第4話

文字数 8,873文字

「ん?」

 目を開けると見た事のない犬の縫いぐるみが自分の腕越しに見えた。

「おう?」

 なんか凄い既視感があるのですが。あれ? だが、この光景、どこで見た? あ。犬じゃない。あの時は熊だ。そうだ。思い出した。先輩。猫服先輩だ。あれれ? だが、俺は猫服先輩に日本刀で刺されて。走馬灯の中で錫子に会ったのだ。

「ここは、まさか、死後の世界とか?」

 俺は自分の思考と今いるこの世界が正常なのかどうかを確かめるように恐る恐る声を出してみた。

「兄ちゃま。起きたみたいだね」

 鈴の鳴るような澄んだ声がし、俺の視界に影が差した。

「お前」

 顔を上に向けると俺の顔を覗き込むようにして見ているあのツインテールの少女と目が合った。

「お前じゃないでしょ? 兄ちゃま。錫だよ。妹の錫子」

 錫子だって? 俺の妹の? 

「これ、なんだ? 現実なのか? 走馬灯で見た時に錫の事思い出したが、お前、全然見た目が違うぞ。錫はそんな髪の色は、染めたのか? いや。染めたにしては綺麗過ぎだろ。それに錫だったらもっと大きくなっているはずだ。あいつと俺は双子だ。お前はどう見ても俺より年下に見える」

 錫子と名乗った少女が嬉しそうに微笑むと小さなかわいい八重歯がちらりと口の端からのぞいて見えた。

「うふふふふ。兄ちゃまは確かに現実の世界にいるよ。一度死んだけど戻って来たんだよ」

 妹の錫だと言い張る少女がよいしょと小さな声で言い、ベッドに上がって来ると俺の体を跨いで仁王立ちした。

「白」

 俺は思わず見てしまった少女の下着の色を言ってしまった。

「いやんっ。兄ちゃまのエッチ」 

 嬉しそうに嫌がりながら少女が両手でスカートの前の部分を押さえた。

「エッチじゃない。正直に白って言っただろ。本当にエッチな奴は決して色など口にはしない。ただ黙ってお前のそのなんの魅力も感じられない白いパンツをこそこそと見続けるだけだ」

「ちら。ちら。ちらちら」

 妹の錫だと言い張る少女が両手を動かしスカートの中をちらりちらりと見せて来た。

「変態痴女なのだな、お前。絶対に妹の錫じゃないな」

 妹の錫だと言い張る少女が俺のお腹の上に腰を下ろして来た。

「重い。お前は何がしたい?」

 俺はそうだ起き上がろうと思うと両手を動かそうとした。

「おおう? またこれか? 俺は拘束プレイが好きそうにでも見えるのか?」

 上に向かって伸びている両腕の手首には黒色の手錠がはめられベッドの上部にある金属製の手摺り部分に固定されていた。

「逃げられたら困るもん」

 どこかで似たような言葉を聞いた気が。

「お前、実は猫服先輩か? あの人のあの姿は着ぐるみだったとか?」

 ないない。いくらなんでもそんな事はありえん。

「嘘。本当は兄ちゃまが発狂して暴れてもいいように拘束してるの」

 少女が不意に悲しそうな顔をした。

「発狂? 俺が?」

「うん。これから錫のして来た事を話すつもりだから。兄ちゃまの生きて来た現実がすべて壊れる話なの」

 何を言っているのだこいつは。

「面白い事を言うな。話してみろ」

「強がってる。兄ちゃま、本当は怖がってるでしょ?」

 鋭いじゃないか。だが、この状況でいきなりそんな事を言われたら誰だって少しは怖くもなるだろう。

「なんだそれ。話す気がないのなら今すぐに俺を帰らせてくれないか?」

 とりえず無駄だろうとは思ったが言ってみた。

「それは駄目。じゃあ話すね。兄ちゃまは運がいい。ツイてる。好きになった女の子とは長続きはしないけど、絶対に付き合える。お金にも困った事はない。母ちゃまが病気で倒れてからも、死んでしまってからも母ちゃまの生命保険があったりとか、大金を拾ったりとかしてる。その他にもラッキーな事がいろいろあった。そうでしょ?」

「それがなんだ? だが、その運ももう尽きたみたいだぞ。猫服先輩に殺されそうになったからな」

 こいつ、ひょっとしてストーカーか何かか? そこそこかわいいのに残念な奴だ。しかも狙う相手が俺って。

「かわいいなんて。嬉しい。そこそこは余計だけど。でも、ストーカーじゃないよ。そこそこは余計だけど。それと。いい加減に錫だって認めてよ。じゃないと、そうね。どうしよっかな」 

 鈴と言い張る少女が思案顔になる。二回も言うほどにそこそこと思った事が気に入らないようだったが、面倒なのでそこにはあえて触れないようにした。

「どうしようかじゃない。話の途中だろ? 最後まで話せ」

 俺は言い終えてから、この少女の言った言葉の意味に気付いてありえないと思いつつも恐る恐る聞いた。

「お前、俺の気持ちが読めるのか?」

 そこそことかかわいいとかストーカーとか。ずばりその物を言い当てている。超能力や第六感なぞ信じないがそういう物でも持って来ないと説明できない現象じゃないかこれ?

「そんな事ない。全然ないよ。兄ちゃまは何を言ってるのかなあ。錫、分かんな~い」

 錫と言い張る少女が唇を尖らせると息を吹き吹きフスーフスーと間抜けな音を鳴らし始めた。

「口笛のつもりか? ベタベタだな。そんなとぼけ方する奴本当にいたのかよ。鬱陶しい。分かった。もう全部どうでもいいから俺を解放しろ。お前みたいな頭のおかしい奴とは付き合ってられん」

 鈴と言い張る、もう面倒臭い。錫でいいや。とりあえず、錫とこれから呼ぶ事にする。錫が俺の言葉を聞いて自分の頭を軽くぽふっと叩いた。

「ごめん。脱線しちゃった。それでなんの話だっけ?」

 死ね、クズ。

「呼び方だけでだけど錫って認めてくれたのに! 兄ちゃま。死ね、クズはないよぅ」

 錫が泣きそうな顔になり叫ぶように言った。こいつやっぱり俺の思った事が分かっていると思い俺はそれを口にしようとした。

「兄ちゃま。なんでもない。間違えた。それで、話の続きね。思い出したから。えっとね。簡単に言うと、兄ちゃまの今までのラッキー人生は全部、錫がお金を使ってやってた事なの。兄ちゃまと離れ離れになってから、錫にもいろいろあってね。父ちゃまの家の会社を乗っ取ったの。それで、その会社のお金とか力とかを使ってやってたの。どうかな? やっぱり凄いショックだったよね?」

 何を言い出すのかと思えば。相手にする気にもなれん。

「馬鹿らしい。そんな事がありえるか。だが、分かった。それでいい。もう一つの方はどうだ? 俺の気持ちとか思った事とかが読めるのか?」

 錫がしゅんとした顔になり顔を俯ける。

「なんだ?」

「言わないと駄目?」

 錫よ。そう言った時点で何かあると言っているのと同じだぞ。 

「駄目」

 錫が顔を上げると俺の額の辺りをじいーっと見つめて来た。

「何か付いているのか?」

 俺は自分の額に手を。そうだった。手は動かせなかった。

「うん。ディスプレイが付いてて」

 ディスプレイ? ディスプレイってなんだ? 

「意味が分からん。分かるように話してくれ」

 錫が小首を傾げる。

「ディスプレイじゃ分からないのかな。えっとスクリーン? うーんと? モニター?」

 ディスプレイ。スクリーン。モニター。俺は頭の中にその言葉達の意味する物を思い浮かべてみた。

「なんだ? 俺の額に何かの映像でも映っているとでも言う気か?」

「正解。兄ちゃまやるう。生き返らせる時にそういう仕様にしたの」

 やるうじゃない。こいつの言っている事は全然まったくさっぱり分からん。だいたいなんだ。生き返らせたとか、額にディスプレイだとか、俺のツイていた今までの人生の事は全部お金を使ってやっていたとか。なんなのだこいつは。

「帰らせろ。もう付き合ってられん」

「兄ちゃま。じゃあ、証拠を見せるね」

 錫がベッドから降り上半身上昇と言うとベッドが自動で動き始め俺の上半身が持ち上がって行った。

「あっち。今から兄ちゃまを隠し撮りしてた映像を見せるから。再生っと」

 正面にある壁一面が画面になっていてその画面に兄ちゃまのすべてというセンスの欠片も感じられないストレートなタイトルが白色のゴシック体で出たと思うと映像が始まった。

「兄ちゃま。どう? ちゃんと映ってるでしょ?」

 小学校二年生の時に両親が離婚し俺は母親に錫は父親に引き取られた。錫がその後どんな人生を送っていたのかはまったく知らない。俺は父親が大嫌いだったから錫の事は気になってはいても、会いたいとかどうしているのかとかそういう事は一切母親には聞かなかった。錫に会おうとすれば父親に会わなければならなくなる、そんな風に当時の俺は思っていた。そうしているうちに次第に俺は錫の事を忘れて行った。面影すらも思い出さないほどに。

「あいつか。あいつがこれを撮っていたのか?」

 俺は父親の大人しい所が大嫌いだった。気の強かった母親に何を言われても怒らず、自分の父親や母親である祖父や祖母にも些細な事でよく文句を言われ責められているような奴だった。

「違うよ。錫が撮らせてたの。この頃にはもう父ちゃまは死んでるもん」

 映像は俺が小学四年生に上がった頃からの物だった。その一年後に病気で母親が死に、俺は一人で生活し始める事になる。

「嘘を言うな。母さんが死んだ時、あいつの使いって奴が来たぞ」

 俺は父親と暮らしたくはなかったので、そいつに一人で暮らしたいと言ったのだった。

「錫が行かせたんだよ」

「信じられないな。高学年とはいえ小学生がそんな指示を出せるとは思えない。見ていても意味がないなこの映像は。これがなんの証拠になる?」

「今の兄ちゃまもいいけど、この頃の兄ちゃまもいいなあ。かわいくって食べちゃいたいくらい」

 錫がうっとりとした声を出した。

「おい。証拠を見せるとか言っておいてお前が楽しみたいだけじゃないのか?」 

 ずずずーと何かを啜るような音が錫のいる方から聞こえて来た。

「涎出ちゃってた。兄ちゃまと一緒に見たかったんだもん。懐かしいでしょ? 錫は兄ちゃまに会いたいのを我慢してたからこの映像を何度も何度も何度も見てたんだよ」

 面倒臭いので涎云々は聞かなかった事にしよう。ひょっとしてこいつはあれか? 一緒に昔を思い出したいとかそういう類の事をしたいのか?

「そうだな。懐かしいな。なあ、錫。手錠、もう外してくれないか。お前のお陰でなんとなくだが、自分の置かれている状況が分かって来た。もう大丈夫だ。何があって俺はおかしな行動はとらない」

 全部嘘だがな。そもそもこいつを本物の錫だってまだ認めた訳じゃない。うっかり昔を思い出したり、この映像はあいつが作ったのかも知れないなんて思ったりしてしまったがこいつがただの、いや、筋金入りのストーカーだという可能性だってまだ捨て切れない。こんな奴といたらまた何をされるか分からないから手錠を外させてとっとと逃げよう。

「分かった。外したげる。開錠」

 ベッドの横に立っていた錫が俺の方を向いて言うと勝手に手錠の鍵が開いた。

「音声認識なの。今は錫の声を登録してるから錫の声にしか反応しないんだよ」

 俺は自分の左右に滑り落ちて来た手錠二つを手に取った。これで錫を拘束すれば逃げやすくなるか。

「凄いな。これ、俺にも使えるようになるのか?」

「逃げちゃ駄目。拘束プレイにして。もうっ。兄ちゃまったら何を言わせるの。駄目だよ。錫の事捕まえておいて逃げようだなんて」

 こいつ、また。そうだ。額。まさかとは思うが一応触ってみよう。

「ん? んん? なんだこれ?」

 俺は指先につるつるとした明らかに額の皮膚の物とは違う硬質なガラスのような感触を感じて額を撫で回した。

「それがディスプレイだよ」

 錫が言いながら手鏡を差し出して来た。

「お前、これ、あれだろ? 貼っているだけだよな? こうやれば実は、いて。いてて。痛い。これ、埋まっているのか? おい。取れないぞ。なんだこれ。どうしてくれる? お前、いくらなんでもこんなのないだろ」

 俺は喚き散らしながら叩いてみたり押してみたりはがそうとしたりと必死になって額にある物体と格闘した。

「兄ちゃま。駄目だよ。血が出てる。はがせないよ。内部で配線が脳と直結してるんだよ。そんなの今は外せないの。取るにはちゃんと手術しないと駄目なんだよ」

 錫が俺の両手を動かせないように握ると、真剣な眼差しを俺に向け優しく諭すような口調で言った。

「なんだその口調は。お前が俺の体をこうしたのだろ? なんでそのお前がさも俺の為だというような態度でそんな事を言う? どうしてくれるこの体。俺はこれからどうやって生きて行けばいい?」

 錫が突然抱き付いて来た。

「大丈夫。兄ちゃまの面倒は錫がみるから。兄ちゃまは今までと同じように普通に高校生をすればいいの」

「無理だろ。これだぞ? あ。そうか。これ、外してくれる気だな?」

 俺は抱き付いている錫を両手で突き放すように押しながら言った。

「それは無理。兄ちゃまはそのままだよ」

錫がなんでもない事のように平然と否定の意を示す為に頭を左右にぶんぶんと振りながら再び抱き付いて来た。

「なんでだよ。ああ。じゃあ、あれか。帽子とかで隠していいって事だよな?」

 俺がもう一度錫を突き放すように押すとまた錫がぶんぶんと頭を左右に振りつつ抱き付いて来た。

「それも無理。そのままなの」

「だからなんでだよ。これ見た目も変だが、更に俺の思っている事とか考えている事とかが表示されるって言っていたじゃないか。そんな物こんな所にくっ付けて人前に出られるか」

 錫が俺から離れるとじいーっと俺の目を見つめて来た。

「なんだその目は」

「これ以上ないくらいに真剣だって目をしてるの。兄ちゃま。錫は兄ちゃまを矯正しようと思ってるの。今の兄ちゃまは錫が甘やかしたから駄目駄目人間になっちゃってる。そのディスプレイは矯正の為なんだから。分かって」

「分かるかこのクズがー!」

「酷いよ。兄ちゃまクズなんて人の事を言っちゃ駄目」

「うるさい。警察だ。裁判だ。そもそもお前のやっている事は拉致監禁だ。犯罪だそ」

「それは平気。兄ちゃま死んでるし。死亡届ここにあるし。戸籍はまだあるけどいつでも抹消できるし。兄ちゃまの存在を錫はいつでも消せるの。兄ちゃまの生殺与奪の権は錫が握ってるんだよ」

 錫が嬉しそうに微笑んだ。なんだろう。この感覚。こいつ、誰かに似てないか? 誰だっけ? 最近出会った、分かった。猫服先輩だ。この狂いっぷりが似てる。最悪だ。短期間にこんなサイコパスとまた出会ってしまうなんて。

「お前、本当に錫なのか?」

 こいつが錫じゃなかったら、腕力に物を言わせて逃げてやる。もうそれしかない。

「兄ちゃま~。ディスプレイに出てる出てる。けど、錫だったら腕力に物を言わせないんだ。嬉しい。どうすれば錫が錫だって信じてくれるのかな。写真とか見せても兄ちゃまと錫しか知らないような事を言ってみても、きっと兄ちゃま信じてくれないと思う。兄ちゃまが信じる気になってくれないと駄目なんだと思う」

 錫がとても悲しそうな顔をして目を伏せた。

「簡単な方法がある」

 俺は額を手で隠しながら言った。

「手。ずるい」

「何がずるいだ。人の考えている事が分かる方がずるいだろうがー」

「分かった。分かったから怒らないでよ。じゃあ、今はそれでいいよ。それで、方法って?」

 錫が興味津々といった様子で顔を俺の顔に近付けて来た。

「近い」

 俺は空いている方の手で錫の額に軽く水平チョップを入れた。

「あいた。兄ちゃま~。酷いよー」

 錫が額を摩りながら唇を不満そうに尖らせた。

「うるさい。黙って聞け。方法とは、お前が俺の信頼を勝ち取る事だ。お前が信用にたる人物だと分かれば俺も自然とお前を妹の錫だと思うようになるだろう」

 錫がはっとした顔になってから眩しい物でも見るような目を俺に向けて来た。

「兄ちゃま。凄い。いい事言った。駄目駄目人間なのに。分かった。錫は兄ちゃまの信頼を勝ち取るよ。まずはどうすればいい?」

 駄目駄目人間だと? ふっ。馬鹿な奴。お前のが駄目駄目だ。これで俺の思い通りだ。

「俺を自由にしろ。額も戻せ。それが信頼をえる為の第一歩だ」

 さあ錫よ。俺を解放しろ。

「額は無理だよ~。それの手術って凄い危険なんだもん。失敗したら兄ちゃま植物人間になっちゃう。自由にするのはできるから。額は我慢して」

 こいつ。なんて事を人の体に。くっそう。いや。待て。嘘じゃないのか? そんな危険な事を俺にするか? 俺は大事な兄ちゃまだぞ。いやいやいや。待て待て。こいつらサイコの思考は遥か斜め上を行っている。猫服先輩の例があるからな。仕方がない。今は額の事は諦めよう。まあ。額はなんとか隠せばいいしな。とりあえずここから逃げて、逃げてどうする? 警察にでも駆け込んでみるか? 生殺与奪の権は握っているなんて言っていたが、そんな事があるはずがないからな。

「じゃあ、俺は家に帰る。ついて来たり監視したりするなよ」

「兄ちゃまの家はここだよ。このフロアには他に二部屋あるんだけど、全部兄ちゃまが自由に使っていいよ」

 何を言い出すのだこいつは。そういう事じゃないだろ。

「俺は俺の家に帰りたいのだ。ここは俺の家じゃない」

「兄ちゃま。じゃあここを家だと思って」

 調子のいい事を言う。このクズが!

「それじゃ全然自由じゃないじゃないか。自由にすると言っただろ」

 俺は錫を睨み付けた。

「ごめんなさい。でも、兄ちゃま。こっちの家の方が便利だよ。テレビとかベッドとか冷蔵庫とかもあの家の物よりいいし。慣れればきっとこっちのがよくなるってば」

 話にならん。

「分かった。じゃあ俺は外に出て来る。これならいいのだな?」

「うん。それならいいよ」

 俺はベッドから降りると床の上に立った。

「おおっと」

 途端に足元がふらついた。

「兄ちゃま。大丈夫?」

 錫がすぐに俺に飛び付いて来て肩を貸してくれた。どうしたというのだろうか? 足にうまく力が入らない。

「体が変わってからの初歩行だからね。最初は皆そうなの。錫もそうだったんだよ。兄ちゃまどこ行く? 錫が連れてったげる」

 嘘だろ? 信じられるか。冗談じゃない。

「錫。離れろ。自分で立てる」

「駄目だよ。危ないよ。練習しないとできないんだから」

「うるさい」

 俺は錫の肩の上にのっている腕を引き、少し乱暴に錫の体を押してもう一度自分の足だけで立った。

「くくっ」

 駄目だ。今度はさっきよりも酷い。腰から下の力が急に抜けてしまった。

「兄ちゃま」

 床に向かって倒れて行く俺の視界に黒い影が過る。俺はその影を見た瞬間に目を閉じた。

「あいた。いたたた。兄ちゃま。大丈夫だった? 痛い所ない?」

 痛い所なんてある訳がない。俺の体はフローリングの床にはぶつからずに錫の体の上にのっていた。

「錫。お前」

 俺は言葉の途中で咄嗟に口を噤んだ。

「兄ちゃま。嬉しい。錫の事心配してくれてんだ」

 額か!? 俺は慌てて額を両手で隠した。

「勘違いだ。俺は、別の事を考えていただけだ。それがたまたまお前を心配しているような意味にとれただけだ」

「じゃあなんでそれ隠したの?」

 錫がいたずっら子がいたずらを成功させた時のような笑みを顔に浮かべて言った。

「隠してない。かゆかっただけだ」

 俺は少し躊躇ってから額にあるディスプレイを隠していた手をどけた。

「何々? なんで俺をかばったりしたのだこのクズは。同情を誘う作戦か。だって!? 兄ちゃま。酷い。さっきと違う。さっきは、俺をかばうなんて何をしているのだこいつは。怪我なんてされていたら困るな。だったのに。うう? あれ? あんまり心配してない?」

「当たり前だ。どこの誰とも知れないクズ女を心配する理由なんてないからな」

 俺は床に両手を突き立ち上がろうとした。

「兄ちゃま。もう起きるの? 錫はこのままでもいいのに」

「出たなこの変態痴女」

「またそんな事言う。もう。ねえ兄ちゃま、上半身も気を付けないと駄目だよ。下半身よりは簡単に慣れると思うけど」

 錫が言葉の途中から笑みを消し俺の顔を真剣な顔になって見上げて来た。

「見れば分かるだろ。もう慣れている。大丈夫だ」

 俺は錫から離れると床の上に胡坐をかいた。どうしたものか。外に行けても錫がついて来るのでは意味がない。俺はこのサイコクズ女から逃げたいのに。

「分かった。錫。一緒に来てくれ。とにかく外に行ってみたい」

 しばらく考えているうちにここにいるよりはまだ外にいる方がましだろうという結論に至った。うまくすれば隙を見て逃げ出せるかも知れないしな。

「やった。兄ちゃまとお出掛け。すぐに支度するからちょっとだけ待ってて」

 俺の横に座っていた錫がすっくと立ち上がり部屋から出て行く。

「錫。俺の着替えも頼む。この格好じゃ外に行けない」

 俺は自分が手術着のような物を着ている事に気が付くと慌てて既に閉じられてしまっているドアに向かって大声で言った。

「分かってる~」

 陽気な感じの歌でも歌っているかのような抑揚で錫が言葉を返して来たので俺は錫が戻って来るまで歩く練習をしようと思いベッドに手を掛けた。
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