第1話

文字数 18,177文字

 風の強い夜だった。
 冬支度に疲れたのか、妻の幸(さち)は早くも寝息を立てている。勇(いさむ)も、うとうととしかかった時だった。
 突然、木々のざわめきにカールの吠える声が重なった。尋常な吠え方ではない。勇は飛び起きた。
 納戸から鉈を取り出す。幸も気づいたらしく、出刃を握りしめ後に続く。
「おまえはここに残れ。万一の時は、裏口から村長さんの家まで走るんだ」
あれ、おかしいな――静かになった……。それまで烈火のごとく吠えていたカールの鳴き声が、ピタッと止んでいた。
 外に出て、勇は目を見張った。犬小屋がつぶされ、カールの姿は見えない。嚙み切られた首輪が、その凶暴さを見せつけていた。勇は血で濡れた首輪を、そっと隠した。
 翌日の夜、この辺り一帯の家畜を襲っていた、体重三百五十キロの大きなヒグマが射殺されたと、ラジオニュースが伝えた。
 勇は、四十年ほど前、実家の近くの開拓村で起きたというヒグマの食害事件を思い出していた。当時、羽幌警察分署の巡査だった父は、急遽現場に駆けつけた。酸鼻を極める殺人現場を見慣れていたはずの父が、犠牲になった八人の遺体を見て、半年近くも飯が喉を通らなかったという。
 だがヒグマは、アイヌの時代から神の化身と崇められてきたことも確かだ。その熊が人間を狩り、地獄を見せる。神と悪魔、両極の存在。それは人間の姿、そのものなのかもしれない。
 カールは前任者から譲り受けた犬で、熊を恐れないアイヌ犬の血を引く北海道犬だった。
 突然二人を襲った悲しみは、カールの存在が家族にどれほど温もりをもたらしていたかを物語っていた。だが感傷にふける間もなく、季節は厳寒の冬に突入した。
 北海道オホーツク地方の冬は、吐く息も瞬時に凍る。すさまじい地吹雪が舞い、見渡す限り白銀の世界と化す。人間も動物も、ただ寒さに耐えるという生活を強いられる。二人は、カールをしのびながら、ひたすら酷寒の生活に耐えていった。

 翌年の四月、津別峠へと続く山々にも春の兆しが見えてきた。峠の向こうには、雄大な屈斜路湖が広がっている。その先には、知床連峰の南端に位置する摩周湖が、ひっそりと湖水を湛えている。
 庭の雪も融け、北国の遅い春が、暖かい風を運んでくるようになった。
「ただいま。おーい幸、ちょっと見てみないか」
 勇は玄関の引き戸を開けると、家の中に機嫌のいい声をかけた。その腕にはこげ茶色の可愛い子犬が抱かれている。
「あらっ、可愛いわねー、どうしたの、それっ?」
 幸が目を丸くして、土間に降りてきた。
 子犬はやっと開くようになった目を細め、頭をなでる妻の手に鼻を擦りつけている。
「マタギの源蔵さんのところに寄ってみたら、藁の上に生まれたばかりの子犬が五匹も寄り添っていてね、カールの代わりに一匹あげるよって言うんだ」
「あら、かわいそうに。捨てられたのかしら」
「いや、源蔵さん、狩りのお供にシェパード飼ってたろう。いい繁殖業者が見つかって授かったそうだ。二匹は警察犬に、残りの一匹も買い手がついているらしい」
「シェパード! そんな立派な犬をいただいて、何か、お返ししなくちゃならないね」
 幸が、カールを思い出したのか、横顔に寂しさを滲ませた。
 子供がいない夫婦は、カールを我が子のように可愛がっていた。勇の山仕事にも力強い味方だった。この犬も、きっとカールに負けない、たくましい犬になるに違いない。
「ジャーマンシェパードの血を引くそうだ。育て方は難しいらしいが、源蔵さんに色々とコツを教えてもらった」
 ジャーマンシェパードは世界的に知られた軍用犬で、運動能力、頭脳ともに、最高の使役犬と言われていた。
 二人は、子犬に同じカールと名前をつけ、再び家族の一員として育て始めた。

 北見勇が津別町営林署の担当区主任(現森林官)として採用されたのは今から三年前の昭和二十三年、勇が三十歳、幸が二十七歳の時だった。引継ぎのとき定年退職の先輩は、仕事の段取りと同じ真剣な目で、ヒグマの対処法を教えてくれた。
 担当区主任の仕事は、好きでなければできないと言われる。気の荒い作業者を束ね、時には一緒に丸太を満載した木馬(きうま)を押す。監督の力量と、森林を愛し、そして闘う気概が必要とされた。
 担当区事務所は、津別町から十キロほど離れた村のはずれにあった。事務所といっても、山小屋のような自宅兼事務所。村人と食べ物を分け合い、友人もできるようになった。 
 北海道で、戦後の経済復興の最前線となったのが、国有林を中心とした林業だった。国有林は林野庁の監督下にあり、末端組織である営林署がその管理・経営に当たっていた。
 当時、津別町の林業地帯には、広大な国有林が存在した。良質なカラマツ材が合板に加工され、全国に出荷されていた。
 カールが来てから、北見家に再び明るさが戻った。幸は、子供が授かったように、本当に嬉しそうにしている。
 一週間が経つと、土間を歩き回るようになった。土の匂いを嗅いだり、上がり框の木に鼻を擦りつけている。
 土間の隅に、水を飲む皿と、食べ物を入れるボウルを用意した。
 茹でたジャガイモを入れてやると、まだ短い尾を振りながら、顔ごと器にうずめ、わき目もふらず口を動かしている。幼い犬が、与えた餌を美味しそうに食べるのを見ることが、こんなに嬉しい気持ちにさせるとは夢にも思わなかった。 
 ジャーマンシェパードのしつけは確かに難しかった。
「しつけは褒めることと、少々のおやつを」という源蔵の言葉を思い出した。マタギの生活は苦しい。源蔵は熊以外にも、うさぎやキツネも狩るので、干し肉を小さく切りおやつに使うのだと言っていた。だが勇の家にしても、夫婦が食べるのもやっと、おやつなどあるはずがない。
 幸い山暮らしでも、網走からやって来る行商人のお陰で、ホッケの干物だけはいつも軒先に下がっていた。
 幸は、カールの好きなジャガイモ、ホッケ、それに大根の葉っぱを練り合わせ、小さな焼き団子を作った。カールの訓練に、これは驚くべき効果を発揮した。
 雄のカールにとって、「来い」を覚えさせるのが一番難しかった。
 だがこの指示は一番重要だ。万一熊に遭遇した場合、むやみに向かっていくことは絶対に避けなければならない。「来い」の一言で、すぐに飼い主のところに戻る必要がある。だが「来い」は、飼い主と犬との強い信頼関係がなければ成り立たない。
 最後の仕上げに幸が挑戦した。「カール、来い」幸の優しい声が響く。
 カールは相変わらず、尾を小刻みに振りながら、クマザサの中に鼻を擦りつけている。
 この「臭い嗅ぎ」は、犬にとっては重要な習性だ。人間は情報なしでは生きていけない。犬もこの行動により、その場所を通り過ぎた動物の種類、大きさ、脅威など、過去と現在の情報を同時に知ることができる。
「カール! 来いっ!」幸が再び大きな声を上げた。
 カールがビクッと反応した。体を瞬間的に翻し、一目散に幸の元へと駆け寄った。
「おすわり!」幸が続けた。カールは、地面の尾を左右に振りながら、従順な目で幸を見上げている。「よーし、よし」幸は、自分が丹精込めたおやつをカールの口に入れた。カールは喜んで口を動かしている。
 幸の目が潤んでいる。勇も熱いものが胸を突き上げてきた。カールは間違いなく、二人の子供となった。

 勇は毎朝、国有林の管理の仕事で山に出かけていく。
 今朝も、ごつい自転車にまたがった。見違えるように大きく成長したカールが、尾を振りながら、地下足袋にゲートルを巻いた勇の足にまとわりついてくる。
「よーし、よし、来年からは一緒に仕事に行くからな」
 勇は、カールの頭を撫でると、ペダルを勢いよくこぎ出した。それを見送るモンペ姿の妻とカールの目は、同じ光を湛えていた。
 山深く分け入る勇の仕事で、最も危険なことは熊との遭遇だった。これまで無事にこられたのは、初代カールのお陰だ。二代目カールも、もう少しでその後を継いでくれるだろう。

 翌年の秋のことだった。
 勇は久々に我が家に帰った。今年は大規模な植林作業があり、ドラム缶風呂に入りながら、作業者と一緒に造林小屋に泊まり込んだ。
 たくましく成長したカールを連れ、再び国有林管理の業務に就いた。
 その山には、丸太の馬搬に使う山道が頂上まで延びていた。今日の仕事は、盗伐パトロールを兼ねた路面の安全点検だ。
 その年は冷夏のせいか、落ち葉から顔を出すドングリの実はわずかだった。今にも雪に変わりそうな冷雨(ひさめ)が降り続いている。勇はゴムの雨合羽(あまがっぱ)に身を包み、木の根が縦横に走る山道を登っていた。
 カールは時おり、しなやかな筋肉で覆われた体をぶるぶるっと震わせ、まとわりつく水滴を弾き飛ばしている。
 勇は、まだ頂上が見えない山を見上げた。糸雨(しう)が顔を濡らし、フードの隙間から首筋を伝った。
 押し寄せる原生林に、腕の太さほどもある山葡萄の蔓(つる)が絡まり、林床(りんしょう)はクマザサに覆われている。
 カールが立ち止まった――。
 水平にした太い尾がゆっくりと揺れている。両耳をピンと立て、鼻をかすかに動かしている。 何かの存在を察知したのだろうか……。
 熊は大型になるほど用心深く、山の頂上を中心に行動する。だが今年は餌不足で、油断はできない。
 降りしきる針のような雨が、木々を吹き抜ける風を遮っていた。木の実の熟した匂いだけが漂っている。
 勇は静かに声をかけた。「カール、どうした? 何かいるのか――」
 カールはふと我に返ったように、長い舌を出した。尾から緊張がとれ、穏やかに揺れ始めた。
「大丈夫だ。頂上はもう少しだ」勇はカールの首を撫でた。
 カールは安心したように、尾をなびかせ、勢いよく山道を走って行った。頂上に近づいた時、先に安全を確認するのがカールの役目だった。
 勇は、盗伐者が残す路肩の崩れを点検しながら、歩を進めた。山道は急な曲がりに差しかかった。向こうに頂上が見えてきた。
 その時、目の前に起こった異変に凍りついた。
 岩陰からのっそりと褐色の塊が現われた。遠目に見ても三百キロ超、かなり大きい。
 熊は立ち止まり、値踏みするようにじっとこちらを見ている。ルソンのジャングルで、ゲリラ兵の銃口が光った時以来の恐怖。あの時は敵の銃身も震えていた。だが、目の前の熊にひるみはない。熊の脳裏にあるものは何か。獣たちの棲みかに踏み入ることへの警告か、それとも最初から屠るつもりか。天秤にかけられた命――。
 勇は目をそらさず、一歩、また一歩と、後退りした。その動きに合わせるように、熊は大きな足を前に進めてきた。背中が異様に盛り上がっている。雨に打たれる耳が、こちらに向かって立っている。攻撃の準備に入ったのだ。この駆け引きは凶と出た。勇は立ち止まった。
 静かに腰の鉈を抜く。熊は一瞬、刃物の鈍い光に反応の色を見せた。だが、肩で歩くように、ゆっくりと近づいて来る。勇は覚悟を決め、ぬかるみに足場を固めた。熊は、二十メートルほどのところで動きを止めた。
 周りを窺いながら、低く唸り始めた。カールの存在を気にしているのかもしれない。勇は鉈を隠した。最後の最後まで、手の内を明かしてはならない。
 あのとき熊は、勇たちの近くにいたに違いない。カールは雨の中でも、人間の二千倍と言われる嗅覚でそれを察知し始めた。自分が、それを中断させてしまった。
 勇に反撃する意志がないと見たのか、熊は地を這うように詰めてくる。熊は骨格が大きかったが、痩せていた。真っすぐに勇を見つめ、威嚇するように唸り声を上げた。飢餓と攻撃の興奮からか、よだれをだらだらと垂らしている。冷たく光る黒い目。全身から、今にも襲いかかろうとする殺気が漂ってくる。
 突然、地響きを上げ突進してきた。ここで背を向けると生還の道は閉ざされる。果たして熊は目と鼻の先で止まった。先輩が言った通りだった。ヒグマだけが持つ奇異な習性。威嚇突進。ほとんどは脅かしで終わるが、稀に餌食となり骨までしゃぶられる。どちらに転ぶかは神のみぞ知る。紙一重の判断。この瞬間が熊を撃退する最後のチャンスとなる。ふと、熊の目に憎悪の色がないことに気づく。従順な眼差し――おやつを前にしたカールの目だ。フードを叩く雨音が戦慄となり、足元へと降りて行く。勇は隠していた鉈をゆっくりと持ち上げた。隠された人間の牙。無濁な目が、振り下ろされようとする刃の光を追う。目の奥に、刃とは違う、柔らかな光が見える。勇は、雨に打たれる十勝石のような目に、どうしても刃を浴びせることができなかった。
 その間、数秒、千載一遇のチャンスは去った。
 熊が、大きな爪を振りかざし、鉈を振り払った。牙を剝き出し、勝ち誇ったような咆哮を上げる。雨合羽のフード越しに左右の衝撃が走る。獰猛な顔が迫る。ぬるく生臭い息、獣臭が鼻を衝く。赤い舌、黄色い牙が迫る。勇は必死に払いのける。力が尽き、岩のような巨体が圧し掛かってきた時だった。
 腹に響くようなカールの吠え声が聞こえてきた。熊の背後に、一直線に疾走してくるカールの姿が見える。カールは路面に残像を残し、宙を舞った。カールの牙が、熊の右手をしかと捉える。二頭の獣は、その場でもつれ合った。
 勇は鉈を拾い、転げ回るカールを助けようと身構えた。カールは振り回され、地面に叩きつけられても、喰らいついたまま離さない。熊はついに反撃をあきらめ、クマザサの中へと逃げていった。
 勇は、路肩でうずくまるカールに駆け寄った。後ろ足の傷から血が滲んでいた。熊を察知することができなかったことを悔やむように、弱弱しく地面に伏せている。
「カール、私がわるかった。助けてくれて本当にありがとう!」
 カールは、「ありがとう」という言葉を聞くと、初めて尾を嬉しそうに振りながら、体を擦りつけてきた。
 勇はカールの首を抱きよせ、全身をさすってやった。カールの目に、やっと安堵の色が戻ってきた。
「カール、今日はもう帰ろう。家に帰って早く治療をしなくちゃな」
 勇は、カールの応急処置をすると、山を降り始めた。
 麓(ふもと)に着き、恐る恐る、勇は振り返った。雨脚が強さを増し、何もなかったように、山の陰影を覆い隠していた。
「あんた、どうしたの! 顔が傷だらけで赤く腫れている。それにカールも怪我をして――」
 幸は、勇とカールの尋常ではない姿をみて目を見張った。
「今日はカールに命を助けてもらった。先ずはカールの傷の手当だ。それから、温かい汁かけご飯を食べさせてやってくれないか」
 カールの活躍を聞いた幸は、涙を流しながらカールを介抱した。
 二人の様子に、カールは重大な任務を果たしたことを実感したのか、満足そうに二人の頬を舐めている。汁かけご飯が出ると、尾を痛々しく振りながら、ボウルに顔をうずめていた。
 勇は思い出していた。なぜあのとき鉈を振り下ろさなかったのか。熊の目の奥に、踏み入ってはならない何かが、確かに見えた。恐怖が畏怖へと変わった瞬間、自分も一頭の獣となった。崇高なものを打ち砕こうとする人間の牙が、ひどく滑稽なものに思えた。

 季節は巡り、また秋がやってきた。
 その日勇は、索道の安全点検のため、早朝に山へと向かった。集材装置は六時に動き出す。当時は林道敷設の途上で、切り出した丸太の集材は、架線に吊り下げ移動する索道が主流だった。
 山岳地帯を張り巡らす集材用架線は人身事故も多く、索道の安全管理は勇にとって最も重要な仕事の一つだった。
 徐々にペダルをこぐ大腿部が悲鳴を上げ始めた。自転車を隠し、黒く湿る林道を歩き始めた。
 木漏れ日が、薄暗い路面に光を落としている。カールの背中で揺れる光と影が、その精悍な体を浮かび上がらせている。
 ふと見ると、車寄せに、錆びついた青いトラックが停まっていた。少し気になったが、この山には民有林もあり、間伐作業で業者が入ることも珍しくはない。
 左側の斜面に、広大なとど松樹林が見えてきた。所どころ、間伐対象木として勇が巻いたブルーのテープが光っている。とど松を大きく成長させるには適宜に間伐(かんばつ)しなければならない。陽が差し、風が通ることにより、樹木は光合成により大きくなる。
 山葡萄の甘い匂いが、ひんやりとした樹木の匂いに重なり、勇を歓迎していた。だが勇は、大自然の脅威と、その自然を食い物にする人間の悪意に、研ぎ澄まされた五感を怠らなかった。 
 斜面を登り切ると、道はややなだらかになった。トラックのわだちが、緩いカーブを描き延びている。林道はそこで切れ、今日の仕事の集材装置が設置されている。
 カールが立ち止まった。とど松林に耳を傾けている。
「ヒヒーン!」「シー、ドウドウッ」「シー、ドウドウッ」「ヒヒーン!」
 突然、馬のいななきと馬方の掛け声が樹林の中を突き抜けてきた。ハッとして斜面に目を凝らす。茶色に光る馬体に、黒々としたたてがみが美しい。首は驚くほど太く、脚の筋肉が盛り上がっている。その首に巻かれたハモと呼ばれる馬具は銀色に光り、相当年季が入っている。それに比べると手綱を引く馬方は、どこか心もとない。
 勇の脳裏に錆びたトラックが蘇った。路肩の藪に身を隠し、馬が引きずり上げてくる太い木を見守った。それはとど松林に自生する貴重なエゾ松だった。
 エゾ松はとど松と違い、枝が下に垂れ下がっているのですぐ見分けがつく。年輪幅が狭く、材の緻密な良材は、ピアノ響板などの高級材料に用いられる。
 馬方の男はすっぽりと手ぬぐいで顔を覆い隠し、表情が見えない。勇が役所から手渡されている伐採計画表にも今日の作業は載っていなかった。これは盗伐だ――。
 勇は、馬方が近づくにつれて、胸に嫌な高鳴りを覚えた。
 どことなく見たことがある背格好だ。
 一体となった馬と馬方は、渾身の力を振り絞り、エゾ松を林道に引き上げた。荒い息遣いの馬方が、手ぬぐいで汗を拭い始めた。
 あまりの驚きに息を呑んだ。現れた顔は、友人の源蔵だった。
「源蔵さん、あんた、まさか――」
「北見のだんな、ど、どうしてこんな早くに――」
 源蔵も、口を半開きにしたまま固まった。
 カールは二人の心の葛藤が分かるのか、落とした尾を小さく振りながら、辺りをせわしなく動いている。
 熊を追う時とは違う、源蔵の歪んだ顔を見るのは辛かった。
「青いトラック、あれ源蔵さんのだね――」
 源蔵は無言のままうなずいた。唇を一文字に結ぶと、手の平を合わせ、勇に頭を下げた。全身で見逃してくれと叫んでいる。
 よりによって、なぜ友人でもあり恩人でもある源蔵が盗伐に手を染めたのか。勇は自分が犯した罪のように、悔しさが胸を突き上げてきた。風も雲も、鳥のさえずりさえも止まり、悲しい静けさが時を支配した。
「源蔵さん、こうしよう。これは二人の一生の秘密だよ」
 担当区主任は司法警察職員として、盗伐の現場を押さえた場合は、その場で検挙しなければならない立場だ。だがそれだけは避けたかった。しかし、いくら親友でも、勇の魂の拠りどころともいえる国有林の盗伐を見逃すわけにもいかない。
 勇が出した結論は、林道を塞いだ風倒木の処理を、急きょ、通りがかった源蔵に依頼し、丸太を正規のルートで製材工場に納入するという筋書きだった。そして、せめてもの労力の代償として、馬とトラックのチャーター料だけは規定の窓口で支払おうというものだった。源蔵は、目に涙をうかべ、うなずいた。
 勇はリュックから、刻印ハンマーと墨壺を取り出した。
「北見さん、このご恩は一生忘れません」
 源蔵は目頭を押さえながら、頭を下げた。カールが初めて、源蔵の脚に寄り添った。源蔵が愛おしそうに、カールのあごを撫でている。カールは、生みの親を忘れてはいなかった。勇は、これで良かったのだと、自分に言い聞かせた。
 源蔵は、何度も振り返りながら、役所の刻印が入った丸太を馬に引かせ、山を降りて行った。
 
 翌年の夏の、ある日曜日。
 勇には、たった一つ楽しみがあった。
「あんた、気いつけてね。今年の夏は特に暑いから、マムシが川に降りてきてるべさ。首も危ない、手ぬぐいをしっかり巻いて」
「大丈夫だ。抜かりはない」
 勇は、タバコのヤニを、念入りにゲートルに染み込ませていた。
 マムシの生息域は全国に渡るが、北海道のマムシは特に大きく、動きも早い。マムシの毒は血管を破壊する。血清投与を含めた高度医療が整わない時代、万一噛まれれば命に係わる重大事だった。
 勇は、釣り道具一式をリュックに詰め、そっと玄関の引き戸を開けた。すぐに、カールが犬小屋から飛び出してきた。懸命に尾を振り、勇の足元にまとわりついてくる。背負っているリュックに鼻を擦りつけようと、勇の体に前脚をかけてくる。中には、妻が作ってくれたみそ焼きおにぎりが入っている。だが勇は、カールの興味は食べ物ではないことを知っている。中には、掛けた魚の血が染みついた様々な釣り道具が入っている。類まれな嗅覚がそれを嗅ぎ分け、人間が抱く狩猟への憧れと同じように、カールの狩猟本能をくすぐるのかもしれない。
 幸が、カールの様子に何かを感じたのか、口を開いた。
「あんた、今日は何か胸騒ぎがする。カールを連れていったら」 
「そうだな……。今日は一緒に行ってみようか」
 カールは夫婦の会話の流れをよく理解できた。はち切れそうに尾を振り、もう行先の方向に耳を立てている。
 勇は、カールをわきに、自転車をこぎ出した。
 カールは自転車と一定の距離を取りながら、小走りで勇の前を進む。まるで行き先が分かっているように。
 津別峠の山岳地帯を水源とする津別川に沿って農道を走る。一時間もすると、源流へと向かう林道にさしかかる。
 人気のない炭焼小屋を通り過ぎ、額に汗が滲んだころ、左手に川の音が聞こえてきた。
 カールが耳を立て、谷を見下ろしている。早くも漁場に着いたことを察知したようだ。
 勇は自転車を路肩に隠し、藪をかき分けながら斜面を降りて行った。この辺りは熊も多く、地元の舞茸採りのプロが時おり入るぐらいで、釣り人は見たことがない。
 カールは深い草木の根を嗅ぎ分けながら、すでに前を進んでいる。顔面に押し寄せる藪と闘いながら歩を進めている時だった。
 ハッとして立ち止まる。だらりとした太い枝が行く手を阻んだ。よく見ると、無数の鱗がゆっくりと移動している。頭部が見えないほどに大きい。やがて尻尾をくねらせ、視界から消えていった。勇はこの時初めて、藪の上を這う蛇を見た。人間に尻尾を見せる蛇はマムシではない。もしこれがマムシだったら――。勇はゾッとして首の手ぬぐいに手をやった。
 イタドリの藪を抜けると、川の流れが見えてきた。幅は約五メートル、岩盤の多い渓流だ。川面がキラキラと光っている。平瀬は川底の石がよく見えるほどに澄んでいる。所どころ顔を出す大きな岩の巻き返しは深い渦が巻いている。向こう岸のトロ瀬で魚がジャンプする飛沫が上がった。カールがすかさず耳を立てた。跳ね方でヤマベと分かる。
 北海道ではヤマメをヤマベと呼び、漢字では山女魚と書く、魚体にパールマークがくっきりと浮かび、実に美しい。前人未到の渓流は魚影が濃かった。
 勇は餌釣りの準備に入った。餌は現地で調達する。その流域で捕れる川虫を最良とするが、トンボ、蜘蛛、蟻など何でも食べる。今日は、たくさん捕れたイタドリ虫を使う。 
 魚は水中で、上流から流れてくる餌を待っている。餌に、少しでも不自然な動きがあると食いつかない。木の葉から落ちたばかりの虫は浮力があるので、川面に浮かした方がよく釣れる。
 ヤマベが跳ねた辺りの上流に、針を飲んだイタドリ虫を流し込む。毛糸の目印がポイントへと向かった。水しぶきを上げ魚体が躍り出た。食いの感触に合わせる。竿が大きくしなり、重い手応えが伝わる。負けずに竿を立てる。見事なヤマベが空中にきらめいた。
 あっという間に、十数匹のヤマベが竹籠の中で暴れていた。カールは利口だ。決して吠えたりはしない。大きく口を開け、長い舌の動きで、一緒に釣果を喜んでいる。勇は一番大きなヤマベをカールに与えた。嬉しそうに尾を振り、あっというまに平らげた。
 勇は、さらに遡上した。岩場が多くなり、流れが速くなった。左側は見上げるような切り立った崖になっている。この先は、二尺を超えるアメマスの生息域だ。
 急にカールが身構え、両耳を立てた。
 山間から、「ホリャー、ホリャー」という、熊を追う勢子(せこ)の若い声が響いてくる。勇は辺りに目を走らせた。間もなく一発の銃声が轟(とどろ)いた。カールがビクンと反応する。
 春グマ駆除と呼ばれる狩猟期間はとっくに過ぎている。
 程なく、足元の流れに薄っすらと血と脂が浮かんできた。嫌な予感が走った。手負いの熊は川沿いを逃げる。
「カール、ここは危ない! 離れよう」
 勇は川から上り、釣り道具を仕舞った。カールはすでに斜面を登り始めている。
 川からも見えていた大きな岩にたどり着いた。ここなら流れ弾も防げそうだ。身を隠し、息をひそめた。
 どうやら熊は銃弾に沈められたようだ。渓谷は再び静寂に包まれた。その時だった。カールが立ち上がり、両耳を立てた。何かを察知している。勇も耳を澄ました。確かに、谷の方から近づく何かの気配を感じる。岩陰に身を潜め、様子を窺(うかが)った。カールは、勇を守るように構えている。
 果たして何かが、よろよろと斜面を登って来るのが垣間見えた。徐々に、動物の息遣いが近づいてくる。カールが腰を落とし、低く吠え始めた。戦闘の態勢だ。
「まて!」勇は静かに制した。笹薮から顔を出したのは、まだ一歳にも満たないような子熊だった。こげ茶色の子熊は、辺りをきょろきょろとしながらも、この岩に向かっているようだ。
 親が射殺され、子熊だけが逃げてきたのかもしれない。子熊が逃げ込む場所――。ふと見ると、岩の下に、洞穴(ほらあな)が口を開けている。もしかしたらこの洞穴は、親子熊の巣穴なのかもしれない。勇はカールを促し、岩から離れた。カールも子犬と変わらない子熊に安心したのか、目が優しく戻っている。
 子熊は、すぐには巣穴に入らなかった。岩をよじ登り始めた。てっぺんから見渡せば、こちらの存在に気づき、岩の向こうに逃げていくことは間違いない。親から授かった知恵なのかもしれない。
 勇は駆け寄り、子熊の短い後ろ足をつかんだ。子熊はビクンと反応し、怯えた目で振り返った。ここで吠えられると厄介なことになりそうだ。勇は岩に爪を立てる子熊を素早く引きずり下ろした。優しく抱きかかえた。子熊はドングリのような黒い目を光らせ、幼い牙で勇の腕を噛む。分厚い作業服の上からでも野生の力が伝わってくる。おそらく、たった今目の当たりにした人間に対する、本能的な抵抗に違いない。勇は、小さな背中をさすり、頬ずりしながら、子熊を必死に抱きしめた。やがて、震えていた子熊は、勇の腕の中で静かになった。その時、勇の衣服がところどころ血に染まっていることに気づいた。子熊の体に傷はなかった。死に行く親熊の、最後の温もりに甘えたあとなのだろうか。
 カールが近づいてきた。尾を優しく振り、子熊の顔に鼻を近づける。子熊は最初、驚いたようにカールの大きな顔を見ていた。恐る恐るカールの鼻に小さな鼻を擦りつける。
 勇は子熊をそっと地面に置いた。子熊はクウー、クウーと甘えながら、小さな爪を立て、カールの脚によじ登ろうとする。カールは優しい目で、子熊の顔を舐めている。
 その姿は、まるで親子のようだ。食うか食われるかの獣の世界。親を失った子熊の、生き残るための本能なのかもしれない。
 カールにも、偶然巡り会った子熊に、同じ動物としての友情が芽生えたようだ。
 勇は、子熊をこのまま家に連れて帰りたい衝動に駆られた。だが、熊を家で飼うことは法律が許さない。
 勇は、子熊そっと、洞穴の入り口においた。子熊は毛で覆われた小さなお尻を向け、洞穴にもぐり込んでいった。間もなく、顔だけを出し、勇たちをじっと見つめている。親がいなくなった寂しさが、幼い目に漂っている。カールも、静かに尾を振りながら、心配そうに子熊を見つめている。
 勇は、釣ってきたヤマベの一匹を、子熊の前に差し出した。子熊は最初、怪訝そうな表情を勇に向けたが、勇が微笑みかけると、安心したようにヤマベを食べ始めた。よほど腹が減っていたのだろう。時おり勇を見上げながら、頭から尻尾まであっという間に平らげた。
 勇は二匹目を取り出した。今度は、味を噛みしめるようにゆっくりと咀嚼している。食べ終わると子熊は、再び洞穴に入っていった。暗闇から、二つの小さな光がこちらを見ている。勇は家族の分、三匹を残し、あとはフキの葉に包み洞穴に置いた。二つの光は、まだこちらを見ていた。「また来るからね」と声をかけ、勇たちは洞穴を後にした。
 家に帰り、勇は事の始終を幸に話した。
「熊は怖いけど、親を失った子熊は可哀そうだね。生きていかれるのかどうか……」
「釣りのついでに様子を見てくるつもりだ。それにしても酷(ひど)いマタギがいたものだ。毛皮を狙う密猟者だろうか……」
 マタギの世界には、二歳以下の子連れの母熊を仕留めてはいけないという掟がある。子熊が生まれると、父熊は巣を出て行く。銃弾に倒れた熊は、母熊に違いなかった。

 珍しく源蔵が訪れたのは、その二日後だった。彼は手土産に、熊の肉を持ってきた。勇は、ふと嫌な予感がしたが、まさかと思い直し、熊汁で一緒に酒を飲むことにした。
 酔いが回ったころだった。源蔵が「実は――」と、勇をのぞき見た。
「熊を仕留めたが、あいにく子連れの雌だった。岩の陰で子熊が見えなかった。子熊を育てようと思ったが、逃げてしまった」
「子熊って――何歳ぐらいだ?」
「まだ生まれて間もない感じだった。熊というよりも子犬のようだった。生きていかれるかどうか……」
 勇は絶句した。胃の中から、熊の肉がジワリとせり上がってくる。偶然だと言い聞かせ、茶碗酒の残りを、ゴクリと飲み下した。
 源蔵は、勇の動揺に気がつかない。やっと言葉をつないだ。
「ば、場所はどのあたりだ?」
「ああ、行ったことがあるかどうか、炭焼小屋のわきから入った沢の奥だ。キノコ採りの老婆が食い殺されたという情報が入った。いつもの相棒が怪我をして、勢子として、釧路から流れて来た若いマタギを連れて行った」
 勇は、あの子熊の母熊に違いないと確信した。
 源蔵に酒を注ぐ幸の表情も暗い。夫婦の心境など分かるはずもなく、源蔵は酔いに任せ、再び口を開いた。
「まだある――。その流れ者が、とんでもないことをしてしまった」
 それは、一挙に酔いが引いていくような残酷な話だった。
 源蔵の銃弾を受けた熊は力尽き、川辺の岩陰で体を折るようにして動かなくなった。瀕死の様相だが、未だ息はしている。銃弾が内臓を貫いたのか、滴る涎が赤く染まっている。
 その時、熊の腹の下で何かが動く気配がした。よく見ると子熊だった。肩で息をする親熊が、子熊を守るように隠している。源蔵はその時初めて、母子熊だったと気づいた。子熊は、銃弾が入った部位と見られる胸のあたりを、か細い声を上げながら舐めている。
「手負いだ。気をつけろ!」
 若いマタギが、心臓を狙い、タテ(熊槍)を突き刺した。
 親熊は、わずかに牙を見せたが、やがて息絶えた。子熊が哀しそうな声を上げた。早く目を覚ましてと言うように、動かなくなった母熊の腹を引っかいている。
「どうするこの子熊――」若いマタギが、タテの血を拭いながら眉をひそめた。「役所に持っていっても、裏で熊汁にされるのがおちだ。それに俺たちもただではすまねぇ」
 源蔵は途方に暮れた。若いマタギが、たたみ込むように続けた。
「下手に逃がしてやると、恨みを持ったまま大きくなって、また人間を襲うに違いねぇ。可哀そうだが、しめるしかねぇだろう」
 掟破りがばれれば、明日から飯が食えなくなる。源蔵はうなずくしかなかった。
 若いマタギが、マキリを抜いた。源蔵は空を見上げ、子犬が首を絞められるような鳴き声を聞いていた。
 かさりと小さな音がした、源蔵は振り返った。岩の陰から、小さな目でじっと見つめるもう一匹の子熊がいた。一部始終を見ていたに違いない。石にかけた小さな爪が、カチカチと音を立てている。
 源蔵が近寄ると、子熊は岩の間を転がるようにして、笹薮の中に消えて行った。
 語り終えた源蔵の赤い目が、複雑に揺れていた。
 勇も、幸も、最後までその子熊を助けたことは言い出せなかった。

 それから勇は、子熊に「ゴン」と名付け、釣りに来るたびに、ヤマベを洞穴に持って行った。 ゴンは真っ暗な穴の中で、怯えたように小さな二つの光を放っていた。
 月日は流れ、その光は力強く成長し、その間隔も広がっていった。
 勇とカールが洞穴に着いた時はすでに、カールを超える嗅覚で、きりりとした立ち姿を見せるようになった。転がるように駆け寄ってきて、勇の脚から胸へとよじ登り、顔に鼻先を擦りつける。もう抱きかかえることができないほどに、大きくなった。
 それからカールとゴンの、友情のひと時が始まる。お互い、懐かしそうに目を細め、顔を寄せ合う。二頭は互いに甘噛みしながらじゃれ合い、無防備な腹を見せる。

 ある秋の日だった。しばらくぶりに、大きなヤマベを二匹携え、勇とカールは洞穴に向かった。
 不思議だった。ゴンの姿がない。声をかけても、暗がりの中は静まり返っている。勇はあきらめ、フキの葉に包んだヤマベを入り口に置き、立ち去ろうとした時だった。
「クーン」というかすかな鳴き声と共に、暗闇の奥から小さな光が見えてきた。
「なーんだ、いたのか。ご馳走だ、さあ、カールと一緒に食べよう」
 勇は、近づいてくる光を見つめた。あれ、どうしたのだろう――。光が一つしかしかない。
 浮かび上がったゴンの目を見て驚いた。左目が深くえぐられている。なぜこんな惨(むご)いことに――。あの時の、柔らかな銃口のような目が切なく蘇る。体も痩せ、艶もない。
 カールは、尾を静かに振りながら、ゴンの光が失せた目を優しく舐めている。
 ふと、まだら模様の大きな羽根が目に入った。人間に親を奪われ、空の敵との闘い方を教えられていないゴンは、危なく猛禽の餌食になるところだったのかもしれない。
 それから勇は、自分の食事も惜しみ、食べ物をゴンに与えた。カールとの強い絆もゴンを力づけ、見る見る回復していった。
 熊の成長は早い。季節が変わる度に大きくなり、カールと同じほどの体格となった。それでも二頭は、あの頃と同じように、鼻を擦りつけ、じゃれ合っている。時にはドキッとすることもある。ゴンは口を大きく開け、カールの顔に牙を立てる。だが甘噛みの牙は、深い愛情の証だ。最後は、幸の作った団子を仲良く分け合って食べていた。

 セミの鳴き声が、秋の気配を伝えていた。
 源蔵が、風呂敷包みを持ってやってきた。いつかの感謝の印だと、知床の出稼ぎで仕留めたという熊の毛皮を取り出した。
 幸が、「こんな高価なものを――」と言いながら床に広げた。
 長い爪が力なく開かれ、玉眼の目が空を睨んでいる。ふと、ゴンの姿が脳裏をよぎった。それまで歓迎の素振りを見せていたカールが、尾を落とし、誰にともなく吠え始めた。無残にはぎ取られた毛皮を見る目が、悲しそうに沈んでいる。
「あんた、せっかくだけど、この毛皮お断りしたほうが――」
 幸が気の毒そうな目を向けた。勇も、そのほうがいいと思った。
 帰って行く源蔵の背中に、心なしか寂しさが滲んでいた。カールは、守ろうとする人間の、隠された牙に気づいたのだろうか。

 翌日、カールがなぜか、炭焼き小屋の方に向かって吠えている。勇も胸騒ぎを覚え、ホッケの干物を携え山に向かった。
 果たして、洞穴にゴンの姿はなかった。
 その後何回か洞穴を見に行ったが、雑草が生い茂り、入り口は塞がれていた。
 氷雪に覆われた原野も、春にはフクジュソウの花が顔を出す。
 季節は繰り返し、洞穴は木の根と蔓で覆われていった。

 勇は、ゴンと巡り会った渓谷を忘れることができなかった。今日も釣り竿を振りながら、沢の奥へと遡上していた。
 突然、対岸の岩の上で、熊の咆哮(ほうこう)が轟いた。背筋に緊張が走った。だがカールは目を輝かせ、喜んで尾を振っている。
 カールの三倍ほどに成長した姿はゴンだった。ゴンは未練を残すような鳴き声を残し、樹林の中に消えて行った。あれから五年、ゴンは立派な雄の成獣となっていた。
 マタギが隻眼の熊に襲われ、命を落としたと言うニュースが流れた。猟友会に問い合わせてみると、あの時、源蔵と一緒に熊を仕留めたという若いマタギだった。偶然なのだろうが、勇はふと、あの残酷な話を思い出した。

 山が燃えるような深紅に染まり、秋の深まりを見せていた。
 旧交を温めようと、勇は幸が作った団子を携え、源蔵と山に出かけた。
 二人はそれぞれに、川の幸、山の幸を求め、太陽の光りを遮るような樹林の奥深くへと入っていった。
 昼飯時になり、勇は落ち合う場所に向った。ふいに山陰から銃声が聞こえてきた。そう遠くはない。勇は立ち止まった。ほどなくして再び銃声が轟いた。勇は胸騒ぎがした。源蔵はこれまで初弾を外したことがないからだ。
 勇は、獲物と釣り道具を放り出し、走った。果たして林道を曲がると、ひしゃげた村田銃の向こうから、足のすくむような光景が飛び込んできた。巨大な褐色の魔物が、源蔵の上に圧し掛かり、頭部を不気味に動かしている。ヒグマの腹の辺りから出ている地下足袋が、力なく地面を蹴っている。
 勇はとっさに腰のマキリを引き抜くと、熊の背に躍りかかった。無我夢中で刃を突き立てる。何か所かは、硬い毛皮を貫き、肉に喰い込んだ。刃に吸い付く背肉の力は強く、やっと引き抜く刀身に脂がぬめりつく。渾身の力で、最後の一太刀を振りかぶった時だった。突然熊が巨体をひるがえした。牙を剝き、鋭い爪を振りかざす。その目を見て、勇は息を呑んだ。熊の動きが止まった。一瞬の逡巡。熊は悲痛な咆哮を上げ、手負いのままクマザサの中に飛び込んでいった。ゴンに違いなかった。
 空を睨む源蔵の目は灰色に霞み、かすかに口を動かしている。
「引き金を引く瞬間、片目に気づいた。初めて弾道を外した。とっさに、いただいた団子を放った。熊は立ち止まり、匂いを嗅ぎ始めた。二発目を装填したが、遅かった。だが、不思議だ。熊は銃口を向けた人間を絶対に許さない。真っ先に顔を破壊する。でも、顔は無傷で、俺は生きている……」
 血に染まった右肩からは白いものが覗いている。勇はすぐに止血を施し、源蔵を背負った。
 源蔵が助かったのはゴンの意思なのか、確かめようはない。源蔵がマタギに戻れるには、時間がかかりそうだ。
 人を襲う隻眼の熊が出没するという話しが広がった。聞くに堪えない、辛く悲しい噂だった。
 真っ白な髭で覆われたマタギの長老が、隻眼の熊を仕留めるためにやって来た。知床で三十年もの間、一のブッパ(射手)を務めてきた手練(てだれ)だという。
 長老は、土地勘のある勇に、協力を求めてきた。
 勇は迷った。だが、これ以上犠牲者を出すわけにはいかない。ゴンを駆除することを決心した。身を刻む思いで、作戦を練った。
 
 幸が涙を流しながら作った団子を、獣道から大きな岩陰へと撒いた。岩の裏には、へばりつくようにブッパが控えている。そこはゴンの全身が晒される惨い場所だった。わきには、ゴンと巡り会った場所の上流となる深い渓谷が迫っていた。
 二日が経った。やはり来た――小山のような体。ゴンは必ず来ると思っていた。だが、様子が変だ。団子の匂いを嗅ぐだけで、食べてはいない。ゴンは、注意深く辺りを見回した。岩ではなく、太い木の陰に隠れた自分とカールの方向に歩き出した。もしかしたら、団子についた自分の匂いを思い出したのだろうか。
「クウーン」三十メートルほどのところでゴンが、甘えるような鳴き声を上げた。やはりそうだ。ゴンは自分とカールに会いに来たのだ。勇は急に、胸を突き上げるものを覚えた。
 ゴンがゆっくりと近づいてくる。ゴンからは死角となってブッパの姿は見えない。もうわずかで射程距離に入る。その姿には警戒心や疑いが微塵もない。自分を信じ切って、一歩一歩近づいてくる。銃床を抱え込むブッパの肩が盛り上がった。単発式の村田銃は失敗が許されない。ブッパも命がけだ。ぎりぎりまで引きつけて、心臓を一発で打ち抜かなければならない。引き金の指が絞られる。カールの耳が動いた。勇が目を閉じた時だった。手からチェーンが離れた。カールが弾丸のように飛び出していった。ブッパの銃口が乱れた。
 いったい何が起きたのか――。カールがゴンに猛然と飛び掛かる姿を、勇は茫然と眺めていた。あれほどしつけた「来いっ!」の一言が、なぜか出てこない。
 カールはところかまわず咬みつくと、崖の方向に逃げる。熊は逃げるものを追う。ついに二頭の獣は崖っぷちに迫った。
 谷を背にしたカールが天に牙を剝(む)いた。勇はハッとした。天空を射抜くような鋭い咆哮。その雄叫びに反応するかのように、ゴンは猛然とダッシュした。カールが立ち上がる。ゴンがカールの喉を捉えた。そのまま重なるように谷底へと消えて行った。
 二人は恐る恐る、崖の下を覗いた。切り立った岩が口を開け、霧が底を隠している。
 長老が口を開いた。
「飼い犬には気の毒なことをしてしまった。引き金があと少し早ければ――」
「いいえ、私がチェーンを離したばっかりに」
 勇は、なぜか「来い!」をためらったことを思い出していた。
「ただ、私は救われました。これまで数えきれないほどの山の王を葬り、心は限界でした。里に下りれば魔物と憎まれる熊も、山では神の存在。仙境を荒らしたのは、いったいどちらなのか……」
 しばし山を眺めていた長老が、思い出したように続けた。
「ただ一つ、犬がなぜ、最後にあの遠吠えを発したのか?」
「と、いいますと――」
「少年のころ知床で、今は絶滅したエゾオオカミの遠吠えを聞いたことがあります。まるで同じだった。狼の遠吠えは、仲間にだけ分かる、安らぎの天地への呼びかけだと、アイヌの古い言い伝えにあるそうです」
 長老が、優しい眼差しを崖の方に向けた。
 勇は、頭の中が真っ白になった。今となっては、真実は谷底の霧の中だ。ただ、二頭が崖から消えた瞬間、ゴンが人間の牙から救われたことだけは確かだった。

 勇は、「なぜカールまで――」と、号泣(ごうきゅう)する幸をなだめた。
「カールは今年で十歳。人間でいえば九十歳だ。自ら選んだ壮絶な最期だった」
 カールはゴンの牙に散ったとまでは、とても言えなかった。

 それから一週間ほど経った日のことだった。 
 夕方から雨が降り始めた。夜半には、風の唸りが耳元をかすめた。
 むなしい願い。木々のざわめきさえも、カールの息遣いに聞こえる。
「あんた、何かもの音がしなかった?」
「風のせいだろう――」
 だが、耳をそばだてると、微かにチェーンを引きずる音と、「クゥー」という犬の鳴き声のようなものが聞こえてくる。
「ちょっと見てくる!」勇は、布団から飛び起きた。
「幸! カールだ、カールが帰って来たんだ!」
 カールは、クゥーン、クゥーンと鳴きながら、あばらが浮いた体を勇と幸に擦りつけてきた。
 二人はすぐに、手ぬぐいでカールの濡れた身体を拭いた。不思議だった。カールの喉に、ゴンの牙の痕がない。幸が玄関の土間に毛布を重ね、カールを休ませた。
「あんた、不思議だね。カールはどこにも傷が無いのに、手ぬぐいに血が付いている――」
「え、そうか、それで助かったのか……」
 勇は、カールをくわえたまま宙を舞ったゴンが、カールをしっかりと抱きしめ、切り立った崖を傷だらけになって落ちていく光景を想像した。いや、そうに、違いない。
 カールは、大好きなホッケの干物を一口だけ食べ、ジャガイモの味噌汁を半分ほど飲んだ。穏やかな目で二人を見つめると、安心したように眠った。

「カール、おはよう!」
 翌朝勇は、カールの毛布をそっとはがした。一瞬、全身が銀色に輝いたように見えた。安らかな顔が、二度と目を開けることはなかった。
「カール! どうしたんだ? 朝だよ、一緒にごはんを食べよう」
 勇は、まだわずかに温もりが残るカールの背中をさすり続けた。
「たった一晩だけ家族に戻りたくて、帰って来たんだね……」
 幸も、あふれる涙を拭おうともせずに、冷たくなりつつあるカールの身体に、いつまでも頬を擦りつけていた。

 庭の隅に穴を掘り、カールを丁重に埋葬した。
 終わった時は陽が陰り、津別峠へと続く山々の稜線が、茜色に染まった。
 カールとゴンが戯れる姿が、たしかに見えた。
                (了)


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