第7話   二人のワルツまで

文字数 1,856文字

ゆず子が近づいてきたため、時雨は慌てて煙草を消した。ゆず子は、小夜を寝かせてきましたから、大丈夫ですよ、と笑った。
「さて、ゆず子さん。サヨさんはあなたに会いたいと言っています。もし、会ってくれるのなら、明日の午後三時、アカシア通りの喫茶店ワルツに来てください」
時雨がそう言うと、ゆず子はすこし迷ったように空を仰いだ。
「でも、サヨさんが会いたいのはわたしではなくて、盲目の青年ですよね。……わたしが行っても、仕方がないでしょう?」
「それはどうでしょう。……まあ、あなたにお任せしますが。あと、あなたには、他にも会いに行くのを躊躇う理由があるのかもしれませんが」
時雨は、ゆず子の瞳をちらりと見た。ゆず子は、はっと息をのみ、小さく、どうして、と呟いた。
「……僕たちは、サヨさんに頼まれた人探しをしているだけで、他に何かしようとは思っていません。サヨさんだって、ご主人がお亡くなりになって、自由になれたようですよ。だから、だれもあなたを責めることはない」
時雨は、そう言うと、にっこり笑って店の中に戻っていった。店の奥では、霙が机に突っ伏して寝息をたてていた。そばには空になったコップが転がっている。
「……わたし、あなたたちを疑っていただけで、何もするつもりはなかったの……」
ゆず子が時雨の後ろでわっと泣き出す。
「ええ、わかっていますよ。すこし眠くなるラムネをいただいたくらいだと。……僕にはあまり効きませんでしたが」
時雨は、霙を机から引き剥がし、自分の背に乗せた。
「それでは、明日、お待ちしています」
時雨は店を後にした。ゆず子の泣く声が背中に響いていたが、とうとう明日ゆず子が来るかどうかはわからないままだった。

いつ雨が降ってくるかと時雨はひやひやしたが、なんとか天気は持ちこたえてくれた。霙はまだ時雨の背中で寝息をたてている。柔らかな重みがなんだか懐かしく、時雨はふっと微笑んだ。
「二人とも、おかえりなさい」
やがて、マスターの声が聞こえてきた。アカシア通りに帰ってくると、時雨もひとつ欠伸をした。
「……あれ、ここ、どこ? 帰ってきたの?」
マスターの声に目を覚ましたらしい霙がもぞもぞと動き出した。
「霙ちゃん、あんまり動いたら落ちるよ」
時雨がそう言うと、霙はようやく自身の状況を把握したようで、時雨さん、降ろして、と慌てふためいた。時雨はくすくすと笑いながら、そのままワルツへ歩いていく。
「ただいま無事霙ちゃんと帰ってきました」
時雨は、そっと背中から霙を降ろした。霙は恥ずかしさで頰を林檎のように真っ赤にしている。
「無事でよかった!」
マスターが霙をぎゅうぎゅうと力強く抱きしめる。霙は、苦しい、とつぶやいてじたばたした。
「まったく世話の焼ける息子ねぇ」
表の騒ぎを聞きつけた時雨の母親もいつのまにかやって来て、時雨の頭をぺちんと叩いた。
「まさか、霙ちゃんに滅多なことしていないでしょうね」
「するわけないでしょ」
時雨が、信用ないなぁ、と頰を膨らます。
「大丈夫です、一緒に寝ただけです!」
霙は慌てて弁解したが、かえって、時雨が詰め寄られる事態となった。

落ち着いてから、時雨はワルツの電話をかりて、サヨに電話をかけた。
「サヨさん、ご依頼のあった人探し、なんとか見つけ出しましたよ」
「ほんとうですか。彼は、変わらずなの?」
電話越しにもサヨが興奮しているのが伝わってくる。
「とりあえず、明日の午後三時、喫茶ワルツに来てください」
時雨は、簡単に用件だけ伝えた。「彼」がやって来るのか、ゆず子さんがやって来るのかはわからないが、そのときはそのときだ。
「わ、わかりましたわ。午後三時……逢引をしていた時間だわ」
サヨは蕩けた声でそう言うと、電話を切った。
「サヨさん、来られるって?」
霙が尋ねる。
「サヨさんは来るよ」
「ゆず子さんは? わたし、どうして眠ってしまったのかしら」
「ゆず子さんは、どうだろう……」
時雨は遠くを見つめた。時雨の穏やかな色の瞳に窓硝子に反射した光がきらきらと映っている。霙はその様子をじっと見つめながら、サヨとゆず子の再会を思い描いた。二人とも、離れ離れになっても、お互いを想っていた。なんて素敵なのだろう。
「会えると……いいわね」
霙は、ほんのすこしだけ、時雨にもたれかかった。時雨は、そうだね、と霙の背中を優しく叩いた。
二人が見つめる窓の外には、一番星がきらりと輝いていた。
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