第2話

文字数 2,124文字

 男がカラスを追い払おうともがいていると、薄暗いコンクリートに囲まれた狭い部屋の片隅に巣くい始めた深い闇がしだいに大きく広がってきた。どこからか血生臭い臭気が漂ってくる。と、そこに現れたのは行進する一個小隊の兵隊たちだ。青ざめて小刻みに体を震わせているのは小隊長の若い将校だ。その男が先頭に立って数十人の兵隊たちを引き連れている。彼は今回の事件の首謀者の一人に間違いない。肩章には星が一つ。少尉だ。まだあどけなさが残るその将校は、そこで立ち止まり振り返ると、同調するように歩みを止めた兵隊たちに向かって最敬礼をする。そして彼はその場に残り、兵隊たちは再び行進を続ける。少尉に対して兵隊たちは次々に敬礼を返していく。兵隊たちが去ってからも若い将校はしばらく敬礼をしたまま動こうとしない。
 寒さだけではないのだろう、小刻みに震える体は、今やり終えた行為に対する悪寒から来たものなのだ。「何のための蹶起だったのか」蹶起を実行に移した男の頭の中で、現実を整理しようとするが、彼の脳細胞は緊張のため過度に放出したアドレナリンを受けて働くことを拒否している。ただ、自分たちがすでに反乱軍扱いにされていることは察していた。

「しっかりしろ」佇む少尉に声をかけてきたのは蹶起に参加した将校たちだ。どこからともなく蹶起将校たちが集まってきていた。カラスは空中に貼りついたように浮かんだまま、その様子を見ている。もう一方では、膝を折り、両手をついた北が、目の前で展開される将校たちが言い合う様子を聞いている。

 計画は失敗した。永田町や霞が関一帯を占拠しつつも、目的の本丸、皇居に入ることはかなわず、ただただ大蔵大臣、内大臣、教育総監、総理秘書官を殺害、侍従長に重傷を負わせるという悲惨な結果を招いたのみだ。

「後悔なんぞ無いぞ。我が国が日清戦争、日露戦争と軍事力を付けてきた結果、世界大戦では連合国の仲間に割り込み、わずかばかりの参戦で、戦勝国の仲間入りを果たした。戦勝国となったからにはと、陸軍幹部の一部や政治家、資本家たちは無謀な権利を主張し、大陸への進出を決め込んでいる。まったく卑しい連中なのだ。我らは、その奢りを成敗しなくてはならなかったのだ」
「そうだ。我々戦場の第一線で兜を被っていくものだからこそ分かることがある。無意味な戦は避けなきゃならない。陛下の大切な軍隊を勝手に動かして無駄死にさせてそれがまかり通るというのか」
「それこそ国家の損失だ。我が国にとって、あくまで北方の大国の南下が脅威であって、我々としては、大陸の勢力とうまく手を結んでこそ、北に対する守りができるではないのか。あの連中はそれが分かっていない」
「そうだ。そういうことだ。経済界と手を組んだ政治家や官僚、そして陸軍の中でも理屈ばかりの幹部たちは、現況がいかにあるかを見ようともせず、自分たちの利益だけを頭において大陸への侵略を考えている。あんな連中ために、われわれが満州へ送られたんではたまらん。銃口を中国兵に向けるよりは、先ずよこしまな奴らをたたき切って、国家改造をならしめよ」
「大陸への侵略を断行すれば、連合国が黙っているわけはないのだ。世界戦争を招くのは必至。そうなったら我が国はひとたまりもない。今必要なのは、大陸と協力していくことで、機会を窺っているソ連の南下を抑えることが重要なのだ」

 彼らは、口々に熱い思いを語っているようだが、あくまでもそれは自分たちの置かれた状況に対する不満でしかない。
 さらに、陛下に対する自分たちの正当性を主張し始める。「連合国の圧力に弱気な政治家や経済人たちは、大元帥である陛下の兵に足かせをするような軍費の削減を実行しようとしている。これはまさしく統帥権の侵犯だ。天皇のお心を察すればこそ、天皇の周りをとりまく連中を君側の奸として排除しなければならなかったのは当然。我々は天皇陛下のお為を思ってやったことだ」と。

 そして沈黙、長い沈黙が続く。明らかに彼らの中に動揺が見られる。陛下のために彼らは蹶起したという。彼らの公約数はそこにあったはずだ。彼らは疑うことなく天皇を信じていた。自分たちの行動が国を思い、天皇を思ってのことだということを陛下は分かってくれるはずと思っていた。
 しかし、結果は反対だった。天皇にしてみれば、この蹶起によって殺害された側近たちは、ご自身が頼りにしていた忠臣であったのだ。だからこそ手足をもぎ取られたと思われ、烈火のごとく怒りをあらわにされたのだ。そして自ら軍服に着替え、反乱軍鎮圧の指揮を取ろうとまでされたのだった。
 翻って考えれば、将校たちは天皇の軍隊と承知しているにもかかわらず、彼らの蹶起には天皇は不在だった。大元帥の指示がそこにはなかった。思いは間違ってはいない、だが命令こそが彼らの行動原理であることを考えれば、この度は命令なくして勝手に皇軍を動かしたのだから、そこに彼らの罪があった。戒厳令が敷かれ、ラジオで、ばらまかれたチラシで、彼らが逆賊扱つかいされていることを思い知らされ、いつしか虚しさと後悔が募ってきている。ここに至って、兵隊たちを送り返した後の蹶起将校たちは、投降を余儀なくされたのであった。
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