第6話

文字数 10,288文字

「ねえ、一体何を見ているの?」と私は思い切って声をかけてみる。もちろん普段はそんなに積極的な方じゃない。見ず知らずの若い男性に声をかけるような。でもそのとき気付いたのだが、彼はまったく見たことのない人物というわけではなかった。以前大学の中庭で何度か顔を見たことがある。おそらく学部は違うけれど、同じ大学に通っている学生だ。

 彼はふと顔を上げる。髪の毛が雨に濡れている。その顔を見て、私は一瞬ドキリとしてしまう。というのも彼は、正直なところこの世に生きている人間のようには見えなかったからだ。生気がなく、目の焦点が定まっていない。あるいは一種の病気なのかもしれない、と私は思う。精神的な病気。

「いや、大したものじゃない」と彼は少ししたあとで言う。そして私の顔をまじまじと見て、こう付け加える。「前にどこかで会ったっけか?」と。

「たぶん同じ大学の学生だと思う」と私は言った。「中庭で何回か見かけたから」

 彼はそれを聞くともなく聞いていた。正直なところ、私の話なんかどうでもいいと思っているみたいだった。その意識が本当の意味ではここにはいないことを私は本能的に感じ取った。彼はここにいるけれど、本当にはここにはいない。本当の彼はどこかその辺をふらふらと彷徨(さまよ)っているのだ。

 もっとも私としてはのこのこと引き返すわけにはいかなかった。というのも今彼に心から興味を惹かれていたからだ。男性として惹かれているというわけではない。一人の人間として、いわば病める精神としての彼に心を惹かれていたのだ。この男は明らかに何かの瀬戸際にいた。私だって何かの瀬戸際にはいるのだけれど、それよりもっと切羽詰まった状況に彼は置かれていた。どうしてだろう、と私は思う。何か具体的なきっかけがあったのだろうか? たとえば家族が亡くなったとか。恋人を失ったとか。でもそういった話題に踏み込むのはまだ早い、と私は思った。とりあえずは彼の意識を現実に引き戻さなければならない。

「傘、差さないんだね」と私はとりあえず言ってみる。そしてさりげなく彼の隣に行く。実をいえばそこから何が見えるのか、心底知りたいと思っていたのだ。でもそこにあるのは水かさを増した川に過ぎなかった。彼がじっと睨んでいたところを見てみても、何か特別なものがあるとは思えない。カラスが一羽、どこか遠いところで鳴いていた。

「ねえ、こういう話を知っている?」と突然彼は口を開く。

「どういう話?」と私は言う。そして彼の顔を見る。でもその目は、遠くの何もない空間をぼんやりと眺めている。

「あるところに一人の男がいる」

「うん」

「彼は散歩をするのが好きで、毎日いろんなところに行く」

「うん」

「自分の住んでいる街はもう大方歩き尽くしてしまった。それで彼は隣街に行くことにする」

「どれくらい遠く?」

「そうだな。歩いて丸一日かかる場所にある」

「車に乗ってそこまで行くという選択肢はないの?」

「それはない。なぜなら自分の足で歩いていく、というのが彼が自分で定めたルールだったからだ。そうしないと意味がないんだ。分かる?」

「まあ、なんとなく」

「そう、それで彼は歩いて隣街を目指す。自分の街の一番端まで来ると、彼の胸は高鳴った。俺はこれから未知の場所に行くのだ、と彼は思った。でも実際にあったのは、延々と続く退屈な道路だけだ。彼はただひたすら歩き続けていく。同じペースで。極力何も考えないようにして」

「そんなことできるのかな?」と私は言った。「何も考えないで歩くなんて」

「簡単ではないが、不可能ではない」と彼は言った。「とにかく同じペースを刻み続けるんだ。まるで機械みたいに。そうすれば思考は(おの)ずと消え去る。あとに残るのは風のような心持ちだけだ」

「あなたにはそれができる?」

 彼はそこで少しだけこちらを見て、首を振った。「僕にはできない」

「それで、その男はどうなったの?」

「そう、彼はとにかくそうして歩き続けていた。坂道があったり、曲がりくねった個所もあったりしたが、とりあえず道は続いていた。だから迷うことなく彼は進み続けることができた。しかしそろそろ着きそうだ、というところで川にぶつかる。そこには非常に危なっかしい吊り橋が架かっていた。彼はそれを見て、立ち止まった。そしてこう思う。これは本当に危ない橋だぞ、と」

「川をじゃぶじゃぶと突っ切ってしまう、という選択肢はなかったの?」

「いや、それはない。というのもそれは深い川だったし、流れも速かったからだ。それにもし突っ切ることが可能だったとしても、彼はそれを選択はしなかっただろう。なぜなら彼の個人的なルールに反することだからだ」

「ふうん。いろんなルールがあるんだね」

「まあね。彼はそういう男だったんだ。自分でこうと決めたルールはとことん守る。たとえそれが死を意味していたとしても、だ」

「その吊り橋は死にそうなほど危険だった、ってわけ?」

「まあそうだ。一歩足を踏み外せばまっさかさまに落ちる。それにきちんとまっすぐ歩いていたとしても、彼の重さで足元の木が外れてしまうかもしれない。そんな感じの橋だったんだ。彼は一瞬このままもとの場所に引き返そうか、と思う。というか、どう考えてもそれが最も合理的な考えだった。俺は好奇心に駆られてここまでやって来た。でも命までかけるほどの旅じゃない。今までいた街に戻れば、それなりに快適に暮らせる。家族もいるし、恋人もいる。仕事だってある。食べ物にも困らない」

「なかなかうまく行っている街だったんだ」

「まあそうだね。問題という問題はなかった。もちろん大気汚染とか、政治家の汚職とか、どこにでもある問題はあったがね。ごく普通に暮らす分には問題ない」

「それで、彼は帰ったの?」

「いや、帰らなかった」と彼は言った。そして一度だけ天を見た。「雨がまた強くなってきたな・・・。まあいいや。とにかくその男は先に進むことに決めた。つまりその非常に危なっかしい橋を渡ることに決めたんだ。なぜなら風にそうするよう促されたからだ」

「風に?」と私は言った。「それは・・・つまりどういうこと?」

「ええと、言ってなかったかもしれないけれど、彼は風と話をすることのできる男だったんだ。もちろんすべての風と話せるわけじゃない。いろんな条件が揃ったときに初めて、会話を交わすことができる。それだって支離滅裂になることも多かったけれどね。とにかく、そのとき彼は橋のすぐ手前で、ある風の声を聞いた。前に進みなさい、と。でも彼にはよく分からなかった。どうして自分が先に進まなければならないのか。それでこう訊いた。どうして僕はそんな危険を冒さなければならないのですか、と。すると風はこう答えたんだ」

 そこで一陣の風が吹いた。私にはそれは意図を持った風であるように感じられた。雨が一瞬だけ弱まり、彼と私だけがある意味で世界全体から隔離されていた。そういう気配があった。

「風はなんと言ったの?」と私は言う。

「うん」と彼は言う。「風はだね・・・。ええと・・・そう。こう言った。北の夢」

「北の夢?」

「そう。北の夢・・・。東の窓。南にある草原。西から太陽が昇ってくる、と」

「それは・・・一種の暗号だったの?」

「まあ暗号というよりは詩みたいなものだけどね」

「風の詩」

「そう、風の詩だ」

「それで、男はどうしたの?」

「彼は・・・よくは分からなかったけれど、とにかくその文句をつぶやいてみることにした。というのも風の言葉はいつもそんな感じだったからだ。すっと理解できる形でやってくることの方が珍しいんだ。彼は小さな声でつぶやいた。北の夢。東の窓。南にある草原。西から太陽が昇ってくる、と」

「西から太陽は昇らないよね」と私は言ってみる。

「そう、もちろん西から太陽は昇らない。太陽は東から昇るものと決まっている」

「じゃあ東の窓からは何が見えるんだろう?」

「そうだな・・・。僕にはよく分からない。でもとにかくその男はその文句をつぶやいた。意味のことなんか考えないでね。北の夢。東の窓・・・。そうしているうちに自然に足が動き始めていた。恐怖心はどこかに消え、かつていた街に対する思いも消えていった。彼はただ目の前のことだけを考えていた。危なっかしい橋が危なっかしいことも忘れた。とにかく一歩一歩足を踏み出すこと。それだけが彼の意識にあることだった」

「そうやって渡り切った」

「そう。彼は渡り切ることができた。渡り切った直後に、橋は突然崩れ落ちてしまった。きっと真ん中あたりのロープが切れてしまったんだろうな。男は一度だけ立ち止まって、その様子を見る。たった今自分が渡ってきた橋が、跡形もなく消えてしまった。もはや戻ることはできない。もともとそんなつもりはなかった。彼はただ単に、ちょっとその先に何があるのか見てみたいだけだったんだ。でも風に促されて、こうしてこちら側にやって来てしまった。そしてやって来てしまった以上、引き返すわけにはいかない。彼はとにかく進み続けなければならなかったんだ」

「そしてもう一つの街に着いたの?」

「いや、その前にちょっとした事件があった。彼は前を向くと、ほとんど何も考えずに歩き出した。もはや風の助けは必要なかった。ついさっき教えられた文句を頭の中でつぶやきながら、一歩一歩確実に進んでいく。それ以外のことなんてどうでもよかった。

 もっとも道はそれほど歩きやすいものではなかった。曲がりくねっていたり、草が生えていたり、岩が転がっていたり、そういう障害物がたくさんあったんだ。深い森のような場所も越えなければならなかった。鬱蒼(うっそう)とした木々が彼を見ている。鳥の声が聞こえるが、その姿までは見えない。それは今まで一度も聞いたことのない鳥の鳴き声だった。甲高く歌うように鳴いたかと思えば、突然低く、不気味な響きを帯びる。これは一体どんな姿をしている鳥なんだろうな、と彼は思う。

 と、そのとき一人の老人に出会う。彼は粗末な服を着て、道の真ん中で胡坐(あぐら)をかいて座っている。尋常じゃない雰囲気が滲み出ている。もっとも男は怯えたりはしなかった。とにかく進み続けることに忙しかったからだよ。

 すぐ近くにやってきて、その老人が盲目であることに彼は気付いた。老人は目の前の空間を睨み――どうやら何も見えてはいないらしかったが、何かを睨んでいるようには見えた――ひたすらブツブツと何かをつぶやいていた。男はふと立ち止まった。『ねえ、何をつぶやいているんですか?』と彼は訊いた。

 すると老人はこう言った。『それをあんたに教える代わりに、あんたの言葉を教えてくれないか、と』

 男は少し考えていたあとで、その取引に乗ることに決めた。彼には興味があったんだ。老人はこんな場所で、一体何を真剣につぶやいていたのか、と。

 まず彼が自分の言葉を教えた。橋を渡るときにつぶやいていた、例の風の詩だ。それを聞くと老人はこう言った。

『なあ、その言葉が何を意味しているのか知っているのか?』と。

『いや、全然分かりません』と男は正直に言った。『ただ響きが良かったので、拝借させて頂いたんです』と。

『君は夢を見ていたんだ』と老人は言った。『それが北の夢ということの意味だ』

 男は頷いた。

『東の窓に映るのは死だ。君は死に向かって歩いてきたんだ』

 男は頷いた。

『南にある草原には、風が吹いている。君はその風の言葉を聞いたんだ』

 男は頷いた。

『そして西から太陽は昇る。それがどういうことか分かるか?』

 分かりません、と男は言った。

『それはつまり君はすべてを逆さにしなくちゃならない、ということなんだ。君はもうもとの場所に戻ることはできない。もしできたとしてもそれはもう以前と同じ場所ではない。なぜなら君自身が逆さになっているからだ』

 男は頷いた。

『じゃあ私の文句を教えよう』と老人は言った。『でもいいか? これは絶対に他人に教えてはならんぞ。自分の心の中に大事にしまっておかなくてはならない。そうしないと悪いことに利用される恐れがある』

 男は頷いた。そして老人からその文句を教わった。

『あんたはこの先にある街に行く。でもそこは偽りの街だ。姿形(すがたかたち)はごく普通の街のように見えるが、本当はそうではない。人々は偽りの言葉を話し、偽りの日々を送っている。本当のものは何一つそこにはない。なにもかもが体裁を(つくろ)っているに過ぎない』

 男は頷いた。

『しかし、にもかかわらず、あんたはそこで生きなくちゃならない。もちろんもっと先に進めば、別の街もある。でもそれだって似たようなものだ。本質的には何も変わらない。全部見た目だけだ。真実は都合よく隠されている』

『僕はそこで何をするんでしょう?』と彼は訊く。

『逆さのことをすればよい』と老人は言う。『形のないものを見なさい。光の当たらない部分に、光を当てなさい。もちろんそんなことをしていると、君は人々に恨まれることになる』

『恨まれて、除け者にされるかもしれない』

『そう。その可能性は大いにある。でも、にもかかわらず、あんたは真実を見つめなければならない。なぜならそれが橋を渡ったことの意味だからだ。さっき私が教えた文句を心の中に持ち続けなさい。それがあんたを助けてくれるはずだ』

 彼らの会話はそこで終わった。男は礼を言って、先に進んだ。老人は座ったままコクリと頷き、目を閉じた。ずいぶん進んだところで振り返ったが、彼は死んでいるようにしか見えなかった」

「それで、次の街に着いたのね?」

「そう。次の街に着いた。そこは外見だけを見れば、前にいた街とさほど変わらないように見えた。ただ人々のしゃべる言葉が少し違っているだけだ。男はそこで仕事を得て、働いた。結婚もして、子どももできた。でも本当はそんなことには何の意味もないのだと知っていた。こんなのはただの形だけなのだ、と」

「そしてあるとき西から太陽が昇った」

「そう。どうしてそれが分かった? まあいいや。うん。とにかく実際にそうだった。太陽は西から昇った。人々はその事実を受け入れられず、その非を誰かに押し付けようとした。たとえば外国の人間とか。あるいは大気汚染のせいにするとか。でも男はそれこそが真実なのだと知っていた。彼はそこでずっと心に秘めていた例の文句をつぶやきながら、街中を歩き回った。ついにそれを解禁したわけだ。人々は最初は何のことやら分からなかったのだが、その真意を知ったとき、青ざめて、死んでいった。そう、

んだ。彼らは一人残らず死んだ。ただ男だけが生き残っていた。西から昇った太陽とともに。でもそれは実は今起きたことじゃなかったんだ。ずっとそうだったんだ。男には実はそれが最初から分かっていた。すべては夢のようなものだったのだ、と。人々は本当は生きている

をしているだけだったのだ、と。生きているのは風と、一種の言葉だけなのだ、と」

「もしかしてそれで話が終わるの?」と私は訊いた。「もしそうだとしたら、これは今まで聞いた中で一番ひどい話だということになるわね」

「でも現実というのは往々にしてひどい細部によって成り立っている。そこから目を逸らすことはできない」

「男は孤独になっちゃったわけでしょ。人々が死絶えた街で、ただ一人生きなくちゃならない」

「いや、彼は生きてはいなかった。あの橋を渡った時点で、本当は死んでいたんだ。あの橋を渡るとは、本当はそういうことだったんだ。彼はその事実をあとになってようやく理解した。ああ、俺は本当は死んでいたんだな、と」

「それでどうなるの? 彼はただそこで死に続けるの?」

「いや、彼はカラスになった」

「カラス?」

「そう。一羽のカラスに。いや、違うな。数羽のカラス、と言った方がいいか。彼は

になった。そして世界中を飛び回り、いまだ夢を見ている人々に真実を知らせる活動を始めた。まあボランティアみたいなものだ。ほら、あそこにいるカラス。あれも彼の一部だ」

 私たちは彼の指差した方向にいる一羽のカラスを目で追う。気持ち良さそうに、曇天(どんてん)を背景にして飛び回っている。雨は少しだけ弱くなっている。

「あなたって相当変な人だと思う。そのことは知ってた?」

「それは心外だな」と彼は言う。「僕はただ真面目に生きたいと思っているだけだ」

「真面目に、真実を見て生きるの?」

「そう。もちろん。真実を見なければ何の意味もない」

「真実って一体何なの?」

「真実とは・・・分からない。実をいうと僕には何も分からないんだ。分かっているのはときどき太陽が西から昇ることがある、ということだけ」

「ねえ、私がさっきの話の続きを考えてみてもいいかしら? あの妙な話の」

「もちろん。もし続きなんてものがあったら、だけど」

「ええと・・・。そうね、男はカラスになったあと、私たちが住んでいる街にやって来る。そして一人の悩んでいる男を発見する。その若者は、橋の上で根本的な問いに悩んでいる。自分が生きるべきか、死ぬべきか、それを決めかねているの。彼に分かっているのは、このまま生きていたって、何の意味もないということだけ。それ以外のことはなんにも分からない。一体何をすればいいのかも。自分が本当はどんな人間であるのかも」

「そのとき風が吹いてくる」

「そう、風が吹いてくる。それは意思を持った風だった。風はあるメッセージを送る。その若者にね。でも若者は自分の考えに浸っていてなんにも気付かない。目の前にそのメッセージが落ちてきても、全然見ていないの。そこでそのカラスがやって来る」

「カラスはガーガー鳴きながら、若者に知らせようとする。ほら、今重要なメッセージがやって来たよ、と。でも若者はうるさいカラスがやって来た、ぐらいにしか思わない」

「そこでカラスは決意するの。これは荒療治が必要だぞ、とね。そこで神様にお願いして――神様なんてものが本当にいるのかどうかは分からないけれど、とにかく――そのメッセージを一人の女に託すの。若い女。彼と同い年くらい。彼女は頭を空っぽにして散歩をしていたのだけれど、その空っぽになった空間にメッセージが送り込まれるの。そしてそれを言葉にして若者に伝える」

「そのメッセージとはどんなものだったんだろう?」

「それは・・・」と言ったところでちょうど風が吹く。それはどちらにも転び得る、中立的な風だった。たとえば希望に満ちてもいないし、絶望を運んできたりもしない。ただ遠くからやって来て、遠くへと去っていく。大型トラックが、すぐ脇を通り過ぎていく。自転車に乗った老人が、傘を差しながらよろよろと走り去っていった。私は真上を見た。そしてそこから落ちてくる雨粒を、鼻の頭に受けた。一粒。また一粒。彼は遠い目をして、どこか遠い場所を眺めている。私は風が送ったメッセージについて考えている。一体風は何を伝えようとしたのだろう? でもどれだけ考えたところで、そんなことは分からなかった。私に分かるのはただ、彼とこうしてここにいると、少しだけ心が落ち着く、ということだけだ。

「さっき何か投げていたよね」と私は言ってみる。「ここから。川の底に」

「うん」と彼は言う。その目はまだ遠くを見つめている。

「何を投げたの?」

「よく分からない」と彼は言う。その顔は本当に何も覚えていないみたいだった。「何を投げたのか自分でもよく分からないんだ」

 私はそこで彼の手を触る。別に特別な意図があったわけじゃない。彼に気に入られたいと思ったわけでもない。でもとにかく、この人には生身の人間の温かみのようなものが必要なのだ、と思ったのだ。彼はすごく孤独な人生を生きている。誰にも理解されず、誰にも悩みを打ち明けることができない。でもそれはよく考えてみれば、今の私と同じような状況じゃないか?

 彼は驚いたように私の顔を見る。そして一瞬だけ微笑もうとする。その口は何か冗談を言おうとする。でもすぐにまたもとの顔に戻る。孤独な顔だ。彼は死を背負っている。私にはそれが分かる。彼の手は冷たかったけれど、その奥に温かい血が流れていることが感じ取れる。それは私をとても嬉しくさせる。この人はすごく孤独ではあるけれど、かといって世界から隔絶されているわけではない。コミュニケーションの余地のようなものはまだちゃんと残されているのだ。私は彼にメッセージを伝えなければならない。心からのメッセージを。

 しばらくそうしていたあとで、私はこう言った。「雨が強くなってきたみたいだ」と。

 彼は頷き、一度天を見たあとで、こう言った。「そうだね」と。そしてほんの少しだけ涙を流した。私はそれを見逃さなかった。雨に紛れてそれはすぐに流れ落ちてしまったのだけれど、それが涙であることに変わりはなかった。私は彼の手を離し、今度は彼の頬を触ろうとした。ごくさりげない動きで。でも彼はそれをさせなかった。身体の向きを変えて、自然に私の手を(さえぎ)った。カラスが遠くで鳴いていた。

「今日が何かの記念日だったらよかったのに」と彼はごまかすように言った。

「記念日?」と私は言った。記念日? 「それって・・・どういうこと?」

「いや、よく分からない。でもときどき思うんだ。今日こそ自分は変わるのだ、と。今日という一日のことを俺は一生覚えているだろう、と」

「ふうん。それで、あなたは今日という一日のことをずっと覚えていられるのかしら?」

「たぶん無理だろう」と彼は言って笑った。それは自然な笑いだった。「二日間くらいは覚えているかもしれない。でもそのあとはきっと忘れてしまうよ。人間ってそういう生き物なんだ。良くも悪くも」

「良くも悪くも」と私は言った。

「まあ。あとのことはなるようになるだろう。というか、なるようにしかならないだろう。僕に分かるのはそれだけだ」

「じゃあ判断を保留するのね?」

「え?」

「判断を保留するのね?」

「まあ、そういえなくもないな」と彼は言った。

「私も判断を保留する。しばらくは」

「それは悪くない判断だ」と彼は言った。「僕は一生何も決めずに生きていくよ」

「でもそれは大変かもしれないよ。人々はいろんな意見をどっさり持って生きているのだから。正解と不正解をみんな知っているの。何が正しくて、何が間違っているのかを」

「そんなの知ったこっちゃない」と彼は言った。「彼らには彼らの好きにさせたらいいさ。僕は一生ふらふらし続けるがね」

「私はたぶん今日という一日を忘れないと思うな」

「それは」

「それは何?」

「それはよかった」

「そう。それはいいことなの。思うんだけど、人には希望が必要なんだと思うな。大きなものじゃなくていいけれど、それでもそこから夢を拡大していけるような、たしかな希望が」

「北の夢」とそこで彼が言った。

「東の窓」と私は言った。

「南の草原」

「太陽は西から昇る」

「ときには」と彼は言う。

「そう、ときには」と私は言う。

「知ってる? 死者は後ろ向きに歩くんだ。なぜなら・・・死者だから」

「死者だから」と私は言う。

「うん」と彼は言う。「だから僕は後ろ向きに歩く練習をするよ。ほら、マイケル・ジャクソンみたいに」。彼はそこでムーンウォークの真似事をする。全然上手くはないけれど、見ている分には結構面白い。

「でもあなたはまだ死んでいないでしょ」と私は笑いながら言う。

「そんなこと誰に分かる?」と彼は言う。その目は真実を見ている。私にはそれが分かる。

「ねえ、今日が何の記念日なのか分かったぞ」と彼はそのすぐあとで言う。

「何の記念日なの?」

「今日はムーンウォーク記念日だ。後ろ向きに歩き、すべての死者を祝福する。ほら、君もやって」

 私は試しにやってみるのだけれど、全然上手くいかない。通り過ぎる車の窓から、人々がこちらを見ているのが分かる。

「駄目みたい」と私は言う。

「いや、全然駄目じゃない」と彼は言う。「なぜなら重要なのはテクニックではなく、心持ちだからだ。人の精神を救うのは、結局は心持ちなんだ。僕はそれを信じる」

「ねえ」と私は言う。「少しは気持ちが晴れた?」

 彼はムーンウォークをしながら言う。「気持ちは晴れない。でもそれでいいんだ。魂の真の暗闇においては、時刻はいつも午前三時だ」

「何それ?」

「まあなんでもいいさ。いずれにせよ僕は泥沼を這いずり回って生きていくよ。なんとなくそういう運命が目に見えてきた。でもまあ仕方がない。幻想を見続けるよりはましだろう」

「たぶんね」

「たぶん、じゃない。それが真実だ。そしてもしそういう人間に――つまりふらふらして、鬱々として、泥沼を這いずり回っている人間という意味だけれど――君が興味を抱いたとしたら、今度一緒に食事でも行こう。最高に不味(まず)いパンケーキの店を知っているんだ。これはすごいよ。自分で作った方が百倍マシだ。でも食べてみる価値はある。人生観が変わるといっても過言ではない。こんなもので金が取れるのか、とね」

 私は笑いながら言う。「もしそういう気分になったらね。でも私はまだあなたの名前も知らない」

「僕の名前は・・・」と彼は言ったところで、顔色が変わる。突然顔面が蒼白になる。私は心配になって言う。「どうしたの?」と。

 彼は首を振り、何かをつぶやく。でもそんなことも何の助けにもならなかったみたいだ。しばらくそうやっていたあとで、彼はこう言った。

「分からない。

分からないんだ。自分が誰なのか。僕には自分の名前すら分からない」

 もう一度風が吹いたけれど、それは名前を持たない風だった。ちょうど彼と同じように。


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