第3話

文字数 1,553文字

 北は、窓から差し込む月明かりが一段と強く冷たい壁をコントラストの闇と化してきたのを感じた。将校たちは静かに消えていった。
 果たして、それが今回の蹶起の動機だったのか。そのために襲ったのは総理大臣であり、内大臣であり、侍従長たちであった。だが、そこに義はあったのだろうか。自分はただ利用されたに過ぎないのではなかろうか。北の考えに影響されたと彼らは言う。しかしそれは、組織として逆賊扱いされた彼らにとって、少なくともそうした世間の目をそらすために大義名分が欲しかったからではなかったのか。たとえ逆賊あつかいされても、彼らの純粋な思いが、世の中のために、国家の改造のためにあると思われれば、彼らの魂は救われるに違いない。
 そして、この男は、制圧派からも蹶起将校たちのイメージアップからも利用されたにすぎないのだろうか?
 八咫烏が再び飛び回り、「そうとばかりは言えないな。人それぞれ、いろんな連中がいるんだ。中には、純粋に世の中のためにと思いつめた奴もいたんだ」
 独房の片隅に、ぼうぼうの髭を伸ばし、頭を掻きむしりながら、一人の男が膝を抱いて座っていた。彼は、北の裁判の証人として、15人の将校たちがすでに処刑された後も、そのまま拘束されていた。八咫烏は、彼の頭上に再び浮かび留まる。

 ぽつりぽつりと男は語り始める。「北先生。あなたは近代日本が生んだ唯一最大の偉人だ。私は、幼少時代から国を良くし、天皇陛下にお尽くしすること本分としてきました。しかし、欧州大戦、関東大震災の後、我が国、日本ががたつき始めました。そして2度の世界軍縮会議で、非常に肩身の狭い思いをさせられたのです。私はいま国家の前途を憂いております。それが国家の改造運動に向かった理由です。さらに初年兵の教育に当たった時には、大部分の者が家庭貧困であり、彼らがその家庭状況を訴え、国家権力者の不正不義に対する怒りを持っていることを知るに至り、彼らに同情の念を禁じえなかったのです。自分たちの蹶起は、天皇のためでもありますが、我々の至純の情を示すものでもあったのです」

  世相は、どん底の景気にあって、何らかの国威掲揚策が景気回復の起爆剤になると思い込んでいる。そこに、当時の日本が置かれた事情がある。実際、苦しい生活を余儀なくされていた人々が大勢いた。特に、東北の農家の人たちだ。志願してくる兵隊の多くは、その農家の次男坊、三男坊たちだ。将校たちは、恵まれたものも多くいるが、彼らが引き連れている兵隊たちの大部分は貧しい農家の出身だった。
 一人の兵隊が嘆く「父ちゃんが言っていた。昔は収穫に応じて収穫の一部を納めればよかったのに、今は耕作地の面積に応じて税金が決まる。税金だから金で納めなければならない。当然小作農たちもその小作料を地主に金で払うことになる。コメの取れ高じゃないから、コメが多く取れようが、少なく取れようが、毎年納めなければならない税金は決まっている。だから不作の時には、借金をして税金を払うようになり、不作が続けば返さなければならない借金は膨らんでいく。一方、不作を補うためにと国の方は輸入に頼ることを選ぶ。その結果は、わずかな収穫にもかかわらずコメの値段がどんどん下がっていく。それでも、小作料はいつもの年と同じだけ払わねばならないんだ」
 さらに彼の嘆きは続く「俺の親は、戦地に行ったら生きて帰ってこいとは言わない。むしろ死んでくれることを望んでいる。死ねば国からなにがしかの金が貰えるからな。気がついたら姉や妹たちは、いつの間にかいなくなっている。家族は食い扶持が減って喜んでいるかと思えば、実はそれどころじゃない。自分の娘を女郎屋にでも売っ払ったのだろう、親父はその金でその年の小作料は何とか払うことができたと言うんだ」
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