第1話
文字数 4,922文字
私の見てくれは、荒 んだ魔女のようだったと思う。
喪服を着た髪の長い貧相な女。それが満月 食堂に初めて入ったときの私だった。
心不全で急死した吉川 課長の葬式の帰り道。電車に乗ってお焼香だけ済ませてきた。
この1週間ずっと夢見が悪かった。
ろくな食事をしていないことに思い当たり、精進落 としをしようと勢いで入ったのが満月食堂だった。
「いらっしゃいませ~」
大柄な女将 さんの明るい声で我に返る。まだ時間が早く空 いている店内。
私はカウンター席の端 に座り、鰹 のたたき定食をご飯少な目で注文した。
初夏の鰹に新玉ねぎと茗荷 のスライス。元気を出さなければと、私はポン酢に生姜とニンニクを溶かし、無心になって食べた。
久しぶりに美味しいと感じる食事だった。
一息ついて、同じカウンター席の端の男を見た。
同世代だろうか。女将さんから「ヤスさん」と呼ばれている。
その「ヤスさん」が食べている、「冷や汁」も美味しそうだった。次は絶対にこれを食べたいと思った。
休日の土曜日の夕方、また満月食堂を訪れた。
梅雨明けの、やたら暑い日。まだ喪中の心境のため、黒いオーバーブラウスと黒いパンツを選んだ。
カウンター席で、念願の「冷や汁」を注文した。
ほぐした鯵 の干物、ちぎった豆腐、小口切りの胡瓜。もち麦のご飯だ。大葉と小葱がたっぷり用意されている。すりゴマが香ばしい、これなら食欲無くても食べられる。ああ、美味しい。
すると、見たことのある男が一つ開けた隣の席に座った。先日もいた常連の男だ。
常連の男は女将さんに、
「新作の、梅干しの入った鍋をお願い。あと、ぼんじりとネギマを塩で」
「ヤスさん、夏のあご出汁 梅鍋 ね」
梅鍋? 私は常連の男のもとに運ばれてきた一人鍋を覗き見した。
あご出汁に大きな梅干しが二つ入っている。豚肉と葱、エノキ茸、水菜、そしてニンニクのスライスが浮いている。つけダレにも叩いた梅干しがたっぷりと入っているようだ。
私が不躾 に見ていることに気づいた男は、細い目をさらに細くして微笑んだ。思わず私は、小声で「すみません」と頭を下げた。
それにしても実に美味しそうに食べる男だ。次はこれを食べようと心に決めた。
私は土曜日の夕方は、満月食堂に通うようになった。
お盆過ぎの満月食堂は、少しばかり騒々しかった。
息子らしい小学生男子が、店のテーブルで夏休みの宿題をするようになったのだ。小学5年生漢字ドリルや算数ドリル。
若く見えるキリっとした店主が、厨房から出てきて、
「カズマ、今日の分の宿題が終わるまでゲーム禁止だからな!」
「へい~」
「まあまあ、ケイちゃん、頭ごなしに」
「そうやってカオルが甘やかすから。去年終わらなくて大変だったろ」
私はこっそりいつものカウンター席に座った。一つ置いて、ヤスさんが座っている。
ヤスさんが、
「カズマ君、夕飯はもう食べた?」
「うん」
「じゃあ、おじさんがご飯食べ終わるまでに算数と漢字、やっちゃおう。終わったら公園前のコンビニでソフトクリームをおごるよ」
「じゃ仕方ない、やっちゃいますか~」
「あそこのコンビニ、ソフトクリームサーバーがあって特別みたい」
ヤスさんの口調は優しい。
私は麦とろご飯定食を注文した。ヤスさんは夏バテ中なのか、冷奴、蕪 の梅和え、青じその水餃子なんかをつまんでいた。
ソフトクリームか。しばらく食べていないな。
私は思わず、「いいなぁ」とつぶやいていた。
「え? じゃあ、魔女も一緒に行く? ソフトクリーム」
今日の私は黒い麻の丈の長いワンピースで、魔女感強めだった。
「こらっカズマ!」女将さんが慌てる。
カズマ君の誘いに、私は「一緒に行ってもいいの?」と答えると、女将さんが笑った。
「ヤスさん、こちらのお嬢さんにもおごってあげなさいよ」
「ソフトクリームでよければ」
ヤスさんは笑った。
コンビニへ向かう最中、私はカズマ君から質問攻めにあった。
「名前はなんていうの?」
「三上鈴音 です」
「みんなからなんて呼ばれているの?」
ふと吉川課長からベッドの上で、「すず」と呼ばれていたことを思い出す。
「ミカミでいいですよ」
「いくつ?」
「29歳」
「結婚はしているの?」
「ううん、していない」
「彼氏はいるの?」
「いません」私は笑っていた。
「あ、猫だ」カズマ君の興味が猫に移った。
なんとなく照れくさくて、私はヤスさんの方を向けなかった。
夏、日が落ちてから、ふらふら歩くのは楽しい。湿った空気と遠くで聞こえる花火の音。
コーンのソフトクリームをおごってもらって、三人で公園で食べた。
私とヤスさんはベンチに並んで座って、カズマ君はブランコに乗って。
「あ、美味しいですね、昔よりずっと」
「ほんと、進化しているなぁ」
「ジャージー牛乳を使っているんだって」
カズマ君が得意そうに教えてくれる。
満月食堂までの帰り道では、カズマ君は和真 (平和の和 に真 っすぐ)、店主は圭太 (土を二つ重ねて太い)、女将は薫 (草冠に重いとヒゲ4つ)と名前の漢字を教えてもらった。
ヤスさんから、
「ミカミさんの字はどう書くの?」と聞かれた。
「数字の三 に上 、ベルの鈴 に音 。えっと、あの、ヤスさんは?」
「東雲保仁 です。東 に雲 でしののめ。保 に仁義の仁 。俺は33歳、独身です」
「きれいな名前ですね」
「名前はね」
ヤスさんは笑った。
アイスクリームを食べながら散歩する、そんなことが私にはとても楽しいことだった。アパートに帰ってきてからもふわふわした。
私は誰にも言えない不倫をしていたから。
私は亡くなった吉川課長と不倫関係にあった。
吉川課長はなぜか私にだけきつく当たった。私より仕事ができない子には笑顔で接するのに。周囲の人は「期待しているんじゃない」などと言い、私は吉川課長に認められたくて必死だった。
課長と二人きりで残業した時、「三上さんはいつもよくやってくれるね」と初めて誉めてくれて、私は思わず泣いてしまった。
すると課長は「泣くことはないだろ」と優しく髪を撫で、「きれいな髪」と言ってくれたのだ。
その夜、私は吉川課長に抱かれた。
吉川課長は単身赴任中の既婚者だった。
関係を持ったあとも、課長は変わらず会社では私に厳しく当たった。
でも私は次第に、課長から冷たくされると、今度はどんな風に抱いてくれるのだろうかと想像するようになった。
切れ長の目、そしてあの唇に指。
見下した表情のまま課長は私を執拗に抱く、脳も濡れてくるようだった。
ベッドの上で課長から粗雑に扱われながら、不意に優しくされると、私はたまらなく感じた。
「すず、かわいい」と課長は耳元でささやいて、「嬉しいの? うねっているよ」と。
私は課長の意のままだった。
課長は悪い男、それは最初からわかっていた。好きで嫌いだった。
でも課長の飴 と鞭 のさじ加減は絶妙で、世間知らずの堅物 な私を、課長はいとも簡単に籠絡 したのだった。
不倫関係の罪悪感はもちろんあった。
何度ももう会わないと切り出しては、なし崩しに抱かれた。そんなとき課長は私を見下ろして微 かに笑うのだ。
今度こそはと、また別れ話をする決心をした矢先だった。
課長が急死したのは。
夏が陰 りを見せ始めた、小雨がふる夕方。
満月食堂に行くと、中から和真君の泣き叫ぶ声が漏れてきた。絶叫のような。
ちょうどヤスさんもやってきた。透明のビニール傘をさして。
「三上さん、和真君はたまにフラッシュバックしちゃうんだ。こういうときは刺激しちゃいけないから、少しここで待っていましょう」
フラッシュバック? 耳を澄ますと、「怖いー怖い―やだよー怖いよー」と錯乱した声が聞こえてくる。
そして薫さんの「大丈夫、大丈夫よ」というゆっくりした声も。
私はヤスさんと立ち話をした。
「あの、今さらですけど、満月食堂のあの二人は、ゲイ、いや、同性愛カップルなんですよね」
「そうですね」ヤスさんが少し笑った。また目が細くなる。
「実は最初に来たときから気にはなっていたんですけど、すごく仲いいし……」
「羽河 市が同性パートナーシップ制度を施行したので、二人で転入してきたって聞きましたよ」
「ああ、なるほど、二人は事実婚 のようなものなんですね」
「そうですね、でも最初驚きませんでしたか? 薫ちゃんがマッチョで。でもだんだん可愛く見えてきますよね」
「そう、そしてお料理が美味しい」
「ですよね、俺、最初は仕事がらみで来たけど、常連になっちゃいました」
15分くらいたったろうか、和真君のしゃっくりあげる声が止み静かになった。
「そろそろ大丈夫かな」
ヤスさんがそっと引き戸を開ける。
見ると薫さんが和真君を抱っこして、背中をさすっていた。
和真君、汗びっしょりかいて困り顔のまま眠っている。そばに立っていた圭太さんが、そっとタオルで和真君の額の汗をぬぐう。薫さんが私とヤスさんに気づいてウインクした。
177センチ90キロらしい薫さんが、眠った和真君をしっかり抱いて寝室へと運んでいった。
「ヤスさん、和真、久々の発作っす。ちょっと風邪で微熱があったからかな、悪い夢みちゃったんだね」
圭太さんが肩をすくめる。
「三上女史、びっくりさせちゃったわね」
和真君を寝かしつけた薫さんが、戻ってきてコップの水を飲み干す。
私は眼鏡をかけているというだけで、食堂で “三上女史”と呼ばれている。
「実は和真は、小さい頃ネグレクトにあって、児童養護施設にいた子なの。それで私たちが里親になったの。子どもが欲しかったし、私も圭ちゃんも小さい頃いろいろあったから、ほっとけないのよ、そういうの」
仕込みを再開した圭太さんが、
「ヤスさんは里親支援相談員なんすよ。ずっとお世話になっていて。ま、俺たちは和真に、とにかく “大丈夫だよ” っていうことを言い続けるしかないっすね」
私はヤスさんを見つめると、ヤスさんは言葉を選びながら、
「和真君は、体調が悪かったりストレスを感じたりすると、いつもは心の奥に押し込んである辛かった記憶の蓋 が開いてしまうみたいなんだ。悪夢を見てしまったり」
私とヤスさんはカウンター席に並んで座った。
夕方6時を回るとお客さんが次々と入ってきて、満月食堂はいつも通りのにぎわいとなった。
私とヤスさんは、鴨と舞茸のおつゆのうどんを注文した。ヤスさんは大盛りセットにして。
薫さんがうどんを運んできたとき、私に二度目のウインクをした。
「三上女史、イメチェン大成功ね」
私とヤスさんは食事を終え、一緒に店を出た。
ヤスさんは外に出てから思い切ったように、
「髪、似合っています。それと今日の服も」
ちょっと眉をしかめながら早口で言った。
雨は上がっていた。
「……嬉しいです」
私はストレートのロングヘアを、ばっさり切って軽くしたのだ。そして今日はベージュのワンピースに、ボルドー色のカーディガンを羽織っていた。
「家はどっちですか? 途中まで送ります」
「あ、ヤスさん、傘」
「忘れるところだった」
「あの、またヤスさんの都合のいいときに、ソフトクリームでも食べませんか? もうホットコーヒーの季節かな? 今度は私がおごります」
「うん、あ、いや、俺がおごります」
一緒に歩きながら、今度は私が眉をしかめながら尋ねた。
「ヤスさん、あの、彼女とか、いますか?」
「こんな食べることにしか興味が無い、ずんぐりむっくりの男に彼女なんていませんよ」
そしてちょっと会話が途切れ、私はさっきのことを思い出した。
「 ”大丈夫” って言葉、呪文みたいですね」
雲が動いて満月が現れる。
「本当ですね。あとね、悪夢を消す呪文ってのもあるんですよ」
私は足を止め、ヤスさんを見上げる。
「見し夢を獏 の餌食と成すからに 心も晴れし曙 の空……これを三遍 唱えるんです」
「調べたんですか?」
「うん。可哀そうだからさ。でも薫ちゃんと圭ちゃんは、もっと簡単なお呪 いをしているよ」
笑ったときのヤスさんの目じりの皺が、好きだと思った。
「 “獏さん、獏さん、食べてください” って唱えて、枕を、ぽん、ぽん、ぽんと3回叩いてひっくり返すんだって」
大きくておおらかなヤスさんは、悪い夢を食べてくれる獏のよう。
そういえば、課長の夢を見なくなったことに気づいた。
喪服を着た髪の長い貧相な女。それが
心不全で急死した
この1週間ずっと夢見が悪かった。
ろくな食事をしていないことに思い当たり、
「いらっしゃいませ~」
大柄な
私はカウンター席の
初夏の鰹に新玉ねぎと
久しぶりに美味しいと感じる食事だった。
一息ついて、同じカウンター席の端の男を見た。
同世代だろうか。女将さんから「ヤスさん」と呼ばれている。
その「ヤスさん」が食べている、「冷や汁」も美味しそうだった。次は絶対にこれを食べたいと思った。
休日の土曜日の夕方、また満月食堂を訪れた。
梅雨明けの、やたら暑い日。まだ喪中の心境のため、黒いオーバーブラウスと黒いパンツを選んだ。
カウンター席で、念願の「冷や汁」を注文した。
ほぐした
すると、見たことのある男が一つ開けた隣の席に座った。先日もいた常連の男だ。
常連の男は女将さんに、
「新作の、梅干しの入った鍋をお願い。あと、ぼんじりとネギマを塩で」
「ヤスさん、夏のあご
梅鍋? 私は常連の男のもとに運ばれてきた一人鍋を覗き見した。
あご出汁に大きな梅干しが二つ入っている。豚肉と葱、エノキ茸、水菜、そしてニンニクのスライスが浮いている。つけダレにも叩いた梅干しがたっぷりと入っているようだ。
私が
それにしても実に美味しそうに食べる男だ。次はこれを食べようと心に決めた。
私は土曜日の夕方は、満月食堂に通うようになった。
お盆過ぎの満月食堂は、少しばかり騒々しかった。
息子らしい小学生男子が、店のテーブルで夏休みの宿題をするようになったのだ。小学5年生漢字ドリルや算数ドリル。
若く見えるキリっとした店主が、厨房から出てきて、
「カズマ、今日の分の宿題が終わるまでゲーム禁止だからな!」
「へい~」
「まあまあ、ケイちゃん、頭ごなしに」
「そうやってカオルが甘やかすから。去年終わらなくて大変だったろ」
私はこっそりいつものカウンター席に座った。一つ置いて、ヤスさんが座っている。
ヤスさんが、
「カズマ君、夕飯はもう食べた?」
「うん」
「じゃあ、おじさんがご飯食べ終わるまでに算数と漢字、やっちゃおう。終わったら公園前のコンビニでソフトクリームをおごるよ」
「じゃ仕方ない、やっちゃいますか~」
「あそこのコンビニ、ソフトクリームサーバーがあって特別みたい」
ヤスさんの口調は優しい。
私は麦とろご飯定食を注文した。ヤスさんは夏バテ中なのか、冷奴、
ソフトクリームか。しばらく食べていないな。
私は思わず、「いいなぁ」とつぶやいていた。
「え? じゃあ、魔女も一緒に行く? ソフトクリーム」
今日の私は黒い麻の丈の長いワンピースで、魔女感強めだった。
「こらっカズマ!」女将さんが慌てる。
カズマ君の誘いに、私は「一緒に行ってもいいの?」と答えると、女将さんが笑った。
「ヤスさん、こちらのお嬢さんにもおごってあげなさいよ」
「ソフトクリームでよければ」
ヤスさんは笑った。
コンビニへ向かう最中、私はカズマ君から質問攻めにあった。
「名前はなんていうの?」
「
「みんなからなんて呼ばれているの?」
ふと吉川課長からベッドの上で、「すず」と呼ばれていたことを思い出す。
「ミカミでいいですよ」
「いくつ?」
「29歳」
「結婚はしているの?」
「ううん、していない」
「彼氏はいるの?」
「いません」私は笑っていた。
「あ、猫だ」カズマ君の興味が猫に移った。
なんとなく照れくさくて、私はヤスさんの方を向けなかった。
夏、日が落ちてから、ふらふら歩くのは楽しい。湿った空気と遠くで聞こえる花火の音。
コーンのソフトクリームをおごってもらって、三人で公園で食べた。
私とヤスさんはベンチに並んで座って、カズマ君はブランコに乗って。
「あ、美味しいですね、昔よりずっと」
「ほんと、進化しているなぁ」
「ジャージー牛乳を使っているんだって」
カズマ君が得意そうに教えてくれる。
満月食堂までの帰り道では、カズマ君は
ヤスさんから、
「ミカミさんの字はどう書くの?」と聞かれた。
「数字の
「
「きれいな名前ですね」
「名前はね」
ヤスさんは笑った。
アイスクリームを食べながら散歩する、そんなことが私にはとても楽しいことだった。アパートに帰ってきてからもふわふわした。
私は誰にも言えない不倫をしていたから。
私は亡くなった吉川課長と不倫関係にあった。
吉川課長はなぜか私にだけきつく当たった。私より仕事ができない子には笑顔で接するのに。周囲の人は「期待しているんじゃない」などと言い、私は吉川課長に認められたくて必死だった。
課長と二人きりで残業した時、「三上さんはいつもよくやってくれるね」と初めて誉めてくれて、私は思わず泣いてしまった。
すると課長は「泣くことはないだろ」と優しく髪を撫で、「きれいな髪」と言ってくれたのだ。
その夜、私は吉川課長に抱かれた。
吉川課長は単身赴任中の既婚者だった。
関係を持ったあとも、課長は変わらず会社では私に厳しく当たった。
でも私は次第に、課長から冷たくされると、今度はどんな風に抱いてくれるのだろうかと想像するようになった。
切れ長の目、そしてあの唇に指。
見下した表情のまま課長は私を執拗に抱く、脳も濡れてくるようだった。
ベッドの上で課長から粗雑に扱われながら、不意に優しくされると、私はたまらなく感じた。
「すず、かわいい」と課長は耳元でささやいて、「嬉しいの? うねっているよ」と。
私は課長の意のままだった。
課長は悪い男、それは最初からわかっていた。好きで嫌いだった。
でも課長の
不倫関係の罪悪感はもちろんあった。
何度ももう会わないと切り出しては、なし崩しに抱かれた。そんなとき課長は私を見下ろして
今度こそはと、また別れ話をする決心をした矢先だった。
課長が急死したのは。
夏が
満月食堂に行くと、中から和真君の泣き叫ぶ声が漏れてきた。絶叫のような。
ちょうどヤスさんもやってきた。透明のビニール傘をさして。
「三上さん、和真君はたまにフラッシュバックしちゃうんだ。こういうときは刺激しちゃいけないから、少しここで待っていましょう」
フラッシュバック? 耳を澄ますと、「怖いー怖い―やだよー怖いよー」と錯乱した声が聞こえてくる。
そして薫さんの「大丈夫、大丈夫よ」というゆっくりした声も。
私はヤスさんと立ち話をした。
「あの、今さらですけど、満月食堂のあの二人は、ゲイ、いや、同性愛カップルなんですよね」
「そうですね」ヤスさんが少し笑った。また目が細くなる。
「実は最初に来たときから気にはなっていたんですけど、すごく仲いいし……」
「
「ああ、なるほど、二人は
「そうですね、でも最初驚きませんでしたか? 薫ちゃんがマッチョで。でもだんだん可愛く見えてきますよね」
「そう、そしてお料理が美味しい」
「ですよね、俺、最初は仕事がらみで来たけど、常連になっちゃいました」
15分くらいたったろうか、和真君のしゃっくりあげる声が止み静かになった。
「そろそろ大丈夫かな」
ヤスさんがそっと引き戸を開ける。
見ると薫さんが和真君を抱っこして、背中をさすっていた。
和真君、汗びっしょりかいて困り顔のまま眠っている。そばに立っていた圭太さんが、そっとタオルで和真君の額の汗をぬぐう。薫さんが私とヤスさんに気づいてウインクした。
177センチ90キロらしい薫さんが、眠った和真君をしっかり抱いて寝室へと運んでいった。
「ヤスさん、和真、久々の発作っす。ちょっと風邪で微熱があったからかな、悪い夢みちゃったんだね」
圭太さんが肩をすくめる。
「三上女史、びっくりさせちゃったわね」
和真君を寝かしつけた薫さんが、戻ってきてコップの水を飲み干す。
私は眼鏡をかけているというだけで、食堂で “三上女史”と呼ばれている。
「実は和真は、小さい頃ネグレクトにあって、児童養護施設にいた子なの。それで私たちが里親になったの。子どもが欲しかったし、私も圭ちゃんも小さい頃いろいろあったから、ほっとけないのよ、そういうの」
仕込みを再開した圭太さんが、
「ヤスさんは里親支援相談員なんすよ。ずっとお世話になっていて。ま、俺たちは和真に、とにかく “大丈夫だよ” っていうことを言い続けるしかないっすね」
私はヤスさんを見つめると、ヤスさんは言葉を選びながら、
「和真君は、体調が悪かったりストレスを感じたりすると、いつもは心の奥に押し込んである辛かった記憶の
私とヤスさんはカウンター席に並んで座った。
夕方6時を回るとお客さんが次々と入ってきて、満月食堂はいつも通りのにぎわいとなった。
私とヤスさんは、鴨と舞茸のおつゆのうどんを注文した。ヤスさんは大盛りセットにして。
薫さんがうどんを運んできたとき、私に二度目のウインクをした。
「三上女史、イメチェン大成功ね」
私とヤスさんは食事を終え、一緒に店を出た。
ヤスさんは外に出てから思い切ったように、
「髪、似合っています。それと今日の服も」
ちょっと眉をしかめながら早口で言った。
雨は上がっていた。
「……嬉しいです」
私はストレートのロングヘアを、ばっさり切って軽くしたのだ。そして今日はベージュのワンピースに、ボルドー色のカーディガンを羽織っていた。
「家はどっちですか? 途中まで送ります」
「あ、ヤスさん、傘」
「忘れるところだった」
「あの、またヤスさんの都合のいいときに、ソフトクリームでも食べませんか? もうホットコーヒーの季節かな? 今度は私がおごります」
「うん、あ、いや、俺がおごります」
一緒に歩きながら、今度は私が眉をしかめながら尋ねた。
「ヤスさん、あの、彼女とか、いますか?」
「こんな食べることにしか興味が無い、ずんぐりむっくりの男に彼女なんていませんよ」
そしてちょっと会話が途切れ、私はさっきのことを思い出した。
「 ”大丈夫” って言葉、呪文みたいですね」
雲が動いて満月が現れる。
「本当ですね。あとね、悪夢を消す呪文ってのもあるんですよ」
私は足を止め、ヤスさんを見上げる。
「見し夢を
「調べたんですか?」
「うん。可哀そうだからさ。でも薫ちゃんと圭ちゃんは、もっと簡単なお
笑ったときのヤスさんの目じりの皺が、好きだと思った。
「 “獏さん、獏さん、食べてください” って唱えて、枕を、ぽん、ぽん、ぽんと3回叩いてひっくり返すんだって」
大きくておおらかなヤスさんは、悪い夢を食べてくれる獏のよう。
そういえば、課長の夢を見なくなったことに気づいた。