24時50分、僕は部屋の窓を開けた

文字数 1,016文字

 空気の入れ換えのために僕は窓を開けた。小雨が降っていて、土の匂いがする。外は真っ暗。
 明日の仕事で使う書類をまとめていて気づかなかったが、部屋の壁掛け時計に目を移すともう24時50分。
 そりゃ眠いわけだ。珈琲でも淹れよう。
 そういえば、小雨の降る夜、僕は佐々山さんに告白して振られたんだっけ。懐かしい。

 その頃僕は都内に住んでいて、私鉄沿線にある本屋で働いていた。そこで僕を指導してくれた先輩が、佐々山さんという二十代前半くらいの女性だった。
 僕より少し年上に見えたけど、本当の年齢はわからずじまいだった。職場の噂では、書籍のことを知り尽くしていて、店長に誰よりも信頼されているのが佐々山さんで、僕からすれば〈なんでも知っている系お姉さん〉だった。

 例えば書籍にはISBNコードというものがあるけど、佐々山さんはISBNを、その仕組みから教えてくれた。佐々山さんは、本に関するあらゆることを知っていた。質問して答えられないことは一度だってなかった。
 佐々山さんは決して美人なタイプじゃないけれど、愛嬌があって、いつも笑顔だった。僕が若さ故に話題をどうにかえっちな方向に持っていこうとすると、それを全部笑顔のまま会話で躱してうやむやにしてしまう。嫌な顔はひとつもしない。佐々山さんは〈男慣れした〉女性だった。

「仕事がない日はどこでなにをしてるんですかー」
 と訊いても、
「うふふー、内緒」
 と言う佐々山さん。
 作業中、不注意で、本当に不注意で佐々山さんの身体のぷにぷにしたところが触れてしまって僕が、
「すみませんでした!」
 と謝っても、
「うふふー」
 と微笑んで許してくれた。とても良いひとだった。
 いや、不注意でそうなったんだからね?

 手取り足取りいろんなことを教えてくれた佐々山さんの正体はしかし、僕が知ることはなかった。僕は田舎に引っ越すことになってしまったからだ。

 引っ越す直前のある日。雨に降られた夜中、本気の告白をして佐々山さんに振られた僕だけど、その時、僕の中では〈なんでも知っている系お姉さん〉が好きだ、という不思議な感情が芽生えた。世の中の〈なんでも知っている系お姉さん〉が本当になんでも知ってるかというと違うし、それは僕のファンタジーが含まれているけど、小雨の降る夜中に窓の外を見ると、〈なんでも知ってる佐々山さん〉の記憶が羽根か翼を広げて、雨雲よりもっと高くへと消えていく。

 さて、珈琲を飲んで、もう一仕事するぞ。
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