第1話

文字数 25,919文字

 『脳死は一律人の死である』
 『本人による臓器提供の意思が不明な場合、遺族(家族)が書面で承諾すれば臓器提供が可能』
 『十五歳未満の子どもからでも臓器提供が可能』

 改正臓器移植法 二〇一〇年 七月 施行

 ※

 二〇一七年一二月
「冷えるわね」
 居間の和室で夫の隆史とバラエティー番組を見ていた矢野恵美は、ひざ掛けに付いた畳のイグサを摘み、腰に巻きつける。
 なんだかすうすうする。柱と木の壁に隙間を見つけ手で塞ぐ。ここから冷たい風が入り込んでいる。
「ねぇ、そろそろこの家建て替えない。だいぶ傷んできているわよ。天井だって穴が開いているし……」
 築四十年になるこの一軒家は夫隆史の父母が生前に建てたものだ。恵美が嫁いできた当初は落ち着いた色調で柱の木目も美しく、小さいながらも庭付きで、恵美は素敵な家と喜んだ。
 今では柱も壁もくすみ、壁の隙間から冷気が入る。畳は擦り切れ、障子は変色し、あちらこちらにある段差も気になる。
 舅が植えた庭の桜は立派になりすぎて日光を遮り、一番日当りがよかったこの居間も一日中薄暗く、寒々しい。
 恵美は食卓に両腕をのせ身を乗りだす。
「ねぇ、建て替えましょうよ。もっときれいで暖かくって、居心地のいい家に住みたい」
 胡坐をかきテレビを見ていた矢野隆史は缶ビールをコップに注ぎながら言う。
「また、その話か。もういいだろ。後五年で定年なのに今からローンを組んでどうするんだ」
「退職金で払えばいいじゃない。それか、定年を延ばせば。一日中家にいたってすることないでしょ」
「おいおい、勘弁してくれよ。今まであくせく働いてきたんだ。楽させてくれてもいいじゃないか」
 恵美は口を尖らす。
「それに来年の四月から聡史が大学に行くんだ、学費だってかかるんだぞ。どこに改築する金があるんだ」
「……そんなこと、言ったって。……私も働こうかしら……」
 頬杖をつき呟く恵美に、隆史が小馬鹿にしたように手に持った缶を振る。
「六十近いばあさんを雇ってくれるところがあるもんか。止めとけ止めとけ」
「失礼なッ! 私はまだ五十※よっ」
 恵美が傍のリモコンをつかみ振り上げる。隆史は縮み上がり両腕で頭を防御した。
 引き戸を軋ませ息子の聡史が顔を出す。
「またやってんの。ほんと、にぎやかだなぁ。二階の廊下までつつ抜けだよ」
「聡史、お父さんが失礼なことばっかり言うのよ。なんとか言ってやって」
 恵美は夫より背が高く、夫に似ずハンサムで優しい(と恵美は思っている)息子に擁護を求める。
「はいはい」聡史は呆れた調子で答えてから、「ちょっと、コンビニ行ってくる」と言う。
「そんな格好で。もう十一時過ぎているのよ。止めときなさい」
 十二月だというのに薄手のセーターにジーパン姿で出かけようとする聡史を恵美は引き止める。
  “聞こえない”というふうに引き戸を閉めた聡史を恵美は慌てて追いかける。歩く度に床が沈み、木が擦れあう。
「痛っ」足の裏がチクッとした。靴下に小さな棘が刺さっている。
「もうっ、これだから古い家は嫌なのよ」
 棘を抜き足の裏をさする。
 聡史は玄関の上りがまちに腰かけ靴を履いている。新しく買った紳士用のブーツに手こずっているようだ。紐を通す手がぎこちない。
「なんでそんな物買ったの。ブーツなんて女の子が履く物でしょ。せっかく貯めたバイト代がもったいない」
「人が買ったものにケチつけんなよ。ずっと欲しかったから買ったんだ」
「大学受かったからってバイトばっかりして、勉強はしてるの。無駄遣いしていないでお金を貯めておきなさい。この不景気、お父さんはいつリストラにあうか分からないんだから。仕送りが減ったら困るでしょ」
 聡史は肩で大きくため息をついた。すっくと立ち上がり、
「この靴そんなに高くないから。ちゃんと貯金もしてるよ。いちいちうるさいんだよ」
 と言い捨て玄関のチェーンを外す。
「待ちなさい。そんな格好で風邪ひくわよ。それにこんな時間に出歩いていいと思っているの」
「お腹が空いたからそこのコンビニで肉まんを買ってくるだけだよ。すぐ帰るよ」
「おにぎりを作ってあげるからそれで我慢しなさい」
 聡史は「肉まんが食いたいの」と強く言って、「聡史っ」と呼ぶ恵美の声を遮るようにドアを閉め出かけて行った。
「もうっ。心配してるのに」

 恵美は大きな音を立てて引き戸を開けた。
「テレビ終わったぞ」
 ビールをチビチビ飲んでいる隆史を「隆君!」ときつい口調で呼び、食卓を挟み隆史の正面に正座する。
「な、なんだ」
「隆君、聡史のこと、少しは考えてる」
「あ、ああっ。考えてるよ」
「うそっ。四月から県外の大学に行くのに勉強もしないでアルバイトばっかりしているのよ。なんとか言ってやって」
「進学が決まって気が抜けたんだろ。バイトしてたら社会勉強になる。聡史だってちゃんと考えているよ」
「そんなことない。家にいてもゲームや漫画ばっかりよ。洗濯や掃除も少しは練習しないと県外に行くのにあれじゃ一人暮らしなんてできっこないわ」
 隆史はビールをコップに注ぐ。コップの底から五センチくらいで出なくなり、缶を上下に振る。
「……母さん、そろそろ子離れした方がいいぞ。口うるさく全部世話していたんじゃ、聡史だって一人前になれん」
 と飲み口の縁をすする。
「そりゃあ、進学決まった時は、聡史も自分で洗濯や料理をするって言っていたのよ。一人暮らしする時困るからって。でもラーメンばっかり作ってるし、洗い残しはあるし。洗濯物だって一気に乾燥までかけて服なんかシワだらけなのよ。それじゃあかっこ悪いでしょ。だから私がやってるのよ」
「そればかりじゃないだろ。お前、まだ聡史に魚の骨取ってやっているじゃないか」
「……それは、そうしないと聡史が魚を全然食べないから……」
 隆史が鬼の首をとったように恵美をビシッと指差す。
「それっ、それがいかん。魚を食わなくても死にはせん。手をかけすぎが問題なんだ」
 恵美がコップをひったくり、一気に飲み干す。
「ああっ」隆史が叫ぶ。恵美がコップを乱暴に置き、すぱっと言う。
「だったら、あなたが聡史を教育してちょうだいっ」
 隆史は空になったコップを未練がましく見てから、
「……もう、寝るか」と立ち上がる。
「まだ終わってないわよっ」
 恵美の尖った声を避けるように隆史は体を揺らし居間を出た。

 恵美は三十二歳で隆史と職場結婚し、舅姑と同居を始めた。不妊治療をしながら六年の月日を経てようやく一人息子の聡史を授かった。舅と姑は聡史が生まれると隆史と恵美の居住している二階に入り浸り、聡史にミルクを与え、おしめを代え、思いきり甘やかした。舅姑に気を遣い息子をなかなか抱けない恵美は寂しい思いをしたものだ。
 聡史が中学生になる頃、舅と姑は相次いで他界し、隆史と恵美は舅姑が居を構えていた一階に移り、二階は息子聡史の勉強部屋に明け渡した。その聡史も来年四月から県外の私立大学に行く。

「母さんはうるさいんだよなぁ」
 矢野聡史は裏道を県道に向かって歩く。周辺住民しか使わない生活道は畑や空き地が多く、街灯もない。夜になれば真っ暗で、人通りもほとんどない。三つ目の角を過ぎれば車が行き来する県道に出る。県道を渡り左に八十メートル行けばコンビニだ。
「さむっ!」
 やっぱりコートを着てくればよかった。取りに戻りたかったけれど母さんがあんまり口うるさいんでそのまま出てきてしまった。
 勉強しなさい。卒業できるの。少しは家事をしたら。一人暮らしする時困るわよ。
 言いたいことは分かる。した方がいいと思っている。……けれど、めんどくさい。
 合格が決まり、喜んでくれたのは数日。その後は、うるさいことうるさいこと。
 本命の公立大推薦入試に落ちた息子を気遣い、合格が取れるまではとそっとしておいてくれたんだろうけれど、今はその気遣いの欠片もない。
 ――……早く家を出たい。
 と強く思うようになった。バイトに精を出しているのは学費の足しにしたいから。親父と母さんに何かプレゼントしてもいいなとも考えている。なんだかんだ言って世話をかけた。
 サッカーや塾で毎日のように送り迎えをしてくれた。土日は朝早くから弁当を作って応援に来てくれた。
 中学の頃、「お前、いっつもママが観に来るよな」と友達にからかわれ、怒りに任せ「応援に来るな」と突っぱねてからも、土日も関係なく弁当は欠かさず作ってくれた。総体が終わりサッカー部を引退してからも、夜遅くまで勉強していると夜食を作ってくれた。
 大きなくしゃみを一つした。腕をさすり駆け足になる。小さな街灯が灯る県道に出ると道の左向こうにコンビニの看板が見えた。
 店舗の屋根に届きそうなほどでかいサンタのバルーンがゆらゆら揺れ、ツリーの電飾がピカピカ光る。
 ――……もうすぐクリスマスか。
 今年も彼女のいない友達同士でカラオケになりそうだ。
 夜空を見上げ、白い息を吐く。
 押しボタン式の横断歩道の信号が青になるのを待つ間にジーパンのポケットから財布を取り出し、小銭を数える。
 ――寒すぎ。早く肉まん買って猛ダッシュで家に帰ろう。
 信号が青になり、聡史は左右をさっと確認し駆け出す。
「あっ」
 手から小銭が落ちた。
「ったく」
 舌打ちし、横断歩道に散らばった小銭を身をかがめ拾い集める。
 チカッ。眩しい光が目に入った。
 二つの光が蛇行しブレーキ音を立てながら迫ってくる。車だ。体がすくむ、動けない。運転手の顔がはっきりと見えた。
 ドンッ!
 頭に強い衝撃を受け、意識を失った。

 *

 藤和大学附属病院は緑豊かな市街地に建つ。ベッド数七二〇床を有し、二十五の診療科と救急医療センター、循環器医療センター、がん医療センター、脳神経医療センターを備え、重症、難病疾患の他、一般の症例も幅広く取り扱う高度医療提供病院である。
 平日、夜間休日診療、第二次救急及び第三次救急に対応し、屋上にはヘリポートを兼ね備え、山間部が多いこの地域一帯の医療を担う。
「あー、疲れた」
 遠野春希は当直室のベッドにどっと倒れ込んだ。枕に突っ伏し大きな息を吐く。小さなテーブルに置かれたインスタントコーヒーとポットをぼんやりと見る。コーヒーを飲む自分を想像するものの体が重く起き上がる気になれない。喉は乾いているがそのまま目を閉じる。
 ――……疲れた。
 今日扱った救急患者は、七十四歳男性の硬膜外血腫、二十代男性の急性アルコール中毒、五十代男性の狭心症、それと……思い出そうとして、止めた。頭が重い。病気ではない、疲れで思考が困難になっている。
「ふぅ」
 腕時計を見る。午後十一時三十七分。まだこんな時間か。当直が空けるまで後九時間以上ある。「救急医療センター」と看板を掲げているが実際は看護師三人、当直医が自分を含め二人いるだけだ。
 生死がひっ迫した状態で、それも明らかに専門外の症状で担ぎこまれた患者を既往歴、アレルギー、服用中の薬剤の有無等の情報も分からないまま治療しなければならないプレッシャーは並大抵ではなかった。
 勤務当初は不眠に陥り睡眠導入剤を飲んでいた。遠野は二年の前期研修期間を終え医局に入って二年目になる。
 前期研修医時代も当直はあったけれど指導医クラスの医師がいた。
「あの先生はまだ研修期間中なのよ」
 陰口をたたかれ肩身の狭い思いをする一方で、優しく接してくれる看護師やスタッフがいた。診断に悩んだ時は指導医に遠慮なく質問もできた。
 専門外で緊急を要する症例には病院近辺に住居を構える医師に応援を頼めるが、なるべく控えたい。遠野自身、休日に、それも深夜に電話がかかってくると胸に強い痛みを覚える。疲労困憊で寝ているところを否応なしに起こされるのだ。医師としての義務感に押され仕方なしに出るが、できるなら居留守を使いたい。
「若手が働かんでどうする。経験も技術もないなら体力でカバーしろ」と何度叱咤されたことか。
 週二回当直する中堅もいるから弱音も吐けない。仕事は時間に関係なく入り、というより夜間早朝の方が多かったりする。気が抜けない、手は抜けない、疲れも抜けない。おかげですっかり救急車のサイレンが苦手になってしまった。
「それでも医者か」と非難されそうだが日中の診療に支障が出ないかと思うと無理はしたくない。ミスはできないと思うほど心身を最善の状態に維持したいという思いは強くなる。しかし、現場はそれを阻むほど多忙だった。
 いつも眠気とだるさを抱えながら手術、外来、入院患者の回診をこなしていた。眠気と闘いながら数ミリの血管にカテーテルを通す手術をしたこともある。
 眠りたくても頭が冴えて眠れない。疲れているのに眠ろうと思えば思うほど眠りから遠ざかる。
 机でもソファでも寝る体勢に入ると一分で眠れる先輩研修医がいたが、あの能力があればよかったとつくづく思う。どこでもいつでも眠れる、この仕事をしているとそれは一種の才能だと思える。
「だめだ、眠れない」
 遠野は起き上がり、壁の時計を見た。午後十一時四十一分。せっかく休めるのに時間がもったいない。
 当直が空けても常勤がある。実質三十四時間勤務だ。休める時に休んでおかないと日中の診察に差し支える。気ばかりが焦る。
 当直室の電話が鳴った。急患だ。頭元の電話機を取る。
 〈受け入れ要請です。十八歳男性、車と接触し、頭部から出血、最高血圧一三七、最低六二、脈拍七〇、意識不明の重体です。後十分で運ばれてきます〉
「分かりました。すぐ行きます」
 休憩終わり。
 遠野は全身にかかる重力をふりきり、当直室を飛び出した。

 遠野は内科医の藤村と救急外来玄関口で待機した。
 遠野は運び込まれた患者を見て、ひどいなと思った。助からないかもしれない、とも。救急隊員と家族である父親から発見時の状況と患者の情報を聞き出しながら、藤村と三名の看護師で患者の救命にあたる。
 左側頭部から多量の出血、頭蓋骨骨折、顔及び爪がうっすらと青紫に変色していた。
 遠野と藤村が頭部以外に怪我はないか全身の状態をチェックする。
 看護師が、「血圧最高一四五、最低七〇、脈拍九〇、体温三七度、動脈血酸素飽和度八七パーセントです」と遠野に告げる。
「人工呼吸器を装着します」
 遠野は取り付けた心電図モニターをチェックし、すぐさま患者の口を開け気管の入り口を見ながらチューブを挿管、人工呼吸器で百パーセント酸素を流し込む。
 そして呼びかけや痛みに反応するか意識レベルをチェックする、――反応なし、深昏睡の状態。ペンライトで瞳孔を照らし収縮を見る、――瞳孔散大、対光反射なし。瞳孔径を測る、――右四ミリ、左五ミリ。
 藤村は検査のため患者の腕から採血し、検査と輸血準備に走る。
「CT検査室へ運びます」
「はいっ」
 遠野の声に看護師が一斉にベッドを押し駆け出す。
「聡史を、聡史をお願いします!」
 切迫した状況では父親の声は遠野に届かなかった。

 検査の結果、頭部外傷による急性硬膜下血腫と診断した。左側頭部を血腫が覆い、脳ばかりか脳幹を圧迫している。脳幹は心臓の拍動、呼吸、体温調節など生命維持に関わる重要な役割を担う。自発呼吸の消失、瞳孔散大も脳幹が圧迫されているためと考えられた。このまま放置すると更に状態は悪化する。
 ――開頭し血腫を取り除くしかない。
  朝まで待つ余裕はないと判断し、手術の準備に取りかかる。遠野は脳神経外科医だった。
 呼び出しリストから麻酔科医と脳外(脳神経外科)の医師を選び連絡する。家族に患者の状態を説明し手術の承諾をとり、内科の藤村医師とともに患者を手術室に運んだ。

 隆史は家族待合室の椅子で恵美の肩を抱き寄せ、手術が終わるのを待った。恵美は白くなるほど固く握りしめた手を口に押し当て「聡史、聡史……」と震えている。
 ――……長い、いつまでかかるのか。
 隆史はじりじりと胃の腑を焼かれるような焦燥感を堪えながら、恵美の肩をさすり、「大丈夫だ。聡史は大丈夫だ」と励まし続けた。
 待合室の扉がノックされ、医師が一人入ってきた。手術前に説明をしてくれた若い医師だ。
 恵美は跳ね上がり、医師の元へ駆け寄る。隆史も後に続いた。
「先生っ、聡史は、聡史は……」
 言葉が続かない恵美の代わりに隆史が尋ねる。
「聡史はどうなんですか。助かるんですか」
 若い医師は早口で説明した。
「頭部の損傷がひどく、脳内に血の塊ができそれが脳全体を圧迫していました。血腫は取り除き脳内にたまった血も洗浄しました。ただ……」
「ただ」
 すかさず反応したのは恵美だ。
 若い医師は眉間に堀を作り、言った。
「ただ、瞳孔は散大し、自発呼吸もなく、危険な状態です。このままだと脳死になりかねません」
「のうし」
「脳死は『脳幹を含む大脳、小脳、全ての脳機能が停止し二度と戻らない状態』のことです。今から患者を集中治療室に運び脳低温療法を行いたいと思います」
「のう、ていおんりょうほう」
「脳を冷やすことで脳を眠らせダメージを最小限に抑える方法です。死にかけた神経細胞の回復も期待できます。日本大学板橋病院の林成之先生が開発しました。この方法で患者と同じ重症の急性硬膜下血腫の患者さんが意識を取り戻した事例がいくつかあります。患者は脳低温療法を行うには厳しい状態ですから助かる保証はありません。例え助かったとしても脳幹だけが機能している植物状態になる可能性もあります。患者自身の回復力にかけたいと思います。それをご理解の上、ご家族の同意が得られれば至急取りかかりたいと思います」
 張り詰めた沈黙の後、恵美は言葉を発せず何度も頷き、隆史も「お願いします」と深く頭を下げた。
 若い医師は一礼し、身を翻し出て行った。足音が急速に遠ざかる。恵美はしゃがみ込み、隆史は立ち尽くした。

 *

「せんせぇ、わしは手術した方がいいんでしょうか」
 遠野はシャウカステン(レントゲン写真等を見るための発光ディスプレイ)にMRA(磁気共鳴血管撮影)画像を貼りつけてから、患者の質問に答えた。
「脳動脈瘤ですが、一年前とほとんど大きさは変わっていません。大きさは二.五ミリほどですし、形もきれいです。家族歴もありませんし血圧も正常です。煙草もされていないのなら、定期的に検査をしながら様子見でいいと思います」
「破裂しませんかのぉ。手術も怖いけんど、頭の中に爆弾があると思うと心配で……」
 遠野は六十五歳の患者に穏やかに答えた。
「この二年間定期的に見てきましたが大きくなっていません。五ミリを超えるようになれば手術も視野にお話しましょう。それまではこのまま定期的に検査を受けられるだけで大丈夫ですよ。日常生活も今まで通りお過ごし下さい」
「そうですかぁ。ありがとうございます」
「お大事に」
 遠野はひょこひょこと出て行くなで肩の患者の後ろ姿を見送る。
 扉が閉まり、午前の外来診療が終わった。
「ふううぅーーっ。疲れたー」
 遠野は座ったまま背中を反らし伸びをする。バキッと派手に腰が鳴り、「はあっ」と悲鳴のような声をあげる。肩を回すと小骨が折れるような音がした。
 やれやれと、書類を整理し診察室を出ようとした時、看護師に呼び止められた。
「遠野先生、鶴見先生から診察が終わったら教授室に来るようにと連絡がありました」
「鶴見先生が。分かりました。すぐ行きます」
 腕時計を見る。十一時五十八分。研修会が十二時から始まる予定だ。研修会自体は参加自由、演題に興味をひかれたから出たかったけれど無理そうだ。残念に思いながら教授室に向かった。

 藤和大学附属病院は創設六十八周年を迎える藤和大学の附属病院である。
 終戦直後、当時地域一帯の地主だった藤和世造が栄養失調で倒れた病人を自宅の離れに集め介抱したことから始まる。蔓延する病を日本国から一掃したいと私財を投じて建設したのが藤和医療学校、藤和大学附属病院の原形である。
 藤和大学附属病院は藤和大学医学部に隣接し、各診療科のある本館、本館東側にがん医療センターである東病棟、本館西側に循環器医療センターと脳神経医療センターを併設した西病棟、敷地内中央にある中庭を挟んで南側に入院患者用の南病棟がある。
 元は本館、東病棟、西病棟はそれぞれ別の棟として建てられていたが、増築する際に自由に行き来できるよう空中連絡路で連結させた。
 本館一階は外来患者や見舞い客のためにコンビニ、カフェ、果物店、ATM等が立ち並び、最上階には展望レストランが開かれ、平日昼間は人込みでにぎわう。その本館西側を直角に繋がる連絡路を歩けば西病棟に入る。
 西病棟一階は救急医療センターになり、北入口は二次救急外来用、南入口は三次救急外来用に区別される。二階と三階の全フロアは、検査室、手術室、集中治療室等、高度な医療を提供できる設備と最新の医療機器が備えられている。
 四階は会議室、カンファレンスルーム等があり、五階から十五階は西病棟中央階段を挟み北半分に循環器医療センター、南半分に脳神経医療センターがある。
 本館に近い循環器医療センターでは空中連絡路を伝い本館の雑踏が聞こえてくるが、脳神経医療センターは至って静かだ。
 そして、この脳神経医療センターが遠野の所属部署である。

「鶴見先生、遠野です」
 遠野はドアをノックし、「入りなさい」との声に教授室のドアを開ける。
 教授秘書が立ち上がり遠野を出迎える。
 鶴見秀嗣は革張りの肘付椅子に恰幅のいい体を押し込み、書き物をしていた。鶴見はくるりと椅子を回し、不機嫌な顔で言う。
「ずいぶん遅くまで診察がかかるんだな」
「すみません。週明けは外来の患者さんが多いものですから……」
 鶴見は「まあいい。それより大事な話だ」と遠野に書類を差し出す。遠野は書類を受け取り、目を通す。
 矢野聡史。昨夜、急性硬膜下血腫で救急搬送された患者の症状と、今後の医療方針を新たに書き加えた計画書だった。
 病院では十五年以上前から事務の簡略化と情報共有を目的にカルテは電子化されている。カルテが作成されると自動的にパソコンにリストアップされ、パスワードを入力すれば各診療科にかかっている患者のカルテが閲覧できた。
 勤務医や医療スタッフは朝一番に土日祝日等、担当時間外に収容された患者の情報を端末でチェックし、その日の診療に役立てている。
 鶴見も朝からパソコンでカルテを閲覧し、それを元に計画書を作成していた。今、鶴見が遠野に渡した書類がそれだ。鶴見は脳神経医療センターの主任教授であり、遠野の上司でもある。
「この患者の容態はどうだ」
「治療を始めたばかりなのでなんとも言えません。検査技師のイワタさんに頼んでデータを出してもらっているところです」
 鶴見は首を上下に揺らす。考え事をしている時の癖だ。
「書類にある通りこの患者の主治医は遠野君、君だ。手術はもちろん、診察、管理も君が主体となってやりたまえ。(脳神経医療センターの)センター長には話をつけてある。私と〈脳外科〉の佐藤教授がサポートする。なにごとも経験だ。頑張れよ」
「……はい、ありがとうございます」
 遠野は憂鬱だった。主治医を任されるからではない、佐藤教授とうまくやっていける自信がないからだ。
「その患者家族への説明は三時からだったな」
「はい」
「その前に脳神経医療センターのカンファレンス(会議)でスタッフと〈脳外科〉の佐藤教授を交え話し合いをする。説明できるよう資料を整えておくように」
「はい。実は矢野聡史君のオペを佐藤先生に手伝ってもらいました。佐藤先生は大体のことはご存知です」
「そうか。それはいい」
 初めて、鶴見が顔をほころばせる。
「佐藤教授はあの古臭い医学部〈脳外〉を立て直した強者だ。我々のチームに加わってくれれば向かうところ敵なしだ」
 鶴見は安心したように椅子に深く体を沈める。
「……だが、検査結果やその後の経過も説明できるように準備は怠るな」
「はい」
 鶴見はフサフサした眉毛を指でなぞりながら切り出す。
「それで、患者の意思カードは見たか」
「いえ、まだです」
「患者家族の様子は。臓器提供に理解がありそうか」
「いえ、まだそのような話は……。治療中ですし……」
 眉毛をなぞる手がピタッと止まる。
 立っている遠野には座っている鶴見の表情がよく見えない。眉に触れたままうつむく鶴見に、遠野はひょろりとした体を屈め「具合でも悪いのですか」と声をかける。
 突如、鶴見が顔をあげた。
「ばっかもーん」
 怒鳴り声が教授室の外まで響いた。

 遠野は昼食を買いに行くのを止め、スタッフルームにある自分の机で探し物を始める。
「変だなあ。ここら辺に置いたはずなんだけど……」
 机にうず高く積まれた書類を上から順番に仕分けしていく。出てくるのは先週終わったセミナーの案内、試薬のパンフレット、実験器具のカタログ……、不要な物ばかり。遠野は次から次へとゴミ箱に突っ込んだ。たちまちゴミ箱はいっぱいになり、ゴミ箱の横に更に不要な書類の山ができる。
 ――……もっと、整理しなきゃな。
 現場の忙しさにかまけて思うだけで終わってしまう。
 一時から脳神経医療センターのカンファレンス(会議)がある。三時からは矢野聡史君の家族に説明をしなければならない。資料を揃える必要があるのに鶴見先生に『マニュアル』に目を通しておけと指示が出た。しかし、そのマニュアルがない。
「確か、ここに置いといたんだけどな。どこいったんだろー」
「なにかお探しですか」
「峰岸さん!」
 天の助けだ。
 峰岸は眼鏡をかけ、髪を短くまとめた二十代後半の女性で、脳神経医療センターの秘書である。
「ここに置いといた書類知らない。分厚い青色のファイルに挟んであるんだけど」
 峰岸は机を少し探してから、ふと思い出したようにくるりと向きを変え、書架の鍵を開けた。
「これの、ことですか」
 それは『脳死判定・臓器提供マニュアル』と印刷シールが貼られた青色のファイルだった。遠野はひったくるように手にした。
「これっ、これこれ。えっ、書架にあった」
「持ち出し禁止なのに机の上にぽんと置いてあるから書架にしまったんです。学生も出入りしていますし、部外者が入ってこないとも限りませんから。メモを机の上に残しておきましたけど、見なかったんですか」
 小柄な峰岸は咎めるように遠野を見上げる。
 ……図星だった。
「ありがとう。ありがとう」
 何度もお礼を言い、早速書類を開きマニュアルを読みにかかる。
 一通り目は通しているし頭にも入っている。けれど、上司である鶴見先生に「読め」と言われたら読むしかない。時計を見る。
 ――……もう、お昼は無理だな。
「なにか、買ってきましょうか」
「え」
「昼食、まだなんですよね。下のコンビニでおにぎりでも買ってきますよ。今から買いに行くんで」
 峰岸さんが女神様に見える。
「ありがとう。お願いします」
 遠野は慌てて財布を渡した。

 『脳死判定・臓器提供マニュアル』には、どういった状態の患者が脳死確定時臓器提供者となりうるか。本人の意思カード確認と家族の承諾、移植コーディネーターを紹介するタイミング。脳死判定は二回行い、一回目と二回目の間に六時間空けること、六歳未満の場合は二十四時間空けること、脳死確定をもって死亡時刻とする旨の他、臓器摘出の手順、保存、運搬方法、他病院との連携等がこと細かく記載されている。
 過去に脳死で運ばれて来たにも関わらず提供者としての条件を満たさず摘出を断念した例、また臓器摘出をしたものの脳死判定の順序を誤り、訴訟を起こされた事例が挙げられている。
 年に四回、生体間を含む臓器移植について会議が開かれ、『マニュアル』の見直しも議論になる。遠野が手にしているマニュアルも既に五回改訂されていた。そして、脳死判定及び臓器提供に関わる医療従事者はマニュアルを遵守するよう義務づけられている。
 遠野は入局した際、鶴見から「読んでおくように」とマニュアルを手渡され、何度か目を通したものの、現場の勤務に追われるようになってからは机の上の棚にしまい込んでいた。
 遠野は書類にかぶさるようにして読み込んだ、――峰岸がそっと置いてくれたおにぎりに気づかず。

 *

「早く食べないと、そろそろ時間だぞ」
 隆史は恵美を急かした。恵美は思い出したように両手に持ったサンドイッチを少しだけかじる。そしてまた動かなくなる。花壇を見ているようで見ていない。食パンの端っこが乾燥し固くなっている。
「おい」
 恵美が思い出したようにつぶやく。
「……聡史の下着、買っておかないと。タオルも……」
「下着はいらないだろ。タオルも病院が準備してくれる。……大丈夫か。さっきも同じことを言っていたぞ」
「そう」恵美は不思議そうに隆史を見る。
 隆史は恵美の異変を感じ取っていた。
 昨夜、救急車のサイレンを聞きつけ、まさかと思い家を飛び出した。人だかりの中、救急車とパトカーが停まっていた。ストレッチャーに乗せられた聡史を見て、慌てて野次馬を押しのける。
「聡史っ」
 聡史は目を閉じ、頭から出血していた。
「聡史っ」呼びかけてもピクリともしない。
「ご家族の方ですか」
 救急隊員に問われ、「そうです!」と即答した。
「今から藤和大学附属病院に搬送します。付添いの方、一名だけ乗れます」
 恵美に「タクシーで後から来るように」と言い置き、隆史は救急車両に乗り込んだ。
 病院で医師と看護師に取り囲まれ検査室に運ばれる聡史を見送り、駆けつけた恵美と手術を見守った。手術が終わり集中治療室に運び込まれる聡史を見届けてから、待合室で仮眠を取った。気分転換に恵美を病院の中庭に連れ出した時は既に日が昇っていた。
 十二月は風が痛いほど冷たい。赤紫になった手はかじかみ、体は震え、冷気が張りつく。常日頃口癖のように「寒い、寒い」と言っていた恵美はしかし、ベンチに座ったまま終始うつむき黙っている。……かと思えば同じことを口にする。
「聡史の下着が……、タオルが……」と。
 待合室にいた時「横になって休んだらどうだ」と肩を押してソファに寝かせようとしたがびくともせず、「一度、家に帰ろう」と誘っても反応がなかった。
 恵美が、おかしい。
 隆史はベンチの横で足を踏みならし寒さに耐えた。会社に「息子が事故に遭い病院で治療中です。今日は休みます」と連絡し、親戚と高校にも事情を伝えた。遠方の親戚や会社からひっきりなしに電話がかかる。
「なぜ事故に遭ったんだ」、「聡史君の怪我はどんな感じだ」
 何も分からないまま説明するのは苦痛で、病院の敷地内ということもあり携帯の電源を切った。
 その後、病院に訪れた警察から質問と説明を受けたが、どこか他人事のように聞いていた。
 中庭にある時計の塔が十四時五十五分を指す。十五時から医師の説明がある。
 隆史は恵美からサンドイッチを取り上げ己の口に放り込み、恵美の肩を支えながら立たせる。
「時間だ。行くぞ」
 恵美の腕を取り、病棟に戻った。

 指定された西病棟三階説明室に行くと部屋の前に細身で背の高い医師がいた。聡史を手術してくれた若い医師だ。
 若い医師は頭を下げ、「今日はよろしくお願いします。部屋はこちらです」と案内してくれた。……どうやら、部屋の外で待っていてくれたらしい。
 部屋に入り真っ先に目に入ったのは、恰幅のいい白髪混じりの医師だ。鋭い眼光に引き結んだ口、足を広げ太ももに拳をつけ座るその医師には貫禄があった。隣には黒縁眼鏡をかけた五十歳前後くらいの医師が姿勢よく、動かなければ置物かと思うほど物静かに座っている。壁際に座る二人の医師から少し離れ看護師が三人控える。
 入り口を入って左にレントゲンなどを見る時に使う掲示板(シャウカステン)と医師用の机と椅子、そして椅子が二脚並べられていた。
 医師たちは立ち上がり、若い医師は「自己紹介が遅れました。脳神経外科医の遠野春希といいます。矢野聡史君の主治医をさせていただきます。よろしくお願いします」と名乗り、他二名の医師を引き合わせるように壁際に寄ってから、
 白髪混じりの医師を「こちらは脳神経外科の鶴見秀嗣教授です。矢野聡史君の治療をサポートします」、黒縁眼鏡をかけた医師を「脳神経外科の佐藤宗範教授です。鶴見教授と同じく、矢野聡史君の治療をサポートします」と紹介した。
 看護師三人も紹介してくれたが、一番しっかりしているように見えた「水木」看護師しか覚えられなかった。
「鶴見医師、佐藤医師、私遠野、医療スタッフがチームとなり矢野聡史君の治療にあたらせていただきます。鶴見医師がチームリーダーとなり、主に私遠野が、佐藤医師の協力を仰ぎながら矢野聡史君の治療にあたります」
「矢野聡史の父親、矢野隆史です。こちらは妻の恵美です。よろしくお願いします」
 遠野は深くお辞儀をし、鶴見は握手を求め、佐藤は一礼した。
「どうぞ、おかけ下さい」
 遠野に着席を促され、隆史は恵美を座らせてから腰を下ろした。
 隆史は遠野の全身にさっと視線を走らせる。明るく細い髪、気の優しそうな澄んだ目、張りのある目元、きめの細かい頬、しわ一つない口元……。
 ――見れば見るほど、若い。聡史と同じ年齢、というわけはないだろうが……。
 三人で聡史を診てくれる、それはとても心強い。そのうえ三人のうち二人は教授だという。病院の配慮に心から感謝したい。
 しかし、うち一人は……、どう見ても若造だった。
 聡史を手術してくれた医師に難癖をつけるつもりはない。若い医師を差別するつもりもない。しかし、聡史はたった一人の息子だ。絶対に失いたくない。絶対に。
 最高の医者に診てもらいたいと思うのは親心だろう。ただの風邪ではない。聡史は脳に重大な損傷を受け生死の境をさまよっているのだ。経験豊富なベテラン医師に息子を託したいと思って当然だ。それなのに、主治医は二人いる教授のどちらでもなく、どう見ても大学生ぐらいにしか見えない医師だという。ミスをしないか不安になる。
 不躾と思いながら聞く。
「失礼ですが、先生はおいくつですか」
「はっ」
 書類や脳の模型を並べていた遠野は、文字通り、目を丸くした。
「……とし、ですか。……ぼくの……」
「いや、ずいぶんお若く見えるものですから、いったいおいくつなのかと思いまして……」隆史は言葉を濁した。
「ああ、そういうことですか」
 遠野は笑った。
「二十八です」
「……そう、ですか。いや、息子の聡史と同じくらいに見えたもので、……失礼しました」
「そんなに若くないですよ」
 隆史の真意は読めなかったようだ、遠野は気分を害したふうもなく笑った。
 ――……二十八……。
 医学部が六年、研修医が二年と聞いたことがある。二十八なら、順調に進んでも人並みの医師として働き始めたのは二年ということか。たったの、二年……。
 隆史は愕然とした。
 隆史は医師を尊敬している。人の命を救う、体にメスを入れ、いや入れなくても、病を治す職業が他にあるだろうか。だからこそ、医師ならば……と要求が高くなる。少しの欠点も(この場合欠点とは言えないのだが)、許せなくなる。
 肩に力を入れ、一点を睨む隆史に、遠野が遠慮がちに声をかける。
「説明を、始めてよろしいでしょうか」
「……はい。お願いします」
 隆史は居ずまいを正した。

 遠野は脳の模型をペンで指し示しながら脳の部位と機能から話し始める。
「脳は大脳、小脳、脳幹(間脳、中脳、橋、延髄)に分けられます。大脳は行動、記憶、意識、情動、思考など高度な精神活動の中枢です。小脳は運動、平衡感覚を担い、人が立った姿勢を保持できるのは小脳の働きによります。脳幹は大脳と小脳と脊髄を橋渡しし、呼吸、体温調節、血圧維持等、人体の生命維持に関わる重要な役割を果たしています。
 脳は頭蓋骨から、硬膜、くも膜、軟膜の三層の膜に守られ、脳脊髄液に浮かんでいる状態です。聡史君はこの硬膜と脳の間に出血が起こり、血の塊が溜まっている状態でした」
 遠野はパソコンの画像を開き、隆史と恵美に見えるように傾ける。
「これは聡史君の脳から摘出した血腫です。巨大な血の塊が左脳を押しやり右脳ばかりか、脳幹を圧迫している状態でした。これがその図です」
 頭部に血腫と思われる白い影が大きく膨らんでいる画像と、摘出されたという血腫の画像が示された。赤黒くブヨブヨとした塊の大きさに隆史は唸った。
 遠野の説明はなおも続く。
「聡史君は意識障害の評価を表す指標、グラスゴーコーマスケール(GCS)が十五点中三点で最も重い、深昏睡の状態です。冷えた血液を循環させ脳を冷やすことで脳のダメージを抑え、また死にかけた神経細胞の回復を待つ脳低温療法を行うには判断を要しましたが、聡史君と同じ重症の急性硬膜下血腫の患者が脳低温療法により社会復帰した報告例があり、聡史君の年齢も十八歳と若く回復を期待できると判断し、脳低温療法に踏み切りました」
 一言一句漏らさず聞いていた隆史も専門用語の数々に嫌気がさしてきた。理解できるように詳しく説明してくれているのは分かるが知りたいのはそれじゃない。
 息子は助かるのか、助からないのか。
 小難しい医学用語を並べ立てて説明されても半分も理解できないし、答えを焦らされているようで腹立たしい。
 隆史は語気を強めて問うた。
「それで、息子はたすかるんですか」
 隆史は遠野の表情が厳しくなったのを見逃さなかった。
「聡史君は、深昏睡、瞳孔散大、対光反射なし、自発呼吸なし、どれも脳幹機能が著しく損なわれている状態と言わざるを得ません。もし脳幹反射が全て消失すれば必然的に大脳と小脳も機能を停止します。大脳死、小脳死、脳幹死、この三つを合わせて全脳死、つまり脳死とされます」
「……の……うし……」
 ドクンと心臓が打つ。
「まだ、脳死とは言いきれません。その可能性もあるということです。今は血圧が安定していますし、脳圧も正常範囲内で維持できています。希望を捨てず治療を続けるつもりです。……ですが、覚悟はしておいて下さい」
 隆史は呼吸をするのも忘れ遠野を見つめた。
 遠野の後ろで咳払いが聞こえた。
 鶴見とかいう医師だ。遠野医師の頬が引きつった、ように隆史には見えた。
 遠野はパソコン画面から離れ、沈黙する。また、鶴見が咳払いをする。遠野は思いつめた表情で口を開く。
「……矢野聡史君は、臓器提供意思を示していますか。藤和大学附属病院は臓器提供指定病院として国から認められています。聡史君本人の意思とご家族のご希望があれば、移植コーディネーターをご紹介します」
「…………ぞうき、……ていきょう……」
 思いもしない言葉だった。
「……聡史を、たすけて、くれないんですか……」
 切迫した声で問うたのは、恵美だった。恵美は怯えたように震えていた。赤くなった目ですがるように遠野を見つめていた。
 遠野は前屈みになり、両手を固く組んで言った。
「最善を尽くします。全力で聡史君の治療にあたるつもりです」
 恵美は震える声で、「……おねがい、……お願いします……」と深く、深く頭を下げていた。

 そこから先、どうやってここまで来たのか。聡史のいる病室に行くはずだった、タクシーを呼んで帰るつもりだったのに、気づけば川沿いの道を自宅に向かって歩いていた。
 夕陽が向こうの山へ隠れようとしている。
 隆史は振り返る。
 恵美が後ろ八十メートルくらいをふらふらと、今にも転びそうな足取りで歩いていた。
 ――…………。
 昨日までどこにでもある日常だった。手のかかる息子、子離れできない妻、どこにでもある家庭だった。
 聡史は進学し、大学生活を楽しみ、就職し、結婚し、家庭を持ち、子どもを作り、私は定年退職した後、恵美と一緒に孫の世話をする、そんな人生を思い描いていた。
 それが、……なぜ……。
 声をかければよかった。あの時引き止めれば聡史は事故に遭わなかった。飲酒運転だったという。加害者はアルコール依存症で前にも捕まったことがあると。そんな奴に聡史を奪われたのか。聡史を、大事な一人息子を!
 のうし 
 ぞうきていきょう
 あの医者は脳低温療法をすれば助かると言わなかったか。重症の患者でも助かったと。それなのにどうして聡史が助からない。こんなバカな話があるか。いや、まだ、希望は捨てていないと、全力で治療にあたると言ってくれた。あの言葉に嘘はない。……なら、なぜ臓器提供の意思を聞くんだ。治療を諦めているからではないのか。本当はもう駄目だと……思っている、から……。
 嗚咽が喉を競りあがる。隆史は手で口を覆い、声を殺し泣いた。

 遠野は廊下まで矢野夫妻を見送り、部屋に戻ってきたところを鶴見の熱烈な歓迎を受けた。
「いやー、よかった。完璧な説明だった。さすが遠野先生だ」
 鶴見が遠野の背中をバンッと叩く、「うまくいくといいな」と。
「うちの遠野はまだ若輩者ですがよろしくお願いします」
 鶴見は佐藤に話を向け、佐藤は薄く笑う。
「会議があるのでお先に失礼する」と鶴見は上機嫌で帰って行った。
 呆然としたのは遠野だ。
 一体、何が完璧だったというのか。深刻な話をしていたというのに。鶴見教授がなぜ喜んでいるかは知っている。ご両親に矢野聡史君が臓器提供する意思があるかを聞き、あれば移植コーディネーターを紹介すると切り出したからだ。ただそれだけのことで鶴見教授は有頂天になるほど喜んでいる。
 それが理解できなかった。本当は言いたくなかった。鶴見教授に再三念押しをされ、家族に説明している最中も鶴見教授が真後ろで目を光らせている状況では、……やむを得なかった。
 身内が重篤な状態であると知り悲しみに打ちひしがれている家族に、ドナー意思はあるかと平然と聞ける人間がいるだろうか。医師の仕事をしていれば人の生死は日常的に目にする。脳腫瘍の患者家族に余命を宣告することもある。
 しかし、いくら知識を得、経験を積もうと慣れるものではない。
「お疲れさん」
 佐藤が声をかける。
「君は、手術の腕はそこそこだけど、説明が下手だね」
 グサリとくる。
「ドナー意思があるかと聞いておいて治療に全力を尽くすと言っても全然説得力がない。下手をすると患者家族に不信感を持たれるぞ。ドナー意思云々は家族側が言い出すまで待っていればいいんだ」
 佐藤の一言ひと言が胸を抉る。
「……誰の指図かは察しがつく」
 佐藤は小さく笑ってから、声を潜める。
「君に言うのは酷だが、鶴見先生の助言は聞かない方がいい。彼は臓器移植推進派だ。先走って病院が訴えられることのないように君がしっかり見張っておくことだ」
 佐藤の言葉を理解するのに、しばし、時間がかかった。
「佐藤先生っ」
 退室しようとする佐藤を慌てて呼び止める。呼び止めたものの何を言えばいいのか分からず、「あ、あのっ、えっ、えっと……」と口ごもる。
 佐藤は笑みを浮かべる。
「患者一人に三人の医師がつく。うち二人は教授だ。本来なら真っ先に治療に当たった君が主治医となり、君が所属する鶴見グループでチーム医療を行えばいい話だ。医学部〈脳外〉の私が加わる必要はない。今回のチーム編成は鶴見先生がセンター長に強く要望したらしい。『脳死研究に携わる佐藤教授を加えるように』とね。鶴見先生には思惑があるのさ。若手医師に経験を積ませる理由の他にね」
「……それは、なんですか」
 佐藤は意味ありげに笑った。
「損傷は頭部のみ。身体には傷一つなく、若くて健康な臓器。鶴見先生にとって魅力的な患者ということだ。……最後まで言わなくても鶴見先生の子飼いである君なら分かるだろう」
 そう言われても遠野にはさっぱり分からない。
 佐藤は薄く笑い、きっぱりと言った。
「悪いけれど鶴見先生と組むなら私は傍観者を気取らせてもらうよ。もちろん、医師として患者の治療はする。けれど、それだけだ」
 動揺を隠せない遠野は、
「先生は医師ですよ。患者に対して最善を尽くす義務があります」と言うのが精いっぱいだった。
 佐藤は皮肉っぽく笑った。
「今までも鶴見先生と組んで脳死状態の患者を扱ったことがある。私がチームリーダーであるにも関わらず私のやり方に口を挟み、勝手にスタッフに指示を出す。おまけに患者家族を怒らせ訴訟問題にまで発展した。幸い、和解したけれどね。忠告しても頑として聞く耳を持たない。『脳死臓器移植のことはわしが一番よく知っている』と言ってね」
 ……反論できない。遠野自身、鶴見先生なら言いかねないと思うから。
 佐藤はふっと笑う。
「心配はいらないさ。脳死臓器移植は家族の承諾を得られず提供まで行かないことがほとんどだ。私はせいぜい鶴見先生の悔しそうなお顔を横から拝見させてもらうだけさ」
 佐藤はドアノブに手をかけ、
「まあ、患者が脳死にならないよう、手は尽くすよ。私も医者の端くれだからね」
 と取ってつけたように言ってから、部屋を出て行った。

 遠野は看護師も誰もいない部屋に一人残り、机に突っ伏した。立ち上がれない。でかい石を背中に載せられたように体が重い。
 髪をぐしゃぐしゃかき混ぜる。
 いったいなんなんだ。おとなげない。少しぐらい我慢したらどうなんだ。教授だろ。医者だろ。人の好き嫌いを仕事に持ち込んでどうする。
 と、叫びたい。誰が聞いているか分からない院内で叫ぶ勇気は、まだない。
 ぼくだって我慢している。本当は佐藤先生が苦手だ。笑って痛いところをグサグサグサグサついてくる。鶴見先生の方が好きだ。よく怒るけどさっぱりしている。活動的だし、豪快だし、気さくだし。それに研究者として、医師として尊敬している。
 ――…………。
 今朝の出来事を思い出す。
 遠野は救急搬送された矢野聡史の手術に佐藤を応援に頼んだ。血腫除去手術中、佐藤は終始サポート役にまわってくれ、とてもやり易かった。矢野聡史の容態が急変した時も的確に対応してくれ、無事血腫を取り除くことができた。
 冷水で脳内を洗浄しながら、「脳低温療法に移りたい」と申し出た時も、
「頭部外傷による頭蓋内出血、意識レベルがGCS三の深昏睡。瞳孔散大、対光反射なし、自発呼吸なし。センターの基準では適応外となっている」とはねつけられたものの、
「胸郭が上下する呼吸様運動(自発呼吸のような運動)が見られます。全く同じ状態の患者が意識を取り戻した報告例もあります」
「何例中何例の話だ。この患者に当てはまると思うのか」
「可能性はあります。ここで諦めたら患者は助かりません」と食い下がったら、少しの沈黙の後、
「……家族の承諾が下りれば、やってみよう」と応じてくれた。
 家族の承諾を取り、循環器の医師に応援を頼み、患者に脳低温装置を取り付け機械が順調に作動するのを見届けてから、遠野は佐藤に、「今日は本当に助かりました。ありがとうございます」と深く頭を下げた。
 ……ところが……。
 佐藤は無言で遠野の前をすっと通りすぎ、集中治療室のガラス扉を開け出て行った。
 ――……あれ。聞こえなかったのかな。
 遠野はガラス越しに外を覗く。佐藤は扉の横に置かれた消毒液で手を消毒し、帽子とマスクを外しどこかへ歩いて行く。
 遠野も慌てて手を消毒し、帽子とマスクを取って佐藤の後を追った。
 佐藤はロッカー室に入った。入口近くのロッカーを開け白衣を脱ぎ始める。
 遠野は佐藤の後ろで声をかけるタイミングをはかる。
 佐藤はワイシャツの裾を伸ばして袖を留め直し、ロッカー扉の裏に付いている鏡を見ながら紺色のネクタイを締める。濃紺の背広に腕を通し、銀色のネクタイピンを紺のネクタイにさす。眼鏡を外しハンカチで丹念に拭く。
 静かなロッカー室に佐藤がロッカーを開け閉めする音だけが響いた。
 佐藤が着替えを終え、鞄を取り出しロッカーを閉めるまで、遠野は身支度をせず佐藤の後ろで待った。
 佐藤は鞄を手にふり向き、遠野を見るや、軽く片眉をあげた。
「なんだ、まだいたのか」
「へっ。……あの、本当に、今日はありがとうございました」
 改めて礼を言う遠野に、佐藤はうっすら笑みを浮かべた。
「さすが、鶴見先生のところの医師だね。頼りなさそうに見えて肝が据わっている。深夜に教授を呼び出すなんてなかなかできることじゃない」
 ――……褒められている。……にしては、言葉の端々に棘があるような……。
 遠野は戸惑った。
「……す、みません。一人では難しい手術だったので、どうしても助けがほしかったんです……」
 救急外来担当医一覧表(別名呼び出しリスト)に名前があったから呼んだ。緊急時に教授も医局員もないはずだ。寝ているところを呼び出されて機嫌が悪いのだろうか。
 佐藤は笑って頷く。
「分かるよ。私はご高名な鶴見先生と違って当直すら免除されていない身だからね。さぞ、呼び出しやすかっただろう。うちのヨコイ准教授はうつ病で休職中だし、精鋭ぞろいの鶴見グループもなにかと忙しそうだ。適当な人がいなかったから、仕方なく、一番暇そうな私を呼んだんだよね」
 佐藤は一歩踏み出し、遠野の前に立つ。
「そうだろう」
 笑みが消え、眼差しがきつくなる。
 ――……へっ、へええーっ。 
 頭のてっぺんまでボッと熱くなる。額に汗がプツプツと浮くのを感じ……。さっきと全然印象が違う。人まちがい。二重人格。
 遠野は目を見開き棒立ちになった。
 佐藤はにっこり笑って「お先に」と遠野の前をすっと通り過ぎ、立ち止まる。背を向けたまま腕時計を見、
「おっと、ひと仕事したと思ったらまだこんな時間か。さてと、これからまた夜まで仕事だ。ヨコイ先生のように倒れないようにしないと……」とロッカー室を出て行った。
 遠野は佐藤が立ち去ったロッカー室出入り口を呆然と見つめた。
「佐藤先生って、こえぇー。知らんかった」
 内科の藤村が遠野の背中に隠れるようにいた。
 藤村は二年間の前期研修医時代をともに過ごした同期だ。遠野の部屋につまみと酒を持ち込んで一緒に朝まで飲んだこともある。前期研修医時代の最初の頃は戦力外と思われていたのか、時間に余裕があった。そして、藤村はさっきまで遠野と一緒に矢野聡史の治療にあたっていた内科医だ。
 遠野は上瞼を引き上げたまま藤村をじっと見る。藤村はばつが悪そうに謝る。
「わりぃ。ロッカーの陰に隠れてた」
 友人の出現に安心し、遠野は涙ぐむ。藤村は責められていると思ったのか後ずさりした。
「……な、なんだよ、お前が悪いんだろ。よりによって佐藤先生を呼ぶからだよ。佐藤先生ってお前んとこと敵対している派閥のボスじゃんか」
「……敵対している、なんて……。佐藤先生、いつも挨拶したら普通に返してくれるよ。鶴見先生だって、佐藤先生に気軽に話しかけているし……」
「鶴見先生は誰にでも話しかけるだろ」
「……そう、だけど」
 藤和大学附属病院には、佐藤率いる医学部研究棟脳神経外科医〈脳外〉と、鶴見率いる脳神経医療センター所属の脳神経外科医〈脳神経〉がいる。
 遠野が先輩医師から聞いた話では『脳神経医療センター』が建設される当初、元々あった医学部研究棟の脳神経外科〈脳外〉も統合する計画だったそうだ。センター名も「脳神経・移植医療センター」に決まりかけていたという。
 しかし、当時の〈脳外〉の教授陣がセンターの創設目的の一つである移植医療に反発し、立ち消えになったという。
 旧来の〈脳外〉教授陣は、〈移植と治療は相いれない〉、〈市民に治療より移植を優先する誤ったイメージを持たれる〉、〈脳死患者から採取した組織を使って研究していると誤解されかねない。治療棟と研究棟は別々にすべきだ〉と反対し、最後まで相いれなかった。
 当時、センター長に任命された鶴見は〈脳外〉の教授陣たちを無視し、全国から新しく脳神経外科医を雇い入れ、最新機器を取り揃え、治療と研究設備を兼ね備えた『脳神経医療センター』を開設した。
 結果、専門も仕事内容も全く同じでありながら、医学部研究棟の〈脳外〉と脳神経医療センターの〈脳神経〉二つが存在することになる。
 ほどなくして医学部研究棟の〈脳外〉は世代交代をし、佐藤が新たに医学部主任教授に就任した。同じ頃、鶴見は脳神経医療センターのセンター長の座を降りた。
 医学部〈脳外〉の世代交代、鶴見のセンター長辞任により、〈脳外〉と〈脳神経〉の対立は緩和された。
 医療と研究の視点に立てば対立するより協調する方が得策という思惑が両者に働き、病院側も両者を一つにまとめられれば経済面でも運営面でもコストを抑えられる。
 三者の利害が一致し、〈脳外〉の医師はセンターの業務を、〈脳神経〉の医師は大学病院の外来を兼務するようになった。
 両者の融和は進み、組織上は両者の違いは分からないが、センター開設の経緯を知る病院関係者たちは両者を呼び名で区別している。
 遠野は涙が滲む目を瞬かせ、呟く。
「……ぼく、嫌われているのかな」
 ショックのあまり、家に帰って布団に潜り込みたい。
「……お前、八つ当たりされたんだよ。ほら、鶴見先生、『私は専門外の仕事は金輪際しない』って言いだして外来と当直ボイコットしただろ。鶴見先生が現場の仕事を減らした分、医学部〈脳外〉のヨコイ准教授がしわ寄せ食って無理のし過ぎでうつ病になったって聞いた。ちょうど〈脳外〉のもう一人の准教授が開業するって辞めた時だったから余計大変だったらしいぜ。ヨコイ先生も断ればいいんだろうけど、あの人大人しすぎるからなぁ。〈脳外〉の准教授が二人いなくなったから今度は佐藤先生が駆り出されているんだってさ。佐藤先生も不満なんだろ。鶴見先生の穴埋めをどうしてうちがしなきゃならないんだって。鶴見先生のところで賄えよってさ」
 遠野はその時の状況を思い出した。
 鶴見先生が当直を免除され、大学病院診療科の外来も週一回に減らしてもらったと(院内は禁酒のため内緒で)一人祝杯をあげていた。「よかったですね」と医局のみんなで素直に喜んだものの、そんなことがあったとは……。言われてみれば、その頃から遠野の仕事も格段に忙しくなった。二年目となるとこんなものかと割り切っていたのだけれど。
「……うちも、あんまり人がいないんだ」
 申し訳なく思いながら言い訳をする。
 藤村が頷く。
「〈脳神経〉のウツミ准教授、夜遅くに実験してたぜ。鶴見先生から追加実験を頼まれたって言ってた。現場もあるのに大変だよな。ワクイ講師は胃薬持ち歩いていたな……」
「研究費があってもそのプロジェクトで働く人しか雇えないんだ。期限があるし」
 藤村がまた頷く。
「病院側も鶴見先生の要望を断りきれなかったんじゃね。国から大型研究費を二つも当ててるし、製薬会社との共同研究でがっぽり研究費貰ってるんだろ。鶴見先生の資金でだいぶ病院側も施設整備や備品の購入で潤っているみたいだし、国際的にも有名だしな。でも欠員が出たわけじゃないから新しい医師を雇わない。周りにしわ寄せがいく。医者は倒れる。悪循環だよな」
「……ごめん……」
「俺に謝らんでいいよ。鶴見先生もいい年だろ。当直するにも限界があるよな。少しくらい雇ったって焼け石に水ってのも分かるけどさ。病院側も施設や医療機器にばっかり金をつぎ込まず人にもっと金を使えよってな。所詮、俺達って使い捨てだよな」
 藤村は短く笑って遠野の肩に手を置いた、――「元気出せよ」と。

 あの時、藤村は励ましてくれたが、午後のカンファレンス(会議)でも遠野の不安をかきたてる出来事があった。
 センターを兼務する脳神経外科、循環器科、小児科、麻酔・蘇生科等の医師をはじめ、高次集中治療病棟を担当する看護師、検査技師一同がセンター四階のカンファレンスルームに集まり、受け持ちの患者の病態と治療計画を報告していく。
 プレゼンに慣れている医師たちは手持ちの資料を見ることなく、スクリーンに映された映像をレーザーポインターで指し示しながら流れるように進めていく。
 遠野は人前で話すのが苦手だ。大勢の前となればなおさらだ。緊張は秒刻みで増していき、出ない唾液を何度も飲み込む。
 遠野の番になり、午前中に作成した資料を手に椅子をカタカタさせて立ち上がる。てとてととスクリーンの脇に進み出、スクリーンに映し出された画像ではなく、両手に持った資料をとつとつと読み始める。
「脳神経外科の遠野です。昨日、救急搬送された患者 矢野聡史君 一八歳は頭部外傷による急性硬膜下血腫と診断しました。瞳孔は散大し、自発呼吸はなく、脈拍はありましたがチアノーゼ、つまり低酸素血症を起こしていました。血腫による脳の圧迫が深刻と判断し、佐藤医師とともに開頭手術を行い血腫を除去、脳内に溜まっていた血を生理食塩水で洗い流しました。感染症を予防するため内科の藤村医師により胃洗浄を行いました。血圧は最高一一〇、最低五〇で落ち着いているものの、瞳孔は開いたまま、目に光をあて瞳孔の収縮を見ましたが対光反射はなく、自発呼吸もありません。その後、佐藤医師、循環器科の倉橋医師とともに脳低温療法を行い、監視中です」
「待て」
 鶴見が指摘する。
「報告どおりなら矢野聡史は脳低温療法の適応外じゃないか。なぜ治療を行ったんだ」
「……それは、患者と同じ症例が脳低温療法で助かったという報告例がありましたので……。今現在、血圧、脳圧ともにコントロールできています。治療を行う意味はあるかと……」
 小さな声で説明する遠野に、鶴見は更にたたみかける。
「治療が上手く行っているかどうかじゃなく、なぜ治療を行ったかを聞いとるんだ。頭部外傷の頭蓋内出血に脳低温療法を施しても有効性はない。やっても時間と手間の無駄だ」
「……有効性がないとまでは……。急性硬膜下血腫や脳挫傷の患者に脳低温療法を行ったところ明らかな回復を見せたという論文がいくつかあります。……今、持っています……」
 論文を取りに座席に戻ろうとする遠野を、「いらんっ」と鶴見は一喝した。
「脳波は測定したのかね」
 深昏睡、瞳孔散大、七つある脳幹反射の消失、そして脳波測定により平坦脳波が確認できれば脳死と診断される。鶴見は診断を行ったかと聞いているんだと察した遠野は更に口ごもる。
「……いえ、していません。脳波測定技師が不在でしたし、診断より治療が優先されると思いましたので……」
「だから、どうして治療を行ったんだ」
 威圧的な態度で荒々しく詰問する鶴見に、遠野は今にも消え入りそうだ。
 その場にいる医師たちは静まり返り、同席しているセンター長も押し黙る。鶴見は莫大な資金を盾に絶大な発言力を持っていた。センターの主要な設備と医療機器、実験機器のほとんどが鶴見によって揃えられ、維持管理されていた。そのためセンター長でさえ鶴見の発言には口を挟めないでいた。
 全員が沈黙する中、医学部〈脳外〉の佐藤が手を挙げた。
「脳死診断は六時間空けて二回行う決まりです。それでは助かる者も助からない。そう判断し、彼は治療を優先したのではないですか」
 怒りの矛先が佐藤に移る。
「佐藤先生もそばにいたそうじゃないか。なぜ止めなかったね。搬送された時点で深昏睡、瞳孔散大、対光反射も自発呼吸もなかったんだろう。脳死に決まっとる。診断して見切りをつけるべきだったとは思わんのかね」
 佐藤は眉根を寄せ反論する。
「では、『治療をするかどうか決めかねているので診断させて下さい』と家族の見ている前で、患者の顔を針で突き、喉に棒を突っ込み、耳に冷水を流し込むんですか。家族に逆上されるのが落ちです」
「家族に見せる必要がどこにある。いないところですればいい」
 佐藤がすぐさま反論する。
「医師二人が治療もせずこそこそしていたらおかしいでしょう」
 鶴見は納得しない。感情的に資料を叩く。
「脳死じゃなくても脳低温療法の適応外に違いはない。下手に治療しても植物人間を一人増やすだけだとは思わなかったのかね」
 佐藤が言い返す。
「急性硬膜下血腫は極めて予後が悪い。治療しなければ死を待つだけです。血種除去により脳幹への圧迫がなくなり、脳機能が改善する可能性が出てきました。脳低温療法を行うことで患者の意識が回復する見込みはあります」
 鶴見がバンッと机を叩く。
「詭弁だっ。治療する理由にならんっ」
 シンと静かになり、緊迫した空気が流れる。
 佐藤は皆に聞こえるほど大きなため息をつき、ペンを机に置く。相手にする気が失せたというように椅子にもたれ、すらすらと述べる。
「私も当初は適応外と思いましたが彼の話を聞くうち、目の前の患者に最善を尽くすのが医師としての責務であり、また患者の可能性に賭けてみたいと思い直し、家族の了解が得られるならば、という条件つきで同意しました。センターのガイドラインにも『最終判断は治療を行う医師に委ねる』とありますので、私と遠野医師の判断で脳低温療法を行いました。……いけませんでしたか」
 歯ぎしりする鶴見を、佐藤は涼しい顔で受け流した。

 あの時は助け船を出してくれた佐藤教授に心から感謝したけれど、実は単に鶴見先生に対抗したかっただけかも……。脳低温療法を承諾してくれたのも鶴見先生へのあてつけだったりして……。脳低温療法をしている間は脳死診断できない、から。
 ――…………。
 模型の頭(脳)を両手で挟む。この模型は細部まで精密に作り込まれ、色よし、形よし、手触りよしの三拍子も四拍子もそろった優れものだ。実はお気に入りだったりする。
 頭を深々と下げる母親の姿が辛い。なんとかしたい、と思う。しかし、遠野自身、脳死に近い患者を扱うのはこれが初めてだ。研修医時代、指導医とともに脳死患者を診察したことはあるけれど、実際に受け持ったことはない。
 脳死臓器移植に精通している鶴見先生と脳死患者を何度も扱った経験がある佐藤教授がいれば心強い、自分は矢野聡史君の治療に専念できると安心していた。それが……。
 〈鶴見先生と組むなら私は傍観者を気取らせてもらうよ〉
「はあー……」
 模型の顔に額をくっつけ、頭(脳)をポンポンと両手で優しく叩く。模型を通して振動が頭に響き、落ち着く気がした。卓上時計を見る。矢野聡史君の病室に行く時間だ。
「……はぁー……」
 遠野は模型から額を離し、資料を片付けた。

 四代目理事長藤和世光は創立目的であった臨床研究の発展に力を入れようと、一九九七年臓器移植法が制定されたのを機に西病棟を改築し『脳神経医療センター』を建設した。
 そして、アメリカで脳死臓器移植分野において先駆的な業績を積んでいた鶴見をセンター長として迎え入れたのである。
 鶴見はアメリカの合理的かつ効率的な医療システムを持ち込み、脳神経医療センターの基礎を築いた。
 ところが鶴見はセンターの運営が軌道に乗ると「医療と研究に力を注ぎたい」と、理事長、学長以下上層部の再三の慰留も聞かず、二度の任期を終えるや否やセンター長を降りてしまった。
 慌てた上層部は仕方なく、当時一番勤続年数が長く、人当たりも良い神経内科の柳原優二教授を新たにセンター長として任命した。
 センターにある設備、医療機器の大部分が鶴見によって備えられ、鶴見の代わりとして担ぎ上げられた引け目からか、新センター長の柳原は鶴見を無視できなかった。
 研究者でも医学者でもない現理事長にとっても、前理事長に熱望され脳神経医療センター長に迎え入れられた鶴見は頭の上がらない存在だった。
 大学病院の診療科と脳神経医療センターを掛け持ちしている医師たちに限って言えば、毎日押し寄せる外来患者と増え続ける入院患者でパンク寸前の大学病院の診療に追われ、研究を行い、更に医学部生や大学院生の教育指導も行うという、心身ともにギリギリの状態だった。
 そんな状況にもかかわらず、臨床研究へ重点を置く鶴見は専門外の仕事を減らそうと何かにつけてわがままを言い、医局長クラスがそれを容認し、周囲にしわ寄せがいく。
 鶴見が当直と大学病院診療科の外来をボイコットした理由は、専門外の症例や意思疎通ができる元気な患者を診るより、脳死臓器提供対象者になりうる患者を効率的に扱いたいからである。
 そしてその負担の大部分が、鶴見と同じく脳神経医療センターを兼務し、仕事ぶりにも定評がある佐藤に押しつけられた。鶴見が当直をしないと宣言し、佐藤に仕事が流れたのがよい例である。

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