干し杏の君
文字数 2,525文字
「姫、そろそろお八つにいたしましょうか」
とある山中、鬼が棲まうと言われている『貴人の窟』、その中ほどに立つ屋敷の一室。
青年は、手に、何か橙色のものが沢山積まれた皿を持っている。甘いような酸いような果実の匂いが、ふっと香った。
「おや、今日も干し杏だな。この時分にはよく出る」
「すみません、そろそろ去年の分を食べきってしまおうと思いまして」
姫は少し顔を上げ、丸窓の向こうの庭に目をやった。築山の隣に、大人の背丈位に伸びた杏の木が数本、仲良く並んでいる。その枝からは、丸みを帯びた薄紅の花びらが盛んに散っていた。
「今年は少し遅いようだ」
「ええ、結実に影響がないといいのですが」
「ふん。おまえの丹精が、実を結ばぬわけが無かろうよ」
「ありがとうございます」
よいしょ、と姿に似合わぬ掛け声をかけながら、姫が立ち上がった。ううん、と伸びをする。
「どれ、
「はいはい」
「返事は重ねるな。ついでにおまえも喰ってやろうか」
「日が落ちてからになさいませ」
「ふん」
青年の手際で、瞬く間に、庭に面した縁側に
「杯は二つだぞ」
「おや。では、ご
八つ時過ぎの柔らかい陽光の中、静かに杯が重ねられてゆく。杏の木の根元に積もった花弁が、風に寄せられて、星のように散らばったり、川のように伸びたりしていた。
少し酔いが回ったのか、普段は聞き役なのであろう青年が、ぽつりぽつりと自分から話し始めた。
「先日、山を登ってくる時、狐の一家に会いました」
「麓近くのか。あの一族は
「僕も見かけたことがあるんです。すぐそこの、柏の群落で。大正時代から来たような、女の子の姿でした。ぱっと見た感じでは狐と気付けなくて、つい声をかけたら、驚かせてしまって……なだめるのが大変でした。でも、そんな様子も可愛かったな」
「ほう、これはこれは。狐にまで手を出すとは、お盛んだの」
姫が、可憐な容貌に似つかわぬ
「なにやら
「おう。通じぬやつだな。これは冗談とかいうものだ、知らんのか」
「
「そんなわけは無かろう」
姫は、まあまあ、とばかりに、青年の杯に酒を注いでやった。
「おまえの
「ああ、そうだ。干し杏です。その時、姫が食べ残した干し杏がちょうど
「ははあ、おまえがこれを、いっとう初めに作った時か。儂があまり口にしなかったもので、おまえは
「拗ねたりはしておりません。自分では、上手くできたと思っていたのです。あとから考えてみれば、確かにまだまだでした」
「うん、あまり旨くは無かった。いまと比べればな」
青年の返杯を受けつつ、干し杏をつまみ、口に放りこむ。一見無雑作だが、その実、一粒一粒を噛み締めるように味わっているのが見て取れる。この、食べきってしまうのが惜しい、という仕草を引き出すまでに、青年もさんざんに試行錯誤しており、足かけ数年を要しているのだ。
「それでも、あの子は喜んで、最後の一個まで、夢中で食べてくれたんです。きっとずいぶんと色も悪くて、香りも十分でないものだったのに」
「狐のような山の獣は、何でも喰わねば生きていけぬからの」
「ならば余計に、美味しくできたのを食べさせてあげたかった」
青年は杯を置き、干し杏をひとつ掌にのせ、うつむいた。
「けれど、あの一家には、もう彼女は居ませんでした」
「そうでもあろうよ。代替わりしてもう孫か、曾孫か、そのあたりだろう」
「ええ。あまりに、短い、と」
ふわりとあたたかな風が吹き、はらはらと花びらが舞う。姫は、杏の木立ちのほうに目線を向けたまま、杯を傾けた。
「憐れむなよ。時の流れは一様ではない」
「はい」
そのあとは二人とも押し黙り、残りの酒をただ酌み交わしていた。
(足繁く通ってくるようになったこの男。かわゆいものだ、だが、
(何れは僕にも寿命がくる。そうしたら、姫はまた)
口に出さずとも痛いほど理解している互いの想いを、だからこそ、胸に秘めて。
酒盛りからの
「
「おうおう、このまま帰らぬでも良いぞ。儂と此処で……」
「良いのですか」
「……
「姫」
「おまえはヒトの世でヒトとして生き、ヒトとして去ぬがいい。いままでどおり、儂のもとへは、ときおり通え。それ以上は、許さぬ」
「……」
「だが、そうだな、長逗留くらいは許そうよ」
さっと御簾が上がり、
「ああ」
「今更に、何を隠すこともなかろうて」
「いえ、開けておけと言っておいて下されば」
すっ、と姫の手が伸び、弓張の月に照らしだされた青年の、端正に整った顔に触れた。
「月明りも良いものよな。ここに床を延べよ」
「はいはい」
「返事は重ねるな。喰ってやろうか」
「存分に」
『貴人の窟』に鬼ありという。名は伝わらず。姿よく変わりて、その屋敷、心得なき者には見えず。
この鬼に通うものありて、この縁末永くあるべしとて、折節に花木を植え、その庭いまや果樹園のごときなり。
昨今、某山中に桃源郷ありというは、この園のことなりや、と。
貴人の窟にて 一 終