顔を向けた。
「先輩。颯太ですよ。佐井田颯太。先輩に告白したあの」
一人取り残されおろおろしている猫服先輩に祐二が声を掛けた。
「颯太君? あの、颯太君なんですか?」
猫服先輩が目を見開いて俺の顔を穴の開くほどに見つめながらゆっくりと歩き出し俺に近付いて来た。
「そうですよ。ほら。お前、なんだよそのニット帽。似合わないな。その所為でお前だって分かり難いんだよ。お。わりい。俺ってばつい再開した嬉しさからばんばん叩いてたな。お前、怪我大丈夫なのかよ?」
祐二が今更のように俺が松葉杖を突いている事に気が付くと言葉の途中から心配しているような声音になった。
「この帽子はええっと、あれだ」
一ヶ月の事なぞさっさと忘れて俺の意識はニット帽に移った。この帽子は絶対に脱ぐ事ができないという理由を早く考えなくては。
「兄ちゃま大丈夫?」
錫が俺に寄り添うようにくっ付いて来た。
「錫。くっ付くな」
錫の所為で思い付いたこれぞという理由を言いそびれてしまったではないか!
「これは」
俺は早く理由を言おうと慌てて口を開いたが猫服先輩の言葉が途中で差し挟まれた。
「怪我を隠してるんですね?」
オッケー。猫服先輩。いい。実にいい。ナイスフォロー。俺もそう言おうとしたところです。
「そうです。祐二。そういう事だからこのニット帽にはもう触れるな」
「なんだよ、それ。お前こんなとこにいて大丈夫なのかよ?」
祐二が俺と錫の顔を交互にまじまじと見ながら言った。
「ああ。大丈夫だ。それより猫服、ああっと、先輩の事だ。どうして先輩が祐二と一緒にいるのだ? それに、その格好は?」
猫服先輩がこれですか? と言いながら下を向き自分の体を見た。
「錫だよ。錫がやらせたの。体中に酷い、あがががもががもががもふ」
酷いのいのところまで錫が言った瞬間に俺は片方の松葉杖から手を放しその手で錫の口を塞いだ。
「錫がやったのか。そうか。分かったから錫は何も言うな。少し黙っていろ」
「もがふあが。ぷっは。兄ちゃま。急に口を塞ぐから興奮した、じゃない、驚いたよ。うふうふ。兄ちゃまの手の感触がまだ唇に」
錫が頷いたのを見て口を塞いでいた手を放すと錫がうっとりとし妙に色っぽい様子になりながら自分の唇に指をそっと這わせた。
「なあ、颯太。誰なんだその子は?」
祐二が身を乗り出すようにして勢い込んで聞いて来た。
「こいつか? こいつは、錫だ。俺の妹の」
面倒なので余計な事は言わずに妹という事にしておいた。
「颯太君。あの、今の、ありがとう」
猫服先輩が小さく頭を下げて来た。
「気にしないで下さい。それよりも、その格好、なんというか、いいのですか?」
確か体の傷は大切な傷だったはずだ。
「はい。この体を見たらこれはこれでいいのかなって思えてしまって。普通じゃないですか? 今の私」
猫服先輩が嬉しそうな笑みを顔に浮かべた。
「ねえねえ兄ちゃま」
錫が俺の耳元に顔を寄せると小さな声で囁くように言った。
「なんだ?」
俺は猫服先輩の顔から視線を外さずに口だけを動かして返事をした。
「平気なの? こいつ、兄ちゃまを殺した奴なんだよ。もしも、怖くってどうしようもなくって仕方なく話をしてるとかなら即刻排除したげるよ」
俺は錫の言葉を聞いてはっとした。錫の言う通りだ。俺はこの人に日本刀で刺されている。それなのに、俺は今平然と話をしている。
「黙っていろと言っているだろうが」
錫のくせに鋭い指摘をするじゃないかといらっとした俺は錫の方に顔を向けるともう一度片方の松葉杖から手を放し錫の額に水平チョップを叩き込んだ。
「きゃひーん。兄ちゃまのチョップウゥー。ブヒー鼻血出そう~」
興奮していやがる。こいつ駄目だ。いよいよ駄目になって来ていやがる。
「おい。妹ちゃんに何してんだよ。大丈夫かい? 妹ちゃん」
祐二がここぞとばかりに言い錫に駆け寄った。
「近付くんじゃねえよこのゲスが。錫に触っていいのは兄ちゃまだけなんだよ」
突然の錫の豹変に俺はそういえばこいつ公園で会った時もこんな風になっていたなと思ったがどうでもいいので何も言わなかった。
「うへぇっ。おい。兄ちゃま。この子、なんだよ。急に変わったぞ」
祐二が飛び跳ねるようにして錫から離れると凄い速さで移動し俺の背後に隠れた。
「兄ちゃまと呼ぶな。祐二、お前、大丈夫か? どことなく嬉しそうな顔をしているように見えるぞ。まさか、錫に怒鳴られて快楽を覚えたのか?」
兄ちゃまと言われたお返しに嘘を言ってみた。
「マジ? 俺嬉しそうな顔なんてしてる? まさか、新しい性癖の目覚めなのか? なんか、どきどきしたし、今もどきどきしているけど、嘘だろ? 俺、マジなのか? そんな事ないよな。でも、そうだったら、いやいやいや」
祐二が思考の迷宮に迷い込み頭を抱えながらぶつぶつと独り言を呟き始めた。
「先輩。ちょっといいですか。二人で話をしたいのですが」
俺は猫服先輩との会話を再開しようと思いそう言ってから錫の鋭い指摘の件を気にして自分の心や体に異変が起きていないかと注意を向けた。
「はい」
猫服先輩が近付いて来る。もう着ぐるみを着ていないので本当は猫服先輩じゃないのだが、今更呼び方を変えるのも変なのでこう呼び続ける事にしよう。こんな事を平然と考えていられるくらいに心にも体にもなんの異変も起きてはいなかった。どうしてなのかは謎だがどうやら俺は猫服先輩にされた事に対して何も思ったり感じたりはしていないらしい。
「兄ちゃま。どこ行くの?」
俺が松葉杖を突きつつ歩き出すと錫がついて来た。
「ちょっとここから離れるだけだ。聞かれたくない話がある」
「錫は兄ちゃまとこの泥棒猫、じゃない、この女の事ならなんでも知ってるよ。だから何を聞いて平気だよ」
「お前じゃない。祐二だ。祐二には聞かせられない」
俺はあの日の事を猫服先輩に聞こうと思っていた。猫服先輩の事を考えればあの日あった出来事の話を祐二に聞かせる事はできない。
「兼定。これを拘束しといて」
錫がなんでもない事のように言うと、リムジンの横に立っていた兼定がはいと言って近付いて来てまだ頭を抱えていた祐二をどこかへ連れ去って行った。
「おおーい。きゅ、急に、なんだよこれはあぁぁー。俺はどうなるんだあぁぁぁー」
祐二の悲痛な叫びが聞こえるがそんな事はどうでもいい。
「先輩。あの日の事なのですが」
俺は言いながら俺の目の前に立っている猫服先輩の瞳をじっと見つめた。
「あの日ですね? 確かに私は君を殺しました。君が死んだ後に私は君の死体と引き合わされたんです。こう見えても私、さっきからずっと凄く驚いてるんです。まさか君がこうして生きてるなんて。どうしましょう? もう一度殺さないといけないのでしょうか? でも、私はこんな風に変わってしまいました。今抱いている私の気持ちは本物なんでしょうか? あれだけ大切だった傷が治った事を喜んでしまうような私です。自分の事が信じられなくなってるんです」
猫服先輩がすがるような目で俺を見つめ返して来た。何をどう言えばいい? 俺はやはり死んでいたらしい。そして生き返ったらしい。それだけでもなんだか良く分からないのに猫服先輩の心の内を知らされてしまっても言葉が何も浮かんでは来ないし何も言葉を思い付かない。なんの前触れもなく不意に俺の傍でどさっという音がした。
「なんだ?」
音の発信源と思しき場所に顔を向けると、錫が倒れていた。
「おい。錫。なんの真似だ?」
俺は立ったまま錫を見下ろして言った。
「凄い汗じゃないか。お前、なんか病気なのか?」
どうせ演技なのだろうと高を括っていた俺は目を閉じ苦しそうに顔を歪め荒い呼吸を繰り返している錫を見て本気で驚いた。松葉杖を投げ出してしゃがむと錫を抱き起した。
「人を呼んだ方がいいと思います。さっきの人。なんて言いましたっけ?」
錫の顔を覗き込むようにしながら猫服先輩が言った。そうだ。兼定だ。あいつを呼ぼう。
「兼定さん。来てくれ。錫が、錫の様子がおかしいのだ」
俺は姿の見えない兼定に向かって出せる限りの大声で叫んだ。
「お兄様。お嬢様をこちらに」
「ひゃー。びっくりしました」
「どこから沸いた? いや。そんな事はいい。早く錫を」
「お嬢様。大丈夫ですよ。すぐに楽になります」
「兄ちゃま。ごめん。ちょっとだけ、離れるね。すぐに、戻るから」
兼定に抱き上げられた錫が薄っすらと目を開けると聞き取れるか聞き取れないかくらいの弱々しい小さな声で途切れ途切れに言い片手でそっと俺の頬からこめかみの辺りにかけてを撫でるような感じで触って来た。
「お嬢様。少々揺れます」
兼定がリムジンに走って近付き俺達の乗っていた後部座席に錫とともに入った。
「そんなに心配しなくってもきっと平気ですよ」
猫服先輩がまだしゃがんだままでいる俺の顔を見つめながら気遣うように言った。
「心配? 勘弁して下さい。俺はあいつの事なんてなんとも思っていないですよ」
「そうですか? でも、顔に書いてありますよ。心配だって」
顔に書いてある? 俺、そんなに心配そうな顔をしているのか? あまり表情には出ないタイプだと自分の事を思っているが、錫の事は別なのか? 俺はあの錫の事を本当の妹だと思い始めていて心配しているという事なのか?
「あ。書いてある事が変わりました。あの子は本当の妹さんじゃないんですか?」
おう? なんだ? 何かがおかしいぞ。
「先輩。凄いですね。俺の心」
ここまで言って俺は凍り付き、とある可能性に気が付いた。俺は猫服先輩の目がどこを見ているのかを恐る恐る確かめた。見ている。じいーっと見ている。猫服先輩は俺の額を確かに見ている。
「あの、先輩」
「はい」
「見えていますか?」
「えっと、はい。これの事ですよね?」
猫服先輩が遠慮がちに手を伸ばして来ると俺の額のディスプレイを優しく突いた。
「ぎょええー。見るなあああー」
俺は絶叫しながらニット帽の端を握り締めると思いっ切り額を隠そうとして引っ張った。ずぞぞぞっという変な音がして、引っ張った俺の手が予想外に下りて来た。俺の目を破れて伸びてしまったニット帽を編み上げていた毛糸が覆った。
「いやあああー」
俺は悲鳴を上げながら両手で額を覆い隠した。
「なんだよそれ。アクセサリーかなんかなのか?」
いつの間に戻って来たのか祐二が猫服先輩の横に立ち俺を見下ろしながら言った。
「やめええー」
俺は立ち上がるとリムジンに向かって駆け出してすぐに転びそうになった。
「なんだ? 足が。ああそうか。まだ慣れていなかった」
俺は松葉杖を取りに戻ろうと数歩歩いてはっとした。歩けている。普通に歩くだけだったらもう問題はなそうだった。
「颯太君。大丈夫ですか?」
猫服先輩が松葉杖を持って傍に来た。
「大丈夫です。大丈夫ですから今は放っておいて下さい」
俺は猫服先輩の体を自分から遠ざけるように片手で押した。
「でも」
「リハビリの一環なのです」
咄嗟に思い付いた言葉を相手を拒絶するような強い口調で言い放ち俺は歩き出した。
「兄ちゃま~。こっちこっち。こっちだよー。錫はここだよー」
リムジンの後部座席の窓が開き、何もなかったかのように元気そうな錫が姿を現すと片手に持った新しいニット帽を振りながら至極嬉しそうに声を上げた。
「うおおおー。すーずー。それをーよこせー」
俺は咆哮を上げるように叫びながら歩いて錫に近付いて行く。
「兄ちゃま~。渡したら錫と結婚してえ~」
錫の間近まで行き、いざニット帽を受け取ろうとすると錫が実にくだらない事を言い出した。
「お前、いよいよ頭がおかしくなって来たみたいだな。そんな事できるか。というか法律的に無理だろ。馬鹿な事言ってないで早くそれをよこせ」
俺は額の事をすっかり忘れ冷たく言い放った。
「法律は大丈夫だよ。だって兄ちゃまもう死んでるし。別人として戸籍を取ればオッケーだもん」
「オッケーだもんじゃない。お前と結婚なんてできるか」
「兄ちゃまのホモー」
錫が言うと窓ガラスが下から上がって来た。俺は窓ガラスに映る自分の姿を見て額の事を思い出すと既に閉じてしまっている窓ガラスをどんどんと叩いた。
「おい。錫。開けろ。ニット帽をよこせ」
「なんだよ。どうした? お前、また妹ちゃんをいじめてんのか? かわいそうだろ。やめろって」
祐二が俺の傍に来ると窓を叩く俺を止めようと俺の肩を掴んで来た。
「うるさい。祐二には関係ない。傍に来るな」
「傍に来るなって、颯太。それはないだろ」
窓ガラスが下がり始めた。
「おお。錫。早く」
「兄ちゃま。ちょっと、耳塞いでて」
「こんな時に何を言い出すのだ。ニット帽を早く渡せ」
「言う事聞いてくれないなら渡さない」
窓ガラスが俺を脅迫するように上がり始める。
「待て待て。分かった分かった。耳を塞げばいいのだな。こうすればいいか?」
「うん。あっ、と。それと後ろ向いてて」
「なんだ? 聞こえないぞ?」
錫が窓から体を乗り出すと俺の体をくるりと回して後ろを向かせた。
「錫。これじゃ額が丸見えだ」
俺は慌てて耳から手を放し額を隠した。
「てめえはすっこんでろ。邪魔するなって言ってんだろうが」
錫が噛み付かんばかりの勢いで怒鳴り声を上げた。
「い、い、妹ちゃん。もう一度、ああ、違う。ごめん。分かった。俺はすっこんでるから」
祐二がリムジンから離れ俺がさっきいた猫服先輩が立っている場所まで戻った。
「兄ちゃま。耳塞いでないじゃん」
俺はここは何も聞いていない振りだと思いながら錫の方に向き直った。
「今手を放したばっかりだ。言う事を聞いたのだ。早くニット帽をよこせ」
錫が小首を傾げた。
「本当に? 何も聞こえてなかった?」
「聞こえてなどいない。錫。いい加減にしろ」
俺は錫に向かって片手を伸ばした。
「もう。隠してばっかりいたらディプレイの意味ないよ」
錫が唇を尖らせ不満そうに言いながらニット帽を持つ手を窓から出そうしたが途中で止めた。
「こら、錫」
俺がニット帽を奪おうとすると錫がさっとニット帽を持つ手を下ろした。
「いい事思い付いちゃった。ねえ、兄ちゃま。これからは錫の前ではディプレイを隠さないって約束してくれるならこれ渡したげる」
俺は錫を睨み付けるとこの約束をしていいのかどうか考え始めた。
「兄ちゃま。そんなに嫌?」
「当たり前だ。お前、自分が俺と同じようになったら嫌だろ?」
錫が束の間何かを考えているような顔をしてから口を開いた。
「錫は全然平気だよ。兄ちゃまにだったら錫は錫の全部を見せられる」
錫が少し恥ずかしそうに言ってから嬉しそうに誇らしげに満面の笑みを顔に浮かべた。
「錫」
疲れる奴だ。もういい。それならニット帽はいらないと言おうとした時、俺の頭の中に閃きが走った。そうだ。これだ。
「分かった。だが、錫よ。本当にいいのだな? 俺の考えている事がすべて分かるという事は、俺がお前の事をどう思っているのかという事も分かるという事だ。人の気持ちなぞ裏も表もあるし、その場その場でころころと変わる。お前、きっと酷く傷付く事になるぞ」
脅してどうにかしようと思っている訳ではない。錫に嫌われればいいのだ。心の中が見えないからこそ人は人とうまくやっていける。錫。俺の心の中を見るがいい。そして、俺を嫌いになれ。そうすれば俺はお前から解放される。
「平気だよ。兄ちゃまのどんな気持ちを知っても錫は傷付かない。はい。じゃあ、これ」
俺は錫の手にあるニット帽を掴んだ。
「おっと。そうだ。お前の前でというのはどこまでだ?」
危ない危ない。錫がしぶとく俺を嫌わずに粘っている場合の事を考えておかなくては。
「うーん? 難しいな。錫の見てる範囲でって事かな。例えば今だったら振り向いてあの人たちの方を向いたら被ってもいいよ」
「そんないい加減な事では駄目だ。ちゃんとルールを決めろ」
「無理だよ~。だって、家で二人っきりとかになってて決めたルールから外れてたら見えないなんて事になるかも知れないじゃん。そこは曖昧にしとこうよ」
「しっかりと決めろ」
俺は喉から手が出るほど欲しいニット帽に向けて伸ばしていた手を引いた。
「兄ちゃま? 帽子はいらないの?」
「ルールを決めないのならいらん」
「じゃあ、錫が帽子を脱いで欲しいって思ったら言うからその都度話し合うの。それならいい?」
少しの間考えてから錫が言った。
「話し合う時は対等な立場だぞ。お前に優先権があるとかそういうのはなしだ。そういう事でいいな?」
「えー。駄目だよー。それじゃ今と変わらないよ。そんな意地悪言うならこれ渡さない」
これはいかん。攻め過ぎたか。
「兄ちゃまをあんまりいじめるな。そろそろ許してくれ。頼むからニット帽を渡してくれ」
どうだ? お前の大好きな兄ちゃまが折れているぞ?
「兄ちゃま。もう。ずるいよお。兄ちゃまにそんな風に言われたら。分かった。じゃあ、話し合いだよ?」
「ああ」
俺は破れているニット帽を錫に渡し新しいニット帽を受け取って頭に被ると猫服先輩達のいる方に顔を向けた。
「錫。悪いが先に帰っていてくれ。俺は先輩達ともう少し話をして行く」
「ここで待ってる。兄ちゃま一人じゃ帰って来れないよ」
「平気だ。もう歩くだけなら普通にできる。俺の事よりお前の事だ。帰って休め。さっき倒れたばっかりだろ」
「兄ちゃま。嬉しいな。錫の事心配してくれてんだね」
早速チャンスが来た。錫。ディプレイを見たいと言え。俺が今思っている事を見れば、お前はきっと幻滅する。
「兄ちゃま。ごめんなさい。さっきのは本当は演技だったの。兄ちゃまの気を引きたかったからやったんだ。だから大丈夫なの。待ってる」
俺は思わず振り向いた。
「あれが演技? 嘘をつくな。あんな演技できるか」
「兄ちゃま。帽子脱いで」
今か? 今はまずい。俺が錫の事を心配していると誤解される可能性がある。錫の事だから誤解だといくら説明しても自分のいいようにしか考えないだろう。
「今は駄目だ」
「なんで?」
「なんでもだ。そんな事より早く行け」
「嫌だ。待ってる」
「じゃあ、もう勝手にしろ」
もう知らん。今度倒れてもそのまま放置してやる。俺は猫服先輩達の方に向かって歩き出した。
「ちゃんと歩けましたね」
松葉杖を抱くようにして持ちながら猫服先輩が小走りに駆け寄って来ると嬉しそうに微笑んだ。
「さっきはすいませんでした。あの、なんというか、必死だったのでつい口調がきつくなってしまって」
「颯太。そんな事より、額のはなんだったんだよ?」
このクズめ。猫服先輩がさっきの俺の様子から額の事に触れないようにしてくれているのが分からないのか。
「お嬢様がこちらに来るようにとおっしゃられていますが」
いつの間に傍に来たのか俺の横に立っていた兼定が祐二に向かって言った。
「マジ? 妹ちゃん、俺の事呼んでる?」
「はい。こちらへ」
「悪いな。俺、ちょっと行って来る」
嬉しそうにへらへらと笑いながら俺達に向かって手を振りつつ祐二が兼定と一緒にリムジンに向かって歩き出した。
「颯太君。今日は帰った方がいいと思います。妹さんについていてあげて下さい」
祐二を見送りながら猫服先輩が言った。
「すいません。先輩も悩んでいるのに力になれなくって。なんか、いろいろあって自分の事でいっぱいっぱいで」
猫服先輩の気遣いを受けて俺が小さく頭を下げると先輩が俺の方を向き優しい笑みを顔に浮かべた。
「謝ってばっかりですね。でも、私の方こそごめんなさい。君も大変ですもんね」
おかしい。なんだろう、この気持ち。俺、この人に殺されたはずだよな?
「なんといいますか。難しいですね。だが、変わった事を喜んでもいいと思います。着ぐるみ、大変じゃなかったですか? 今の先輩、自然ですよ。前からそうだったみたいだ。あの傷は、大切だったかも知れないが、先輩を縛り付ける呪いのような物でもあったのだと思います」
猫服先輩がじいーっと俺の顔を見つめて来た。俺はその視線を受けてはっとすると慌てて額の状態を確認した。大丈夫だった。額のディスプレイはちゃんと隠れていた。
「山柄君と一緒に歩いていたのは君の事を聞きたかったからです。今日が初めてだったんですよ。思い切って話し掛けたんです。でも、全然話ができなくって。そうしたら君が突然目の前に現れて。嬉しいです。君が生きててくれて」
俺は自分の顔が火照るのを感じた。
「俺も嬉しいです。先輩とまた会えて」
思った事がそのまま口から出ていた。猫服先輩の瞳がきらきらと輝いた。
「でも、やっぱり」
猫服先輩がそこまで言って言葉を切った。なぜだろう? 今、背筋に物凄くぞくりとした物が走ったのだが。
「一緒に死にたいと思ってしまうのはどうしてでしょうか?」
うおおーい。まだ死にたいのかーい。
「先輩。額見ますか? こういう時は便利かも知れない。俺の思っている事が分かります」
俺はニット帽に手を掛けた。
「いいんですか?」
いいも何もあるか。また殺されてはたまらない。あんな痛い思いは二度としたくない。
「どうですか? なんて書いてあります?」
俺はニット帽を額が見えるようにずらした。
「もう絶対に嫌だ。あんな思いはしたくない。そう書いてあります」
「ですよね? ですよね? これが俺の気持ちです。だから、一緒に死ぬとかそういうのはもうやめましょう」
意気消沈したのか猫服先輩の瞳から輝きが消えた。額を隠し、ちゃんと隠れているかどうかを手で触って確認していると猫服先輩が小さな声で話し出した。
「この気持ちをどうすればいいのか分からないんです。君に対する思いを私はどう表せばいいんでしょうか。言葉じゃ全然伝わらないと思うんです。だから、一緒に死ぬ事で。ごめんなさい。私、もう帰りますね」
猫服先輩が言葉を途中で切ると唐突に別れの言葉を告げ、くるりと体を回して俺に背中を向けて来た。
「俺も考えます。ええっと、どうすればいいのか。きっと先輩の気持ちを表す方法があると思います」
切実な問題だ。刺されるのだけは絶対に回避しなくては。
「学園。学園にはいつから来るんですか? お見舞いに行きたいんですけど、行ったら妹さんが怒りそうですから」
猫服先輩が振り向いて言った。胸の前にある松葉杖を抱く両手が拳を握っている。俺はその拳を見て、ああ、また俺を殺したくって力が入っているのだなどとはまったく思わず、今の言葉を言うのに勇気が必要だったのだなと思った。不思議な人だ。平気で自分の心の内をさらけ出すような事を言う時もあれば、今みたいにどこにでもいそうな女子のような時もある。
「明日。明日から行きます。学園で会いましょう」
「はい。じゃあ、また明日」
猫服先輩が本当に嬉しそうに心から安堵したように微笑んでから松葉杖を俺に向かって差し出して来た。
「これ。持って帰っちゃうところでした。じゃあ、さよなら」
俺が俺自身も返してもらわなければならない事をすっかりと忘れていた松葉杖を受け取ると猫服先輩がまたくるりと回り歩き出した。
「先輩、また明日」
俺が猫服先輩の背中を見送りながらやっぱり先輩はかわいい、だが、俺はどうしたのだろう? 相手は俺を殺した人だぞ? それなのにこんな風に話をしているなんて。問題はあの性癖をどうするかか。あれさえなくなれば猫服先輩は俺にとって完璧な人なのになどと思っているとどこかから祐二の物らしき声が聞こえて来た。
「おーい。おーい。颯太よ~。俺はもう駄目だ~」
耳を澄ますと今にも消え入りそうなほどに弱々しいがどことなく恍惚としているような声がそんな事を言っているのが分かった。
「兼定さんが、激しいんだ。俺、あんなの初めてだったよ~」
祐二の言葉が何やら別の意味で危険な雰囲気を帯び始めたので俺はリムジンの近くにあった街路樹の木陰に倒れている祐二の姿を見付けたが気付かない振りをする事にした。俺が祐二の横を素通りしてリムジンの傍に行くと兼定が中から降りて来て俺を迎えてくれた。
「どうぞ」
兼定が手を伸ばして来たので俺は松葉杖を兼定に渡した。
「ありがとう。家まで頼む」
俺は兼定が祐二の事を何か言うかと思っていたが、兼定が何も言わなかったので俺も祐二の事には触れなかった。
「颯太よ~。俺、もう、元には戻れないかも知れない~」
リムジンのドアが閉まる間際に祐二のそんな言葉が聞こえて来たが、俺はやっぱり無視する事にした。祐二。何をされたのかは知らないが、というか知りたくもないが、俺はお前がおかしな事に目覚めていたらお前との縁を速攻で切るからな。俺が心の中で祐二に語り掛けているとリムジンが走り出した。
「静かだと思っていたら寝ているのか。そうだ。兼定さん。錫は何か病気なのか?」
向かいのシートで錫が寝ている事に気付いた俺は錫の姿を見つめながら聞いた。
「その件に関しましてはわたくしどもからは何も申し上げる事はできません。お嬢様に直接お聞き下さい」
何かあるって事か。何もなければこんな言い方はしまい。俺は錫の顔を見た。錫がもしも何か、そう遠くない将来に死んでしまうような病気にかかっていたとしたら? 俺は自分の頭の中に浮かんだ根拠も何もないただ不安をかき立てるようなそんな考えを消し去ろうと思い頭を左右に軽く振った。馬鹿らしい。こんな奴どうでもいいはずだ。俺は母親が死んでから一人で生きて来たのだ。こんなどこの誰だか分からない奴の事なんて知らん。
「うう~ん。兄ちゃま~? 帰って来たんだ~。寝起きのキッスプリーズ~。フレンチがいい~、濃厚な奴~」
目が覚めたらしい錫が両目を手でこすりながらかすれた声で言った。
「明日から学園へ行きたい。用意はすぐにできるか?」
猫服先輩にはああ言ったが学園に行く準備などは何もしていない。制服がないなんて事になれば明日から登校するのは難しくなってしまう。
「無視? 兄ちゃまは錫の事無視なの?」
錫が消え入りそうな小さな声で寂しそうに言った。
「くだらない事を言うからだ」
「くだらないなんて酷いっ。じゃあ、帽子脱いでみて。本当にくだらないって思ってる?」
錫が勢いよく起き上がると俺の額に挑発的な視線を向けて来た。
「ほれ。見てみろ」
「ショック。すんごいショック。エロ変態痴女最低だなだって」
錫がシートの上で体を小さく折りたたむようにして体育座りをすると項垂れた。
「制服とかはあるのか?」
「制服も体操着も靴もパンツもワイシャツも鞄も教科書もノートも全部あるよ。兄ちゃまがいつでも学園に通えるようにしてある」
錫が項垂れたままぼそぼそと言う。
「そっか。それは助かる」
明日から学園に行けると思い安堵した俺は窓の外を流れて行く景色に目を向けた。額の事は厄介だがこれで猫服先輩に会いに行ける。俺は猫服先輩の笑顔を頭の中に思い浮かべた。
「兄ちゃま。帽子脱いで」
俺は錫の方へ顔を向けた。錫は相変わらず体育座りをして項垂れていた。
「なんでだ?」
「兄ちゃまが別の女の事を考えてるような気がするの」
無駄に鋭いな。
「見せてもいい。だが、後悔するかも知れないぞ。それでもいいのか?」
錫が顔を上げると俺の目をじいーっと見つめて来た。
「錫の事嫌い? 錫はいらない子?」
錫の目が涙で潤んだ。
「どうした急に?」
おいおい。泣くのか? 勘弁してくれ。面倒臭い。
「だって。兄ちゃま冷たいんだもん」
出会ってから俺はずっと冷たいと思うが。
「今更だな。逆に聞くが、俺が冷たくない時があったか?」
錫が思案顔になりうーんうーんと唸り始めた。
「もう、分かんない」
錫が何を思ったか、飛び付くようにして俺に抱き付いて来た。
「おい、こら。何やっている。すぐに離れろ」
俺は抱き付いている錫の体を両手で押した。
「ああ~ん。兄ちゃま、そこ~。もっと~もっと~」
変態痴女出た。ああ~んってなんだよ。どうせならもっと台詞にこだわれよ。
「早く離れろと言っているだろ」
俺は錫が離れようとしないので、錫の体を挟むように両手で押さえると引きはがしに掛かった。
「いやん」
錫が一際大きな声を上げたと思うと、俺の体に回していた腕を解き自分から離れて行った。
「おい。今度やったら二度と口を聞かないからな」
「うわ~ん。兄ちゃまの淫乱ホモー。鬱陶しい奴だ、今度抱き付いて来たら殴るくらいの事をしないと駄目だななんて酷過ぎるよ~」
錫がシートに倒れ込むようにしてうつ伏せに寝転ぶとばたばたと手足を動かして暴れ出した。
「こいつ。帽子。早く返せ」
俺はすぐにシートから腰を浮かせて手を伸ばすと錫が奪ったニット帽を取り返そうとした。
「ヘーイ、兄ちゃま~。カモオォ~ン」
錫が俺の方に体の正面を向けると、餌となるミジンコを捕まえようとするヒドラのように両手両足を俺に向かって伸ばして来た。
「さっきから面倒な奴だな。死ね。今すぐに死んでしまえ」
まともに相手をしていても錫を調子に乗らせるだけだと思った俺はニット帽を諦めると浮かせていた腰をシートの上に下ろした。
「え~? なんで? 帽子は? そのままでいいの?」
「お前、手癖が悪いぞ。これで二度目だろ? 人の被っている帽子を勝手にいじるな」
俺は錫の顔から視線を外すと窓の外に向けた。
「兄ちゃま~。ごめんなさいー。嘘だから。ね? 返すから~」
錫が泣きそうな声を出しながら俺に近付いて来ようとした。
「こっちに来ようとするな。嘘だからって何が嘘なのだ。帽子を取っているだろうが。意味が分からん」
「兄ちゃまが怒った~」
錫がくるりと体を回すとまたシートの上に倒れるようにしてうつ伏せに寝転んだ。だが、今度は暴れずにしくしくと言いながら嘘泣きを始めた。なんだこの嘘泣きは。しくしくなどと言いながら泣く奴がいるか! 怒りすら覚えるわ。俺がそんな事を思っているとリムジンが停車した。
「到着しました」
兼定が言うとドアが開いた。俺がリムジンから降りると錫もすぐに降りて来た。
「信じられない。錫が泣いてるのにそのままにして行っちゃうなんて」
錫がぷりぷりと怒りながら既に歩き出している俺の傍に来るとニット帽を俺の頭に被せて来た。
「おい。いきなり何をしている。何が泣いているのにだ。思い切り嘘泣きだったろ」
俺は錫の手を払い除けながら睨むように錫の顔を見た。
「もう錫は本気で怒ってるんだからね。今日はもう兄ちゃまとは口を聞かないんだからね」
錫がぷいっだと言いながら横を向いた。
「それは何よりだ。なんだか今日は凄く疲れた」
俺は言いながら大きな欠伸を一つした。
「きいぃー。兄ちゃま許せーんー」
錫の悔しがる言葉を聞きながら俺は歩く速度を上げた。
「兄ちゃま~。何か食べる? それとも飲む。両方ともいろいろあるんだよ~」
俺の横に座っている錫が俺の腕に自分の腕を絡めながらこれでもかというくらいの上機嫌な様子で声を掛けて来た。
「気持ち悪いだろ。そんなにくっ付くな」
俺は錫の腕を振り解くと距離を置く為にシートの上を錫とは反対側の端に向かって移動した。
「もう~。兄ちゃまったら照れちゃって。初デートなんだよー。もっとくっ付こうよぉ」
いつの間に初デートになったのだ。このサイコクズ。それにこのテンションの高さ。鬱陶しい事この上ない。俺が監禁されているあの部屋に支度をして戻って来た時から錫のテンションはおかしくなっていた。嬉しそうで楽しそうでとにかくよく笑って途轍もなく明るいのだ。
「くっ付かないし初デートでもない。お前は出掛ける時はいつもこうなのか? もう少し大人しくしていろ」
俺は錫を視界から消そうと思い窓の外に目を向けた。
「兄ちゃまが一緒だからに決まってんじゃん。そうじゃなきゃこんなにうきうきしないよー。いつもの錫はもっと暗くってうつうつなんだよ。ねえ? そうだよね? 兼定」
兼定というのは黒づくめの男のうちの一人で俺達の向かい側に座り錫の命令を聞き他の奴らに指示を出している奴の名前だ。錫とのやりとりを見ているとどうやらこの兼定という男が黒づくめの男達のリーダー的な存在らしい。
「はい。あのうつうつなお姿は見ていられません。今のお嬢様は周りの者達を自然と笑顔に変える天使のようです。見ている私どもまで嬉しくなって来てしまいます」
今回は黒づくめの男達は目出し帽を被ってはいなかった。顔が見えるのでだいたいの年齢が分かる。この男の年は四十くらいだろうか。仕事とはいえこんな頭のおかしい子供のお守りをするのはさぞかし大変な事だろう。
「兼定さん。あんたも大変だな。こんな奴のお守りなんて」
俺は心底同情しながら言った。
「兄ちゃま様。兄ちゃま様は誤解されています。お嬢様はとても立派なお方です」
とても立派なお方だと? 何を言い出すのだこいつはと思った俺は睨むような目付きで兼定の方を見た。
「申し訳ございません。余計な事を言いました」
俺の視線に気付いた兼定が深く頭を下げた。
「兄ちゃま様はという呼び方はやめてくれ」
兼定の真摯な態度に俺はそんな風に返す事しかできなかった。兼定の態度からは欺瞞や卑屈なへりくだりなどは微塵も感じられない気がした。ひょっとするとただ演技がうまいだけなのかも知れないが、俺の目には心から錫の事を尊敬しているように見えていた。
「兼定ずるーいー。自分だけ兄ちゃまと仲良くしちゃ駄目ー」
錫がまた俺に近寄って来ると腕を俺の腕に絡めて来た。
「お嬢様は甘えたいだけなのです。どうかお嬢様のそんなお気持ちをお察し下さい」
兼定が頭を下げたまま言った。
「頭を上げてくれ」
こういうタイプは苦手だ。きっと錫の為だと思い俺が何をやっても言っても我慢するのだろう。俺は人を傷付けるような事を平気で言うが無抵抗な相手を一方的にいじめるような事は好きじゃない。
「甘えさせるかどうかは俺の自由だ。そうだろう?」
「は、はあ。そうですが」
顔を上げた兼定が言い淀んだ。
「兼定。ありがと。大丈夫。兄ちゃまは照れてるだけなんだから。ね、兄ちゃま」
兼定を利用するか。こすい奴だ。ここで俺が冷たくすれば兼定の気遣いを無碍にする事になるからな。だが。無駄だ。
「錫。離れろ。離れないのなら今すぐに帰宅だ」
「嫌だよ。そんなのないよ。出て来たばっかりなのに」
錫が至極悲しそうな顔になりながら駄々っ子のように言い、俺から離れようかどうか迷うような仕草をする。リムジンがゆっくりと俺達を気遣うような動きをしつつ信号で停車した。
「すげーなげー」
「こういうのって有名な人が乗ってたりするんですよね。そう聞いた事があります」
歩道にいるクズどもの声が聞こえて来た。俺はなんとなくその声に聞き覚えがあるような気がしてふっと目を声の聞こえて来た方にある窓に向けた。
「祐二? それに、猫服先輩?」
声が我知らずのうちに口からこぼれ出た。
「兄ちゃま?」
錫が俺の様子に気付き声を掛けて来た。
「ここで降りたい。今すぐに」
俺は反射的にそう口走っていた。
「ここ? 何にもないけど、いいの?」
「ああ。早く」
「兼定。降ろして」
「はい。お二人が外に出る。支度を」
兼定が言うとすぐに外からドアが開けられた。俺は深々と被っている黒色のニット帽が額をちゃんと隠している事を何度も手で触って確かめながら開いたドアに向かって座りながらシートの上を移動して行った。
「お兄様。松葉杖と車椅子どちらを使いますか?」
俺は迷う事なく部屋から出る時に使った松葉杖を選んだ。
「松葉杖を」
「ではこれをどうぞ」
車から降り松葉杖を使ってアスファルトの地面の上に立った俺は少し離れた所から俺と俺に続いて降りて来た錫の方を興味津々といった様子で見ている学園の制服を来た男女の方に顔を向けた。
「おお?! 颯太? 颯太だよな? マジかー? 生きてたのかよー!」
「え? え?」
何事が起きたのかと戸惑っている猫服先輩を置いてきぼりにして俺に気付いた祐二が駆け寄って来た。
「颯太。何やってたんだよ。一ヶ月だぞ。お前が急に学校に来なくなってから一カ月も経ってんだぞ。俺は心配したぞー。交通事故だって? 見舞いに行こうと思っても誰もお前がどこの病院にいるか知らないしよー」
祐二が興奮した様子で俺の肩をばんばんと叩いて来た。一ヶ月? あの時から一カ月も経っているだって? 俺がどういう事だ? と考えていると祐二が猫服先輩の方に顔を向けた。
「先輩。颯太ですよ。佐井田颯太。先輩に告白したあの」
一人取り残されおろおろしている猫服先輩に祐二が声を掛けた。
「颯太君? あの、颯太君なんですか?」
猫服先輩が目を見開いて俺の顔を穴の開くほどに見つめながらゆっくりと歩き出し俺に近付いて来た。
「そうですよ。ほら。お前、なんだよそのニット帽。似合わないな。その所為でお前だって分かり難いんだよ。お。わりい。俺ってばつい再開した嬉しさからばんばん叩いてたな。お前、怪我大丈夫なのかよ?」
祐二が今更のように俺が松葉杖を突いている事に気が付くと言葉の途中から心配しているような声音になった。
「この帽子はええっと、あれだ」
一ヶ月の事なぞさっさと忘れて俺の意識はニット帽に移った。この帽子は絶対に脱ぐ事ができないという理由を早く考えなくては。
「兄ちゃま大丈夫?」
錫が俺に寄り添うようにくっ付いて来た。
「錫。くっ付くな」
錫の所為で思い付いたこれぞという理由を言いそびれてしまったではないか!
「これは」
俺は早く理由を言おうと慌てて口を開いたが猫服先輩の言葉が途中で差し挟まれた。
「怪我を隠してるんですね?」
オッケー。猫服先輩。いい。実にいい。ナイスフォロー。俺もそう言おうとしたところです。
「そうです。祐二。そういう事だからこのニット帽にはもう触れるな」
「なんだよ、それ。お前こんなとこにいて大丈夫なのかよ?」
祐二が俺と錫の顔を交互にまじまじと見ながら言った。
「ああ。大丈夫だ。それより猫服、ああっと、先輩の事だ。どうして先輩が祐二と一緒にいるのだ? それに、その格好は?」
猫服先輩がこれですか? と言いながら下を向き自分の体を見た。
「錫だよ。錫がやらせたの。体中に酷い、あがががもががもががもふ」
酷いのいのところまで錫が言った瞬間に俺は片方の松葉杖から手を放しその手で錫の口を塞いだ。
「錫がやったのか。そうか。分かったから錫は何も言うな。少し黙っていろ」
「もがふあが。ぷっは。兄ちゃま。急に口を塞ぐから興奮した、じゃない、驚いたよ。うふうふ。兄ちゃまの手の感触がまだ唇に」
錫が頷いたのを見て口を塞いでいた手を放すと錫がうっとりとし妙に色っぽい様子になりながら自分の唇に指をそっと這わせた。
「なあ、颯太。誰なんだその子は?」
祐二が身を乗り出すようにして勢い込んで聞いて来た。
「こいつか? こいつは、錫だ。俺の妹の」
面倒なので余計な事は言わずに妹という事にしておいた。
「颯太君。あの、今の、ありがとう」
猫服先輩が小さく頭を下げて来た。
「気にしないで下さい。それよりも、その格好、なんというか、いいのですか?」
確か体の傷は大切な傷だったはずだ。
「はい。この体を見たらこれはこれでいいのかなって思えてしまって。普通じゃないですか? 今の私」
猫服先輩が嬉しそうな笑みを顔に浮かべた。
「ねえねえ兄ちゃま」
錫が俺の耳元に顔を寄せると小さな声で囁くように言った。
「なんだ?」
俺は猫服先輩の顔から視線を外さずに口だけを動かして返事をした。
「平気なの? こいつ、兄ちゃまを殺した奴なんだよ。もしも、怖くってどうしようもなくって仕方なく話をしてるとかなら即刻排除したげるよ」
俺は錫の言葉を聞いてはっとした。錫の言う通りだ。俺はこの人に日本刀で刺されている。それなのに、俺は今平然と話をしている。
「黙っていろと言っているだろうが」
錫のくせに鋭い指摘をするじゃないかといらっとした俺は錫の方に顔を向けるともう一度片方の松葉杖から手を放し錫の額に水平チョップを叩き込んだ。
「きゃひーん。兄ちゃまのチョップウゥー。ブヒー鼻血出そう~」
興奮していやがる。こいつ駄目だ。いよいよ駄目になって来ていやがる。
「おい。妹ちゃんに何してんだよ。大丈夫かい? 妹ちゃん」
祐二がここぞとばかりに言い錫に駆け寄った。
「近付くんじゃねえよこのゲスが。錫に触っていいのは兄ちゃまだけなんだよ」
突然の錫の豹変に俺はそういえばこいつ公園で会った時もこんな風になっていたなと思ったがどうでもいいので何も言わなかった。
「うへぇっ。おい。兄ちゃま。この子、なんだよ。急に変わったぞ」
祐二が飛び跳ねるようにして錫から離れると凄い速さで移動し俺の背後に隠れた。
「兄ちゃまと呼ぶな。祐二、お前、大丈夫か? どことなく嬉しそうな顔をしているように見えるぞ。まさか、錫に怒鳴られて快楽を覚えたのか?」
兄ちゃまと言われたお返しに嘘を言ってみた。
「マジ? 俺嬉しそうな顔なんてしてる? まさか、新しい性癖の目覚めなのか? なんか、どきどきしたし、今もどきどきしているけど、嘘だろ? 俺、マジなのか? そんな事ないよな。でも、そうだったら、いやいやいや」
祐二が思考の迷宮に迷い込み頭を抱えながらぶつぶつと独り言を呟き始めた。
「先輩。ちょっといいですか。二人で話をしたいのですが」
俺は猫服先輩との会話を再開しようと思いそう言ってから錫の鋭い指摘の件を気にして自分の心や体に異変が起きていないかと注意を向けた。
「はい」
猫服先輩が近付いて来る。もう着ぐるみを着ていないので本当は猫服先輩じゃないのだが、今更呼び方を変えるのも変なのでこう呼び続ける事にしよう。こんな事を平然と考えていられるくらいに心にも体にもなんの異変も起きてはいなかった。どうしてなのかは謎だがどうやら俺は猫服先輩にされた事に対して何も思ったり感じたりはしていないらしい。
「兄ちゃま。どこ行くの?」
俺が松葉杖を突きつつ歩き出すと錫がついて来た。
「ちょっとここから離れるだけだ。聞かれたくない話がある」
「錫は兄ちゃまとこの泥棒猫、じゃない、この女の事ならなんでも知ってるよ。だから何を聞いて平気だよ」
「お前じゃない。祐二だ。祐二には聞かせられない」
俺はあの日の事を猫服先輩に聞こうと思っていた。猫服先輩の事を考えればあの日あった出来事の話を祐二に聞かせる事はできない。
「兼定。これを拘束しといて」
錫がなんでもない事のように言うと、リムジンの横に立っていた兼定がはいと言って近付いて来てまだ頭を抱えていた祐二をどこかへ連れ去って行った。
「おおーい。きゅ、急に、なんだよこれはあぁぁー。俺はどうなるんだあぁぁぁー」
祐二の悲痛な叫びが聞こえるがそんな事はどうでもいい。
「先輩。あの日の事なのですが」
俺は言いながら俺の目の前に立っている猫服先輩の瞳をじっと見つめた。
「あの日ですね? 確かに私は君を殺しました。君が死んだ後に私は君の死体と引き合わされたんです。こう見えても私、さっきからずっと凄く驚いてるんです。まさか君がこうして生きてるなんて。どうしましょう? もう一度殺さないといけないのでしょうか? でも、私はこんな風に変わってしまいました。今抱いている私の気持ちは本物なんでしょうか? あれだけ大切だった傷が治った事を喜んでしまうような私です。自分の事が信じられなくなってるんです」
猫服先輩がすがるような目で俺を見つめ返して来た。何をどう言えばいい? 俺はやはり死んでいたらしい。そして生き返ったらしい。それだけでもなんだか良く分からないのに猫服先輩の心の内を知らされてしまっても言葉が何も浮かんでは来ないし何も言葉を思い付かない。なんの前触れもなく不意に俺の傍でどさっという音がした。
「なんだ?」
音の発信源と思しき場所に顔を向けると、錫が倒れていた。
「おい。錫。なんの真似だ?」
俺は立ったまま錫を見下ろして言った。
「凄い汗じゃないか。お前、なんか病気なのか?」
どうせ演技なのだろうと高を括っていた俺は目を閉じ苦しそうに顔を歪め荒い呼吸を繰り返している錫を見て本気で驚いた。松葉杖を投げ出してしゃがむと錫を抱き起した。
「人を呼んだ方がいいと思います。さっきの人。なんて言いましたっけ?」
錫の顔を覗き込むようにしながら猫服先輩が言った。そうだ。兼定だ。あいつを呼ぼう。
「兼定さん。来てくれ。錫が、錫の様子がおかしいのだ」
俺は姿の見えない兼定に向かって出せる限りの大声で叫んだ。
「お兄様。お嬢様をこちらに」
「ひゃー。びっくりしました」
「どこから沸いた? いや。そんな事はいい。早く錫を」
「お嬢様。大丈夫ですよ。すぐに楽になります」
「兄ちゃま。ごめん。ちょっとだけ、離れるね。すぐに、戻るから」
兼定に抱き上げられた錫が薄っすらと目を開けると聞き取れるか聞き取れないかくらいの弱々しい小さな声で途切れ途切れに言い片手でそっと俺の頬からこめかみの辺りにかけてを撫でるような感じで触って来た。
「お嬢様。少々揺れます」
兼定がリムジンに走って近付き俺達の乗っていた後部座席に錫とともに入った。
「そんなに心配しなくってもきっと平気ですよ」
猫服先輩がまだしゃがんだままでいる俺の顔を見つめながら気遣うように言った。
「心配? 勘弁して下さい。俺はあいつの事なんてなんとも思っていないですよ」
「そうですか? でも、顔に書いてありますよ。心配だって」
顔に書いてある? 俺、そんなに心配そうな顔をしているのか? あまり表情には出ないタイプだと自分の事を思っているが、錫の事は別なのか? 俺はあの錫の事を本当の妹だと思い始めていて心配しているという事なのか?
「あ。書いてある事が変わりました。あの子は本当の妹さんじゃないんですか?」
おう? なんだ? 何かがおかしいぞ。
「先輩。凄いですね。俺の心」
ここまで言って俺は凍り付き、とある可能性に気が付いた。俺は猫服先輩の目がどこを見ているのかを恐る恐る確かめた。見ている。じいーっと見ている。猫服先輩は俺の額を確かに見ている。
「あの、先輩」
「はい」
「見えていますか?」
「えっと、はい。これの事ですよね?」
猫服先輩が遠慮がちに手を伸ばして来ると俺の額のディスプレイを優しく突いた。
「ぎょええー。見るなあああー」
俺は絶叫しながらニット帽の端を握り締めると思いっ切り額を隠そうとして引っ張った。ずぞぞぞっという変な音がして、引っ張った俺の手が予想外に下りて来た。俺の目を破れて伸びてしまったニット帽を編み上げていた毛糸が覆った。
「いやあああー」
俺は悲鳴を上げながら両手で額を覆い隠した。
「なんだよそれ。アクセサリーかなんかなのか?」
いつの間に戻って来たのか祐二が猫服先輩の横に立ち俺を見下ろしながら言った。
「やめええー」
俺は立ち上がるとリムジンに向かって駆け出してすぐに転びそうになった。
「なんだ? 足が。ああそうか。まだ慣れていなかった」
俺は松葉杖を取りに戻ろうと数歩歩いてはっとした。歩けている。普通に歩くだけだったらもう問題はなそうだった。
「颯太君。大丈夫ですか?」
猫服先輩が松葉杖を持って傍に来た。
「大丈夫です。大丈夫ですから今は放っておいて下さい」
俺は猫服先輩の体を自分から遠ざけるように片手で押した。
「でも」
「リハビリの一環なのです」
咄嗟に思い付いた言葉を相手を拒絶するような強い口調で言い放ち俺は歩き出した。
「兄ちゃま~。こっちこっち。こっちだよー。錫はここだよー」
リムジンの後部座席の窓が開き、何もなかったかのように元気そうな錫が姿を現すと片手に持った新しいニット帽を振りながら至極嬉しそうに声を上げた。
「うおおおー。すーずー。それをーよこせー」
俺は咆哮を上げるように叫びながら歩いて錫に近付いて行く。
「兄ちゃま~。渡したら錫と結婚してえ~」
錫の間近まで行き、いざニット帽を受け取ろうとすると錫が実にくだらない事を言い出した。
「お前、いよいよ頭がおかしくなって来たみたいだな。そんな事できるか。というか法律的に無理だろ。馬鹿な事言ってないで早くそれをよこせ」
俺は額の事をすっかり忘れ冷たく言い放った。
「法律は大丈夫だよ。だって兄ちゃまもう死んでるし。別人として戸籍を取ればオッケーだもん」
「オッケーだもんじゃない。お前と結婚なんてできるか」
「兄ちゃまのホモー」
錫が言うと窓ガラスが下から上がって来た。俺は窓ガラスに映る自分の姿を見て額の事を思い出すと既に閉じてしまっている窓ガラスをどんどんと叩いた。
「おい。錫。開けろ。ニット帽をよこせ」
「なんだよ。どうした? お前、また妹ちゃんをいじめてんのか? かわいそうだろ。やめろって」
祐二が俺の傍に来ると窓を叩く俺を止めようと俺の肩を掴んで来た。
「うるさい。祐二には関係ない。傍に来るな」
「傍に来るなって、颯太。それはないだろ」
窓ガラスが下がり始めた。
「おお。錫。早く」
「兄ちゃま。ちょっと、耳塞いでて」
「こんな時に何を言い出すのだ。ニット帽を早く渡せ」
「言う事聞いてくれないなら渡さない」
窓ガラスが俺を脅迫するように上がり始める。
「待て待て。分かった分かった。耳を塞げばいいのだな。こうすればいいか?」
「うん。あっ、と。それと後ろ向いてて」
「なんだ? 聞こえないぞ?」
錫が窓から体を乗り出すと俺の体をくるりと回して後ろを向かせた。
「錫。これじゃ額が丸見えだ」
俺は慌てて耳から手を放し額を隠した。
「てめえはすっこんでろ。邪魔するなって言ってんだろうが」
錫が噛み付かんばかりの勢いで怒鳴り声を上げた。
「い、い、妹ちゃん。もう一度、ああ、違う。ごめん。分かった。俺はすっこんでるから」
祐二がリムジンから離れ俺がさっきいた猫服先輩が立っている場所まで戻った。
「兄ちゃま。耳塞いでないじゃん」
俺はここは何も聞いていない振りだと思いながら錫の方に向き直った。
「今手を放したばっかりだ。言う事を聞いたのだ。早くニット帽をよこせ」
錫が小首を傾げた。
「本当に? 何も聞こえてなかった?」
「聞こえてなどいない。錫。いい加減にしろ」
俺は錫に向かって片手を伸ばした。
「もう。隠してばっかりいたらディプレイの意味ないよ」
錫が唇を尖らせ不満そうに言いながらニット帽を持つ手を窓から出そうしたが途中で止めた。
「こら、錫」
俺がニット帽を奪おうとすると錫がさっとニット帽を持つ手を下ろした。
「いい事思い付いちゃった。ねえ、兄ちゃま。これからは錫の前ではディプレイを隠さないって約束してくれるならこれ渡したげる」
俺は錫を睨み付けるとこの約束をしていいのかどうか考え始めた。
「兄ちゃま。そんなに嫌?」
「当たり前だ。お前、自分が俺と同じようになったら嫌だろ?」
錫が束の間何かを考えているような顔をしてから口を開いた。
「錫は全然平気だよ。兄ちゃまにだったら錫は錫の全部を見せられる」
錫が少し恥ずかしそうに言ってから嬉しそうに誇らしげに満面の笑みを顔に浮かべた。
「錫」
疲れる奴だ。もういい。それならニット帽はいらないと言おうとした時、俺の頭の中に閃きが走った。そうだ。これだ。
「分かった。だが、錫よ。本当にいいのだな? 俺の考えている事がすべて分かるという事は、俺がお前の事をどう思っているのかという事も分かるという事だ。人の気持ちなぞ裏も表もあるし、その場その場でころころと変わる。お前、きっと酷く傷付く事になるぞ」
脅してどうにかしようと思っている訳ではない。錫に嫌われればいいのだ。心の中が見えないからこそ人は人とうまくやっていける。錫。俺の心の中を見るがいい。そして、俺を嫌いになれ。そうすれば俺はお前から解放される。
「平気だよ。兄ちゃまのどんな気持ちを知っても錫は傷付かない。はい。じゃあ、これ」
俺は錫の手にあるニット帽を掴んだ。
「おっと。そうだ。お前の前でというのはどこまでだ?」
危ない危ない。錫がしぶとく俺を嫌わずに粘っている場合の事を考えておかなくては。
「うーん? 難しいな。錫の見てる範囲でって事かな。例えば今だったら振り向いてあの人たちの方を向いたら被ってもいいよ」
「そんないい加減な事では駄目だ。ちゃんとルールを決めろ」
「無理だよ~。だって、家で二人っきりとかになってて決めたルールから外れてたら見えないなんて事になるかも知れないじゃん。そこは曖昧にしとこうよ」
「しっかりと決めろ」
俺は喉から手が出るほど欲しいニット帽に向けて伸ばしていた手を引いた。
「兄ちゃま? 帽子はいらないの?」
「ルールを決めないのならいらん」
「じゃあ、錫が帽子を脱いで欲しいって思ったら言うからその都度話し合うの。それならいい?」
少しの間考えてから錫が言った。
「話し合う時は対等な立場だぞ。お前に優先権があるとかそういうのはなしだ。そういう事でいいな?」
「えー。駄目だよー。それじゃ今と変わらないよ。そんな意地悪言うならこれ渡さない」
これはいかん。攻め過ぎたか。
「兄ちゃまをあんまりいじめるな。そろそろ許してくれ。頼むからニット帽を渡してくれ」
どうだ? お前の大好きな兄ちゃまが折れているぞ?
「兄ちゃま。もう。ずるいよお。兄ちゃまにそんな風に言われたら。分かった。じゃあ、話し合いだよ?」
「ああ」
俺は破れているニット帽を錫に渡し新しいニット帽を受け取って頭に被ると猫服先輩達のいる方に顔を向けた。
「錫。悪いが先に帰っていてくれ。俺は先輩達ともう少し話をして行く」
「ここで待ってる。兄ちゃま一人じゃ帰って来れないよ」
「平気だ。もう歩くだけなら普通にできる。俺の事よりお前の事だ。帰って休め。さっき倒れたばっかりだろ」
「兄ちゃま。嬉しいな。錫の事心配してくれてんだね」
早速チャンスが来た。錫。ディプレイを見たいと言え。俺が今思っている事を見れば、お前はきっと幻滅する。
「兄ちゃま。ごめんなさい。さっきのは本当は演技だったの。兄ちゃまの気を引きたかったからやったんだ。だから大丈夫なの。待ってる」
俺は思わず振り向いた。
「あれが演技? 嘘をつくな。あんな演技できるか」
「兄ちゃま。帽子脱いで」
今か? 今はまずい。俺が錫の事を心配していると誤解される可能性がある。錫の事だから誤解だといくら説明しても自分のいいようにしか考えないだろう。
「今は駄目だ」
「なんで?」
「なんでもだ。そんな事より早く行け」
「嫌だ。待ってる」
「じゃあ、もう勝手にしろ」
もう知らん。今度倒れてもそのまま放置してやる。俺は猫服先輩達の方に向かって歩き出した。
「ちゃんと歩けましたね」
松葉杖を抱くようにして持ちながら猫服先輩が小走りに駆け寄って来ると嬉しそうに微笑んだ。
「さっきはすいませんでした。あの、なんというか、必死だったのでつい口調がきつくなってしまって」
「颯太。そんな事より、額のはなんだったんだよ?」
このクズめ。猫服先輩がさっきの俺の様子から額の事に触れないようにしてくれているのが分からないのか。
「お嬢様がこちらに来るようにとおっしゃられていますが」
いつの間に傍に来たのか俺の横に立っていた兼定が祐二に向かって言った。
「マジ? 妹ちゃん、俺の事呼んでる?」
「はい。こちらへ」
「悪いな。俺、ちょっと行って来る」
嬉しそうにへらへらと笑いながら俺達に向かって手を振りつつ祐二が兼定と一緒にリムジンに向かって歩き出した。
「颯太君。今日は帰った方がいいと思います。妹さんについていてあげて下さい」
祐二を見送りながら猫服先輩が言った。
「すいません。先輩も悩んでいるのに力になれなくって。なんか、いろいろあって自分の事でいっぱいっぱいで」
猫服先輩の気遣いを受けて俺が小さく頭を下げると先輩が俺の方を向き優しい笑みを顔に浮かべた。
「謝ってばっかりですね。でも、私の方こそごめんなさい。君も大変ですもんね」
おかしい。なんだろう、この気持ち。俺、この人に殺されたはずだよな?
「なんといいますか。難しいですね。だが、変わった事を喜んでもいいと思います。着ぐるみ、大変じゃなかったですか? 今の先輩、自然ですよ。前からそうだったみたいだ。あの傷は、大切だったかも知れないが、先輩を縛り付ける呪いのような物でもあったのだと思います」
猫服先輩がじいーっと俺の顔を見つめて来た。俺はその視線を受けてはっとすると慌てて額の状態を確認した。大丈夫だった。額のディスプレイはちゃんと隠れていた。
「山柄君と一緒に歩いていたのは君の事を聞きたかったからです。今日が初めてだったんですよ。思い切って話し掛けたんです。でも、全然話ができなくって。そうしたら君が突然目の前に現れて。嬉しいです。君が生きててくれて」
俺は自分の顔が火照るのを感じた。
「俺も嬉しいです。先輩とまた会えて」
思った事がそのまま口から出ていた。猫服先輩の瞳がきらきらと輝いた。
「でも、やっぱり」
猫服先輩がそこまで言って言葉を切った。なぜだろう? 今、背筋に物凄くぞくりとした物が走ったのだが。
「一緒に死にたいと思ってしまうのはどうしてでしょうか?」
うおおーい。まだ死にたいのかーい。
「先輩。額見ますか? こういう時は便利かも知れない。俺の思っている事が分かります」
俺はニット帽に手を掛けた。
「いいんですか?」
いいも何もあるか。また殺されてはたまらない。あんな痛い思いは二度としたくない。
「どうですか? なんて書いてあります?」
俺はニット帽を額が見えるようにずらした。
「もう絶対に嫌だ。あんな思いはしたくない。そう書いてあります」
「ですよね? ですよね? これが俺の気持ちです。だから、一緒に死ぬとかそういうのはもうやめましょう」
意気消沈したのか猫服先輩の瞳から輝きが消えた。額を隠し、ちゃんと隠れているかどうかを手で触って確認していると猫服先輩が小さな声で話し出した。
「この気持ちをどうすればいいのか分からないんです。君に対する思いを私はどう表せばいいんでしょうか。言葉じゃ全然伝わらないと思うんです。だから、一緒に死ぬ事で。ごめんなさい。私、もう帰りますね」
猫服先輩が言葉を途中で切ると唐突に別れの言葉を告げ、くるりと体を回して俺に背中を向けて来た。
「俺も考えます。ええっと、どうすればいいのか。きっと先輩の気持ちを表す方法があると思います」
切実な問題だ。刺されるのだけは絶対に回避しなくては。
「学園。学園にはいつから来るんですか? お見舞いに行きたいんですけど、行ったら妹さんが怒りそうですから」
猫服先輩が振り向いて言った。胸の前にある松葉杖を抱く両手が拳を握っている。俺はその拳を見て、ああ、また俺を殺したくって力が入っているのだなどとはまったく思わず、今の言葉を言うのに勇気が必要だったのだなと思った。不思議な人だ。平気で自分の心の内をさらけ出すような事を言う時もあれば、今みたいにどこにでもいそうな女子のような時もある。
「明日。明日から行きます。学園で会いましょう」
「はい。じゃあ、また明日」
猫服先輩が本当に嬉しそうに心から安堵したように微笑んでから松葉杖を俺に向かって差し出して来た。
「これ。持って帰っちゃうところでした。じゃあ、さよなら」
俺が俺自身も返してもらわなければならない事をすっかりと忘れていた松葉杖を受け取ると猫服先輩がまたくるりと回り歩き出した。
「先輩、また明日」
俺が猫服先輩の背中を見送りながらやっぱり先輩はかわいい、だが、俺はどうしたのだろう? 相手は俺を殺した人だぞ? それなのにこんな風に話をしているなんて。問題はあの性癖をどうするかか。あれさえなくなれば猫服先輩は俺にとって完璧な人なのになどと思っているとどこかから祐二の物らしき声が聞こえて来た。
「おーい。おーい。颯太よ~。俺はもう駄目だ~」
耳を澄ますと今にも消え入りそうなほどに弱々しいがどことなく恍惚としているような声がそんな事を言っているのが分かった。
「兼定さんが、激しいんだ。俺、あんなの初めてだったよ~」
祐二の言葉が何やら別の意味で危険な雰囲気を帯び始めたので俺はリムジンの近くにあった街路樹の木陰に倒れている祐二の姿を見付けたが気付かない振りをする事にした。俺が祐二の横を素通りしてリムジンの傍に行くと兼定が中から降りて来て俺を迎えてくれた。
「どうぞ」
兼定が手を伸ばして来たので俺は松葉杖を兼定に渡した。
「ありがとう。家まで頼む」
俺は兼定が祐二の事を何か言うかと思っていたが、兼定が何も言わなかったので俺も祐二の事には触れなかった。
「颯太よ~。俺、もう、元には戻れないかも知れない~」
リムジンのドアが閉まる間際に祐二のそんな言葉が聞こえて来たが、俺はやっぱり無視する事にした。祐二。何をされたのかは知らないが、というか知りたくもないが、俺はお前がおかしな事に目覚めていたらお前との縁を速攻で切るからな。俺が心の中で祐二に語り掛けているとリムジンが走り出した。
「静かだと思っていたら寝ているのか。そうだ。兼定さん。錫は何か病気なのか?」
向かいのシートで錫が寝ている事に気付いた俺は錫の姿を見つめながら聞いた。
「その件に関しましてはわたくしどもからは何も申し上げる事はできません。お嬢様に直接お聞き下さい」
何かあるって事か。何もなければこんな言い方はしまい。俺は錫の顔を見た。錫がもしも何か、そう遠くない将来に死んでしまうような病気にかかっていたとしたら? 俺は自分の頭の中に浮かんだ根拠も何もないただ不安をかき立てるようなそんな考えを消し去ろうと思い頭を左右に軽く振った。馬鹿らしい。こんな奴どうでもいいはずだ。俺は母親が死んでから一人で生きて来たのだ。こんなどこの誰だか分からない奴の事なんて知らん。
「うう~ん。兄ちゃま~? 帰って来たんだ~。寝起きのキッスプリーズ~。フレンチがいい~、濃厚な奴~」
目が覚めたらしい錫が両目を手でこすりながらかすれた声で言った。
「明日から学園へ行きたい。用意はすぐにできるか?」
猫服先輩にはああ言ったが学園に行く準備などは何もしていない。制服がないなんて事になれば明日から登校するのは難しくなってしまう。
「無視? 兄ちゃまは錫の事無視なの?」
錫が消え入りそうな小さな声で寂しそうに言った。
「くだらない事を言うからだ」
「くだらないなんて酷いっ。じゃあ、帽子脱いでみて。本当にくだらないって思ってる?」
錫が勢いよく起き上がると俺の額に挑発的な視線を向けて来た。
「ほれ。見てみろ」
「ショック。すんごいショック。エロ変態痴女最低だなだって」
錫がシートの上で体を小さく折りたたむようにして体育座りをすると項垂れた。
「制服とかはあるのか?」
「制服も体操着も靴もパンツもワイシャツも鞄も教科書もノートも全部あるよ。兄ちゃまがいつでも学園に通えるようにしてある」
錫が項垂れたままぼそぼそと言う。
「そっか。それは助かる」
明日から学園に行けると思い安堵した俺は窓の外を流れて行く景色に目を向けた。額の事は厄介だがこれで猫服先輩に会いに行ける。俺は猫服先輩の笑顔を頭の中に思い浮かべた。
「兄ちゃま。帽子脱いで」
俺は錫の方へ顔を向けた。錫は相変わらず体育座りをして項垂れていた。
「なんでだ?」
「兄ちゃまが別の女の事を考えてるような気がするの」
無駄に鋭いな。
「見せてもいい。だが、後悔するかも知れないぞ。それでもいいのか?」
錫が顔を上げると俺の目をじいーっと見つめて来た。
「錫の事嫌い? 錫はいらない子?」
錫の目が涙で潤んだ。
「どうした急に?」
おいおい。泣くのか? 勘弁してくれ。面倒臭い。
「だって。兄ちゃま冷たいんだもん」
出会ってから俺はずっと冷たいと思うが。
「今更だな。逆に聞くが、俺が冷たくない時があったか?」
錫が思案顔になりうーんうーんと唸り始めた。
「もう、分かんない」
錫が何を思ったか、飛び付くようにして俺に抱き付いて来た。
「おい、こら。何やっている。すぐに離れろ」
俺は抱き付いている錫の体を両手で押した。
「ああ~ん。兄ちゃま、そこ~。もっと~もっと~」
変態痴女出た。ああ~んってなんだよ。どうせならもっと台詞にこだわれよ。
「早く離れろと言っているだろ」
俺は錫が離れようとしないので、錫の体を挟むように両手で押さえると引きはがしに掛かった。
「いやん」
錫が一際大きな声を上げたと思うと、俺の体に回していた腕を解き自分から離れて行った。
「おい。今度やったら二度と口を聞かないからな」
「うわ~ん。兄ちゃまの淫乱ホモー。鬱陶しい奴だ、今度抱き付いて来たら殴るくらいの事をしないと駄目だななんて酷過ぎるよ~」
錫がシートに倒れ込むようにしてうつ伏せに寝転ぶとばたばたと手足を動かして暴れ出した。
「こいつ。帽子。早く返せ」
俺はすぐにシートから腰を浮かせて手を伸ばすと錫が奪ったニット帽を取り返そうとした。
「ヘーイ、兄ちゃま~。カモオォ~ン」
錫が俺の方に体の正面を向けると、餌となるミジンコを捕まえようとするヒドラのように両手両足を俺に向かって伸ばして来た。
「さっきから面倒な奴だな。死ね。今すぐに死んでしまえ」
まともに相手をしていても錫を調子に乗らせるだけだと思った俺はニット帽を諦めると浮かせていた腰をシートの上に下ろした。
「え~? なんで? 帽子は? そのままでいいの?」
「お前、手癖が悪いぞ。これで二度目だろ? 人の被っている帽子を勝手にいじるな」
俺は錫の顔から視線を外すと窓の外に向けた。
「兄ちゃま~。ごめんなさいー。嘘だから。ね? 返すから~」
錫が泣きそうな声を出しながら俺に近付いて来ようとした。
「こっちに来ようとするな。嘘だからって何が嘘なのだ。帽子を取っているだろうが。意味が分からん」
「兄ちゃまが怒った~」
錫がくるりと体を回すとまたシートの上に倒れるようにしてうつ伏せに寝転んだ。だが、今度は暴れずにしくしくと言いながら嘘泣きを始めた。なんだこの嘘泣きは。しくしくなどと言いながら泣く奴がいるか! 怒りすら覚えるわ。俺がそんな事を思っているとリムジンが停車した。
「到着しました」
兼定が言うとドアが開いた。俺がリムジンから降りると錫もすぐに降りて来た。
「信じられない。錫が泣いてるのにそのままにして行っちゃうなんて」
錫がぷりぷりと怒りながら既に歩き出している俺の傍に来るとニット帽を俺の頭に被せて来た。
「おい。いきなり何をしている。何が泣いているのにだ。思い切り嘘泣きだったろ」
俺は錫の手を払い除けながら睨むように錫の顔を見た。
「もう錫は本気で怒ってるんだからね。今日はもう兄ちゃまとは口を聞かないんだからね」
錫がぷいっだと言いながら横を向いた。
「それは何よりだ。なんだか今日は凄く疲れた」
俺は言いながら大きな欠伸を一つした。
「きいぃー。兄ちゃま許せーんー」
錫の悔しがる言葉を聞きながら俺は歩く速度を上げた。