第3話

文字数 20,212文字


 *

 鶴見は自宅の書斎で原稿を書いていた。
 出版社から「総説を書いてほしい」と依頼を受け、研究と現場の合間に書いていたがまだ三分の二しか書けていない。締め切りが過ぎ、電話で「後一カ月待ってほしい」と頼んだものの必要な文献や資料は教授室に置いてあるからペンがなかなか進まない。これも、自宅待機などとくだらない処分を受けたせいだ。自分は何も悪くないのに患者家族の言い分だけを聞いて無実の自分を処分したセンター長に腹が立つ。
 教授秘書が一日二回、必要な資料や一日の報告を持って来てくれるおかげで大した支障はないが、矢野聡史の状態がどうなっているか逐一知りたいのに遠野からかかってくる電話は一日一回きりだ。
 〈矢野聡史君は臓器提供の意思があるそうです。ご家族はまだ迷っておられます〉という重大な報告を受けてから携帯が手離せなくなった。遠野から連絡は来ず、今朝秘書が持ってきた報告書にも矢野聡史の件は書かれていなかった。
 ――あれからどうなったんだ。
 現場が忙しいのは分かるが大事な仕事を後回しにしてほしくない。それを除けば仕事中にも頻繁にかかってくる電話に出ることもない。回診だの会議だのと時間を割かれることもない、理想的な仕事環境だった。
 窓から漏れる光が原稿に当たり、ブラインドを下ろす。原稿の脇に置いた携帯を手に取り、医局に電話をかけた。
 〈はい、脳神経外科医局秘書の峰岸です〉
「峰岸君か、鶴見だ。遠野先生を出してくれ」
 〈遠野先生はまだ戻られていません〉
「仕事中にどこに行っとるんだ。しょうがない。戻ってきたら私のところに連絡するよう伝えておいてくれ」
 〈承知しました〉
 鶴見はブツッと携帯を切った。イライラしながら待つこと五分、携帯が鳴る。
 〈遠野です〉
「おおっ、遠野先生。矢野君はどうなった。その後進展はあったのか」
 鶴見は携帯を耳に押し当てる。
 〈今日、矢野夫妻が移植コーディネーターの河原さんから説明を受け、『脳死判定承諾書』と『臓器摘出承諾書』に署名しました。脳死判定委員会が開かれ判定医を選定中です〉
「でかした!」
 鶴見は叫び、膝をバンッと叩く。
「でかしたっ。やったな、遠野先生っ。遠野先生、遠野先生。 ……聞いているか」
 〈……すみません。……耳が……痛くて……〉
「おおっ、すまんな。それで、佐藤先生は近くにいるか」
 〈佐藤先生ですか。はい、少々お待ち下さい。……あ、……いえ、……それが……ええと……〉
「いるのかいないのか、どっちなんだ」
 〈…………佐藤先生は……会議中です……〉
「まったく、人使いが荒い病院だな。佐藤先生も大変だ」
 自分の仕事が佐藤に流れているとは露知らず、勝手なことを言う。
「佐藤先生と打ち合わせがしたい。会議が終わったら連絡をくれるように遠野先生から伝えておいてくれ」
 〈……わかりました〉
「くれぐれもよろしく伝えてくれよ。これから忙しくなるぞ。しっかり体調に気をつけるんだぞ」
 鶴見は通話を切り、「こうしちゃおれん」とセンター長に電話をする。もちろん自宅待機を解いてもらうためだ。
 電話の向こうでセンター長は〈まだ早すぎます〉と粘ったが、「矢野聡史君が脳死判定を受けるのにわしがいないと格好がつかん」と鶴見が押し切った。
 自宅待機が解除され、次にするのは……。
 机の上の原稿をどけ、早速計画を練る。でき上がった計画案を佐藤教授の部屋にFAXし、会議を終えた佐藤教授と電話で打ち合わせをするためだ。
 鶴見は燃えていた。高揚していた。ペン先を叩きつけるようにして計画案を書き綴った。

「鶴見先生は喜んでいただろう」
 PHSを切った遠野は、肘付椅子に腰かけ面白がる佐藤を恨めしそうに見た。
「出なくて、よかったんですか。鶴見先生、話したがっていましたよ」
 〈佐藤先生は会議中です〉というのは、“取り次ぐな”とばかりにそっぽを向き、ひらひらと手を振る佐藤に、仕方なくついた遠野の嘘だ。嘘をつくのは好きじゃない。
 〈嘘をついたら地獄の鬼に舌を引っこ抜かれるよ〉と亡くなった祖母から散々言い聞かされた。それを信じる年でもないが三つ子の魂百までとはよく言ったもので、遠野は嘘がつけない大人になってしまった。
 気をつけないとうっかり白状してしまいそうだ。
 ――……ばれたら医局に居づらくなる。
 佐藤から「手術が終わったら矢野聡史君に関して話があるから私の部屋に来てほしい」とPHSに留守録があり、遠野は手術終了後に佐藤の部屋を訪れていた。そこに医局秘書の峰岸から電話がかかってきたのだ。後でかけ直すつもりだったが、「どうぞ」という佐藤の好意に甘えてしまった。
 峰岸から伝言を聞き、“佐藤先生と矢野聡史君に関する話をしているからちょうどいい”とかけ直した。……それが、佐藤先生は鶴見先生とは話したくないようだ。
 思い悩む遠野を、「気にするな」と佐藤は機嫌よく慰める。
「鶴見先生の用件は察しがつく。臓器保全の準備をしろ。臓器受け入れ病院を手配しろ、判定医の名前を教えろ、日時が決まったら真っ先に教えろ、だ」
「……よく、ご存知ですね。どうしてわかるんですか」
「いつものことだ」とさらりと言う。
 居留守を使うほど鶴見先生は嫌われているのかと思うと鶴見先生が気の毒になる。確かに鶴見先生にも非はある。佐藤先生には聡史君の父親との件で多大な迷惑をかけた。それ以前にもいろいろと迷惑をかけているようだ。
 鶴見先生は研究や医療に関しては知識があるけれど、医局間のいざこざ、要するに派閥や仕事の分担など、そういう細かな事柄はまるっきり分かっていない。気にもしていない。だからわがままを言ってもそれが周囲にどう影響するか知らない。悪気はないのだ。それなのに、ここまで避けられると佐藤先生が狭量のようにすら思えてくる。
 ――……もっと折り合ってくれないかな……。
 遠野は佐藤を尊敬していた。初めは皮肉屋でとっつきにくいイメージしかわかなかったけれど、医師としての見識、豊富な知識と確かな技術、冷静な判断力、論理的な説明、治療に対する真摯な姿勢を見るにつけ、佐藤に対する印象は百八十度変わった。
 だから上司である鶴見と尊敬する佐藤の仲を取り持とうと頑張っているのに、佐藤は鶴見を避けていた。その証拠に鶴見への連絡事項は全て遠野がしていた。
「鶴見先生も悪い人ではないんです。あまり冷たくしないであげて下さい」とお願いした。
 佐藤は心外そうに両手の平を見せる。
「誤解しているようだけど、私はそれほど鶴見先生を嫌っていないよ。私は嫌いになった人間は存在しないものとして徹底的に無視するからね。鶴見先生はわがままで無責任で疫病神だと思うけど、裏工作をするような狡さはないし、人を陥れるような陰湿さもない。職場が別だったら付き合いやすい(扱いやすい)人間だと思うかもしれないな」
 ――それは、初耳だ。
「……じゃあ、どうして避けるんですか」
「脳死患者の扱い方が私と鶴見先生とでは違うからさ。脳死は人の死であり、臓器移植は必要との点ではお互い意見が一致しているのに、脳死から臓器移植までの過程を私はドナー側に立って考え、鶴見先生はレシピエント側に立って考える。
 鶴見先生は欧米式のやり方がしみついているからか、脳死=臓器移植と考える。向こうは個人主義が徹底しているうえ、『脳死は人の死』という考えが普及している。特にアメリカは入院費用が一日百万円以上かかる国だ。助かる見込みがない者を入院させるほど経済的に余裕がない、というのが家族の本音かもしれないな。
 その点、欧米と違い日本は国民皆保険で、安価な医療費で誰もが病院にかかれる。なにより、故人の死を親類縁者で悼む文化がある。個人より家族の意識が強いんだ。脳死が人の死と割り切れないのはそのせいだろう。家族の心情を無視し臓器提供を口にすれば争いになるのは目に見えている。
 それがどうして、あのご高名な鶴見先生には理解できないようだ、トラブルを起こしたのは二度や三度ではない。だからせめて、第三者による脳死判定が終わるまで鶴見先生には引っ込んでいてもらいたいと、私が思っても不思議じゃないだろう」
「はい」とも「いいえ」とも答えようがない。言いたい放題だ。医局長やセンター長は、理事長でさえ鶴見先生に頭が上がらないのに、佐藤先生は平気そうだ。ぼくが鶴見先生に告げ口するとは思わないんだろうか。それとも鶴見先生に知られても構わないのか。信用されているのかいないのか、さっぱり分からない。
 〈佐藤先生って新人時代、教授と喧嘩して病院追い出されたんですって〉
 〈うそっ。あの大人しそうな佐藤先生が〉
 〈患者さんのお父様がその病院に長年勤務していたから情報は確かよ。教授の方にいろいろ問題があったらしくって、佐藤先生が公衆の面前で批判したとかで大ごとになったみたい……。うちの前理事長が「気骨がある」って気に入ってこっちに引っぱってきたそうよ〉
 〈へー。前の理事長、変わってるって評判だったものね〉
 看護師が話していた噂だ。その時は聞き流していたけれど、“佐藤先生は決して大人しくない”と知った今は真実だと思える。
「雑談はここまでにして、本題に入ろう」
 まだ、続きがあったようだ。
 佐藤は秘書机の椅子を指さし、遠野に座るよう促す。深刻な話だろうか、浮かない顔だ。
「……なんでしょうか」
 遠野は椅子を佐藤に近づけ座面の前の方に尻をのせ、前のめりになる。
 佐藤は腕を組み、思案しているようだ、指を肘のあたりでトントンと叩く。
「矢野聡史の父親が脳死判定承諾書と臓器摘出承諾書に署名したこと、脳死判定委員会が開かれ判定医と判定日時を決めていることはさっき言った」
「……はい、ぼくのPHSにも河原さんから留守録が入っていました」
 遠野は意を決したように両の手で両膝をグッとつかんで切り出す。
「でもっ、おかしいと思います。昨日あれほど悩んでいたのにコーディネーターの話を聞いて数時間も経たないうちに署名するなんて考えられません。本心からとは思えません」
 なぜか、佐藤が渋面になる。
「……続きがある。河原さんが脳死判定委員会から脳死判定医二名と日時の連絡を受けている最中に矢野夫妻がいなくなったそうだ」
「……は……」
「昼食に行くと出て行ったきり小会議室に戻ってこなかったらしい。携帯と自宅に電話をしても繋がらないそうだ」
 遠野はどう理解していいか分からず、話の続きを待つ。
 佐藤は小さく息を吐いてから、続けた。

 佐藤は矢野聡史の状態を確認し集中治療室を出たところで、右に左に首をふりながら廊下を早足で歩いてくる河原に会った。河原は佐藤と目が合うやいなや、跳びつかんばかりに駆け寄る。
 佐藤はとっさに避けた。
「佐藤先生っ、矢野夫妻は治療室にいますか」
「いえ、私が治療室にいる間は看護師以外誰も入ってきていません」
 河原は顔だけ突っ込んで治療室を覗き、「困ったなぁ。どこに行ったんだろう」と呟き、佐藤に向き直る。
「矢野夫妻に『脳死判定委員会が開かれていますから判定医と判定日時が決まるまでもうしばらくお待ちください』とお願いしていたんですが、お昼に出かけたきり戻ってこないんです。携帯とご自宅にお電話をしたのですが繋がらなくて……」
「いなくなった」
「そうなんです! 判定医と日時が決まり、本日十三時から判定を行いますとお伝えしようとした矢先にいなくなってしまったものですから困り果ててしまいまして。立ち会いを希望されていますからどうしても連絡をお取りしたいんです……」
 佐藤は口元に手を当て難しい表情になる。河原は困惑した様子でぽつりと本音をこぼす。
「……提供しないにしても、はっきりと意思表示していただかないと私も対処できないんです……」
 佐藤は河原の横顔を眺め答える。
「……わかりました。見かけたら河原さんが会いたがっていたことを伝えておきます」
「是非、お願いします。こちらから連絡を差し上げますとお伝えいただければ……。お手数をおかけしますがよろしくお願いします。それでは日時を変更し、改めてご連絡させていただきます」
 河原は佐藤の時間を割いたことを二度、三度謝り、立ち去った。

「……ということだ。もうじき河原さんから判定日時の連絡が来る。このままだと判定は矢野夫妻抜きで行うことになる」
「……中止にはならないんですか」
「承諾書がある。家族が拒否を表明しない限り判定は行われる」
 遠野は押し黙った。
 署名された承諾書二枚があれば家族の立ち会いなしでも脳死判定が行える。脳死が確定されれば死亡時刻を告げられ、生者から死者へと切り替わる、――家族不在のまま。
 遠野は両膝を握り強い口調で約束した。
「矢野夫妻に会ったらぼくの方から話をしてみます」
「よろしく頼む。……私も看護師に矢野夫妻を見かけた時は教えてほしいと頼んである」
「はい」
 力を込めて返事をした遠野は、しかし、一度視線を逸らしてから、そっと佐藤を窺う。
 佐藤先生の様子が変だ。考えに耽るように半眼のまま動かない。いつもならこう言うだろう。
「承諾書に署名したんだ、提供の意思はあるんだろう。途中でいなくなったうえ連絡も取れないなら判定はそっちでやってくれという意思表示だ。立ち会うつもりがあるなら向こうから連絡してくる」と。
 こうやって経緯を詳しく説明し、歯切れ悪く黙るのは何か思うところがあるのだろうか。とはいえ、聞くのもためらわれる。
「……以上だ」
 席を立とうとした遠野に「待ちたまえ」と佐藤がすぐ横のドアを開け隣の医局に入って行く。
 医学部研究棟の教授室と医局はドア一つで繋がっている。医局員が教授室を訪れる時は廊下側の入り口からノックして入るが、教授はそのまま壁際のドアを開けて医局に入るのが慣習になっている。
 佐藤は袋を一つ遠野に持たせた。
「弁当だ。秘書に買いに行ってもらった。まだ食べていないんだろう。持って行きたまえ」
「あ、お金払います」
「いい。呼びつけた手間賃だ」
「……ありがとうございます。では、遠慮なくいただきます」
 遠野は弁当を片手に一礼し退室した。

 佐藤は秘書が淹れてくれた紅茶とサンドイッチで遅めの昼食をすませ、脳死判定臓器移植マニュアルに目を通す。覚えるため、というより考え事をするためだ。
 ――……面倒なことになった。
 脳死判定は人工呼吸器を十分間外す無呼吸テストが含まれ、六時間空けて二回行う。要するに、無呼吸テストを二回行うということだ。体に与える負荷は軽くない。判定をきっかけに心停止に陥る恐れは十分にある。心臓が停まれば血流も停まり臓器は急速に劣化する。そうなる前に脳死が確定すれば速やかに判定記録書、証明書を作成し、死亡宣告をする。
 家族がいるのに脳死判定後の書類作成時に家族の署名がないのは致命的だった。
 佐藤には矢野夫妻に移植コーディネーターの説明を受けるよう遠野をけしかけた後ろめたさがあった。
 本音を言うと、今までの夫妻の頑なな態度から臓器提供はないだろうとふんでいた。それでもセンターのマニュアルに沿えば、患者本人が提供意思を示し患者家族に明確な拒否の意思がない場合はコーディネーターを紹介することになっている。心停止後に『臓器提供をしたいからコーディネータを紹介してくれ』と言われても困るのだ。遠野もそれは心得ているはずだ。しかし、もっと矢野夫妻の様子を観察してから話してもよかったかもしれない。
 矢野聡史の父親に法的脳死判定を勧めたことも悔やまれる。
 あの時はこちらの見立てに懐疑的な夫妻を説得するつもりで提案した。臓器提供を持ちかけたわけではない。例外は作りたくなかったから向こうが言い出すまで黙っていた。
 臓器提供が絡むと、検査機関は臓器が適合するか、感染症はないかを検査し、臓器受け入れ病院は重症度や待機日数を勘案したレシピエントを選定し、摘出チームの派遣、移植チームの編成と移植手術の準備に取りかかる。臓器搬送のために救急車両もしくはドクターヘリを待機させておく必要もある。
 レシピエントや家族にも準備があるだろう。移植を受けるだけでなく中止になった時のレシピエント側の心身の負担、移植により死期が早まることもある。
 どの手術にも言えるが絶対の安全はない。ましてや己と違う臓器を体内に入れるのだ。拒絶反応、ショック症状、何が起こってもおかしくない。
 臓器を新鮮な状態で他人に移植するには大勢の人間を巻き込んで速さと効率が要求される。特に矢野聡史の臓器は日が経ちすぎている。状態がいいとは言いきれない。
 ドナー家族の意思が曖昧なままでは迅速な行動など無きに等しい。
 ――……こうなることが一番困るから前もって忠告したんだ……。
 自分が思うより遥かに矢野夫妻の、特に矢野隆史の精神状態は悪かったらしい。周りの忠告を聞かず拙速に判断するほどに……。
 佐藤は不本意ながら厄介ごとの種をまいてしまった負い目を感じ、ふり回されている河原に心の中で詫びた。

 *

 鶴見は自宅のリビングで革張のソファに身を沈め、ジャズを聴きながらウィスキーの水割りをたしなんでいた。一人であげる祝杯だ。さっき作った計画案を読み直し、我ながら完璧だと笑みをたたえる。
 心臓はキソ医院、肝臓はフジ総合病院、肺はチョウホ病院、腎臓はカクバ医療センター、角膜は……、全臓器の振り分け先だ。
 計画案通り進むわけはないがもし提供先を迷うことがあれば助言するつもりだ。どれも教え子や知人、友人が病院長を務める医療機関だ。
 常日頃から、「ドナーがいなくて今日も一人息を引き取った」との嘆きを聞いていた。その度に「ドナーが出てくればそちらに臓器が回るよう推してやる」と慰めていた。
 臓器移植にこぎつけるまでどれだけ無駄な時間を費やせばいいのか。ずっと抱いていた憤懣もこれで幾分か和らぐというものだ。
 ジャズの軽快なリズムに酔いしれる。クリスタルの盃を高く掲げ、金色に輝く液体に見ほれる。
 こうしているとアメリカで勤務していた昔に戻ったようだ。
 オペが成功した、論文が通ったと、同僚たちと近くのジャズバーで安物の酒で乾杯した。
 思えばあの頃が一番充実していた。もう三十年になる。
 アメリカの最先端の技術と知識を吸収し日本の移植医療の発展に貢献したいと、移植大国アメリカに情熱だけでのりこんだ。
「ヒデ(鶴見のニックネーム)、日本では年間どれ位心臓移植が行われているんだ」
「なぜ日本人は自国で移植しない。我が国だって臓器が足りないんだ」
「どうしてあんなに重症になってから来るんだ。もっと早く来れば助かったのに……」
「日本人は臓器を金で買っていると言われているのを知っているのか」
 同僚の質問は耳が痛いものばかりだった。
 日本ではまだ明確な法律がなく、臓器移植を受けたい患者は海外へ渡航する例がほとんどだった。
 海外の判定基準を基にようやく日本独自の脳死判定基準が設けられたものの、病院、医師ごとに脳死の捉え方、判定基準の解釈が異なり、移植後に殺人罪で訴えられる事件が続発した。無論、臓器移植法は制定されていない。
 鶴見が答えに窮するうちに同僚たちは何も聞かなくなった。
 代わりに、「ヒデ、我が医療センターの知識と技術をしっかり覚えて日本に持って帰れ」と励ますようになった。
 鶴見は医学部時代の優秀な成績と大学院時代の研究成果が認められ、主任教授から高く評価されていた。鶴見が研究に携わりながら臨床医としても働いていた頃、主任教授は友人であり共同研究者でもあるアメリカ有数の移植医療センター長に鶴見を推薦したのである。
「ドクター、急患です」
 スタッフが飛び出し、鶴見も後を追う。検査室に運び込まれた患者を見、「うおっ」と鶴見は顔を背けた。
「銃を手入れ中に暴発したそうです。前頭部の欠損及び右眼球が破裂しています」
 スタッフの言うとおり、血まみれの額は抉り取られたように変形し、右眼窩いっぱいに血が溢れ出していた。
「深昏睡、左瞳孔散大、対光反射なし、呼吸停止、人工呼吸器装着します」
「ドナーカードは」
「イエスです」
「よし、判定だ」
 鶴見は仰天し、同僚の肩をつかんだ。
「家族の承諾は。脳死判定医は呼ばないのか」
 同僚スタッフがこんな時になんの冗談だと言いたげに鶴見を見る。
「本人の意思だけでOKだ。家族は関係ない。判定はうちの脳神経外科医がすれば十分だ」
 ――……信じられん。
 鶴見は度肝を抜かれた。
 同僚が付け加える。
「フランスは拒否の意思を示していなかったらカード無しでもドナーにされる。もちろん家族の承諾なんて必要ない。日本は違うのか」
 手術室に駆けて行く同僚の後ろを鶴見は転びそうになりながら追いかけた。
 まだ序の口だった。
 鶴見が日本で所属していた病院では、脳死判定法を独自に設けていた。その判定法は今現在日本で採用されている判定法よりチェック項目が二つ少ないものの当時の日本においては、否、世界においても最も厳格な部類に入っていたと言える。
 日本の病院で行っていた判定では周囲のノイズさえ拾ってしまうほど脳波計の感度をあげていたのに、ここでは脳波測定の感度が低い。移植と無関係の判定医を呼ぶのではなく担当医が判定し、無呼吸テストは最後にしなければならないのに手順にもこだわらないようだった。
 二回目の脳死判定は短縮され、そして「脳死」の判定が出た。
 すぐさま慌ただしくなる。
 後から到着した患者家族にスタッフは脳死であることを告げ、臓器提供を促す。承諾を得るというより〈本人にはドナー意思があります〉という報告に近かった。
 家族の承諾を受け、職員が臓器受け入れ病院に連絡し、その間に家族には患者と対面する時間がもうけられた。臓器摘出手術の準備が着々と進められる。臓器を保存するために冷却液をカテーテルで患者の体内に注入し、モルヒネを打つ。
「死体になぜ麻酔を打つんだ」と質問したら「臓器摘出時に脈拍と血圧が上昇するからだ」と教えられた。「それは、死体が痛みを感じているということか」と問い質すと、「ありえない」と笑われた。「それならなぜ脳死者が手術中の患者と同じ反応をするんだ」と食い下がっても「摘出すれば反応なんてなくなっているさ」と一蹴された。
 警察の検死が終わるのを待ち構えたように他病院から派遣された医療スタッフが代わる代わる臓器を受け取りに現れる。
 到着した各医療機関の移植チームは、切り開かれた遺体から目当ての臓器を切り出しクーラーボックスにしまい、立ち去る。
 拍動する心臓、肺、肝臓、膵臓、腎臓、リンパ節……、移植に使える臓器は全て摘出された。その後は組織バンクのスタッフが現れ、皮膚、骨、腱、筋膜……、利用できる組織を全て取り出す。
 鶴見はベッドに横たわる遺体をスタッフの背後から覗く。大きく切り開かれた胸の中は雑多な物は残っていたものの、がらん洞であった。役に立ちそうなものは全て取り除かれていた。おそらく眼球も無事だったなら角膜も切り取られていたに違いない。
 同僚たちスタッフは黙々と空洞が目立つ遺体に合成樹脂でできたパイプを注ぎ修復する。
 朝、救急で運び込まれた患者が一枚のドナーカードと二人の担当医によって脳死判定され、夕方には空洞になる。
 鶴見は脳天をぶち抜かれるほどの衝撃を受けた。体から力が抜け、へなへなと尻をつく。スタッフは患者だった遺体の修復にかかりきりで鶴見の様子に気づかない。鶴見は床を這いずるようにオペ室を出た。
 これだけなら鶴見が移植医療に没頭することはなかった。逆に、アメリカと日本の脳死患者の取り扱い方に乗り越えられぬ壁を感じただろう。
 臓器摘出から一週間もすると、レシピエント(臓器受容者)本人や家族から感謝の手紙やメールが病院宛に届いた。移植前と思われるチューブだらけでベッドに横たわる写真を添え、〈院内を歩いています〉という文面もあれば、レシピエント本人らしき人物が家族に囲まれ笑顔で写った写真も届けられた。移動に十時間かけて直接会いにくるレシピエントもいた。支えもなく自分の足で歩き医療スタッフとハグを交わす。
 涙を流し言葉を詰まらせ、
「ドナーと、あなた方医療スタッフのおかげで私は命を受け取りました。そうでなければ私は今ここにいないでしょう」
 と礼を述べるその姿に、鶴見は不覚にも落涙した。
 移植医療のすごさを目の当たりにした瞬間だった。
「あの日運び込まれたドナーのおかげで十五人のレシピエントに臓器と組織を移植できた」と同僚は誇らしげに語った。
 ドナー家族とレシピエントとその家族の交流会に招待されたこともあった。
 自分のドナーが誰か、レシピエントは誰なのか、この場所にいるのかいないのか、お互いに何も知らされぬまま交流会は開かれたが、終始、温かい雰囲気に包まれた。
 大統領から送られたメッセージが読み上げられ、レシピエントとその家族は命を与えてくれた亡きドナーとドナー家族に限りない感謝と生きていることの喜びを涙ながらに語る。
 ドナー家族は「亡き息子(娘)の分まで人生を謳歌して下さい」と彼らを祝福し、激励する。
 移植に関わった医療スタッフたちは己の仕事にやりがいと誇りを感じ、双方に心からの拍手を送るのだった。
 センターのニュースレター(定期刊行誌)にはその時の写真が掲載され、また一年間に行った移植件数が公開された。他の医療機関も競うように実績を公表した。
 初めに抱いた強烈な違和感は彼らの称賛と祝福の前に霧散した。
 事実、アメリカの移植医療システムは迅速で、効率的で、完璧だった。あの三年間は鶴見にとってまことに充実した幸福な日々であった。
 任期を終え帰国しても鶴見はアメリカの合理的なシステムが忘れられず、恩師である主任教授の下で数年間働いた後、再びアメリカを訪れ勤務医として働いた。
 臓器によって生着率(レシピエントの体内で移植した臓器が定着し機能する確率)は違う。二〇〇三年の全米臓器移植機構の統計によれば、心臓の生着率は十年で約四十五パーセント。
 脳死患者から受け継いだ臓器を可能な限り活用できるよう、将来的には一人の脳死患者の臓器でレシピエントが一生を全うできるよう、鶴見は研究と医療に邁進した。
 鶴見は移植不適合臓器及び組織を活用し、アメリカの大手薬品会社と新しい免疫抑制剤を共同開発した。
 鶴見は脳死臓器移植分野で国際的にその名を知られることになり、移植医療センターの主任教授に抜擢される。
 日本ではようやく一九九七年に臓器移植法が施行され、『臓器提供する場合に限り脳死は人の死である』と曖昧な基準が設けられ、『患者本人が書面で提供の意思を表わしていなければ家族の承諾があっても臓器提供はできない』、『十五歳未満の子どもは臓器提供できない』と定められた。
 臓器移植法の下、臓器移植が行われてもなお専門家の間では「脳死は人の死か」と激論が続いたくらいだから、一般人はなおさら「脳死って何。植物状態とどう違うの」と首を傾げ、臓器移植は夢のまた夢と感じたことだろう。
 藤和大学理事長から「鶴見教授のアメリカで培ったノウハウを日本の移植医療に役立ててほしい」と声がかかったのもこの頃だ。
 鶴見は母国の移植医療発展のため己の知識と経験を役立てたいと決意し、帰国の途に就いた。

 鶴見が帰国を後悔するのに時間はかからなかった。
 移植医療に必要な最先端の設備と人材の確保、効率的なシステムを提示しても賛同は得られず、逆に「患者の治療をないがしろにするのか」と糾弾された。
 『脳死は人の死である』という認識が医療従事者の間で統一されていない現実に、鶴見は愕然とした。
 大学の講義で脳死は全脳死、植物状態は大脳、小脳は死んでいるが脳幹が生きている状態を指すと説明しても、卒業間際まで混同している医学部学生が何人もいた。
 植物状態を脳死状態と勘違いし判定を依頼してくる医師もいた。脳が壊死し溶けているにも関わらず薬剤を駆使し「百日生きた」、「二百日生きた」と喜ぶ医師に戦慄した。
 学会で講演し、臓器移植の有用性をとくとくと説いても、テレビに出て、臓器が不足し死んでいく患者がどれほどいるか、臓器欲しさに世界中で臓器売買、人身取引、医師による殺人もあるほどだと訴えても反響は薄く、「鶴見先生、あまり声高に言っていると変人扱いされますよ」とテレビを見た同僚に忠告を受ける始末だった。
 日本では臓器移植は遠い世界の話で、タブー視されているようにさえ感じた。
 そうかと思えば、講演終了後、臓器移植を待ち望む患者家族から心の内を聞かされることもあった。
「鶴見先生のお話、身を切られる思いで聞いておりました。私の娘は拡張型心筋症で余命六カ月と診断されました。まだ四歳です。心臓を移植するしか助かる道はないと、医師に言われました」
 母親は口元を覆い、ぼろぼろと涙をこぼす。
「日本で十五歳未満の子どもが臓器提供を受けるのは、今の法律では不可能と言われました。海外で移植手術を受けるためには一億円かかると。そんなお金、ありません。集める時間もありません。私の心臓で娘が助かるなら……、何度も思いました。でも、私の心臓では大きすぎるんです。娘の小さな体には入らないんです」
 涙が頬を伝うにまかせ、ハンカチを握りしめ気丈に話し続ける。
「他人様の臓器をあてにするなんて浅ましいと思われても仕方ありません。でも、娘を助けてほしい。どんなになじられようと、蔑まれようと、殺されてもいい。心臓がほしいんです。娘を助ける、心臓が」
 母親は泣き腫らした目を鶴見にひたと向け、唇を引き結んだ。頭を下げ、走り去る母親に、鶴見は圧倒され、立ち尽くした。あの母親の姿が今でも目に焼きついている。挫折しそうになる度に母親の幻影が立ちはだかる。
 臓器を必要とする患者がいることを、移植を切望する患者家族がいることを忘れないで、と。
 日本の移植医療は遅れていると嘆いていてもしかたがない。
 鶴見は日本全国の移植医と連携し、移植医療発展に力を注いだ。そして、鶴見は幾度となく日本の移植医療の現実を目の当たりにすることになる。
 脳死下での臓器提供が限られ、心停止後や生体間の臓器提供も不足している状況では、心臓や肺、肝臓移植が間に合わず待機中にほとんどの患者が亡くなっていた。
 その現状に耐えきれず、ある移植待機患者はかかりつけ医に黙って海外で臓器移植をし、帰国後、外来に飛び込んできた時は危険な状態だった。提供先の病院とは連絡がつかず、移植医は手術の経過、投与された薬、ドナーの情報も分からないまま治療していた。
 ある女性患者は幼少期から人工透析を行っていた。
「私は物心ついてからずっと運動も食事も制限されてきました。学校もろくに行けず、友達もいない。このまま死ぬくらいなら、一度でいい、おもいっきり走って、好きな物を好きなだけ食べたい……」とぽつりと呟く。
 肺不全に陥った患者は酸素吸入器を口に当てながら息も絶え絶えに訴える。
「こんなに辛いなら死んだ方がましだ。移植でも何でもいい、助けてくれ」
 待機患者の誰もが移植手術を切望していた。
 ドナーが現れ、家族が承諾しても、「目なんかとったらあの世で目が見えなくなる」とまぜっかえす親族がいた。
 脳死が確定しても、「治療を続けて下さい。……治療を……」とまとわりつく家族に辟易した。
「心臓が停まった後なら腎臓を提供します」と承諾するドナー家族がいたが、ドナーが心停止に至り臓器摘出に取りかかろうとすると、「まだ温かい。可哀そうだからもう少し待ってくれ」と嘆願された。
「これ以上待っていたら臓器が使えなくなります」と説得しても、「もう少し、もう少しだけ待ってくれ」の一点張りだった。
 あるドナー家族は、「腎臓を新鮮に保ちたいから保存液を注入したい」と申し出ると、「心臓が止まってからにしてくれ」と言う。
「臓器を新鮮に保つために今必要です」と頼むと、「それなら断る」と切り捨てられた。
 〈臓器を提供してやるんだ、心臓が停まるまで待っていろ〉と言わんばかりだった。
 移植医の方でもトラブルはあった。
 生体肝移植を行う前日に、「私は提供したくないのに、義理の母に頼まれて……」、「親族会議で決まって、仕方なく」と提供者から相談されたとか。その時はやむを得ず移植を断念したと、移植医は嘆息していた。
 母親から息子への生体肝移植が成功し移植医と喜んだのも束の間、「母親が寝たきりになった」と訴訟されたこともある。
「臓器を切り取るのだ、それなりのリスクはある、説明もした」と弁明しても聞き入れられず、法外な慰謝料をふっかけられ、結局示談に持ち込んだ。
 道のりは平坦ではなかった。
 邪魔され、批判され、覆され、辛酸をなめさせられた。時折届く臓器移植を切望する患者家族からの手紙、〈移植を終え、元気に過ごしています〉という元レシピエントからの感謝の手紙を支えに、今まで歩み続けてこられた。

 鶴見が苦労を重ねる間に、世界だけでなく、日本にも変化があった。
 臓器は世界的に不足し、貧困国や子どもなど社会的弱者を標的にした臓器売買、臓器摘出を目的にした人身売買、「移植ツーリズム」を代表する渡航移植が横行していた。
 二〇〇八年国際移植学会は『渡航移植の規制強化と臓器提供の自給自足』を宣言(イスタンブール宣言)し、世界保健機関(WHO)も『渡航移植原則禁止』を勧告した。
 WHOの移植担当理事は、日本国内の臓器提供者数が先進国の水準から大きく立ち遅れていることを指摘し、「他国への渡航移植は臓器売買を助長する。日本は自国内で臓器提供を増やすべきである」と提言した。
 欧州各国で自国の臓器は自国で賄う臓器の囲い込みが始まり、移植を求めて渡航してくる外国人患者を制限し始めた。
 そして二〇一〇年、日本は臓器確保のため、世界に倣い脳死患者による臓器移植医療が行えるよう法律を改正、施行した(『改正臓器移植法』)。
 改正臓器移植法により、『脳死は一律人の死である』、『本人の意思が不明であっても、遺族(家族)が書面で承諾すれば臓器提供が可能』になり、『十五歳未満の子どもからでも臓器提供が可能』と定められた。
 国や地方は国民に移植医療の啓発を行い臓器提供に理解を求めるべく、運転免許証や被保険者証等に臓器提供意思の有無を記載する欄を設けた。
 鶴見自身、臓器移植に対する理解が広まりつつあると感じている。

 そして今、新たなドナーが現れた。
 矢野聡史、十八歳。健康な若い臓器を持つ脳死患者だ。切迫脳死の目安になる尿崩症になってから七日、いまだに心臓は元気に動き続けている。胸を切り開いてみなければ分からないが移植に最適と思われる。
 ――……脳死者一人の臓器で何人の人間が救われることか。
 遅かれ早かれ死ぬだけの脳死者一人のために貴重な集中治療室のベッドを使い続けるより臓器提供してもらう方がよっぽど有益だ。臓器だって半永久的にもつ訳ではない。移植心臓は十年で半分以上が使い物にならなくなる。免疫抑制剤の副作用で苦しむ移植患者も大勢いる。移植医療を前進させるためにすることは山ほどあるんだ。立ち止まっている暇はない。……いずれは一度の移植でレシピエントが一生を全うできる、世界がアッと驚くような研究を発表してみせる。
 程よく酔いが回った鶴見は歌を口ずさみ、リズムに合わせて体を揺すった。

 *

 遠野は集中治療室を訪れていた。矢野聡史のベッドに、いつもいるはずの母親はいない。
 遠野は佐藤から話を聞いた後、時間をみてはちょくちょく矢野聡史がいる集中治療室を覗いた。一度、自宅の方へ電話をしてみたが繋がらなかった。面会時間を過ぎ、遠野の就業時間が過ぎても、隆史と恵美は現れなかった。
「……聡史君、体調はどうですか」
 ペンライトで瞳孔を確認し、機器類の数値をチェックしてから、矢野聡史の脇に椅子を置き座った。
「明日、午前七時から、脳死判定を受けることになりました」
 矢野聡史の手に己の手を重ねる。
 聡史君に意識があったら“気持ち悪いな”と手を払いのけられそうだと、わずかに苦笑する。母親の代わりになればと思ったのだ。いつもこうして手を重ねる母親がいなくて心細くはないかと。
 明るくつやのある肌、薄く色づいた頬、ピンク色の唇、脈打つ手首……、とても死んでいるとは思えない。
 ――……これで、よかったんだろうか。
 遠野は自問自答した。
 自分にできる精一杯をしたつもりだ。わずかな可能性にかけ、最新の治療法を駆使し、最後まで諦めず治療した。
 最善を尽くす、それが医師の本分だと信じている。
 治すための最新の医療機器もある。知識も経験も申し分ないスタッフが数多くいる。家族の承諾もある。……しかし、助けるためとはいえ、意識も反応もない患者を冷却し、チューブに繋ぎ管理し、薬漬けにし、手術した。
 治療が長引くにつれ、症状が悪化するにしたがい、違和感が渦巻く。これでいいのかと。
 〈寒かったね。ごめんね……〉
 母親の言葉が痛い。
 患者に苦痛を与え、家族の悲しみを長引かせているだけではないのかと己を責めた。
 あれほど息子の死を否定し悲しんでいたのに、毎日片時も離れず息子の手を握り話しかけていたのに、臓器提供を承諾した後母親は現れず、連絡も取れず、明日の判定を迎えようとしている。
 矢野聡史の手を軽く握る。
 ――……温かい……。
 脳死が人の死というなら、なぜ両親が現れると血圧と脈拍が上昇するのか。表情が変わるのか。涙を流すのか。
 なぜこうも、温かいのか。
 医学的には、心肺機能により身体の血液循環が保たれているため個々の臓器や器官の機能がわずかに残っているから、とされている。医師としてその説明に納得してきた。
 ……しかし……。
 遠野という一個人の感覚からすれば、あまりにも矢野聡史は死のイメージからかけ離れていた。
 眠っているようにしか見えない患者に心停止の危険を冒してまで脳死判定を行い、臓器を取り出す。
 判定の結果を告げられても矢野夫妻は信じられるだろうか。矢野聡史の体から臓器を摘出することを許せるだろうか。
 ――……本当に、これで、いいんだろうか……。
 薄闇の中、遠野は心電図が示す波形を見続けた。

 *

 隆史は布団の上で頭を抱えていた。
 スーツのまま寝ていたらしい。窓の外は真っ暗で、頭元に置いた時計は九時二十五分を指している。白い膜がかかった重い頭で懸命に記憶を手繰り寄せる。
 移植コーディネーターの河原から話を聞き、病院の中庭で恵美と話し、小会議室で承諾書に署名してから、判定医と判定日時が決まるのを待った。昼食をとりに会議室を出たまでは覚えている。それから……。
 そうだ、臓器提供することになったと親戚に連絡したら、「体を切って臓器を取り出すなんてむごすぎる。それでも親か」と罵られ、口論になった。
 気分が悪くなり携帯を切った。嫌がる恵美の腕を引っぱり、車を走らせ帰宅した。それが十三時過ぎだった。
 スーツのポケットに入れたままの携帯を開き、隆史は短く声をあげた。
 〈不在着信 六件〉と表示されていた。留守番登録は〈三〉と赤く表示され登録件数が上限に達していた。慌てて着信履歴を見る。病院からが二件、そして河原から四件……。
 病院を抜け出したことより八時間以上も寝ていた自分に驚く。狐につままれた気分だ。
 鈍重な頭をふり、隣で横たわる恵美を見る。恵美も、あれからずっと寝ているのか。恵美の鼻先に指を持って行く。温かく湿った息が指にかかり、ほっとした。生きている。
 猛烈な尿意と喉の渇きを感じ、隆史は重い腰をあげた。

 台所に行き冷蔵庫を開ける。見事に空っぽだ。調味料が扉側にあるがもちろん食べられない。食器棚の下の扉を開け、何かないかと探す。埃をかぶった賞味期限切れのカップラーメンと袋がクチャクチャになったパック入りのおかゆを見つけ、ヤカンに水を入れ、湧くのを待つ間にカップに麺とスープの素を入れる。ヤカンの注ぎ口から細い湯気が立ち上る。
 ――……八時間以上も眠っていたとは。疲れていたのか。
 恵美も一度も起きず眠り続けているのか。起こした方がいいだろうか。
 居間の柱にかけた時計を見る。十時前。今から起こしても……。赤い光が点滅している。居間にある電話の留守番登録だ。
 湯気とともに熱湯の水滴が噴き出す。ガスを止め、火傷しそうになりながらカップにお湯を注ぎ、三分待つ間に電話の再生ボタンを押した。
「〇月〇日十四時十五分 一件の再生をします」
 電話のアナウンスが流れる。
 〈何度もすみせん。河原です。携帯にも伝言を入れさせていただいたのですが判定の日時は〇月〇日午前七時から、藤和大脳神経医療センターの集中治療室で行うことでよろしいでしょうか。お忙しいところ申し訳ありませんがお返事いただきたいと存じます〉
「〇月〇日十五時五分 一件の再生をします」
 〈河原です。日程の確認をいたしたく……〉
 隆史は携帯の留守番メモを再生した。一件は病院事務からの問い合わせだった。そして残り二件は河原からだった。
 どうやら眠り込んでいた間ずっと電話をかけてくれていたらしい。悪いことをした。今さら遅いと思いつつ、河原に連絡する。
「矢野隆史です」
 〈矢野さん! いや、よかった〉河原の嬉しそうな声が届く。
「何度も連絡をいただいていたようで、すみません。ちょっと、寝ていました」
 〈ああ、いえ、いいんです。こちらこそ何度も申し訳ありません。ご自宅と携帯に入れさせてもらったんですが判定の日時のご都合はいかがでしょうか〉
「はい、明日七時からで結構です。よろしくお願いします」
 〈承知いたしました。では、明日七時に集中治療室でよろしくお願いいたします〉
「待って下さい」
 〈はい〉
「判定に立ち会いたいのですが、可能でしょうか」
 〈もちろんです。書類にも立会人の欄に矢野隆史様と恵美様二名が記載されていますから承知しております〉
「……そう、でしたか」
 まだ記憶が飛んでいるようだ、言われて思い出す。
 受話器越しに沈黙が伝わる。
「……あの、何度もご確認して誠に申し訳ないのですが、……本当に進めても、よろしいのでしょうか……。……その、止めることも」
 聞き終わらないうちに隆史は言い放った。
「判定はします、臓器提供もします。心配しないで下さい」
 〈しょ、承知しました。……それでは、明日午前七時に藤和大脳神経医療センターの集中治療室でお待ちしております〉
 河原が言い終わらないうちに電話を切った。
 何度も同じことを聞かれうんざりしていたとはいえきつく言ってしまった。と、すまなく思う一方、判定が中止になったら困るくせに、と毒づく自分がいた。
 明日か。なんとも準備のいいことだ。
 皮肉の一つでも言いたくなる。
 ――……自分はともかく、恵美を判定に立ち合わせていいのか。
 恵美を起こそうか。いや、明日のためにこのまま寝かせてやろう。
 隆史はカップ麺のフタを開け、のびきった麺をすすった。
 廊下が軋む音が近づいてくる。恵美が戸口に立ち、足をすりながら居間に入る。
 汁を飲む隆史は、妻の変容に目を見張った。
 肌は黒ずみ、目の周りはくまがくっきりと浮かび、唇は青く粉をふいている。髪は白髪が目立ち、艶やかさもない。目は虚ろで、手の甲はあかぎれが目立つ。
 眠っている間に恵美は急激に年を取っていた。
 恵美は正座し、ひび割れた唇を開く。
「……明日の判定の時間、決まったの」
「知って、いたのか」
 なぜ、と問う前に、恵美が答える。
「河原さんの電話が、うるさくて……。留守番電話に何度も同じ話を吹き込むから……」
 だったらなぜ出ない、と怒鳴りつけたかったが、無理に呑みこんだ。代わりに、「起こしてくれればよかったんだ」と不満を漏らす。
「起こしたわ。でも全然起きないから。私だって、聡史のそばにいたかったのに……」
 全身の血が逆流する。汁の残ったカップを払いのけ、ダンッ、両拳をテーブルに叩きつける。茶色の液体が飛び散り畳を汚す。
 聡史聡史聡史聡史聡史聡史聡史聡史聡史聡史聡史聡史聡史聡史聡史聡史聡史聡史聡史聡史聡史聡史聡史聡史……。
 いい加減にしてくれっ。俺はお前のことも聡史のことも考えている。親戚にも聡史の友人にも応対している。聞きたくもない説明を延々と聞かされ、くだらん手続きも山ほどしているんだ。もうたくさんだ。うんざりだ。死にたいなら死ね。聡史と一緒に逝ってしまえ。
 そう叫ばなかったのは紙切れほどの理性が働いたからか。口に出せば現実になってしまう恐れがあった。
 拳を握り、全身の震えを押さえ、歯をギリギリ噛みしめ、耐える。目から迸る激情を顔中の筋肉を絞り、押し止める。
「……いやなら、……嫌と、言ってくれ。……無理を、することはない……」
 恵美はなんの感情も表さずに、言う。
「提供はするわ。聡史の意思だもの……」
 プツリと、張りつめた糸が切れた。テーブルに突っ伏す。
 ――……もう、……だめだ……。
 なにも、考えたくない。見たくない。聞きたくない。話したくない。心を空っぽにして眠りたい。全てを放棄し、決断を他人に任せ、聡史が遺した意思に引きずられるままその時が来るのを待ちたい。
 なぜ、親に一言もなく決めてしまったんだ。どれほどの思いで提供に応じたんだ。強固な意志によってか、一時の感情ではないのか。提供せずに終わればお前は私たちを恨むのか。悔やむのか。心残りで逝けぬか。
 気が狂うほど何度も何度も問いかけた。決意し、立ち止まり、思い直し、打ち消し、考え、悩み、慟哭し、決断し、想像し、立ちすくむ……。
 一体何度繰り返しただろう。もう、終わりにしたい。木偶となって地中深く埋もれたい。肉塊となって海の底に沈みたい。明日という日を待ちわびる、――絶望を抱いて。

 翌朝四時、隆史は顔を洗い、洗面台に映る己の顔を見た。
 恵美に劣らぬほど老け込んだ自分がいた。黒ずんだ顔、あれほど寝たのに大きなくまが目の下にくっきりとできている。白髪が目立ち、眉毛や無精ひげにも白い毛がまじる。人は心の持ちようでこうも変わるものなのか。
 隆史は髭を剃り、顔を洗い直した。
 〈明日は早く行きたい〉
 五時になるのを待ってから恵美を起こし、着替えを手伝う。恵美は足元が頼りなく、隆史が服の裾を軽く引っぱるだけでよろけた。
 朝食は途中のコンビニで買い、車の中ですませた。
「今日は大事な用があるので休みます」
 会社への連絡はメールですませた。職場の人間にどう思われるのかが怖くて、臓器提供のことは言えなかった。
 病院の玄関脇で朝六時になるのを待ち、まだ人気もない病棟に二人で向かった。

 恵美と隆史は当番の看護師に挨拶し、白い服を着、マスクと帽子をつけ、集中治療室に入った。遠野がいた。とっさに隆史は顔を伏せた。
「おはようございます」
 隆史は挨拶を返す代わりに、頭を小さく下げる。恵美は深く礼をする。
「大丈夫でしたか。昨日は突然いなくなったとお聞きし、何かあったのかと……」
 隆史は答えなかった。恵美は聡史に駆け寄り、何十年も会っていなかったかのように聡史に呼びかけ、腕をさすり、手を握る。
 誰にも会いたくなかった。会話をする気分じゃない。隆史はうつむき遠野の脇をすり抜け、聡史のそばに張りついている恵美の傍らに立つ。遠野にわざと背を向ける。話しかけないでくれという意思表示だった。しかし、遠野はなおも話しかける。
「脳死判定と臓器摘出を承諾されたそうですが……」
「そうです。だから早く来たんです。判定が始まるまでは家族でゆっくり過ごしたいと思って」と遠野の言葉を遮る。
 そこまで言えば分かるだろう。話を聞く気分じゃない。伝わったのか、遠野は「すみません」と謝った。
 ……しかし……。
「疑問を感じるなら止めてはどうですか。今からでも遅くありません。わだかまりがあるなら提供する必要はないんですよ」
 ――……今更、何を言う。
「……先生が、……移植コーディネーターに話を聞けと言ったんでしょう。本当は臓器提供してほしいんでしょう。屍同然の患者一人診るよりまだ生きている人間を助けたいんでしょう。望み通り提供しようとしているんだ。もう、黙っていてくれ」
 散々世話になった医師にこんなことしか言えないのか。
 誰かこの口を引き裂き、舌をむしり取ってくれ。しゃべれないように歯を砕いてくれ。
 重い沈黙がのしかかる。
「……ご家族の心情も考えず申し訳ありません。……信じていただけないかもしれませんが、ぼくは主治医として、聡史君とご両親に一番よかったと思える結末を迎えてほしいと思っています」
 隆史は苦笑を浮かべる。
 私たち夫婦と聡史にとって一番いい結末……。何十回、何百回と考えても出てこなかった。悩み、苦しみ、悶え、導き出そうとし、出てこなかった答え。そして今、考えることを放棄し、流れに身を任せようとしている。
「判定中でも構いません。止めたくなったら言って下さい。ぼくはそばにいますので」
 隆史は、恵美は顔を上げた。遠野は二人の視線を受け止めるように直立し、真っ直ぐに見つめ返す。迷いも、淀みもない、強い決意を宿した目だった。
 遠野は一礼し、病室を出て行った。
 隆史は遠野が消えた場所から目が離せなかった。
 ……私は、遠野医師の何を見ていたのか。初めて会った時から遠野医師は真剣に、我がことのように向き合ってくれていた。聡史に、私たち夫婦に寄り添ってくれた。それなのに、私が、私たち夫婦が彼にしたことは……。
 醜怪な塊が音を立てて潰れていく。苦い汁が滲みだし、臓腑に浸み込む。自己嫌悪、羞恥、諦め、焦燥……、様々な感情がないまぜになり己という存在を打ちのめす。
 ――……もう、遅い。決めてしまった。
 始まる、――判定が。集まる、――判定医が。下される、――生死の審判が。もう、後戻りはできない。
 恵美は顔を覆い泣いていた。

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