第13章 夕暮れの音楽室

文字数 8,409文字

 夕暮れの音楽室

 年明けとともに百合香はいよいよ本格的に受験の準備を始めた。
 受験勉強を始めたとはいいながらも、今までどおり来てくれた方が気分が落ち着くと言われて、相変わらず毎週土曜日の午後に悠太は西山家を訪れていた。百合香にとって自分は精神安定薬の役割なのかもしれない。
 西山家にはこれまでどおり史奈も遊びに来るし、瑞希などはレッスンのある土曜日を除いてほぼ毎日通っている。
 たぶん、瑞希が一番西山家を訪れているのではないだろうか。
 文化祭での百合香との共演は校内でも評判だったようで、知らない先生や上級生からも声をかけられるようになった。また、春の校内合唱コンクールでは伴奏者に選ばれた。そうしたことが彼女のモチベーションを一段と高めたらしく、練習時間もさらに増えた。しかも彼女にとってうれしいことに、西山家の音楽室を自由に使ってよいと言われ、四郎も百合香も留守にしているときでも使えるようにと、史奈と同じように、指紋認証式の玄関の鍵の登録までしてもらった。
 防音ユニットがあるとはいえ、家族に気兼ねしながら弾くより、こちらの方がいいのだろう。平日は学校から直行で、まるで部活みたいに、家に帰るのは九時過ぎになる。日曜日も昼過ぎから夕飯時まで帰ってこない。家との往復の時間ももったいなさそうで、もしかしたら、本心では西山家に居候したいくらいなのかもしれない。
「ピアノを買ってもらって、お父さんとお母さんにはとっても感謝してるけど、やっぱりうちのとは音色もタッチも違うんだよ。部屋も響きがよくて、いつまでも弾いていられるの。ゆりかさん、今は受験勉強でだめだけど、大学生になったら、また一緒にやりましょうってお願いしているんだ。私もそのころにはもっと上達して、ブラームスとかフランクのソナタに挑戦するつもりよ。知ってる?フランク」
「フランク?さあ。フランク王国なら知ってるけど。西暦八百年、シャルルマーニュの戴冠ね」
「何それ。……まあ知らないよね。ヴァイオリンソナタの中じゃ私一番好きなの。百合香さんも好きだって言ってた」
 百合香や涼子がいるときは、聴いてもらって感想や意見をもらっているそうだ。学校では音楽やピアノの話をする相手もいないだろうから、瑞希としては話の通じる相手がいて楽しいのだろうと思う。
 瑞希が音楽室を使うようになったおかげで、百合香の方は、二階の、かつて百合香の両親の寝室だった部屋を練習室として使うことになった。涼子の出張レッスンはこれまでどおり音楽室を使うので、瑞希の来ない土曜日の午前中に日にちを変更してもらっていた。
「瑞希がいつも行ってて迷惑じゃないですか?」
「ううん、全然。瑞希ちゃんって、力のバランスのとり方とか手首の柔らかさとか、ちょっと真似できない。あれだけきれいな音が出せるひとって、あまりいないんじゃないかしら。蔵原先生も同じことを言ってた。でも演奏家を目指すなら、練習時間はいくらあっても足りないから、うちの音楽室を使ってもらえるなら大歓迎よ。ヴァイオリンはピアノと違ってどこへでも持っていけるから」
 百合香が去年までレッスンを受けていたピアニストの蔵原先生は、涼子や莉々の大学の後輩で、大学院を終えて母校に残り、現在は講師をしている。去年の暮れから、百合香の勧めもあって、瑞希がお世話になることになった。
 それまで習っていたピアノ教室の先生からも、あなたがもっと上をめざすなら、プロの演奏家や音大の先生についた方がいいと、かねてから言われていたのだった。
 蔵原先生には、譜読みや聴音などのソルフェージュのレッスンも併せて受けることになり、レッスン料は少し安くしてもらったらしいが、それでも謝礼はそれまでの倍になった。楽器もレッスンも、音楽はとにかくお金がかかる、と雄太は半ばあきれながら思った。
「しょっちゅう弾いているとピアノが痛んだり調律が必要になったりしないの?」
「もちろん調律は必要だけど、わたしも毎日弾いているし。むしろ弾かないで放置するのが一番よくないのよ」
 西山家の音楽室には同じピアノが二台置いてあり、さらに軽井沢の別荘にも同じものが一台。すべて亡き母の莉々のために購入したものだそうだが、西山家の財力をもってすれば大したことはないのかもしれない。百合香のヴァイオリンも十九世紀イタリア製とかで、ピアノよりもさらに高額らしいと瑞希が言っていた。
 悠太も、百合香と少しは音楽の話ができるよう、父親のCDを借りてピアノ曲やヴァイオリン曲を聴くようになった。瑞希の言うフランクのソナタはまだ聴いてないが、長い曲でも何度も聴いていると段々と耳に馴染んでくるような気がする。もう少し聴く耳ができたら、そのうち百合香のピアノやヴァイオリンも聴かせてもらおうと思っている。

 その日は、百合香が新しく買ってみたというハーブティを淹れてくれた。ハイビスカスとストロベリーが入っているという。甘く爽やかな香りがした。
 紅茶も嫌いではないが、ハーブティの方が軽くてカフェインもないので飲みやすいのだと百合香が言った。
「ねえ、来週の土曜日、秋野さんの誕生日なんでしょう」
 カップを手にしたまま百合香が言う。
「うん」
「誕生日はおうちでパーティとかするの?」
「何も。父親は土曜でも仕事へ行くことが多いし、友達を呼んだりすることもないなあ。ケーキを食べて、お小遣いを少々もらうだけ」
「プレゼントは?」
「それもないです。小学生までは本とか買ってもらったけど」
 瑞希の方は小学生のうちは誕生日にごく少数の友達を家に呼んだりしていたこともあったが、悠太はそのようなことは、もともとしたことがない。
「じゃあ、ウチにくる?夏に来ていただいたから、そのお返しもしたいし」
「西山さんと二人だけなら」
 少しずうずうしいかなと思いつつ、そう言うと百合香はふふ、と笑った。
「そうね、来週の土曜日はおじいちゃんがお昼過ぎまでいるけどいい?」
「いいですよ。もちろん」
「それならおじいちゃんも入れてお昼一緒に食べようか。わたしつくるから。夕方帰ればいいでしょう」
「わあ、楽しみ」
 その後、二人並んでソファに座り、百合香が書庫から持ってきた画集を二人で並んで眺めた。
 百合香は横でページを繰った。
 いつものように髪の甘い匂いが鼻をくすぐった。慣れて来たのか、最近はそれほどドキドキすることもない。だが、横顔に視線をやるたびに、なんてきれいなんだろう、とは思う。間近で見るうなじの透き通るような白さと肌のきめの細かさなど、つい見とれてしまう。変な気持ちになる前に、慌てて本に視線を戻す。
 最初に開いたのは過去の展覧会の図録だった。
「あ、これ見たことある。美術の教科書だったかな」
 百合香がそう言って指を指したのは、深夜の都会の片隅を描いた絵だった。深夜の街で一軒だけ営業している鋭角の角地に建つ食堂。角に面してカーブする大きな窓から漏れる照明が周囲の暗闇をぼんやりと照らしている。
 大きな窓から店内の様子が丸見えになっている。カウンター席のみで、一組のカップルと、一人の男性客がいる。独りの方はこちらに背を向けているので顔はわからない。何となく画家本人がモデルのようでもある。カップルの二人は赤いドレスを着た女性も中折れ帽をかぶった男も、ともにそれほど若くない。男の方がカウンターの金髪の店員に何事かを話しかけている。
「『ナイトホークス』、ホッパーですね」
「知ってる?」
「うん。家に画集があった。『ナイトホークス』って、アメリカの夜行性の鳥の名前だけど、スラングで『夜更かしする人』っていう意味があるんだよね」
「そうなんだ。秋野さんて物知りね」
 そんなことくらい百合香も知っているかもしれないが、彼女は感心してくれた。おだててくれているのかもしれない。そうだとわかっていても、好きな女性に褒められるとうれしくなる。
「この絵好きなんだ。孤独なんだけど安らぐっていうか」
「わかる。夜が心地いいっていうのは都会ならではでしょうね」
 その後、いろんな画集のページをめくっては、この服がかわいい、とか、このひと学校の先生に似てる、とか、他愛もないことを百合香は口にして、二人で笑った。
 楽しい時間があっという間に過ぎた。
「じゃあ、もう五時だから、これで。お勉強の時間でしょ」
 悠太が告げると百合香は身体を捩って駄々をこねるような口調で、
「あ、もうちょっと。もう少しだけ。……家に帰って晩御飯の支度しないとだめ?」
 言葉づかいが親しくなったのと同時に、子どもっぽい態度を最近百合香が見せるようになった。ときどき「ねえ、ねえ、」と甘えたり、「いやいや」とぐずったりする。
 もちろん冗談なのはわかっているが、なるべく感情を見せないような態度を示してきた彼女が自分には違う表情を見せてくれるようになったのが、悠太にはうれしかった。
「ううん、夕飯の準備は六時半までに帰ればいいから。じゃあ、あと一時間ね」
「ありがとう」
 今度は音楽の話になった。
「最近、父親のフォーレのピアノ曲のCD聴いて、ノクターンがいいなって思ったんだ」
 百合香の弾いていたフォーレのヴァイオリンソナタのCDを聴いた後に他の作品もと思って見つけたものだった。
 百合香の表情が明るくなった。
「秋野さんもクラシック聴くようになったの?うれしいわ。フォーレのノクターンね。わたしも大好き。何番を聴いたの」
「えーと、何番だったかなあ。聴けば思い出すんだけど」
 ショパンのノクターンよりもさらに穏やかで、夢見心地のような曲だった。半面、少し眠くなるところもあったのだが。
「……じゃあ、音楽室へ行かない?寒いかな」
「平気。もしかして西山さんが弾いてくれるの?」
「CDがあるからかけてみようかと思ったんだけど。……わたしのピアノ聴きたい?瑞希ちゃんみたいに上手じゃないわよ」
「そんなことない。よかったらぜひ聴ききたいなあ」
 百合香が書庫から楽譜を持ってきて一緒に音楽室へ行った。
 壁が二重構造になっているせいか断熱がいいのと、低い西日も差していて、思ったほど寒くはない。
「第一番から順番に最初のところだけ弾いてみるわね。どれだったのか、教えて」
 百合香が楽譜を見ながら弾き始めた。スピーカーから聞こえてくるのとは全然違う、生のピアノの音の美しさと馥郁とした音の広がりに心奪われる。
 最初と二番目の曲が違うことはすぐにわかった。
 三番目が一瞬これかと思ったものの、どこか違うような気がして、さらに四番、五番、六番と似たような印象の曲が続いてわからなくなった。七番以降は明らかに違う。
「ノクターンの三番から六番までって、出だしの感じが似た曲が多いのよ。全部フラット系の長調だし。よく聴けばみんな違うんだけど。一番有名なのは六番ね。中間部はこんな感じ」
 レースの編み物を見るような繊細で早いパッセージ。とても魅力的だが。
「うーん、それじゃなかったかな」
「じゃあ、前に戻ってもう一度。四番かな。これもよく弾かれるけど」
 同じように中間部を弾いた。
「ああ、多分これだと思う。この真ん中辺で盛り上がるところ、そうだ、これ」
「シンプルだけどいい曲よね。わたしも好き」
「瑞希もそうだけど、さらっと、楽譜をみてさらっと弾けちゃうなんてすごいなあ。本当に感心しちゃう」
「長い間練習すればそうなるわよ」
「西山さんはどれが好きなの」
「わたしは第七番かな。ちょっと長いし、重い感じだけど、弾きごたえがあるから」
「聴いてみたい」
 百合香の好みを知りたい気持ちもあって、リクエストしてみる。
「弾けるかなあ」
 そう言いつつ、百合香は該当のページを開いて譜面台にセットした。
 だいたい暗譜しているらしく、楽譜はほとんど見ないで弾いているようだった。
 短調の曲で、さりげない出だしから一歩一歩確かめるかのように、次第に速度と力強さを増していく。確かに重々しい感じもするが、響きは充実している。それに対して中間部は長調で、空を舞うような軽やかな旋律が繰り返される。
 それにしても、曲の美しさとともに、初めて見る、ピアノを弾く百合香の姿に、悠太はまたもうっとりさせられた。
 白い指が滑らかに動く。瑞希の柔らかい音とは違う、もう少し硬質で煌めくような感じがある。とりわけ、和音をフォルテで鳴らすときの澄んだ響きが心地よかった。
「ありがとう。とってもすてきな曲だね」
「退屈じゃなかった?」
「全然。またぜひ西山さんのピアノ聴きたいです。もちろん、ヴァイオリンも」
「うん」
 百合香ははにかむような笑顔を見せた。
 悠太は疑問に思っていたことを思い切って口にした。
「プロの演奏家になる気はもうないの?ピアノだってとても上手だし。瑞希がなれるんだったら西山さんなんか」
 百合香は悠太をじっと見つめてから、少し目をそらした。
「ピアノは好きなのよ。最初習ったのはピアノだし。物心ついたときには何か弾いていたから。最初はママが手ほどきしてくれて、そのあとママの知り合いの山本先生に習って、三年前に蔵原先生に替わったの。
 ヴァイオリンの方は、幼稚園に行くようになって涼子先生が、子ども向けの小さなヴァイオリンをプレゼントしてくれて、弾くようになったの。
 最初は両方の楽器とも好きだったけど、ヴァイオリンは楽器との距離が近いから、音がより身近っていうか、音楽と自分が一体になるような感覚があって、より心地よくて、自分に向いていたのかなって思う。
 ママが亡くなったのもあって、次第にヴァイオリンを練習する時間の方が長くなっていった。涼子先生もわたしに熱心に教えていただいて、自分でいうのも何だけど、順調に上達したと思うわ。
 先生に恵まれたのかもかもね。技術的な面はもちろんだけど、人柄的にも、涼子先生もピアノの蔵原先生と山本先生も、みんな優しくて、怒られたことがなかったし。習い始めて何年か経ったころには、将来は涼子先生みたいにヴァイオリンの演奏家になろうと思うようになったの。
 ピアノも相変わらず好きだったし、それなりに自信があったけど、演奏家になるのはあきらめた。だって、ママの演奏の録音を聴いて、多分、自分には彼女を越えることはできないって思ったから。ヴァイオリンの方はコンクールにもいくつか出て入賞もした」
「全日本音楽コンクールで二位をとったんでしょう?」
 百合香は軽く首を振った。
「たまたま得意な曲があっただけよ。その時の一位のひとの演奏を聴いて、自分もまだまだだって思った。技術的な差というよりも、やっぱり音楽性かな。紙一重の差かもしれないけど、でも、ほんの少しの差が大きいの。涼子先生は『あの子はコンクールに慣れているから、気にする必要はないわ。あなたも彼女に負けない才能はあるから努力すれば必ず同じかそれ以上のレベルになれる』って言ってくれた。自分でも、もう少し練習すれば追いつけないことはないとは感じた。でも決勝へ行くまでは結構、怖いもの知らずの自信があったのに、急に萎んだ感じになっちゃった」
「それでプロをあきらめたの?」
「きっかけはね。でも音楽を辞めるつもりは全然ないのよ。わたしの人生そのものだし、もっと先を極めたいという思いでいつも練習してるわ。ただ、プロとしてお金をもらって大勢の人に聴かせるというのは向いていないんじゃないかと思うようになった。涼子先生にそんなことを言ったら、考え違いだって言われちゃうと思うけどね。
 瑞希ちゃんも同じ悩みを持っているみたいだけど、人前で弾くのがもともと苦手なの。気ごころ知れた仲間内ならいいけど、知らない大勢の人の前でってなると、何となく気分が乗らなくなっちゃうのね」
「ふうん」
 人生をかけて打ち込んでみたいと思うようなものは何もない悠太には、百合香の感じているものが完全には理解できなかったが、反面、そんな悩みを持てる彼女をうらやましく思えてしまう。
「ところで、その一位のひとはプロになるの」
「もうなってるわ。そのあとすぐに海外のメジャーなコンクールでも入賞してデビューしたの。黒崎香織さんていうひとで、わたしより二つ年上だけど、すでに何回も演奏会を開いていて、オーケストラとも共演してる。名前を聞いたことないかしら」
「知らない。ごめん」
「今はニューヨークのジュリアードに通っているそうよ」
「ふうん」
 ジュリアードというのは米国の有名な音楽学校らしい。
 百合香は少し沈黙してから、再び口を開いた。
「でもね、一番大きな理由は、コンクールが終わって燃え尽きたわけじゃないと思うけど、ずっと音楽ばかりやってきたことに、息苦しさを感じるようになったことかな。このまま世の中のことを何も知らないで一生を終えるんじゃないかみたいな。
 物心ついてから学校と家を往復するだけの生活がずっと続いてきたから。家では学校の勉強と身の回りの家事を最低限やって、あとはひたすら練習。テレビも見ないし。友達もいない。何だか見えない檻の中にいるような気持ちがするようになってしまった。
 去年の文化祭で宮島先生の講演を聴いたのがきっかけで、彼女と知り合ったの。パパのお弟子さんだっという縁もあって、その後、家に来て話を聴いたり本をいただいたりして、社会科学の本を読むようになって、最初のうちは全然わからなかったけど、教科書には書いてない、いろんな世の中の見方があるのを知って、一つの考えだけが正解なんじゃないってわかってきた。社会や経済や政治に興味も湧いてきて……ごめんね、わたしのつまらない話を聴かせてしまって」
「ううん、そんなことないよ。百合香さんてすごいなあって思う。僕なんか、人生とか、物事をそこまで真剣に考えたことないから」
「その方がいいのかもね」
 百合香は微笑んだが、悠太はしかし、彼女にとって本当にいい選択肢は何だろうと思った。史奈が言うような一時的な気の迷いなどではなく、熟考の末に学問の道を進むことを決めたのだとは思う。でも、今さっきの、素人の自分でも感じ取れる魅力的な演奏を聴いてしまうと、彼女にとって一番大事なものは別にあるのではないかと思わざるを得なかった。
 悠太はもやもやした思いを抱いたまま、再びリビングに戻った。
「じゃあ、僕かたづけてくるね」
「ありがとう」
 百合香の勉強時間をこれ以上削ってはいけない。悠太も名残惜しい思いで、ソファに置きっぱなしだった本を抱えて書庫へ向かった。画集なので結構重い。
 本を片付けながら、以前、新聞のコピーが出て来たときのことを思い出していた。あの時も、画集の間に挟まっていた。もしかしたら、と思ったが、今回は何も出てこなかった。
 しばらく、書庫で本を見ていてふと考えた。
 四郎が、莉々と史奈の父親との不倫を仄めかすようなことを言っていた。正直、その手の話に興味はないし、共感もできないのだが、もしそれを確認するとしたら、手紙とかメールとか残っているのではないだろうか。
 男からの手紙なら莉々の蔵書の中に紛れていないだろうか。
 そんな軽い野次馬気分で楽譜などの書棚をざっと眺めてみたが、特に何もなさそうだった。もしあればとっくに四郎か百合香が見つけているのだろう。悠太は余計なことをしたと思って、書庫を出ようとした。 
 そのとき、部屋の片隅の机の上に、金属製の光るものが置いてあるのに目がとまった。
 電動シェーバーだった。
 何でこんなものがここにあるのだろうと悠太は思った。
 手にとってみると結構重い。
 父親は剃刀派で、この方が深剃りできるし、洗い流せて手入れも簡単だぞと悠太にもすすめるのだが、まだ髭の薄い悠太には、中学生の時に母に買ってもらった電動シェーバーの方が、どこでも剃れてケガの心配もないので使い勝手がよかった。三枚の刃が回転する方式の安いもので、今ここに置いてある高級品とは違う。
 刃の仕組みがわからないので、どんなものかとスイッチを入れると、思いのほか大きな音で振動したので、慌ててスイッチを切った。
「あの、これ書庫にあったんだけど、おじいさんのものじゃないかな」
 キッチンに戻って百合香に見せると、百合香はああ、という顔をした。
「おじいちゃん、無くなったって、先週から探してたのよ。書庫に置き忘れてたのか。でも書庫の机って、わたし、おとといあの部屋に入ったけどそんなもの置いてなかったな。変ね。まあ、見つかったからいいかな」
「僕も何でこんなところに、って思ったけどね」
「おじいちゃん、最近、物が無くなったってよく言うようになったのよ。この前も、爪切挟がなくなったって騒いでたわ」
「爪切り?見つかったの?」
「うん。それもアトリエに置いていたのが一瞬なくなって、でも結局見つかったの。ちょっと心配」
 百合香は半分本気で心配している様子だった。
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