第1話  ある未亡人の依頼

文字数 2,633文字

アカシアの花を雨が濡らす昼下がり、アカシア通りにある喫茶店「ワルツ」は本日も閑古鳥。マスターはラム酒を入れたコーヒーを飲みながら、最近買ったばかりのレコードをほろ酔い気分で聴いている。
「いくらお客さんが来ないからって、弛みすぎですよ!」
(みぞれ)がマスターの前に水の入ったコップをやや乱暴に置いた。マスターは、にこにことふくよかな頰をゆるめながら、
「まあまあ、そうかりかりしなさんな。霙ちゃんも、もう店のことは大丈夫だから、どこか遊びに行ってきな〜」
とどこ吹く風。霙は、ため息をついて、店の奥から小さな肩掛けかばんを持ってくると、ワルツの重い扉を開けて、外に出た。湿気を含んだ生温かい空気が鼻を掠めて、ひとつくしゃみをする。
外へ行くといっても、急にお客が来るといけない。霙は、隣の薄暗い古本屋の軒先に素早く入った。隣とはいえ、やはり髪や肩はすこし雨に濡れてしまったが、じきに乾くだろう。
「こんにちは……」
霙が引き戸をガラリと開けて挨拶をするも、誰の返事もない。定休日ではないはずだが、ここもまた、閑古鳥が鳴いているのだろう。古い紙の独特の甘いような埃っぽい匂いがひしめく中、霙は勘定場へ向かった。そこでは、見知った顔の青年が、本の世界に没頭していた。
時雨(しぐれ)さん、いるなら返事くらいして」
霙が呆れ顔で言うと、時雨は本の端からそっと形のいい瞳を覗かせて、
「ごめん、ごめん。霙ちゃん、いらっしゃい」
とへにゃっと笑った。

「はい、タオルとお茶」
時雨は、勘定場の奥の畳に霙を座らせて、タオルとお茶を持ってきた。霙がありがとう、と言うと、時雨は左手をひらひらさせて、霙の向かいに座り、煙草に火をつけた。
「店番はいいの?」
霙は、タオルで髪を拭きながらきいた。
「ここからでも、店は見えるし、まあ、お客さんも来ないからねー。ほら、近ごろはテレビジョンにみんな夢中で、古本なんかに興味ないわけ」
時雨がふうっと煙を吐き出す。
「なるほどね。うちも、テレビの置いてある店に取られちゃって同じだわ」
霙も、煙のかわりに大きなため息をついた。いつからか、店が暇なときは、こうやって古本屋「雨やどり」で過ごすことが霙の習慣になっている。暇を持て余す時雨と世間話などしながら、ぼうっと過ごすこの時間が、霙はとても心地よく感じていた。特に、雨の日は、いつもより薄暗くて、静かで、つい卓袱台に突っ伏してうたた寝をしてしまう……。
「ごめんくださいまし」
霙が夢の世界に入りかけたそのとき、蜂蜜のように蕩けた、それでいてよく通る声が響いた。時雨が煙草を消して店の入り口に向かう。
しばらくして勘定場の方に時雨とともに現れたその声の主は、アカシア柄の着物に群青色の帯が眩しい艶やかな女性だった。透きとおるような白い肌に切れ長の涼しい瞳、鮮やかな紅色の唇。ほのかに花の香りも纏っている。
「立ち話もなんですから、奥へどうぞ」
時雨はその女性を畳に案内した。霙は小さくお辞儀をして、女性の向かいに腰を下ろした時雨の横に移動した。
「突然すみません。実は、昔この近くでお逢いした人を探しているんですの」
女性は、そう言うと、この店にたどり着いた経緯を語り始めた。

わたくしは、江上サヨと申します。戦時中から終戦後しばらくまでこの近くに住んでおりました。当時はまだ学生でしたが、時期が時期でしたので、学生らしいことは何一つ。毎日働いておりました。両親は戦時中に亡くなり、わたくしはしばらくこの近くの親戚の家に厄介になっていましたが、その親戚も、わたくしが増えたことで生活が苦しくなって、ある日、とうとうわたくしは売られてしまいました。表面上は嫁いだ、ということになるんでしょうけれど。わたくしの旦那さまは親よりも10歳は年上でしたわ。それからは、心を殺す毎日でした。まだ少女のようなわたくしを、旦那さまは……。戦局も悪くなる一方で、全てが絶望的でした。そんな中、わたくしは出逢ったのです、本当に愛するひとに。彼は、目が見えなくて、徴兵されなかったの。わたくしたちは、アカシアの木の下で、わずかな時間、愛を語り合いましたわ。戦争が終わって、お互いの無事を喜び、ベーゼも交わしました。……でも、そんな楽しいひとときなんて終わるのも早くて。旦那さまは、全て知っておりました。そして、彼を連れてくると、わたくしを彼の前で辱めた後、わたくしをここから遠いところへ追いやりました。それから、彼の行方はわかりません。旦那さまは、わたくしがまた過ちを犯さないようにと、ずっとわたくしを屋敷に幽閉しておりました。そのため、いままで探すことはできなかったのです。先日、旦那さまがお亡くなりになり、ようやく外に出ることができ、この町にたどり着きました。そして、人づたいに、あなたが、人探しを手伝ってくださると、聞いたのです。

サヨの最後の言葉に、霙は驚いて時雨を見た。時雨は、なるほど、と天を仰いでいる。
「お代はいくらでも。彼にまた逢えるのなら」
サヨは、時雨の手を両手でぎゅっと握りしめた。時雨は、頰をやや染めながらも、冷静に言った。
「今の時点では、その方が見つかるかわかりませんから、お代はいただきません。その方がこの町にいるのか、また……この世にいるのか何とも言えませんし」
「そうですわね。でも、探してくださるのね?」
サヨが時雨の手を握ったまま、眼を輝かせる。
「はい、僕でよければ」
時雨のその言葉に、サヨは大粒の涙をこぼした。

「ねえ、時雨さんって探偵でもしているの?」
サヨが帰ったあと、霙が尋ねると、時雨は、まあね、と煙草に火をつけた。
「探偵というか何でも屋というか。学生の趣味だったから、そんなに知っている人はいないと思うんだけどなぁ」
でも、久々に、腕がなるよ。時雨はそう言うと、何か思いついたような顔で霙を見た。
「そうだ、霙ちゃん、僕の助手にならない?」
「え」
「探偵には助手がつきものだし、霙ちゃんは喫茶店で働いているから顔も広いだろう?」
時雨はそう言うと、霙に右手を差し出した。
「よろしく頼むよ、霙ちゃん」
霙は、戸惑いながらも、時雨の右手を自分の右手で握った。温かく大きな手が霙の華奢な手を包む。
「とりあえず、また明日」
時雨に見送られながら、店の外に出ると、雨上がりのほのかな紫色の夕焼け空の中、虹が架かっていた。

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