第8話

文字数 19,626文字

 追って来た生徒達や黒づくめの男達が昇降口に殺到し過ぎて詰まってしまい一時的に中に入れなくなるという幸運に恵まれた俺と猫服先輩だったが、その時間を利用して校舎内を回り選んだ教室のすべてが施錠されているという事態に直面し途方に暮れた。結局手当たり次第に鍵の閉まっていない場所を探すという行動に出てなんの考えもなしに鍵が閉まっていなかった家庭科室の中に入った。

「鍵が開いててよかったですね」

 猫服先輩が後ろ手で扉を閉めると笑顔を見せた。

「はい。とりあえず立てこもる場所が確保できてよかった。ここの鍵を閉めたら他の場所の鍵が閉まっているかどうか手分けをして確認しましょう」

 俺は扉を施錠する為の小さなレバーを下げた。

「分かりました」

 俺と猫服先輩はどちらともなく繋いでいた手を放すと、家庭科室の前と後ろに分かれてもう一つある扉といくつもある窓の鍵が閉まっているかどうかを確認して回った。

「こっちは終わりましたよ。ついでに窓のカーテンも全部閉めておきました」

「こっちもです。外はもう生徒達と黒づくめの男達とでいっぱいになっています。カーテンありがとうございます。それで先輩、これからどうするかとか考えはありますか?」

 俺は窓と扉の両方から一番遠いと思った家庭科室の真ん中辺りにある机と調理台の所へと行った。

「考え、ですか? そうですね。えーっと。座ってから話しましょう」

 猫服先輩が俺の傍に来ると、近くにあった椅子を二つ引いた。

「じゃあ俺はこっちで。おっと。言い忘れましたが死ぬという線はなしでお願いしますね」

 俺は猫服先輩が引いてくれた椅子の一つに座った。

「駄目なんですか? 折角二人きりになれたのに。今ならゆっくりと死ねますよ?」

 猫服先輩も椅子に座った。

「ゆっくりでも早くでも死ぬのはなしです」

「じゃあ死ねないじゃないですか? もうー。君はどうしたいんですか?」

 猫服先輩が怒ったのかちょっとぷりぷりしながら言った。

「俺ですか? 俺は交渉しようかと思っています」 

「交渉? 何を交渉するんです?」 

 猫服先輩が目の前の調理台の上に片手だけで持っていた二本のナイフを並べて置いた。

「まずは先輩の今後の事です。今回の事で責めを負わないようにします。次はこの状況の打開です。額を見せろとか、テストをするとか。そんなこんなをやめさせてからいつもの学園生活に戻れるようにします」

 猫服先輩が両手を胸の前に持って来るとぱちぱちぱちと小さく拍手をした。

「颯太君は凄いです。そんな事を考えてたんですね」

 心底感心したという風な様子で猫服先輩が言い眩しい物でも見るような目をしながら微笑んだ。

「先輩は死ぬ事ばかりを考え過ぎなのです。今更ですが、もう少し前向きになって下さい」

 猫服先輩が不満そうに唇を尖らせた。

「ちぇー。なんか怒られたみたいです。好きな人と一つになりたいっていう思いを遂げようとしてるだけなのになー」

 なんだ? なんか、新鮮なリアクションだな。こんな猫服先輩見た事あったっけ?

「どうしたのです? なんだかいつもの先輩とどことなく違う気がします」

 猫服先輩が自分でも不思議なんですというような顔になりつつ小さく頷いた。

「そうなんです。なんか、君と二人きりになってるって凄く意識しちゃってるんです。君、私に何かしました? 何もしてませんよね?」

 猫服先輩がじっと俺を見つめて来た。おおおーふ。これは、なんというか。ぐっと来たー。胸がどきどきして来たぞ。今の猫服先輩の言葉の所為で俺まで猫服先輩の事を意識し始めてしまったらしい。俺はすっかり落ち着きをなくして何をしようという訳でもないのに周囲をきょろきょろと確認するように見た。うおっつっ。覗かれているうぅ。校庭側に面した窓を覆うカーテンの僅かな隙間。廊下側の壁の上部と下部にいくつか並んでいる細長い小さな窓と家庭科室の前と後ろにある扉に付いている小さな二つの窓。そこかしこからこちら側を覗き見している生徒達の顔が見えるではないか!

「先輩。あっち側の窓を覆うカーテンを今よりもしっかり閉めて、こっち側の小さな窓という窓を何かで覆いましょう。凄い勢いで覗かれています」

「覗かれてる?」

 猫服先輩が顔を廊下側の壁の方に向けびくっと体を震わせたと思うと今度は校庭側の窓の方に顔を向けてまたびくっと体を震わせた。

「ひええー。本当に凄い勢いを感じます。これじゃプライバシーゼロです。覗き放題です。颯太君どうしましょう?」

 猫服先輩が泣きそうな顔になりながら叫んだ。

「先輩落ち着いて下さい。とりあえず何か窓を覆うのに使えそうな物を探しましょう」

 目の前にある調理台の引き出しを開けると、いきなり使えそうな物は見付かった。

「先輩、アルミホイルが。中身もかなり残っています。これを使えばいけると思います」

「颯太君、やりましたね」

「俺は廊下側からやります。先輩はカーテンの方をやってからこっちを手伝って下さい」

 俺は両手を自由にする為に箱から引き出したアルミホイルを細長くして額を覆い隠すように頭に巻きながら猫服先輩はこういう事が苦手そうだと思ったのでそう言った。

「じゃあ、カーテンの隙間をちゃんと閉めたらすぐに手伝いますね」

「はい。絶対に覗かれないようにお願いします」

 俺の予想に反して猫服先輩が手伝いに来てくれてから窓をアルミホイルで覆う作業は格段に早く進むようになった。猫服先輩はこういう工作的な事が苦手ではなく凄く器用でむしろ得意なようだった。俺は猫服先輩の手元を見つつ、ああ、あの着ぐるみだと思って納得した。あれを改造したのはきっと猫服先輩自身だったのだろう。

「ふうー。これで完璧ですね」

「はい。これで、安心できます」

 作業を終え、ほっと息をついてから俺と猫服先輩は座っていた場所に戻りさっきと同じように椅子に腰を下ろした。

「颯太君。そういえば、さっきなんの話をしてたんでしたっけ? 話の途中でしたよね?」

「胸が、どきどき」

 そんな言葉を口走ってしまった俺は慌てて口を両手で覆った。おいおい。何を言っているのだ俺。確かにどきどきしたが、そんな話はしていなかっただろ。

「胸が? どきどき?」

 猫服先輩がこれでもかというくらいに不思議そうな顔をした。

「あの、覗かれて、その、あれです。どきどきするじゃないですか、ああいう瞬間って。先輩は平気だったのかなって今ちょうど考えていて」

「あーあ。そういう事ですか。そうですね。私もあの窓という窓から中を見てる人達の目を見た時はびっくりしました」

 ふー。ちょろくて助かる、いや、その素直さ、素敵です。

「えーあーてすてす。兄ちゃま? 聞こえてる? 錫だよ。どっか窓開けて。なんで中を見れないようにしたのー?」

 恐らく拡声器を持ち出して来たのであろう機械的に増幅された錫の大きな声が廊下側の壁越しに聞こえて来た。

「妹さんの声です」 

 猫服先輩がすっと立ち上がると声のした方向に体の正面を向けた。

「ちょうどいい。なんの話をしていたか思い出しました。交渉です」

「ああ。そうでしたそうでした。颯太君。私の事は後回しでいいですよ。まずはこの状況の打開だと思います」

「それならば、簡単だと思います。俺の額の事とテストの事をなしにする代わりに今から二人別々にここから外に出ると言えばいいだけです」

 きっとどうせ死ぬのだからとか死んでしまえば関係ないとかそんな風に猫服先輩は思っているから自分の事は後回しでいいなんて軽々しく言えるのだろう。そう思った俺はちょっと意地悪がしたくなったのでそんな風に言ってみた。

「え? 二人、別々にですか?」

「はい。そうなったら恐らく先輩はすぐに拘束されるでしょうね。それから、錫の事だから、へたをすると警察を呼ばれるかも知れないな。先輩は今や立派な犯罪者ですからね。拉致監禁に脅迫、銃刀法違反もかな。学園は退学になってしまうと思うし、悲しいですが先輩とはしばらく会えなくなるかも知れないな」

 俺はわざとらしく調理台の上に並んで置かれている二本のナイフの方に視線を向けた。

「それは駄目です。そんな事になるなら今すぐに」

 猫服先輩が目にも止まらぬ速さで動き俺の視界の中にあった二本のナイフが姿を消した。

「先輩、何を」

 猫服先輩が俺の喉元にナイフの鋭利に尖った刃先を突き付けて来た。

「もう言わなくっても分かるはずです。さあ、さあ、今すぐです。思えばチャンスは何度もあったんです。今度こそです。今を逃したらもう後はきっとないんです」

 やばい。やり過ぎたぞこれ。

「先輩。無理ですよ。こんな所でなんて」

「無理じゃないです。だいたい君は贅沢を言い過ぎなんです。どこで死のうが関係ないんです。大切なのはお互いの気持ちなんです」

 猫服先輩がもう片方の手の中にあったナイフのやっぱり鋭利に尖っている刃先を自分の喉元に突き付けた。

「先輩。やめて下さい」

「やめません。同時です。同時にぐさっと行きます。颯太君。愛してます。これからはずっと二人きりです。一つになるんです」

 猫服先輩の俺を見つめる目が怪しくきらきらと輝いた。

「先輩。タイム。タンマ。お願い。死ぬのはちょっと」

 逃げ出したいのは山々だったが既に体から力が抜けていて逃げ出したくても逃げ出せなくなっていた。

「大津賀先輩。大津賀彩絵先輩。え? 猫服先輩? いいの? うん。分かった。猫服先輩。私達は先輩の、いえ、先輩と佐井田君の味方です」

 黒板の上の壁に設置されている校内放送などを流す為のスピーカーから突如聞いた事のない女子生徒の声が流れ出した。

「私達は猫服先輩と佐井田君の恋愛を応援する会を発足しました。恋愛は自由です。誰が誰を好きになろうといいんです。生徒や教師を買収して、ましてや学園を乗っ取って人の恋愛を邪魔するなんて絶対に許せません」

 別の女子生徒の声が叫ぶように言った。

「あの、颯太君。これは?」

 猫服先輩が何がなんだか分からないという顔をしながら小首を傾げた。

「なんですかね」

 俺も何がなんだかまったく分からなかった。

「猫服先輩と佐井田君。待っていて下さい。私達が二人を解放します。二人が自由に恋愛できるようにします」

「あ、それと、食料とか届けに行きます。声を掛けたら窓でも扉でもどっちもいいんで開けて下さい」

「ねえねえ、先生達が開けろって言ってる」

「断固阻止。放送室は我々猫服先輩と佐井田君の恋愛を応援する会が占拠した。猫服先輩~、佐井田君~。我々もともに戦っている。絶対に負けるなー」

 ぶつんっという音がしてマイクの電源が切られたのかスピーカーが沈黙した。急に静かになった家庭科室の中で俺と猫服先輩は顔を見合わせた。

「私達を応援してくれるって言ってましたけど、なんででしょう?」

 猫服先輩が先に口を開いた。

「それは、たぶん」

 俺はそこまで言って口を噤んだ。

「たぶん、なんです?」

 猫服先輩の俺に対する一途な思いに感化されたのだと思います、なんて、恥ずかしくて言葉にできるか。

「放送であそこまで言っていたのです。先輩だって分かっているはずです」

 冷たい言い方だとは思ったが、他の言い方が思い浮かばなかったのでそう言ってみた。

「全然分からないです。だって、これは私と颯太君の問題です」

 うーん。さすが猫服先輩。そう来たか。恋愛云々はともかくとして、猫服先輩はあの放送を聞いても何も感じていないのか?

「確かにその通りです。だが、俺と先輩の為に彼女達は戦ってくれています。しかもです。放送室を占拠しているらしい。ただじゃすまないかも知れません」

「だからなんですか?」

 だからなんですかって。それじゃ彼女達が。いや。確かにその通りか。俺は何を考えていたのだろう。いつもの俺だったらクズどもが勝手な事をやっているなとかそんな風に思ったはずだ。

「まあ、勝手に盛り上がっているのでしょうね。俺と猫服先輩にしてみたらいい迷惑だ。相手にするのはやめて放っておいた方がいいですね」

 猫服先輩が俺と自分の喉元に突き付けていたナイフを下ろした。

「それでいいんでしょうか? なんか違う気もします。とりあえず死ぬのは少し後にして様子を見た方がいいのかも」

 おお? 猫服先輩の心境に何やら変化が表れたぞ。これは、いい兆しかも知れない。

「でも、やっぱり死んだ方がいいのかな。だって私達を応援してくれてるんですもんね。私達の目的は一緒に死に事ですし」

 隊長。そんな目的があったなんて今初めて知りましたーっ。隊長って誰だよ。思わず言っちゃったよ。

「先輩。ちょっと待ちましょう。いやー。なんだろうな。実は俺もさっき言ってからすぐにあれって思ったのですよ。あれ? 何か違う気がするなーみたいな?」

 演技演技。

「そうですか? 君もそう思うのならそうなのかも知れません。でも、待つってどれくらい待ちます?」

 永遠に待ちましょう、とか言ってもきっと無駄なのだろうなあ。言いたいが。凄く言いたいが。

「とりあえず、彼女達の仲間が来ると言っていたのでその子達が来るのを待ちましょう。相手がどんな連中なのか確かめる事もできますし」

「それ、いいですね。その後はどうします?」

 その後か。そういえば、錫の奴ずっと黙っているな。何か企んでいるのか?

「その後はやっぱり交渉ですかね。この状況をなんとかしないと」

「違います。その子達の事です。あ。人質になってもらっちゃいますか?」

 人質に? うーん。それはどうだろうか? 俺はしばらく沈思黙考した。

「やめておきましょう。万が一にも何かあったら先輩の立場が今以上に悪くなる。ここに来てくれるという子達とは話をするだけにしましょう。それと、その時にすぐやめるようにと言わないと。それを言うのは俺よりも先輩の方がいいと思います」

「私、ですか? 何をどう言えばいいのでしょう?」

 猫服先輩が心配そうな泣きそうな表情になった。

「そんな顔はしないで下さい。言う時は俺も傍にいますし何をどう言うのかも一緒に考えますから」 

 猫服先輩がぱっと花を咲かせたような笑顔になった。

「君は本当に素敵です。どんどん好きになって行っちゃいます」

 猫服先輩がきらきらと瞳を輝かせたと思うと片方の手に持っているナイフの方へ視線を向けた。う、うぐ。これは危険な流れなのか? また来てしまったのか? 俺はナイフを突き付けられていない今ならば逃げられる事を思い出し、いつでも駆け出せるようにと身構えた。

「ん? 廊下の方が何やら騒がしくなってませんか?」

「廊下の方、ですか?」

 そう言われて廊下側の壁の方へと注意を向けると、錫の拡声器で増幅されている大きな声が聞こえて来た。

「兼定。なんとかしてよ。兄ちゃまとあの女の恋愛を応援する会だなんて。なんで? ちゃんとお金払ったんでしょ? 契約じゃん。それをこんな風にするなんて。勝手な事はさせないで。これ以上言う事を聞かないなら、処分だよ。本当に出しちゃっていいから」

 あいつ、拡声器のスイッチを切り忘れているのか? 相変わらず馬鹿だな。生徒達の反感を買うような事をしてどうする。だが、これで錫が何をしているのかが分かったかも知れない。あいつは今、俺と猫服先輩の恋愛を応援する会、長いなこれ、の対応に追われているみたいだな。

「颯太君。颯太君。来たみたいです。後ろの扉の方で女子生徒が呼んでる声がします」

「来ましたか。じゃあ、行ってみましょう」

おせ会の連中が来たか。一体どんな奴らなのだ? いきなり使ってしまったがおせ会というのはあれだ。俺と猫服先輩の恋愛を応援する会の略だ。俺のおの字と猫服先輩の先輩のせの字を取っておせ会だが、お節介だけにおせっ会なんていうのもありかも? え? 駄目? つまんねー?

「はい。行きましょう」

二人して後ろの扉の前に急いで行き声を掛けると女子生徒がすぐに中に入れて下さいと言って来た。猫服先輩が女子生徒に向かってちょっと待って下さいと言ってから俺の方に顔を向けて来た。

「どうしましょう?」

「そうですね」

 とりあえずアルミホイルを取って相手の顔を見てみるか。

「先輩。開ける開けないはともかくとしてまずはどんな相手なのか見てみませんか?」

 ないとは思うが、錫の仕掛けた罠という可能性もあるかも知れない。

「じゃあ、取りますよ?」

「はい」

 猫服先輩が扉の小さな窓を覆っているアルミホイルをかさかさと音を鳴らしつつ外した。

「猫服先輩と佐井田君ですよね?」

「あの私達、猫服先輩と佐井田君の恋愛を応援する会の者です」

 背の低いお下げ髪をした女子生徒とその子よりも少し背の高い黒色の縁の太い眼鏡を掛けた女子生徒が小さな窓ガラスの向こう側にかなり緊張した様子で並んで立っていた。

「あ、あ、あの。どうもよろしくです」

 猫服先輩がぺこっと頭を下げた。

「はい。よろしくお願いします」

「うちもよろしくです」

 お下げ髪の子、黒縁眼鏡の子という順番で窓の向こう側にいる女子生徒達も頭を下げて来た。

「おおー。二人が見えるぞ」

「猫服先輩ー。佐井田ー。頑張れええええ」

「生徒諸君。この学園を支配する力に今こそ抗うのだ!!!」

「学園の為に」

「学園の為に」

「おー」

 女子生徒達の背後から歓声と力のこもった叫び声が聞こえて来た。

「なんでしょう?」

 猫服先輩が顔を上げると小首を傾げながら俺の顔を見つめて来た。

「よくは分かりませんが、あまりいい感じではないですね。集団で暴れられたりされたら大変な事になる」

 俺は猫服先輩にそう言ってから窓の向こう側にいる二人に向かって学園云々と叫んでいた連中は仲間なのかと聞いた。

「違います。全然関係ありません」

「うち達は学園なんてどうでもいいんです。大切なのは先輩と佐井田君の恋愛です」

 大切って。反応に困る発言だな。とりあえず無視しておこう。

「先輩。ちょっと」

 俺は猫服先輩の耳元に顔を寄せた。

「はふん。くすぐったいです」

 猫服先輩がすっと俺から逃げるように体を離した。

「先輩。逃げないで下さい」

「急に、なんですか? あんまり近付かれるとなんか変な感じになります」

「キスですか?」

「うち、会の皆に二人の様子がどうだったか詳しく伝えろって言われてるんです。今の写真撮りたいんで、もう一度やってもらっていいですか?」

 おせ会の二人がとんでもない事を言い出した。こいつ、さっきは大切とか言っていたくせに。そういう目的もあるのかよ。

「先輩。アルミホイルを」

「え? あ、アルミホイルですか? はい」

 猫服先輩がまだ片手に持ったままだったアルミホイルを渡してくれる。

「君達はちょっと待っていてくれ」

 俺は言いながらアルミホイルで元のように窓を覆った。

「あーん。ちょっと待って下さいー」

「なんですか? エッチですか? 急に催しちゃったって奴ですか?」

 なんて事を言うのだこいつは。

「先輩」 

 俺は猫服先輩の方に顔を向けた。

「キスですか? それともエッチですか? 急に催しちゃったって奴なんですか?」

 猫服先輩が怯えた様子で言いながら凄い速さで家庭科室の俺から一番遠い場所にある角まで逃げた。

「先輩、何も、そんな風に逃げなくてもいいじゃないですか」

 俺は結構なショックを受けつつも猫服先輩をこれ以上刺激しないようにとその場から動かずにできるだけ優しく話し掛けた。

「これは、あれ、です。君がキスとかエッチとか催したとかみたいだからです」

 猫服先輩は意味が分かっているのか? キスとかエッチとか催すとか。猫服先輩にそういう事の知識があったというのか?

「あの、先輩、意味分かって言っていますか?」

 猫服先輩がこれでもかというくらいに力強く頷いた。

「分かってます。私だって思春期の女子なんです。乙女なんです。キスは、口と口をその、あれで、エッチは、もう、あんなこんなで、くんずほぐれつ、抜いたり挿したりで、催すは、えっと、催すんです。なんだか催しちゃうんです」

 猫服先輩がぼんっと音が聞こえて来そうなほどの勢いで顔を真っ赤に染めると両手で覆い隠した。催すは分からなかったのだな。くっそう。なんだこれは? かわいいじゃないか。それに、こいつはいけない。猫服先輩の所為で俺まで恥ずかしくなって来たぞ。だが、ここでお互いに恥ずかしがっていては何も進まない。なんだかよく分からないが、凄く、凄く青春? って感じでなんとも壊し辛い雰囲気のような気がするが壊すしかない!

「先輩。そんな事をしようとなんて俺は微塵も思っていません。あの二人、いや、俺達を応援するというあの会は駄目です。俺達を肴にして浮かれて騒ぎたいだけです」

 猫服先輩が顔を覆い隠していた両手をゆっくりと下した。

「微塵も、ですか?」

 俺は猫服先輩を安心させようと思い力強く頷いた。

「はい。微塵もです」

 猫服先輩の全身がぴしりと音をたてて固まったと思と砂像のようにぼろぼろさらさらと崩れ落ちて行った。もちろん現実にはただ座り込んだだけだったのだが、そんな風な感じに俺には見えた。

「あの、先輩? どうしたのですか?」

 猫服先輩が座り込んだままぼそぼそと聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声で悲しそうに言った。

「いいんです。どうせ駄目なんです。私なんて魅力ないんですから。微塵もないんですから。微塵もないんですから」

 微塵という言葉を二回言ったぞ。こんな一面もあったのか。かわいい。かわいいが、面倒臭い。だが、こんな猫服先輩もいい。

「先輩」

 おれは力強い声で言った。猫服先輩に元気になって欲しいと思った。微塵もないなんて誤解させるような事を言って凄く申し訳ないと思った。魅力がないなんて事はまったくなく逆に凄く魅力的ですと伝えたいと思った。突然にぐおーんっと俺の中にある恋愛魂? みたい物が烈火の如く燃え上がって来てしまった。うおおおおお。言ってしまええい。好きだと叫んでしまえええい。それしかない。それしかないなんて事はないのだけれど今はそう思えてしまう不思議。そして、それが一番簡単に猫服先輩が魅力的だと伝える方法だなんて思ってしまってもいたりする。そういえば、再会してから一度も好きだと言っていなかった気がする。殺された一件以来どこか煮え切らず消極的になっていて踏み込めなかったが、今なら行ける。いや。そうじゃないのか? 殺されたからとかそういう事じゃなく、猫服先輩が初めてだからなのか? 初めてこんなに俺の事を好きだと思ってくれている人だからなのか? だから、俺は、再会してから猫服先輩対して軽率に好きだの愛しているだのと言えなくなっていたのか? 恋は盲目とはよく言った物だ。俺は完全にのぼせ上がっていていつものように物事を考えられなくなっていた。この瞬間、俺は間違いなく猫服先輩を本気で好きだと思っていた。

「はい?」

 俺の力強い声を聞いて猫服先輩が驚いたように返事をした。

「俺は、俺は、俺は、先輩の事が、大津賀彩絵さんの事が」

 どーん、ばきっ、がらがらがっしゃーんという激しい破壊音とともに家庭科室の後ろ側の扉が吹っ飛び生徒達が雪崩れ込んで来た。

「大好きだー」

 俺の今までの人生においてもっとも力が入っていた告白は破壊音と生徒達の持ち込んだ騒音にかき消されてしまったようだった。いや。絶対にかき消されている。ああーん。嘘だろ。ありえなーい。がっかりだよー。

「これはなんですか? 何があったんです?」

 猫服先輩が俺の傍に駆けて来た。

「そっちですか? 俺の声は」

 かき消されたと思ってはいても聞かずにはいられない。

「はい?」

 やっぱり聞こえてなかったよな。あはははは。今は、いいや。そんな事やっている空気じゃないし。あ。さっきもそうだったかも。あははは。恥ずかしい。死にたい。

「先輩。絶対に俺から離れないで下さい」

「え? はい。颯太君。分かりました」

 猫服先輩がそっと体を寄せて来た。

「それと、ナイフを俺に突き付けて。また人質にして下さい」

「はい。ふふふふ。分かりました」 

 猫服先輩がとても嬉しそうに微笑んでから俺の背後に回ると片方の手を俺の首に回しもう片方の手に持っていたナイフを俺の喉元に突き付けた。さっきの告白聞こえていなくてよかったのかも知れない。ヒトノココロッテウツロイヤスモノナノダナー。俺は心の中でそう棒読み風に呟いた。

「何があった? どうして扉を突き破ったりしたのだ?」

 俺は後ろの扉から次から次へと入って来る生徒達を睨み付けながら大声を出した。

「ちょっとでもおかしな事をしたら颯太君と私はすぐに死にます」

 猫服先輩。スイッチオンですか。それに、活き活きし過ぎです。猫服先輩が言うと家庭科室の中を埋め尽くしそうになっていた生徒達の動きがぴたりと止まった。

「弾圧が始まったのだ。あの独裁者めが力によって我々を排除しようしているのだ」

「佐井田、お前の妹なんだろ? あれをなんとかしろ。処分するとかありえないだろ」

「すいません。二人の邪魔をしてしまって。でも、しょうがなかったんです。妹さん側の味方になっている生徒達が襲って来て」

 なんだと? まさか、錫の奴、そんな事を本当にしたのか? 馬鹿だ馬鹿だと思ってはいたがそこまで馬鹿だったとは。

「錫様に楯突く奴らは全員生徒指導室送りだ。それが嫌だったらこちら側に戻って来い。今すぐに戻れば生徒指導室送りで許してやる」

 どっちにしても生徒指導室送りじゃないかっ。

「そうだぞ。こんな場所に逃げ込んでも、無駄だぞって、うおっ。おおーい。まただ。人質だあ。錫様~。錫様~」

「あいつらだ。錫様親衛隊の奴らだ」

「SSだ。SSが来たぞー」

「もう駄目だ~」

「屋根裏だ。屋根裏に隠れろ」

「地下室の方がいい。それがないなら隠し部屋だ。黒板の裏とかに入口がないか?」

 屋根裏とか地下室とか隠し部屋とかないから。ここは普通の家庭科室だから。こいつら、実はのりのりでやっているだろ。

「おい。お前、錫はどうした? どこにいる?」

 俺はSSの一人に向かって大声で聞いた。

「錫様でございますか? それが錫様は先ほどから姿が見えないのでございます。それでその代わりに祐二隊長が指揮を執っておりますのです。抵抗勢力を武力を持って鎮圧せよとの命令も祐二隊長の命令なのでありますのです」

 ますのですってなんだよ。祐二か。あいつ本当にどうしようもないな。どうする? 祐二を呼ぶか? それとも錫か、いや、兼定か? そうだ。兼定。兼定は何をしているのだ? あいつがいるだろうにどうしてこんな事になっているのだ? まさか、あいつ、祐二との恋に溺れるあまりに祐二みたいになってしまったのか? 

「兼定さんはいないのか? あの人はどうしている?」

 俺はさっき答えたSSとは別のSSに向かって言った。あいつは、言葉遣いがあれで話が聞き取り難かったからな。

「兼定さんって誰?」

「錫の傍にいつもいる人だ。 黒づくめのリーダー」

「ああ。あの祐二隊長の恋人。あの人なら錫様と一緒にどっか行っちゃってるなあ」

 錫と一緒に行ってしまっただと。まったく祐二の馬鹿に権力だけ与えて放っておくとか何をやっているのだ。

「しょうがない。祐二を呼んでくれ」

「隊長を? あいつ、面倒臭いんだよなあ。隊長だからって凄い調子に乗ってやんの。直接話すのは嫌だなあ」

 さすがだな祐二。もう隊員にこんな事言われているぞ。

「そこを頼む。あんただってこのままじゃまずいだろう。今はいいが、錫の支配はいずれ終わる。あいつは飽きっぽいからな。そうなったらあんたらが弾圧した生徒達とどう付き合って行くのだ?」

 SS隊員の顔色が変わった。

「やっべ。そんな事全然考えてなかったわ。確かに兄ちゃまさんの言う通りだわ。子供の頃やったごっこ遊びみたいで面白くってついついのりのりでやっちまってたけど、そうだよなあ。そういや、あっち側に俺の友達とか彼女がいたわ。やっべーかな」

「今ならまだ生徒指導室送りが出ていない。実害がなければ相手側もそれほど怒らずに許してくれるはずだ」

「兄ちゃまさんはさすが錫様の兄ちゃまさんだなあ。分かった。祐二の奴呼んで来るわ」

 そう言うとそのSS隊員は駆け足で家庭科室から出て行った。物分かりのいい奴で助かった。だが兄ちゃまさんってあいつ言っていたな。錫の奴。くっそう。へたをしたら俺はこれから三年間兄ちゃまさんじゃないか。

「俺もSSやめたー」

「お前。何を言うかー」

「お前だっていいのかよ。お前の好きな佳代ちゃん、さっき俺達SSの仲間に追われて悲鳴上げながら逃げて行ったぞ」

「なんだとう。それはいかん。佳代ちゃーん」

「あいつ、行っちゃったよ。嘘なのに」

 嘘なのかよ。俺とSS隊員との会話を聞いていた他のSS隊員達が動揺し始めた。

「なんだかこのまま解決しそうですね」

 うわー。なんでー? 猫服先輩が残念そうな声を出しているー。

「このSSの一件は騒動の首謀者がとんでもない馬鹿ですからね。まだどうなるか分かりませんよ。錫と俺達との問題だってまだ何も解決してはいない。まだまだこれからです」

 残念そうな声の事には触れないでおこう。

「颯太君はやり手ですね」 

 猫服先輩。声が嬉しそうになっています。それはやっぱり俺が問題は解決していないと言ったからなのですか? そして、その裏には俺を殺す機会を伺っているという事実が転がっているからなのですか?

「俺は性格が悪いですからね。人の弱点を突くのが得意なのです」

 俺は思っている事をおくびにも出さずに言った。

「そんな事ないです」

 猫服先輩が急に力を込めて言ったので俺はびっくりしてしまった。

「急にどうしたのです?」

「颯太君は性格の悪い人じゃありません。そんな言い方をされると私は悲しくなります」

「先輩」

 こんな事を他人から言われたのは生まれて初めてじゃないだろうか。

「私みたいな人間を好きになってくれる颯太君は素敵な人です」

「先輩。それは違います。そういう風に思えるあなたこそ素敵な人なのです」

「颯太君」

「先輩」

 俺は振り向かずに正面を向きながら話をしていたので、背後に立っている猫服先輩の顔が見えてはいなかった。猫服先輩の顔が見たくなり振り向くと猫服先輩の目と俺の目が合い俺と猫服先輩はそのまま見つめ合ってしまった。

「ちょっと、あの二人、凄くなーい」

「うん。ぱないねえ」

「ナイフ喉元に突き付けながらあんな事やってるんだもんね」

「愛だわ。真実の愛なのよ」

 げげえっ。周りの反応が。いかん。これでは完全に凄まじく痛過ぎるカップル、いや、完全に頭のいっちゃっているカップルみたいじゃないか。

「先輩。先輩。このままでまずいです。周りの目があります」

「はい? 周りの目?」

 俺は頷いてから目を伏せると顔を周囲を指し示すように動かした。

「なんでしょう? 皆すっごくこっちを見てますね」

 伝わらないとは。さすが猫服先輩。

「もういいです。今俺達は明らかに油断していましたから油断は禁物だと言いたかったのです」

「そうなんですか? ああ。なるほど。周りの目があるから油断はするなって事ですね。じゃあ、ちゃんとやります」

 当たらずといえども遠からずって奴か。猫服先輩が周囲を見回すように顔を動かした。

「皆動くと颯太君を殺します。嘘じゃありませんよ」

 ちがーう。そんな事はしなくていいー。猫服先輩がぐっとナイフの刃先を俺の喉の皮膚に押し付けた。ひえええー。

「きゃああああ」

「ぱねえな」

「駄目だ。やめろ」

「やめて。殺しはいけないわ」

「愛ね。愛ゆえに殺すのね。美し過ぎるわ」

 周囲にいる生徒達が様々な反応を示し嬌声悲鳴怒号が飛び交った。

「はあはあ。猫服先輩。はあはあ。やめて下さい。はあはあ。颯太。待たせたな。はあはあ。話ってなんだ?」

 生徒達が騒ぐ中、猛ダッシュで家庭科室の中に飛び込んで来た祐二が俺と猫服先輩の傍に来ると腰を折り両膝に両手を突きながらやけに息を切らせつつ言った。

「祐二。よく来てくれた」

「おう。はあはあ。お前が呼んでるって聞いたからな。はあはあ。ダッシュで来たぜ」

「先輩。ナイフを少し離して下さい。これじゃ話辛い」

「え? 折角ナイフ越しに伝わって来る颯太君の皮膚の感触を楽しんでたのにな」

 なんて恐ろしい事を言うのだろう。猫服先輩、まさか、人を刺したり殺したりする事に快楽を覚えていたりしないよな?

「猫服先輩。はあはあ。颯太を解放して下さい。はあはあ」

 祐二がまたやけに息を切らせながら言う。

「それは駄目です。でも少しだけならしょうがないです」

 猫服先輩がナイフを少し離してくれた。

「先輩。ありがとうございます。祐二。お前何をやっているのだ。今すぐにSSの隊員達を退かせろ。こんな事をしたら反発が強くなるだけだぞ」

 祐二が膝から手を放すと、折っていた腰を伸ばして顔を上げた。

「はあはあ。それで呼んだのか? はあはあ。その事なら言う事は聞けないな。はあはあ。錫様と兼定さんの為だ。はあはあ。俺は悪にでもなんにでもなってやる」

 祐二がまたまたやけに息を切らせながら言った。まだ息切れているのかよ。

「そういう事じゃない。威圧してるだけでよかったのだ。喧嘩になったり怪我人が出たらどうする。取り返しの付かない事になるぞ」

「はあはあ。承知の上だ。はあはあ。俺が責任を取る」

 何かのアピールなのだろうか? ここまで来るとそう思えて来る。だが、もういい加減鬱陶しくなって来た。もうどれだけはあはあしても、その事に関しては何も思わないよういにしよう。

「責任? どう取る気だ?」

「はあはあ。ちょっと待ってくれ。はあはあ。今考える」

 今考えるのかい。祐二~。しばらく沈黙していた祐二がやけに大仰な動きで周囲にいる生徒達を見回しながら口を開いた。

「閃いたぞ。騎馬戦だ。錫様派と猫服先輩派に分かれて騎馬戦をやる。勝った方が負けた方に要求を飲ませる。恨みっこなしの一発勝負だ。颯太。これでどうだ?」

 はあはあ言わなくなっている。なんか寂しい。んな訳あるかー。

「あのな。それのどこが責任を取っているのだ」

 祐二って本当に馬鹿だよな。

「面白そう」

「いいじゃないの」

「騎馬戦やろうぜ」

「えー。男子はいいけど、私らは嫌よー」

「そうよそうよ」

「じゃあ棒倒しは?」

「どっちにしてもそっち系の種目じゃん」

「SSの力を見せ付けてやる」

「皇国の荒廃この一戦にあり各員一層奮励努力せよ」

 俺と祐二の会話を聞いていた周囲にいる生徒達とSSの隊員達とが騒ぎ始めた。

「颯太君。どうしましょう? 私、騎馬戦ってやった事ないんです。体育はいつもほとんど見学でしたから」

 まったく。猫服先輩まで何を言い出すのだ。

「先輩。騎馬戦なんて」

「SSの奴らを思いっ切りぶっ飛ばしてやろうぜー」

「いいなそれ。こいつら調子こいてやがるからな」

「競技中なら大手を振って仕返しできるべ」

「なんだと? お前ら我らSSに喧嘩を売る気か?」

「返り討ちにしてくれるわっ」

周囲にいる生徒達とSSの隊員達の大声での会話が俺の言葉を途中で遮った。おいおい。いくら騎馬戦が荒っぽい競技だからといってぶっ飛ばしたらまずいだろ。ん? んん? ちょっと待て。ひょっとしてこれは意外といいアイディなのか? かなり強引な気もするが、錫と猫服先輩を代表として二派に分かれている生徒達を競技というルールに乗っ取った方法で戦わせて遺恨をできるだけ残さないようにするというのはありかも知れない。それに騎馬戦をやる事でこの騒動に終止符を打てれば後に残るのは錫と俺と猫服先輩の間の問題だけになる。それはそれで厄介この上ないが今のこの状況よりは遥かにましだ。だが。祐二の意見に賛同するのは腹が立つな。こいつ、絶対に調子に乗るだろうしな。

「親衛隊の皆様。ご苦労様でした。ここはもう結構です。後はこの兼定が取り仕切りますので待機所に戻って次の指示を待って下さい。祐二。素晴らしいアイディです。話は今外で聞かせてもらいました。騎馬戦やりましょう」

 そんな言葉を大きなよく通る声で言いながら突然兼定が後ろの扉の所に現れたと思うと祐二の傍まで早足で歩いて来た。

「兼定さん来てくれたんすね。マジすか? 素晴らしいですか?」

 兼定が至極嬉しそうに微笑みながら力強く頷いた。

「はい。最高です」

「うはー。やったー。兼定さんに褒められたー」

 祐二がやけに嬉しそうに言いながら跳び上がった。

「お兄様。ちょっとよろしいですか?」

 兼定がはしゃいでいる祐二の横から離れると俺と猫服先輩の傍に来た。

「すぐに止まって下さい。そこから動いたら駄目です。颯太君をぐさっと刺します」

 猫服先輩が兼定から離れるように俺を引っ張りながら後ろにさがりつつ警戒した声を出した。

「先輩。何もそこまでしなくても」

「この人は危険です。この人の仲間の黒づくめの人達に私は一度捕まってるんです」

 そんな事あったか?

「あの時はどうもすいませんでした。ですが今は大丈夫です。お兄様と話をしたいと思っているだけですので」

 ああ。思い出した。俺が猫服先輩に刺された時の事か。

「話だけなら近付かなくてもできるはずです」

「他人には聞かれたくない話なのですが」

 兼定の奴、俺になんの話をするつもりだ?

「おお。錫様だ」

「錫様」

「錫様ばんざーい」

「相変わらずかわいいですわ」

「錫にゃーん」

 家庭科室の外がにわかに騒がしくなったと思うと錫が後ろの扉から入って来た。

「兼定。勝手な事しないで」

「お嬢様。どうしてここへ」

「そんな事はどうでもいいの。兄ちゃま。まだその女といちゃいちゃしてんだね。そんなにその女の事がいいの?」

 錫よ。この状況を見てどうしてそんな事が言えるのだ?

「お兄様、すいません。話はまた後ほど。お嬢様。少しいいですか? 話をしたい事があります」

 兼定が錫の傍に行った。

「錫は兄ちゃまと話したいんだから。早くしてよ」

「はい」

 兼定が錫に騎馬戦の事を話した。

「ふーん。でも、騎馬戦はないんじゃない」

 おお? 面白そうなどと言いながら喜ぶかと思ったが錫が否定した。だが、錫よ。この騎馬戦、なかなかの妙案だと思うぞ。

「騎馬戦は暑苦しいし痛いし男女の体力差とかが出るから駄目。その代わりにあれを使ってのバトルならやってもいいかも」

「お嬢様。あれとは、ジュゲムの事ですか?」

「もうやってもいいかなって。量産も終わってるから数も足りるしちょうどいいでしょ?」

 兼定が思案顔になり沈黙した。

「兄ちゃまはどう? やりたい?」

 むむむ。錫の奴、何をする気だ?

「何をするのかが分からん。それ教えろ」

「じゃあ、錫の傍に来て。企業秘密もあるから大きい声じゃ言えない」

「颯太君。妹さんの傍に行きたいんですか?」

 猫服先輩が脅迫するような勢いで聞いて来た。

「ぜ、全然行きたくありません」

 猫服先輩。嫉妬するならもっとかわいく嫉妬して下さいっ。それとナイフ。ナイフをぎゅっと押し付けるのをやめて下さい。

「あー。兄ちゃま~、ひどーいー」

「お嬢様。ジュゲムの件、了解しました。今から手配を始めますのでお嬢様は」

「錫はここにいるから全部お願いね」

 沈黙していた兼定が言葉を出したが錫が兼定の言葉を途中で遮るように言った。

「駄目です。お嬢様、一緒に来て下さい」

 錫が兼定を睨み唇を尖らせる。

「嫌だよ~。やっとこっちに来れたのに」

「お嬢様。今は」

 兼定がそこまで言って唐突に口を噤み少し間を空けてからまた口を開いた。

「ともかく、行きましょう。ジュゲムの使用にはお嬢様の承認印も必要です」

「そんなの勝手に押してよ。いつもやってるじゃん」

「一度もやっていません。お嬢様。一緒に来て下さい。お願いします」

「じゃあ、兄ちゃまも一緒。それなら行く」

「行きたいんですか?」

「先輩。危ないですから。ナイフが刺さりますから」

 猫服先輩。ナイフが、痛いですってば。そんなに強く押し付けたら本当に刺さりますってば。

「錫。なんでもいいから早く行け。この状況を見れば分かるだろう? お前がそこでそうしていればいるほど俺がこうしている時間が長引くのだ」

「なんですそれ? こうしているのが嫌なんですか?」

 はい。嫌ですと言いたい。

「先輩。今のはただの芝居ですよ。早く行かせた方がいいじゃないですか。そうすれば兼定もいなくなります」

 俺は錫達に聞こえないように小さな声で囁いた。

「あ。それならいいです」

 猫服先輩はちょろくて、いやいや、素直で助かるなあ。

「兄ちゃま。それはその女とすぐに離れたいって事?」

 その通りだが、そんな事を言ったら猫服先輩がどんな反応をするか分からない。

「離れたいんですか?」

 ぎええー。またナイフがぐいぐいと。

「錫。早く行け。そうしないと俺はお前の事を嫌いになるぞ」

「え~。なんで? じゃあ錫がすぐに行ったら今よりも錫の事もっともっと好きになる?」

 今よりもってなんだ。今も好きみたいじゃないか。

「今も好きなんですか?」

 猫服先輩。やっぱりそう来ましたか。

「好きじゃありません。先輩。あいつを早く行かせる為ですよ。今、俺があいつに向かって言っている事は全部さっきの芝居の続きです」

 俺はまた小さな声で囁いた。

「もう。颯太君は分かり難いです」

 ええー? そこで拗ねるのですか? 

「錫。お前は馬鹿か。いい加減にしろ。とっとと行け」

 俺が怒鳴るように言うと錫が今にも泣き出しそうな顔になりながら至極悲しそうな声で兄ちゃまと呟くように言った。

「分かった。じゃあ行く」

 錫が呟くように言った時よりも少しだけ大きな硬い声でそう言うとすぐに踵を返して歩き出した。

「ではお兄様我々は一度会社の方へ行きます。先ほどお兄様が錫様に質問なさった件はすぐに別の者に説明させますのでこのままここでお待ち下さい」

 錫の奴、なんだよ、あの顔と声は。どうせわざとなのだろうが、どうしてそういう事をするかな。

「いいんですか?」

「何がです?」

「あの言い方は酷いと思います」

 酷い、か。そう言われると確かに酷かったのかも知れない。だが相手はあの錫だからな。

「いいのです。あれはあいつの芝居です。いつもああなのです」

「そうなんですか?」

「そうなのですよ。まったく困った奴です」

 俺は錫の後ろ姿に目を向けた。錫は一度も振り返らずに家庭科室から出て行った。

「行きましたね。颯太君。これからどうします?」

 兼定はここでこのまま待っていろと言っていたなと思いながら俺は家庭科室の中を見回した。SSの連中は一人もいなくなっていたが猫服先輩派であろう生徒達は誰一人出て行かずに全員家庭科室の中に残っていた。何人かの生徒は俺と猫服先輩とに好奇に満ちた視線を向けて来ていたがそれはしょうがないのだろう。未だに俺は人質状態だし。とりあえず無視しておこう。

「颯太。俺はどうすればいいんだ?」

 突然、祐二が泣きそうになりながら俺に飛び付いて来た。

「祐二? お前、まだいたのかよ。鬱陶しい。すぐに離れろ」

「山柄君。そんなに颯太君にくっ付くと颯太君を刺しちゃいますよ」

 ひぎいぃ。猫服先輩!? 

「先輩。ナイフが、ナイフが痛いです」

「山柄君はそういう人みたいじゃないですか。颯太君に近付かれると面白くないです」

 祐二に嫉妬ですか?! 俺じゃなく祐二にナイフを突き付ければいいのにいいぃ。

「颯太。無視するなよ。俺はどうすればいいんだよ」

 祐二が顔を俺の顔に物凄く近付けて来た。

「馬鹿。近い。離れろ」

「急に何してるんですか? 本当に颯太君を刺しますよ」

 このままじゃ埒が明かない。すまん祐二。俺は祐二を突き飛ばした。

「あうっ。颯太。酷いじゃないか」

 よろけて数歩後ろにさがってから祐二がその場に崩れ落ちるようにして座り込んだ。

「そこから動くな。お前が俺の傍に来ると俺が危ないんだ」

「そうですよ。颯太君は渡しません」

 猫服先輩が前よりも病んで来ているような気がして凄く怖い。

「颯太。分かったよ。もう近付かない。けど、話だけは聞いてくれよ~」

 祐二が涙をぽたぽたと床の上に垂らしながら懇願するように言った。どうせくだらない話なのだ。聞きたくもない。

「今度は祐二もか?」

「あの佐井田って奴、どんだけモテ体質なんだ」

「エロゲーの主人公かよ」

「こんな三角関係、素敵」

「違うわよ。兼定とかいう人を入れて四角よ」

 うわ。また生徒達がおかしな事になって来ている。

「山柄君。どうしたんですか?」

 猫服先輩。どうせならここは最後まで突き放しましょうよ。

「先輩。先輩は天使だ。聞いて下さい。兼定さんが、兼定さんが俺を置いて行っちゃったんです。俺、声を掛けられるのを待ってたのに。錫様と一緒に二人だけで~。ああーん。うわーん」

 祐二が声を上げて泣き出した。くだらん。やっぱりくだらない話だったじゃないか。

「颯太君。どうしましょう?」

 え? 俺ですか? 丸投げですか? 祐二を慰めるなんてまっぴらごめんなのに。

「只今から外殻型パワーアシストスーツジュゲムとそれを使用して行われる学内対抗戦の説明を開始します」

 黒板の上にあるスピーカーからざーざーというノイズが流れ出したと思うとそれに続いて校内放送が始まった。なんだ? 何が始まったというのだ?

「はい? その前に、これを? いいんですかね? じゃあ、はい。兄ちゃま。愛してる。二人の結婚式の日取りは明日にしちゃうからね。てへっ。それで、この放送はさっき錫に聞いた事の説明だからね。ちゃんと聞いてよ。錫お嬢様から兄ちゃま様である佐井田颯太様へのメッセージでした。では説明を始めます」

 錫。錫よお。何をやっているのだ。命の危機だよ。死の足音がすぐそこまで迫って来ているよ。

「颯太君? 結婚式ってどういう事です?」

 ぶひひいぃぃー。猫服先輩が物凄く怖いよー。本気の本気だよ~。

「颯太~。頼れるのはお前だけなんだよ~。俺と兼定さんをどうにかしてくれよ~」

「きゃああああ」

「結婚って年齢的に無理じゃね?」

「愛ね。愛なのね」

「おい。今の放送、外殻型パワーアシストスーツジュゲムとか言ってなかったか? まさか、まさか、あのジュゲムなのかあああ?」

 さようなら。世界。さようなら。俺は喉元に食い込むナイフの感触に慄きながらゆっくりと目を閉じたのだった。

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