#9

文字数 1,947文字

「橋谷さん、どうしたんですか」

「あ、友達がその教師ってやつとチャットしてるのを見たことがあって、誰なんだって聞いたら冗談交じりに人の殺し方教えてくれるんだって」
 先生は橋谷さんに目をやりながら言う。

「そう。それはぼく。霧島くんたら全く気付かなくて何回も僕のパソコン見る機会あったはずなのにね。面白かったよ、いろんな事情を抱えてる人から連絡が来てさ。下手にやって失敗する人もいたけど成功した人も多かったの。人の成功の手助けをするってホント気持ちいいな」
 ぼくは先生がとんでもない怪物に見えてきた。ぼくには到底あずかり知らぬ、理解できぬ怪物。そんな人を先生と呼んでいたなんて。

 そしてぼくはある事実に思い至った。

 その事実に思い至った時心が冷たくなった気がした。

「僕の母さんは、あの事故は、あれもお前の仕業なのか」
 ぼくの声は暗かった。そして冷たかった。ぼくは自分の声に驚いた。

「やっと気づいた?そうだよ。あれも運任せだったな。交通量が多くて助かったよ」
「そういえばさ、ぼく、自白を聞いた時の相手の顔、一回は見たかったんだよね、もうすぐ死んじゃうからさ。君のも見れてよかったよ。じゃあね」
 そこまで笑顔で言って彼は後ろを向いて歩きだす。

「どこ行くんだ」
「帰るにきまってるじゃないか。後片付けの準備も整ったことだし」
 ぼくは一歩を踏み出した。厨房にあったナイフを持って。

ダンッ

「うっ」

「ははっ」
 先生の口から洩れたのは笑いだ。

「予想通りだ。ふふっ、ありがとう。これでぼくは死ぬまで死神探偵だ」
 すごくうれしそうだ。でもぼくはその笑顔が気に入らない。

「お前がいなければぼくの家族はなくならなかったんだ」

「そうだね。でもぼくは選択肢を与えただけだよ。選んだのもその道を歩いたのも君のお母さんだ。今の君も、ね」
 それだけ言って教師は静かに倒れた。

「うわぁっ。うわぁぁぁぁぁぁぁあ」

「はあっ。はぁっ」
 頭がくらくらする。持っていたナイフを投げ捨てる。

 その勢いでホールを飛びだした。

 何も考えないまま自分の部屋に駆け込んだ。

 まっすぐにバスルームに向かった。嘔吐が止まらなかった。

 何もかもすべてぼくの中から出してしまいたかった。先生との記憶も、ぼくの気持ちも、すべて。でもそれは叶わなかった。

 いっそこのまますべてを終わらせてしまいたかった。すべてを白紙に戻せたらどれほどいいのだろう。誰もが一度は考える幻想。

 これがこれほどかなったほしいと思ったことはなかった。それと同時にもう何がどうなってもいい気がした。自分が分からなくなった。

 どれほど泣いていたのだろうか。いつベッドに戻ったのかすら定かでない。橋谷はどうしたのだろうか。目を覚ました時には、次の日の昼だった。汚れた部屋を掃除することもなくホールに向かった。一人では受け止められなかった。

 ホールにつくと橋谷さんはもう起きていた。それとも一晩中起きていたのだろうか。どちらかわからないほど彼もやつれていた。ぼくはもっとひどい顔をしているのだろう。もう鏡も見たくない。教師の死体はもうなかった。彼が片付けたようだ。

 彼はグラスを傾けていた。

「お酒、いりますか」
 橋谷さんはぼくに向かってそう言った。

 気が利く人だな。そう思った。

「ああ。うん、もらうよ」
 アルコールの力でこの悪夢を吹っ飛ばしてしまいたかった。

 手を伸ばしてお礼もせず缶を受け取る。

 ふたを開けて中身を一気に流し込んだ。

 そして、

「うっ」

 体が熱く痛い。

 橋谷のほうを見た。

 彼はピアノの前に座っている。

ぼくは彼の顔を見てすべてを悟った。

「そうかお前も——」
 教師の依頼人だったのか。

「ぼくは成功したから。生きてるけど」
 疲れ果てた声で橋谷は言った。

 すべてがつながった。

 ピアノの音が聞こえた。どこか暗い曲だ。悲しく、静かな音だった。
まるで哀悼歌だ。誰への曲だろう。

 昔の先生、奈森さん、占部さんそれともぼくに対してだろうか。願わくば教師こと岸野崇あてではありませんように——。

 頭の奥で先生の声がする。

——ぼくに犯行を知られたものは必ず死に至る。ふははっ。嬉しいよ。最後まで君は目的を果たせなかった。

 それを最後にぼくの意識は途絶えた。

 何も残らなかった。


 その後、橋谷は屋敷に火をつけ、自分も毒をあおって死んだ。
 橋谷が付けた火は岸野が準備していた爆弾に引火し、嵐だったにも関わらず館は原形をとどめないほどに燃え、崩れた。
 館はなくなった。
 この事件を知る者は一人もいない。世間では大きな騒ぎになった。有名な探偵、ピアニスト、作家、教授が一斉に行方不明になったのだから。でもだれも館で起こったことは知らない。
誰にも知られぬまま、そして、誰もいなくなったのである。


     Fin.
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