第4話

文字数 1,822文字

 ヴィクトリアがエクトール家へ来てから三ヶ月後、状況は見る見るうちにいい方向へと向かった。トーレンスが言っていたことは嘘ではなかった。彼女は請求書と財務の一覧表を整理し銀行に通って、弁護士か会計士のように黙々と働いたのだった。
 そのおかげでウィンスタンは椅子ではなく、ベッドの上で眠ることができるようになった。顔色も健康的になり、家族とともに食卓を囲む余裕まで持てるようになった。
 それに比例して、彼女はエクトール家の人々の信頼を得ていった。



 卵とベーコンの朝食と食後の紅茶を楽しんだ後、ウィンスタンは仕事のために書斎へ向かった。いつもどおりならヴィクトリアが先に来て、昨日届いた手紙――そのほとんどはパーティか何かしらの招待状だったが――を整理しているはずだった。
 書斎のドアを開けて、中に一歩踏み出そうと右足を出しかけたとき、「あっ、お待ちください!」とヴィクトリアの制止する声が飛んできた。しかし、遅かった。すでにウィンスタンは花屋から届いた請求書を踏みつけていたのだ。
「申し訳ございません、だんな様。わたくしの不注意で……!」
 ヴィクトリアがあわてて謝罪しようとした。
「ああ、いいんだ。べつにかまわないさ。どうせ請求書なんだから」
 ウィンスタンは、笑いがこみあげてきた。
「それより、君はそこからどうやって動くんだい?」
 こらえきれず、とうとう吹き出してしまった。
 椅子やテーブル、床の上など書斎のいたる場所に、きちんと仕分けされて整理された書類が並べられていた。その真ん中で彼女は困った顔をして立っていたのである。彼女の周辺も書類でいっぱいだった。それを踏まなければ一歩も動けそうにない。
「はい、助けて下さる親切なお方をお待ちしておりました……!」
 ヴィクトリアが耳まで真っ赤にしてそう言ったので、ウィンスタンは彼女を助けることにした。
「では、その親切なお方とやらに、おれがなってやろう」
 彼の足元にある書類を、破かないように靴のつま先でそっと動かして道をつくった。そして紳士らしく彼女の手をとって、こちら側に導いた。
「ありがとうございます、だんな様」
 彼女はスカートの裾を持ち上げ、礼儀正しく言った。そのとき、ほっそりした足首が一瞬目に入った。彼はあわてて彼女から視線をはずした。
「さあ、仕事にとりかかろう」
 そう取り繕いながら、ウィンスタンは床の上の請求書を拾い上げた。
「これは、どうすればいいんだ?」
「支払い先別にまとめて、帳簿に記入します。わたくしがいたしますので、だんな様は手紙のご返事の下書きをなさってください」
 ヴィクトリアは、すっかり平静を取り戻していた。
「返事?」
「左様でございます。だんな様が出席されたほうが良い、パーティの招待状を奥様がお選びになりました。そろそろ社交界の場にもお顔を出さなければ、とおっしゃいまして」
「パーティか……、面倒だな。金がかかるし、いっそのこと断ってしまおうか」
 ウィンスタンは深いため息をついた。社交界でのつきあいがあまり好きではなかったので、そういう集まりにはできることなら参加したくなかった。サー・エクトールが亡くなった折には、喪中ということもあって行かなくてすんだが、これからはそうもいかない。妹のテレサのことも考えてやらねばならなかった。
 彼の返答をヴィクトリアは静かに待っていた。
「下書きを書くから、今日中に清書しておいてくれ。あとテレサのドレスも注文するから、仕立て屋を呼んでほしい」
「かしこまりました」
 彼女は一礼して、さっそく仕事に取り組み始めた。
 ウィンスタンは請求書を踏まないようにゆっくり歩いて席につくと、机の上にあった招待状の封を開いて中身を確かめた。ある手紙に気づいて手が止まった。親友トーレンスの家、ヘンリクセン侯爵家からの招待状だった。
 彼はヴィクトリアのうしろ姿を見た。彼女はエクトール家に住み込みで働いているが、実際はトーレンスに雇われていた。ウィンスタンが健康を取り戻して、エクトール家が立ち直ることができたのも、トーレンスが彼女を連れてきてくれたおかげである。ぜひ出席しなければならなかった。
 彼は下書き用の便箋を一枚取り出すと、ペンにインクをつけて書き出そうとした。しかし先程垣間見た、細くて白い足首が頭の中をちらついて、なかなかペン先に集中することができない。彼はあきらめて、失敗した便箋をくちゃくちゃにまるめて、くずかごに投げ捨てた。

つづく
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