第3話

文字数 2,050文字

 今日は朝から雨が降っていた。ウィンスタンはいつものように書斎に閉じこもって、会計の帳簿とにらめっこしながら、請求書の山と格闘していた。昼近くになるとさすがに目が疲れてきたので、天井を仰いで目頭を指で押さえた。
(あいつ、やっぱり本気じゃなかったんだな)
 トーレンスがウィンスタンの秘書を雇うと宣言してから一週間、連絡は一切なかった。しかし彼を恨む気持ちはなかった。自分のことは自分で始末しなければ。いくら親友と言っても他人に甘えることはできないのだ。
 コンコン。ノックの音がしたあとにドアが開く。
「だんな様、奥様がお呼びです」
 執事がうやうやしく用件を告げた。
「あとで行くと言ってくれ。今は忙しいんだ」
 忙しくないときなんてあるのだろうか。彼はそう思いながらも答えた。
「はあ、ですが……」いつもならば簡単に引き下がる執事が、今回は抵抗してさらに続けた。「奥様にお客様がいらっしゃいまして、だんな様にも応接室においでくださるようにと」
 母の客なのになぜ自分が? お悔やみなら、ひととおり済ませたはずだが。それとも遠方から来た大事な客なのか……? ウィンスタンは頭をひねったが、心当たりがまったく思い浮かばない。
「わかった、すぐ行こう。そういうことならしかたがない」
 執事の後について、階下にある応接室へと向かった。



 執事が応接室のドアを開けるのを待って中へ入いると、ウィンスタンの母親レディ・エクトールと、その隣に妹のテレサがソファにすわっていた。テーブルを挟んだ反対側には、トーレンスがすました顔でなごやかに談笑している。
(なんだ、トーレンスだったのか) 
 客と聞いてあわててやって来たものの、その相手が彼だと知って拍子抜けした。
 しかし、その後ろで物静かに立っている女性に気づいた。チョコレート色の髪を頭の上で丸くまとめ、清潔な襟が高いブラウスに、床を引きずらない程度の長さのスカートを身に着けていた。簡素な身なりからトーレンスが連れて来たメイドだとすぐにわかったが、彼女の足元に旅行用のかばんが置いてあったことが気になった。
「ウィンスタン、来たわね」
 母が待ちかねたように声をかけて、頬を差し出す。
 ウィンスタンはハッとして母に目をやると、彼女の頬にキスをした。
「母上もご機嫌麗しく」
 レディ・エクトールが満足そうにうなずいたので、今度はトーレンスに挨拶を述べた。
「トーレンス、君らしくないな。ぼくじゃなく母を訪ねるなんて」
 気を取り直して、右手を差しだした。
 トーレンスは立ち上がって、彼の右手をぎゅっと握り返した。
「約束しただろ? 君の秘書を雇うって。だから連れてきたんだ。君の母君や妹君にも会わせたくてね」と、続けて自分の後ろに立つ女性を紹介した。「彼女はヴィッキー、ヴィクトリア・ワース。ぼくが雇った君の秘書さ」
 ウィンスタンは驚いて、どしんとソファに尻もちをついてしまった。
「ウソだろ? 女性じゃないか? オレはベッドの相手を探してるんじゃないんだぞ」
 思わず余計なことまで口走ってしまった。それを聞いてテレサは頬を赤らめ、レディ・エクトールはこちらをにらんだ。
「もちろん、そのつもりだ。彼女は速記だって暗算だってなんだってできる。男顔負けの仕事ができるんだ。なんてたって自由の国アメリカから来たからね」
 トーレンスが得意げに話したので、ウィンスタンはまた彼女を見つめてしまった。
 彼女はウィンスタンたちを直視しないよう、向こう側の壁を凝視していた。こちらの会話が聞こえているはずなのに、まったく表情に変化がない。頭がいいだけではなく、礼儀も心得ているらしい。それによく見ると、鼻の上のそばかすがチャーミングだった。
「よかったわね、お兄様。いい方が見つかって」妹のテレサが沈黙を破った。「これでゆっくりお休みになれるわ」兄に向かって、にっこり微笑む。
「いや、しかし受け入れるわけには……」
 ウィンスタンがこの女性を連れ歩く姿を見て、世間はふたりの仲を疑うだろう。純粋に秘書として見るはずもない。そう言いかけようとしたのを、レディ・エクトールがさえぎった。
「ウィンスタン、鏡で自分の顔をよくご覧なさい! まるで死人のようですよ」
「そうですわ、お兄様。このままではご病気になってしまいますわ」
 テレサも詰めよる。
 トーレンスは、それを見て笑いをかみ殺していた。本当は今すぐにでも、廊下に走りでて大笑いしたいにちがいない。ウィンスタンは、あとで覚えてろ! と思った。
「私は賛成ですよ、ウィンスタン。女性だからといって甘く見てはいけません」
 レディ・エクトールは息子にきっぱり言ってから、ヴィクトリアに向き直った。「こんな息子で面倒をかけますが、よろしく頼みます」
「はい、奥様」
 彼女ははじめて口を開き、ウィンスタンを見た。
「よろしくお願いいたします、だんな様」
「あ、ああ、こちらこそ……」
 アーモンドのような、形のいい瞳に見つめられて、彼はなんとなく落ち着かない気持ちになってしまった。

つづく

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