第3話

文字数 2,014文字

 押し寄せる日常の仕事の中で、いつしか胸のざわめきは消えていった。
 帰宅した康介に、妻が蒼白な顔で駆け寄ってきた。
「あなた! 東山先生が逮捕されたわよ、知ってました?」
「え、初めて聞いた。いったいなんで?」
「それがセクハラで、女子学生に怪我をさせたって。ニュースに出ていたわ。あの学長候補の立派な方が、信じられない」
 良子が、目を白黒させながら康介を見つめている。
「何かの間違いじゃないのか――」
 康介は、まさかと思っていたことが現実となり、背筋に戦慄が走った。
「拘束されたのがホテルの部屋だっていうから、いい訳は通らないでしょう」
「ホテルの部屋――、なんでまたそんなところに」
「そのホテルのレストランで、卒論の指導を受けていたらしいわ」
「なぜ部屋まで、一緒に入ったんだろう――」
「騙したに決まってるじゃない! ほんと、見損なったわ、あの方」
「それで奥さんと連絡はとれたのか?」
「だめ、携帯もつながらない。和子さん可哀想。こんな裏切りって許せないわ!」

          ***

 実は少し前、康介は、浮上していた彼のセクハラ疑惑をそれとなく探っていた。世間にとやかく言われるようなことはなかったが、妙に引っかかるものがあった。
 康介は東山を誘い、小料理屋の暖簾をくぐった。
「ところで東山、リフレクションって知ってるか?」
「何だよ唐突に、言葉としては知ってるが、俺の絵画のテーマではない」
「もしかして今のお前の心境がと――あくまでも仮設だ。気にするな」
「なんだ、俺に説教する気か。お前も偉くなったな。まぁ、冗談だ」
 東山は横顔に憂いの笑みを見せ、ビールを含んだ。
「いや、説教と取ってもらったほうがいい。お前は今、大事なところにいる」
「なんだよ、今度は脅かすつもりか」
 東山の目は、笑ってはいなかった。
「例えば、例えばの話だ。鬱蒼とした森に、鏡面のように滑らかな沼がある。沼は引き込まれそうな深い底を覗かせている。近づくと、水中に真っ白な野バラが咲いている。ふと見ると、それは岸辺の野バラの生き写しだった」
「生き写しって、それがリフレクションだろ。そのぐらいは俺も知ってるさ。それが今の俺の心境とどう関連するっていうんだ。何が言いたいんだ!」
 東山の目に怒気が現れた。だがその底に、怖れのようなものが見える。
「おまえ、どちらの花に興味を持つ? いや、はっきり言おう。どっちを手にしたい?」
「うーむ、そう言われるとちょっと迷うな」
「そのとおりだ。男なら、いや女でも、誰でも迷うはずだ。何故だ? 現実の野バラには鋭い棘がある。水中花は、あくまでも優しい。だが、そこに足を踏み入れた瞬間、幻影は消滅する。代わりに口を開けるのは底なしの沼だ」
「なるほど、確かに。水中に揺らめくものには魔力があるな……」
「だろう。誰かが言っていた。深淵を覗くなと。避けるにはそれしかない」
「わかったよ。お前の言いたいことが。ところでなぜ、俺の心の奥がわかるんだ? もしかしておまえも――」
 東山の黒い目が、光を増したように感じた。
「まさか、俺のような堅物には縁のないことだ。あくまでも絵画から得た知識だ」
「そうだなと言えば失礼にあたるか。でも、心配するな。俺は誤解されているだけだ。敵も多い。神に誓って悪いことはしていない。大丈夫だ」
「それはそうだ。俺は信じている。悪かったな。さあ、たまにあのころにもどって飲み明かそう」

          ***

 それから間もなく、被害者の女性は心因性ショックで退学し、追いかけるように東山の妻が中央線で投身自殺したと伝えられた。
 その後東山は執行猶予付き強制わいせつ罪の刑が確定し、大学を追われた。
 枯葉が街の片隅で音を立てるころ、東山からカナダの小さな美術大学の助手として落ち着いたという手紙が届いた。確かそこは以前、東山に学長の誘いがあった大学だった。手紙はおよそ次のような内容だった。
「お前には謝らなければならない。貴重なアドバイスを受けながら、たった一人の友人に醜い姿を晒してしまった。今はこの地で孤独な時がゆっくりと流れていく。ロッキー山脈を眺めていると、一緒に登った北アルプスの山々を思い出す。あの時妻の勧めで来ていれば、こんな事件を起こさなかったかもしれない。水晶のような世界を歩み続け、人間の淀みを見落としてきた報いなのだろうか。被害者と妻には本当に申し訳ないと思っているが、お前にだけは最後まで信じてもらいたい。犯罪心理捜査官が気になることを言っていた。もう一歩踏み込むと救いようのない事件になったと。深淵に潜むものを見極めた時は、同時に自らの闇を呼び覚ますらしい。不思議なことに、その闇の色は白いそうだ。それだけは気をつけてくれ。あとはもう俺を理解しようとはするな。お前が怪物になることだけは避けたい」
 最後は意味不明な言葉で結ばれていた。
 ただ、白い闇とは何なのだろう……。それだけが、心に残った。
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