第5話   目的地へと

文字数 2,452文字

そういえば、あの日も雨が降っていたわね。女将は、昔のことを思い出しながら、今日の売上を記録していた。最近は客足が遠のいたが、今夜は久々に素敵な二人を泊めることになった。悪漢から美しい乙女を救い出す青年。今ごろ仲良く眠っているだろうか、それとも、まだ夜を味わっているのだろうか。今日、青年に聞かれた二人も絵に描いたような美男美女だった。女将は、その二人が訪れた雨の夜のことを思い出した。

ごめんください。
激しい雨の夜、戸を叩いたのは、モンペ姿の美女と、国民服を着て杖をついたこれまた美しい青年だった。女将は、雨に濡れた二人を見るや否や、すぐ中に入れた。そのときは、もう円宿を一時休業していたけれど、宿泊部屋はそのままにしていたため、暗い中布団を敷き、湯を沸かした。
ありがとうございます。
美女がお礼を言い、青年を支えながら、部屋に入った。その後、女将は、手拭いを渡し忘れた、と二人の部屋を訪ねた。襖がすこし空いていて、奥に蝋燭の炎がゆらゆら揺れているのが見えた。いけない、と思いつつも、女将は襖の隙間をそっと覗いた。それは、女学生の頃にこっそり観た活動写真のようだった。美女と青年は、蝋燭のささやかな灯りの中、熱いくちづけを交わしていたのだ。
夜明けとともに、二人は宿屋を後にした。その美女が隣町の富豪の妻であり、不貞行為を働いていたということを女将が知ったのは、終戦後だった。誰が言ったのかわからないが、女将の円宿は不貞助長の宿だと噂になり、一時期不況に陥った。そんなとき、ここで働かせてほしいという娘が現れた。娘には身寄りがなく、絶望に満ちた目をしていた。女将は、人を雇う余裕などなかったが、その娘がふとした拍子に消えてしまう気がして、娘の手を取った。大きな温かい手だった。
その娘が福の神だったのか、宿屋には次第に人が訪れるようになった。娘の目にもだんだん光が差し込んできた。その頃、出入りの業者が娘を嫁に、と女将に頭を下げた。娘は、驚いていた。まさか自分にこんな話が来るとは思わなかった、と呟いた。女将は、笑い泣きながら、あなたがその気なら、ついていきなさい、とその大きな背中を見送ったのだった。
娘からは、時々葉書がくる。最近二人目が生まれたそうだ。女の子で、名前は「小夜」ーー。

「……霙ちゃん、そろそろ起きて」
時雨は、いつのまにかすぐ隣まで転がって寝息を立てている霙の肩を優しく揺すった。霙は寝相が悪く、自分の布団から時雨のところまで転がってきたらしい。浴衣の胸元もはだけていて、時雨は目のやり場に困った。寝顔はまだあどけないけど、出会った頃に比べて随分成長したんだな。時雨はそんなことをしみじみ思いながら、とりあえず、霙に布団をかけて、身支度をはじめた。
「……時雨さん……」
霙は、まだ夢の中。誰もいない真っ暗で寒い道を歩いていたら、突然誰かに抱きしめられて、ぽかぽかと温かくなった。振り向くと、そこには笑顔の時雨がいてーー置いていくよ?
「置いていかないで!」
霙は、自分の声で目が覚めた。急いで起き上がり、部屋を見回す。時雨の姿がない。まさか、ほんとうに置いていかれたの? 霙は不安に思いながら、身支度を急ぐ。
一階に降りると、時雨が女将と話しながら待っていた。
「お寝坊さん、出発するよ」
時雨が穏やかに手招きをする。霙は、二人のもとに駆けていった。
「ふふ、昨夜はあまり寝られなかった?」
女将がすこし面白がるように霙に尋ねる。霙は首を横に振った。
「いいえ、おかげさまでよく眠れました。お風呂までいただいて、ありがとうございました」
「そう? ならいいけど……」
女将は、安心したような、すこしがっかりしたような顔で微笑んだ。
「ほんとうにお世話になりました。では、僕たちはこれで」
時雨がお辞儀をすると、女将は時雨に、あの娘によろしくね、と耳打ちをした。霙はその様子を訝しげに眺めていた。

外は、すこし汗ばむくらいの陽気だった。ノートを見ながら歩く時雨の隣を霙は歩きながら、辺りの様子をきょろきょろと見る。昨夜とは打って変わって、あまり人がおらず、静かだ。
「夜と雰囲気が全然違うのね」
霙は呟いた。
「まあ、ここは夜に来るような町だからね。ここで泊まった人たちが起きるのはもうすこし後だろうし」
時雨がなんでもないように答えたが、霙は、先ほどの女将との会話を思い出して、あの質問の意図をようやく理解し、頬を染めた。
しばらく無言で歩いていると、真っ赤なワンピースを着た派手な化粧の女性が、時雨くん、と呼びとめた。
「この間は楽しかったわね! また遊びに来てね」
女性は時雨に近づくと、時雨の手を両手で握りしめた。
「この間はありがとう」
時雨はすこし頰を染めながら笑っている。女性はちらりと霙を見た。
「あら。こんなに可愛い恋人がいたのね! あんまり心配させちゃだめよ」
じゃあね、と女性は誤解したまま去っていく。霙は今の出来事にぽかんとした。
「時雨さん、この町では調査していたのよね?」
霙が問い詰めると、時雨はすこしばつが悪そうに、
「それはもちろん……なんだけど、彼女はちょっと押しが強くて、まあ、すこしだけ調査逸脱を、ね」
と答えた。
「要するに、遊んだと。時雨さん、案外軟派なのね」
「彼女だけだって。ほら、目的地!」
時雨は話を逸らすように左手にある小さな商店を指差した。
「え、ここに、サヨさんの想い人がいるの?」
霙は商店を見つめた。すると、中から、赤ん坊を背負った背の高い女性が出てきた。
「……あの、女将さんから伺いましたけど、わたしに御用がおありとか」
女性は時雨たちを見ると、不思議そうな顔で尋ねた。
「はい、すこしお願いごとがあるのです。……江上サヨさんのことで」
時雨がそう言うと、女性は、わなわなと震えて、一粒涙をこぼした。
空には太陽が一等輝いていた。

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