第5話

文字数 2,015文字

『猫なわたしたち』


「その笑顔気持ち悪いんだけど」
その言葉を聞いた私は大げさに驚いたような顔をして見せて口に手をあてた。
「ひどい~なんでそんなこと言うんですか?」
男はそんな私を軽く睨むと私の前から去っていった。
(相変わらず上司にしか媚びない男。まあ、私もか)
ふうっと小さく息を吐いた私は、姿勢を正したパソコンの前でカタカタカタと音を鳴らす社員たちを見つめた。

私のこの職場には30人ほどの社員がいる。
ザ・ビジネス街みたいな街のど真ん中に高層ビルとはいえない、ほどほどの高さを持っているのが私の会社だ。
だからこそ会社自体はそんな大きくはないもののそれぞれフロアーごとに部署が分かれている。
こんな狭いワンフロアーに30人も人が集まれば人間関係はまあまあ複雑にできあがるものだ。
だが、ここで生きていかなければお金がもらえなくて生きてはいけない。
だから、私は飼い猫になった。
ここで生きていくために。
なによりも自分のために。

まず、ここの部署のお局さんには必ず媚びを売る。
そのため、朝早く来てコーヒーを淹れる。
お局さんに淹れるためなんかじゃない。
お局さんに淹れさせないため。
仕事を先回りして手伝うことが重要なのだ。
そして、仕事を奪ったと思わせないために、もちろんお局さんの分も淹れデスクまで運んだときに・・・
「おはようございます、マキさん。コーヒー淹れました。マキさんみたいにうまくは淹れれなかったんですけど」
なんて一言を付け加えることで、お局さんは少しでも気を良くしてくれる。


そして何より重要なのは、この部署のトップである部長。
部長に対しては、頼まれた仕事はどんな時でも笑顔で受ける。
たとえ、できないだろ!こんなの!と叫びたくなる仕事でもだ。
それからプライベートの話は笑顔で聞き取り、ふとした瞬間に話題を振る。
「あ、そういえば、アキト部長。息子さんのサッカーの試合どうでした?」
なんて言って。
この部署にはもちろん合わない人間もいる。
さっきの男もそうだ。
笑顔が気持ち悪いとか、もっと痩せろ、とかやたら注文をつけてくるくせに、上司には従順で私以上に媚びている。

そんな奴にはいくら媚を売ったところで何も得ることはない。
だからこそ愛想よく振舞うのだ。
言いたいことを言わせて、愛想よく頷いて笑顔を作っていればそのうち去っていく。
さっきのように。

それから・・・
私は私の横に座る女の人を見つめた。
私と対して歳は変わらないが、入社したのは彼女の方が早かったので私の先輩にあたる。
私は思う。
この人はこの世界に興味がないのだと。
つまりこの人は

「あんたさあ」
私は驚いた。
いきなり声を掛けられたからだ。
「は、はい」
私をぼーっと突っ立ていたので、急いで自分の席に座り直し、先輩に向き直った。
こういうときに言われる言葉はだいたいわかっている。
媚を売りすぎてうざい、きもいとかそういった言葉だ。
そして、そんな女の人たちに対してどうやって媚びを売るかも私は
「すごいよね」
「・・・え?」
思わず瞬きをした。
先輩は、パソコンのデスクトップから視線を私に向けると優しく微笑んだ。
「私にはできない。あんたみたいに。正直尊敬するわ」
私は驚いて言葉が出なかった。
でも、実は気がついていた。
この先輩となら、正直な話ができるのではないかと。
それがこの人との上手くやっていける方法であることも。
「そ、そんなことありません。私はただ自分のために・・・。相手が気持ち良くしてくれればこっちも気持ちが良くなるだけで。自分が楽しければいい、そんな考えの人間なんですよ」
「ふうん。尚更すごいと思うけど」
私はさすがに照れてきて顔を下に向けた。
でも、だいたいの人は私の行動をうざったがる。
だから聞くことにした。

「うざくないんですか?」
「何が?」
「私が。媚びを色んな人に売りまくってて」
先輩はきょとんとした顔をしたかと思うと、また微笑んで答えた。
「媚びを売ることを悪いことだなんて思ったことない。ただ、私は上手くできなくて」
先輩はそう言って斜めの席を見つめた。
その席は例のあの男の席だった。
二人はあまり仲が良くなかったのだ。
少し前に職場の雰囲気がかなり悪くなるほどの言い争いをしていた。
私は、そんな先輩をじっと見つめた。
「あの、サヤカ先輩」
先輩は私に視線を戻した。
「媚びの売り方教えましょうか?」
先輩は吹き出して、私を小突いた。
「ばか、調子乗んな」
そう言った先輩を見て、私も笑った。
やっぱり先輩は誰にも媚びを売らない。
そしてこんな狭い世界とはちがう世界を見ている。
飼い猫なんかじゃない、強い意志を持った野良猫なのだ。
先輩の生き方が羨ましくても私はきっと飼い猫のまま。
野良猫にはなれない。
そして先輩もまた飼い猫にはなれない。
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