柏の想い出
文字数 4,291文字
風に樹上の落ち葉が擦 れて、かさかさと音を立てている。
巣穴の外で、子供たちがざわついて、跳ねまわっている気配がした。彼が来てくれたのだ。きっとなにか、獲物を持って。
今年の伴侶 はとても優しくて、子供たちが生まれてからそろそろふた月にもなろうというのに、まだときどき、私たちに食べものを届けてくれる。
だけど、それももうすぐ終わりだろう。彼は旅立たねばならないのだ。巡りくる、次の季節のために。
私が巣穴の外に出ていくと、子供たちが大騒ぎしながら、何かの毛皮を振り回していた。今年の子たちは、丸のままの獲物を、まだ上手く食べられない。手伝い役の上の娘が、ちゃっかりお相伴にあずかりながらも、弟妹達が食べやすいようにと噛み砕いてやっている。
傍らで静かに見守っていた彼が、ふと振り向いた。一声鳴く。おいで、と。
(おいでよ、一緒に食べよう)
柔らかな木洩れ日が一瞬だけ揺らぎ、幽かな声が聴こえた気がした。
陽炎のように立ちのぼる、甘い果実の想い出。
穏やかで、あたたかい眼差しと、差し出されたすべすべの手。柏の葉の、爽やかな香りに包まれて。
私たちの住む山の神様は、定められた眷属を持たず、自分の治める土地になわばりを持つ獣たちに必要の都度頼み込み、お当番やお勤めをさせたりする方だった。
山仕事だったり神宴の準備や接待だったり、お勤めはその時によっていろいろだけど、その最中だけは他のいきもの(主にヒト)の姿に変えてもらえたり、ほんの少しだけ、知恵を持たせてもらえたりする。短い獣の一生のこと、当てられた獣たちは少々面倒そうなそぶりも見せつつ、けっこう楽しそうに、お役をこなしていたように思う。
そう、あれは二~三年前の、初夏のことだったろうか。私たちホンドギツネ一家にも、お当番が廻って来た。
「『貴人の窟 』近くにある柏の木の群落へ行き、その葉を集め、丁寧に洗い清めて、山神の社に届ける由。まずはお勤め役を社に寄越すように」というお達しが、遣いの者(迷惑そうな顔をしたカラスだった。通りすがりに便利に使われたのかもしれない)から伝えられたのだ。
とはいえ、オス(父)はすでに旅立っており、弟妹はまだ幼くて、お勤めに出られそうなのは、手伝い役として一家に残された年長の娘、つまり私だけ。
よんどころなくお社に出かけ、おずおずと御前に出た私に、山の神様は言った。
「ふむ、随分と細くて小さな狐っこだが……まあよかろうよ。ヒトの姿なら、そう時間はかかるまい。道中、怪我のないように」
そう言って、山の神様が私に触れると、私はヒトの子の姿になった。頭の黒い長い毛が艶々としているけれど、他の部分には毛が全然ない。
「おう、なかなか可愛らしゅうなったな。里で流行りの着物でも着せてやろう」
山の神様がもう一度、私に触れた。あっという間に、私はヒトみたいに、着物を着た姿になった。
(わあ、これが流行りの着物なのか。たまに麓近くで見かけるヒトは、『洋服』を着ている気がするけど、あれは流行遅れなのかな)
その時はそんな風に考えていたが、たぶん、山の神様は長生きが過ぎて、里の記憶が曖昧になっていたんだろう、と今は思う。
「柏の葉は神饌 の皿に使う。大きくて、形の整った艶のあるものが、二十重 ほど入用 だ。その前掛けの隠しに入れて、持ち運ぶがいい。桶はここに置いておくから、裏の沢の水を使って、丁寧によく洗うこと。終わったら、社の扉の前に置きなさい。手間賃と引き換えてやろう。……覚えられたか」
「はい!」
体を動かすための知恵を、既に付けてもらっていたのだろう、すっとヒトの声が出た。山の神様のおっしゃることも、すらすらと覚えられる。
「いってまいります!」
私は何だか無性に嬉しくなって、ぴょこんとお辞儀をすると、すぐに山道に出た。
「これ、キツネ、くれぐれも窟の主に失礼を……まあ、大丈夫かね、近頃は……」
後ろで山の神様がまだ何か仰っていたのに、気が昂 っていた私は、良く聞きもしないで駆け出してしまったのだった。
『貴人の窟』は、山のお社よりも上の方にあって、普通のヒトは近寄れないようになっている、という。獣たちも、別段用事の無い限り、あまり近づかない。ホンドキツネのメスは、一家の縄張りから外れて行動することはほとんどないから、私には特に、縁のない場所だった。もちろん、行くのは初めてだ。ちょっとわくわくする。
柏の群落は、すぐに見つかった。
「大きくて、艶があって、形の整った、葉っぱ……二十枚くらい……」
せっかくのヒトの手足、ちょっとだけ木を登ってみる。楽しい。がさがさと採った中から、綺麗な葉っぱを選 っていくのも、楽しい。楽しくて楽しくて、あっという間に前掛けの隠し?(たぶんこの、袋みたいなところのことだろう)がいっぱいになった。
巣穴にも何枚か持って帰ろうかな。そう思って、隠しに入れ残った葉っぱを陽の光にかざした時、突然、後ろから声がした。
「やあ、たくさんとれたね。柏餅でも作るのかな?」
ヒトの声だ! 足音、聴こえなかった。でも何で? どうしよう。
私は泣きそうになりながら、あわてて木の陰に隠れた。どっどっどっ、と音がする。ヒトの心臓はうるさい。
「あっ、ごめん、脅かしてしまったのか。君は……うん、キツネ?」
そっと木の影から覗いてみる。ヒトのオス……男だ。頭に、艶々した黒い毛が生えているけど、あまり長くない。『洋服』は着ておらず、私の着物とちょっと似通った感じのものを着ていた。
(私の正体も分ってるし、ここにいるってことは、神様なのかな? 窟の主、さまかな? でも、女のヒトの姿だって聞いていたけど。どうしよう。私、もしかして、罰を受けるのかな。食べられちゃう、のかな。そんなこと、ないよね……)
ぐるぐるぐるぐる考えながら、私は木の影を出て、男のヒトの前に立った。
「私、あの、山の神様のおつかいで、お皿の葉っぱを……窟の主さま、あの、私……」
男のヒトはそんな私の様子を見て、ふふ、と笑った。
「ああ、いや、笑ったりしてごめん。迂闊に話しかけて、君を驚かせた僕が悪いのに。……本当に、君を咎めたわけじゃないんだ。ここの葉っぱは、もともと、『この山に棲むものなら』、だれでも、好きなだけ、持って行っていいことになっているんだから。それに、僕は主さまじゃないしね」
「主さまではないの? では、誰?」
「……」
男のヒトは答えない。ただ、少し首をかしげて、微笑んだだけだった。
「ここへはね、散歩の途中で寄ったんだよ。ほら、ここの大きな岩で、お八つにしようと思って」
確かに、木洩れ日がふんわりと当たっているその岩は、温かくて気持ちよさそうだった。男のヒトはおもむろにそこへ腰掛けると、懐から、なにか紙の包みのようなものを取り出した。
「脅かしたお詫びに、一緒にどうかな。今年、杏がたくさん実を付けてね、試しに干してみたんだ。色はちょっと悪いけど、けっこう美味しくできていると思うよ」
そう言って広げた紙の包みの中には、橙色のような、黒っぽいような、何か干からびたものがいっぱい入っている。でも、腐ってはいなくて、ほんのりとだけど、うっとりとする甘い匂いがした。熟した梅の実のような。
鼻をひくひくさせている私を見て、男のヒトはまた笑った。
「おいでよ。ここにおいで。一緒に食べよう」
膝に紙包みを載せ、右手で自分の隣を指し示す。差し伸べられた左手は、大きくてすらっとしていて、(ヒトだから当たり前だけど)ほとんど毛が生えていなくて、つるりと白くて、日に輝いて……とても美しかった。
ヒトの顔って、のっぺりしていてぼこぼこしていてヒゲ全然なくて、変なところに毛が残ってて、歯が平らで、なんか面白いな。
温かな岩に並んで腰掛けて、『ほしあんず』を口に運ぶ男のヒトをまじまじと見ながら、そんなことを思う。
恐る恐る、自分も口に含んでみた。濃い甘さ。酸っぱさ。噛んでいるうちに、ゆっくりほつれていく果肉。からだいっぱいに広がる良い匂い。ああ、ヒトはこんなふうに味わうんだなあ。おいしい、ってこういうことなんだ。
夢中になっていくつも食べていると、不意に前掛けから、ふうっ、と、柏の葉の香りが立ちのぼった。あ、そうだ、私、帰らなくちゃ。山の神様にこれをお届けしなきゃ。
「手間賃」ってなんだろう。この時期は、鮎かも。それとも大きな岩魚 かも。妹も弟も、お母さんも、きっと喜ぶ。
つと男のヒトを見上げると、向こうもこちらを見ていた。にっこりと笑う。穏やかな眼差し。
私の頭を撫でようとしたのだろうか、少しこちらに手を伸ばしかけ、一旦止め、最後の杏をつまむと、私の掌にそっと載せた。
私がそれを口に入れるのを見届けると、空になった紙包みを懐にしまって、男のヒトは立ち上がった。
「そろそろ行くかい? 僕は違う方向だから、送ってはあげられないけど……。気を付けて帰ってね」
このヒトはどこに帰るのだろう。このヒトの家はどこなのだろう。私と一緒に道を下りるわけではないようだけど、この道を登った先には、窟しかないのに。やっぱり窟の主さまなのかな。
「元気でね」
男のヒトは、手を振って見送ってくれた。道を下っていく私が見えなくなるまで、振り返る私から見えなくなるまで、ずっと。
その年。巣立った私は、すぐに母となった。子供は毎年生まれる。私にお勤めの当番が廻って来ることは、もうないだろう。
元気でね、と手を振ったあの人。二度と会うことはないと、あの人は知っていたんだろうか。
獣としてキツネとして、ひとつところでただ必死に生きる、ヒトからみれば短い一生。だけど、一分の隙もないほど濃密に詰まったこの時間は、きっと、私たちだけのもの。
あの人の時間と、ふたたび重なり合うことはなくても。
元気でね、と、そう願うだけ。
物思いにふける私の頬を、傍らの彼がぺろりと舐めた。誰よりも立派なふさふさの尻尾が、ぎゅっと絡まってくる。
(また来るよ。季節が巡ったら、必ずまた来る)
私も、彼の口を舐め返した。
(ええ、また来てね。私も必ず、あなたを選ぶ)
夏が過ぎて、秋になったら、子供たちは巣立っていく。手伝い役の上の娘は、この冬には、新たな一家の母になることだろう。
私は、この彼とまた、巡り合うことができるだろうか。
私たちの速さで時は巡る。私たちの生命は、なめらかに繋がっていく。そこに「絶対」は、無いけれど。
だからこそ、そう願うだけ。
元気でね、と。
黙って寄り添う私たちを、子供たちが不思議そうに見上げていた。
巣穴の外で、子供たちがざわついて、跳ねまわっている気配がした。彼が来てくれたのだ。きっとなにか、獲物を持って。
今年の
だけど、それももうすぐ終わりだろう。彼は旅立たねばならないのだ。巡りくる、次の季節のために。
私が巣穴の外に出ていくと、子供たちが大騒ぎしながら、何かの毛皮を振り回していた。今年の子たちは、丸のままの獲物を、まだ上手く食べられない。手伝い役の上の娘が、ちゃっかりお相伴にあずかりながらも、弟妹達が食べやすいようにと噛み砕いてやっている。
傍らで静かに見守っていた彼が、ふと振り向いた。一声鳴く。おいで、と。
(おいでよ、一緒に食べよう)
柔らかな木洩れ日が一瞬だけ揺らぎ、幽かな声が聴こえた気がした。
陽炎のように立ちのぼる、甘い果実の想い出。
穏やかで、あたたかい眼差しと、差し出されたすべすべの手。柏の葉の、爽やかな香りに包まれて。
私たちの住む山の神様は、定められた眷属を持たず、自分の治める土地になわばりを持つ獣たちに必要の都度頼み込み、お当番やお勤めをさせたりする方だった。
山仕事だったり神宴の準備や接待だったり、お勤めはその時によっていろいろだけど、その最中だけは他のいきもの(主にヒト)の姿に変えてもらえたり、ほんの少しだけ、知恵を持たせてもらえたりする。短い獣の一生のこと、当てられた獣たちは少々面倒そうなそぶりも見せつつ、けっこう楽しそうに、お役をこなしていたように思う。
そう、あれは二~三年前の、初夏のことだったろうか。私たちホンドギツネ一家にも、お当番が廻って来た。
「『貴人の
とはいえ、オス(父)はすでに旅立っており、弟妹はまだ幼くて、お勤めに出られそうなのは、手伝い役として一家に残された年長の娘、つまり私だけ。
よんどころなくお社に出かけ、おずおずと御前に出た私に、山の神様は言った。
「ふむ、随分と細くて小さな狐っこだが……まあよかろうよ。ヒトの姿なら、そう時間はかかるまい。道中、怪我のないように」
そう言って、山の神様が私に触れると、私はヒトの子の姿になった。頭の黒い長い毛が艶々としているけれど、他の部分には毛が全然ない。
「おう、なかなか可愛らしゅうなったな。里で流行りの着物でも着せてやろう」
山の神様がもう一度、私に触れた。あっという間に、私はヒトみたいに、着物を着た姿になった。
(わあ、これが流行りの着物なのか。たまに麓近くで見かけるヒトは、『洋服』を着ている気がするけど、あれは流行遅れなのかな)
その時はそんな風に考えていたが、たぶん、山の神様は長生きが過ぎて、里の記憶が曖昧になっていたんだろう、と今は思う。
「柏の葉は
「はい!」
体を動かすための知恵を、既に付けてもらっていたのだろう、すっとヒトの声が出た。山の神様のおっしゃることも、すらすらと覚えられる。
「いってまいります!」
私は何だか無性に嬉しくなって、ぴょこんとお辞儀をすると、すぐに山道に出た。
「これ、キツネ、くれぐれも窟の主に失礼を……まあ、大丈夫かね、近頃は……」
後ろで山の神様がまだ何か仰っていたのに、気が
『貴人の窟』は、山のお社よりも上の方にあって、普通のヒトは近寄れないようになっている、という。獣たちも、別段用事の無い限り、あまり近づかない。ホンドキツネのメスは、一家の縄張りから外れて行動することはほとんどないから、私には特に、縁のない場所だった。もちろん、行くのは初めてだ。ちょっとわくわくする。
柏の群落は、すぐに見つかった。
「大きくて、艶があって、形の整った、葉っぱ……二十枚くらい……」
せっかくのヒトの手足、ちょっとだけ木を登ってみる。楽しい。がさがさと採った中から、綺麗な葉っぱを
巣穴にも何枚か持って帰ろうかな。そう思って、隠しに入れ残った葉っぱを陽の光にかざした時、突然、後ろから声がした。
「やあ、たくさんとれたね。柏餅でも作るのかな?」
ヒトの声だ! 足音、聴こえなかった。でも何で? どうしよう。
私は泣きそうになりながら、あわてて木の陰に隠れた。どっどっどっ、と音がする。ヒトの心臓はうるさい。
「あっ、ごめん、脅かしてしまったのか。君は……うん、キツネ?」
そっと木の影から覗いてみる。ヒトのオス……男だ。頭に、艶々した黒い毛が生えているけど、あまり長くない。『洋服』は着ておらず、私の着物とちょっと似通った感じのものを着ていた。
(私の正体も分ってるし、ここにいるってことは、神様なのかな? 窟の主、さまかな? でも、女のヒトの姿だって聞いていたけど。どうしよう。私、もしかして、罰を受けるのかな。食べられちゃう、のかな。そんなこと、ないよね……)
ぐるぐるぐるぐる考えながら、私は木の影を出て、男のヒトの前に立った。
「私、あの、山の神様のおつかいで、お皿の葉っぱを……窟の主さま、あの、私……」
男のヒトはそんな私の様子を見て、ふふ、と笑った。
「ああ、いや、笑ったりしてごめん。迂闊に話しかけて、君を驚かせた僕が悪いのに。……本当に、君を咎めたわけじゃないんだ。ここの葉っぱは、もともと、『この山に棲むものなら』、だれでも、好きなだけ、持って行っていいことになっているんだから。それに、僕は主さまじゃないしね」
「主さまではないの? では、誰?」
「……」
男のヒトは答えない。ただ、少し首をかしげて、微笑んだだけだった。
「ここへはね、散歩の途中で寄ったんだよ。ほら、ここの大きな岩で、お八つにしようと思って」
確かに、木洩れ日がふんわりと当たっているその岩は、温かくて気持ちよさそうだった。男のヒトはおもむろにそこへ腰掛けると、懐から、なにか紙の包みのようなものを取り出した。
「脅かしたお詫びに、一緒にどうかな。今年、杏がたくさん実を付けてね、試しに干してみたんだ。色はちょっと悪いけど、けっこう美味しくできていると思うよ」
そう言って広げた紙の包みの中には、橙色のような、黒っぽいような、何か干からびたものがいっぱい入っている。でも、腐ってはいなくて、ほんのりとだけど、うっとりとする甘い匂いがした。熟した梅の実のような。
鼻をひくひくさせている私を見て、男のヒトはまた笑った。
「おいでよ。ここにおいで。一緒に食べよう」
膝に紙包みを載せ、右手で自分の隣を指し示す。差し伸べられた左手は、大きくてすらっとしていて、(ヒトだから当たり前だけど)ほとんど毛が生えていなくて、つるりと白くて、日に輝いて……とても美しかった。
ヒトの顔って、のっぺりしていてぼこぼこしていてヒゲ全然なくて、変なところに毛が残ってて、歯が平らで、なんか面白いな。
温かな岩に並んで腰掛けて、『ほしあんず』を口に運ぶ男のヒトをまじまじと見ながら、そんなことを思う。
恐る恐る、自分も口に含んでみた。濃い甘さ。酸っぱさ。噛んでいるうちに、ゆっくりほつれていく果肉。からだいっぱいに広がる良い匂い。ああ、ヒトはこんなふうに味わうんだなあ。おいしい、ってこういうことなんだ。
夢中になっていくつも食べていると、不意に前掛けから、ふうっ、と、柏の葉の香りが立ちのぼった。あ、そうだ、私、帰らなくちゃ。山の神様にこれをお届けしなきゃ。
「手間賃」ってなんだろう。この時期は、鮎かも。それとも大きな
つと男のヒトを見上げると、向こうもこちらを見ていた。にっこりと笑う。穏やかな眼差し。
私の頭を撫でようとしたのだろうか、少しこちらに手を伸ばしかけ、一旦止め、最後の杏をつまむと、私の掌にそっと載せた。
私がそれを口に入れるのを見届けると、空になった紙包みを懐にしまって、男のヒトは立ち上がった。
「そろそろ行くかい? 僕は違う方向だから、送ってはあげられないけど……。気を付けて帰ってね」
このヒトはどこに帰るのだろう。このヒトの家はどこなのだろう。私と一緒に道を下りるわけではないようだけど、この道を登った先には、窟しかないのに。やっぱり窟の主さまなのかな。
「元気でね」
男のヒトは、手を振って見送ってくれた。道を下っていく私が見えなくなるまで、振り返る私から見えなくなるまで、ずっと。
その年。巣立った私は、すぐに母となった。子供は毎年生まれる。私にお勤めの当番が廻って来ることは、もうないだろう。
元気でね、と手を振ったあの人。二度と会うことはないと、あの人は知っていたんだろうか。
獣としてキツネとして、ひとつところでただ必死に生きる、ヒトからみれば短い一生。だけど、一分の隙もないほど濃密に詰まったこの時間は、きっと、私たちだけのもの。
あの人の時間と、ふたたび重なり合うことはなくても。
元気でね、と、そう願うだけ。
物思いにふける私の頬を、傍らの彼がぺろりと舐めた。誰よりも立派なふさふさの尻尾が、ぎゅっと絡まってくる。
(また来るよ。季節が巡ったら、必ずまた来る)
私も、彼の口を舐め返した。
(ええ、また来てね。私も必ず、あなたを選ぶ)
夏が過ぎて、秋になったら、子供たちは巣立っていく。手伝い役の上の娘は、この冬には、新たな一家の母になることだろう。
私は、この彼とまた、巡り合うことができるだろうか。
私たちの速さで時は巡る。私たちの生命は、なめらかに繋がっていく。そこに「絶対」は、無いけれど。
だからこそ、そう願うだけ。
元気でね、と。
黙って寄り添う私たちを、子供たちが不思議そうに見上げていた。