第14章 誕生日のプレゼント

文字数 8,080文字

 誕生日のプレゼント

「わあ、すごい。これ全部西山さんがつくったの」
「おいしいかどうかわからないけど」
 百合香ははにかむように視線を落として言った。
 翌週、約束どおり西山家を訪れると、百合香の手料理が待っていた。
 シーザーサラダにミネストローネ風の具だくさんスープにメインはタンシチュー。悠太がこれまで作ったことのない料理ばかりが並べられていた。四郎が言った。
「昨日から準備してたものなあ。ヴァイオリンの練習も休んで。あんなに一生懸命料理しているところを初めて見たよ」
「いつもお料理をつくるときは一生懸命よ。……作るのは年に数回だけですけどね」
 軽くそう言い捨ててから、百合香は悠太に微笑みかけた。
 今日は一段と綺麗にみえる。普段よりも、ややしっかりとメイクしているからかもしれない。
「どう?しょっぱくないですか?」
「うん、ちょうどいいです。おいしい!」
「よかった」
 百合香はにっこり微笑んだ。
「秋野さん、お肉好きみたいだからたくさん作ったの」
 三人で食事をした。
 百合香は軽井沢のレストランで太田と会ったときに悠太が頼んだステーキの大きさが強烈に印象に残っているらしい。その時も目を瞠って驚いていたが、今日も話題に出した。
「あんなに大きなステーキ、初めて見たわ。それをペロッと食べちゃうんだもん。びっくりした」
「骨の部分がかなりあったから、肉の量はそれほどでもないと思うけど」
「そんなことないわ。あんなに食べて具合が悪くなるんじゃないかって心配しちゃった。やっぱり、男のひとって食べる量が違うのね。でも、お肉だけじゃなくて、野菜もたくさんとってくださいね」
 百合香は母親が悠太にいつも注意しているのと同じことを言った。
「Tボーンステーキかね。イタリアじゃ『ビステッカ・アッラ・フィオレンティーナ』と呼ばれて、フィレンツェの名物料理なんだ。地元特産の牛がいてね。なつかしいな。あちらのステーキは脂っこくないから、私も若い頃は一キロ近い塊でも食べられたもんだ。今は見ただけで腹いっぱいだが」
「おじいちゃんは昔イタリアに絵の勉強で留学してたのよね」
「ああ。住んだのはローマだったけどね。トスカーナにもたまに行ったよ。もちろん、学生だからステーキなんて、ほんのたまに食べただけだったが」
「外国にいると日本食が懐かしくなったりするんですか」
 悠太が尋ねた。
「イタリア料理は日本人にもなじみがあるし、魚や米なんかの料理もあるから、そんなには飽きなかったが、日本を出て半年くらい経った頃、無性にカレーを食べたくなったときがあって、下宿の台所を借りて、買ってきた米を鍋で炊いたことがある。ご飯の湯気が鼻に入った瞬間、思わず涙が出たんだ。後にも先にも食べ物の匂いを嗅いで涙が出たのはその時だけだな」
「ご飯の匂い、ですか」
「ああ。日本にいるとご飯の匂いなんて誰も気にしないだろう。匂いなんてあったっけ、くらいのものなんだが、異国の乾燥した空気や、街の匂いに慣れてからだと、はっきりわかるんだよ。あれは独特の匂いなんだ。柔らかく優しく包み込まれるような、そう、まるで母のぬくもりのようなね。だから思わずウルっとしてしまったんだろう。味噌や醤油や鰹節も日本独特の香りには違いないが、私はまず第一にご飯の湯気を挙げたいね」
 四郎は続いて最近描いている絵の話をした。史奈と二人の画は、少し手直しが必要とのことで、もうしばらく待ってほしいということだった。そして時計を見て、
「じゃあ、友達と会う約束があるのでもうそろそろ失礼するかな。……でも、史奈ちゃんにも来てもらえばよかったかな。もう、あまり会えなくなりそうだから」
 百合香は曖昧な表情をした。
「そうね。また改めて来てもらうから、今日はいいんじゃない」
「それもそうか。今日は秋野君の十六歳の記念すべきお祝いの日だからな。四月からは高校二年生か。百合香なんか今年の夏で十八歳、もう成人だからなあ。あっという間だな」
「やだ、おじいちゃん。秋野さんが十六歳になったばかりなのに、わたしがもうすぐ成人って。わたしがすごい年上みたいじゃない」
 百合香がすかさず不平を言った。そこに冗談ではすまされない、というような強い声の調子を感じて、悠太は百合香を見た。四郎も同じように受け取ったのか、素直に謝った。
「ああ、女性に対して年齢の話は禁物だったな。すまん。……でも秋野君は好きな女性が少しばかり年上かどうかなんて、別に気にならないだろう?」
「あ、はい。全然。自分にとって大切なひとなら年齢なんて関係ないです……」
 返事をしながら悠太は百合香に再び視線を戻してハッとした。頬を赤く染めてやや上目遣いにこちらを見つめている。目が会うとすぐにそらしたが、その表情は今まで見たことのない、いつものはにかみとは違う、何かを訴えるような、あるいはこちらを品定めしているような、強い感情と意思がこもっているようだった。
「……そうだ、そういえば秋野君、私の髭剃りを見つけてくれて、どうもありがとうね」
「あ、いえ」
「なくなって困ってたんだよ。髭剃りはやっぱりないと困るものでね。古いし、この際新しいのを買おうかなと思っていたところだったが、よかった。しかし、なんで書庫なんかに置いたんだろうかな。全然覚えがないんだが」
「ひげを剃りながら家の中をうろうろしたんじゃないのかしら」
 百合香の言葉に四郎は首を振った。
「いや、そんなことはしない。だいたい、あれはアトリエの流しのところにいつもおいてあるんだ。作業の合間に絵や庭を眺めながら剃るんでね。男の自分しか使わないものだし、値段はそこそこしたが、もう買ってから十年も経って、そろそろ買い替えるかと考えていたようなものに、価値などないだろうし。猫か何かが咥えて行ったとしか考えられないな。……さて、邪魔者は本当にいなくなるから安心したまえ。ああ、見送りはしないで結構。じゃあ、秋野君、あとは百合香とゆっくり楽しんでください」

 四郎が出て行ったあと、悠太は先ほど四郎が言った言葉が気になって尋ねた。
「史奈ね、四月から引っ越すの」
 百合香が視線を下に向けたまま言った。顔の紅潮はすでに納まって、いつもの彼女にもどっていた。しかし、その返事の内容に今度は悠太が驚いた。
「え、そうなの」
 母の涼子が札幌にある音大の客員教授として招かれているのだという。三月の終業式が終わったらすぐに引っ越す予定になっていると百合香は言った。
「ずっとというわけじゃなくて、三年間だけらしいけどね」
「北海道行っちゃうんだ。史奈ちゃんも転校しちゃうのか。それはまた……」
 寂しい、と言おうとして言葉をのみこんだ。
「聖花学園の姉妹校が函館と福岡にあって、そちらに転校するのよ」
 親の転勤などで、まれに転校はあるらしい。
「函館だと、札幌から通えないよね」
「鉄道で三百キロくらいあるらしいから無理でしょうね。だから寮に入るんだって。学校の中にあるみたいよ」
「それは大変だなあ。独りぼっちで」
「史奈のことだから、友達はすぐにできるでしょうけどね。土日は家に帰れるらしいの。でも函館から札幌まで電車で帰るのは大変だから、どうするのか、もしかしたら涼子先生が函館に通うのかも。その辺はまだよくわからないわ」
 頭がよくて人懐こい史奈のことだから、百合香の言うように、友だちには困らないかもしれない。そうだとしても慣れない北国の生活でひとりで生活するというのは心細いだろう。まだ中学生なのだ。
「じゃあ、西山さんのヴァイオリンの先生も別に探さなければね」
 すると百合香は目を伏せて首を振った。
「涼子先生から新しい先生を紹介してあげるって言われたけど、相性もあるから、どうしようかって迷っているの。受験勉強もあるし」
「瑞希が、西山さんが大学に進学したらまた一緒にやるんだって言ってたよ」
 相手はそんなことはわかっているという風に、軽く首を振った。
「すぐに瑞希ちゃんの方がレベルが高くなると思うわ。音楽に対する心構えや取組み方が違うもの。音大でもっとふさわしい相手を見つけた方がいいと思う。もちろん、その時になってもご一緒してもらえるのなら歓迎だけど」
 百合香は、食器を片付けなきゃ、と言って立ち上がった。悠太も一緒にキッチンに行った。
 一緒に食器を片付けながら、
「ケーキもつくったの」
 少し恥ずかしそうに百合香が言った。
「え、本当?すごい。見せて」
 百合香が冷蔵庫から出したのは、ザッハトルテ風に、チョコレートが全面にコーティングされた丸いケーキだった。
「秋野さん、お菓子はチョコが好きだって言ってたから」
「わあ。お菓子とかケーキって、材料をきっちりと計量しないとダメなんだよね。僕苦手なんだ。そういうの」
 ずっと前、史奈のカップケーキを食べたときにも同じようなことを言ったことを思い出した。
 さすがにお腹がいっぱいなので、もう少ししてからいただくことにして、とりあえず片付け終わったあと、ソファに移動した。
「ああ、そうだ。ちょっと待って」
 百合香が席を外し、しばらくして封筒のようなものと一枚の紙を持って戻ってきた。
「あげるの遅くなったわね。ごめんなさい。誕生日のプレゼント。何がいいかわからなくて」
 百合香から渡されたのは図書カード。
「本を買って勉強してね」
「……ありがとうございます」
「本当はもっと気の利いたものがいいと思って、瑞希ちゃんに何がいいか、訊こうと思っただけど、忘れちゃったの。ごめんね」
「ううん、とってもうれしいよ。ありがとう。……ひとつ聞いていい?」
「なあに?」
 ずっと確かめたかったことだが、誕生日ということで思い切って口に出した。
「僕のこと、どういうところを気に入ってくれたの?」
 百合香は意外なことを聞かれたかのように、しばらく黙ったが、
「そうねえ、かわいいところかな」
 首を傾げてニコッとした。
「かわいい?」
「うん。初めてうちに来たとき、庭のお花を案内したでしょ。わたしの説明を素直に聞いてくれたときにそう感じたの」
「ふうん……」
「それと、鳥か猫に土が掘り返されて球根がむき出しになっていた株があったでしょ。それに手でそっと土を被せてあげていたのを見て、優しいひとなんだなって思った」
「そんなことあったっけ。全然覚えてないよ」
「無意識にそういうことができるのがステキなのよ」
 百合香は頬をあからめた。
 悠太はあの日は百合香を初めて見て、その日のうちに好きになってしまった。それは自分だけかと今まで思っていたが、彼女も自分に好意を持ってくれていたらしい。
 百合香は手を祈るように組んで、
「秋野さんの方は本当にわたしでいいの?年上でも」
 年齢のことをけっこう気にしているらしい。
「もちろん。さっき言ったみたいに歳なんて関係ないと思うよ」
 百合香がさらにささやくような声で
「でも男のひとって自分より若い女性がいいんじゃないの?」
「それは相手によるとしか……西山さんこそ、僕が年下で、幼稚だとか、物足りなく思うなんていうことはないの?」
「ううん。だって、秋野さんって頼りになるもの」
 悠太には意外な言葉だった。
「それはどうかな……正直言ってぜんぜん頼りにならないと思うんだけど」
「そんなことないわ。だって秋野さんがいなかったら、パパとママのこと調べてみる勇気がでなかったもの。いつまでもうじうじ悩んでたかも」
 百合香は悠太の目を覗き込むように言った。
「瑞希ちゃんも、練習の後で、お兄さまのことをよく話してくれるの。心配してたみたい。あまり友達がいないようだし、だから彼女をつくった方がいいんじゃないかって思ったんだって。そうじゃないと後で悪い女にだまされないか心配だから。……もうすでにだまされちゃったかもね」
 百合香は片目をつぶった。
 悠太は思わず深呼吸をした。
「でもうれしい。……別に今日が誕生日だから特別に褒めてくれたわけじゃないよね」
「秋野さんといると安心できるの。こうして家で二人だけでいても。だからわたしもつい甘えちゃうのね」
 百合香は微笑んだ。
 悠太は思い切って言った。
「一つお願いがあるんだけど」
「なあに?」
 百合香が再び首を傾げる。
「僕にも少しだけ甘えさせて……」
「え」
 少しびっくりしたような表情。
 実際に口に出してみて軽く後悔する。
「……ごめん、変なこと言って」
 百合香が悠太を見つめた。無言のまま少し時間がすぎた後、百合香の口元が妖しくゆがんだ。
「ほんとうにかわいいんだから……」
 悠太の手を百合香が取った。そして自分の方に引き寄せようとしたが、おどろいた悠太と目が会った瞬間、力を抜いてしまった。悠太の腕はだらんと自分の膝の上に戻った。
「ごめんなさい」
 百合香は何をしようとしたのか、恋愛映画の主人公だったら、ここで何も考えず彼女を抱きよせるところかもしれない。だが、悠太は、一瞬ぽーっとなってしまい、しばらく何をしたらいいかわからなかった。その様子をみて、
「大丈夫?」
「うん、大丈夫」
 かろうじてそれだけ言って、百合香を見つめた。百合香も今度は悠太を正面から見つめた。そして、
「ねえ、これから秋野さんのこと、名前で呼んでもいい?」
「いいよ。……じゃあ僕も、ユリカさんって呼ぶね」
 百合香がうれしそうに微笑んだ。
「最初の頃、本を返しに来たときかしら。一緒に美術館いかないかって誘ってくれたでしょう?男のひとから誘われたことなんてなかったので、わたしびっくりしちゃって。つい断ってしまって、後になってから、もしかしたら嫌われたんじゃないかって、後悔したの。実際、しばらく口をきいてくれなくなったし」
「あのときは僕もいきなり誘うの早すぎたかなって。話をしなかったのはごめん。僕もユリカさんに嫌われたと思ったんだ」
「そんなことないのに。……あと史奈が最初からあなたのことを『悠太さん』って無邪気に名前で呼んでいるのもうらやましかった」
 百合香は髪をいじりながら上目遣いで言った。少し甘えるような、駄々をこねるような口調になった。
「だったらユリカさんもそうすればよかったのに」
「そんな、わたしはできないわ。ひととの距離感っていうのかな、それがいまいちわからないし。……ねえ悠太さん」
「なあに」
「わたしって、けっこう嫉妬深いの。去年の秋、史奈とデートしたのをきいて夜寝らなかったんだから」
「心配させてごめんね。でも僕はユリカさんと出会ってからずっと、ユリカさんのことしか考えていないし、ユリカさんだけを見ていたんだよ」
「ほんとう?うれしい。……わたし、いつも悠太さんと一緒にいると、ドキドキするの。今もそうだけど。……でも、同時に、とっても安心できる。悩みとかがあっても、どうでもいいって思えちゃうくらいに。……こんな感じになるの初めて」
 百合香の少しかすれた声が悠太の耳をくすぐった。
 悠太はうっとりとして、彼女を見つめた。相手の黒い瞳のまん中に自分だけが映っているのを確かめたかった。いつまでもこの愛しいひとを見ていたい。ずっと一緒にこの時間を過ごしていたい。
 憧れにすぎなかったものが次第に実在感を増し、いま確かなものとして目の前にある。誰も招き入れたことのない、自分の心の部屋の中に、いま、実在の女性が入ってきたのだった。
 自分が相手に認められている喜びと、もう後戻りできない場所にやってきたという少々重たい感覚とがないまぜになって胸が震える。
 思わず悠太の方から百合香の手を握ろうとしたその時、鳩時計が三時の時報を告げた。壊れているのか、その唐突でいささか間抜けな物音に、二人は急に我に返った。百合香がぷっとふきだした。恍惚めいた時間はあっさりと終わった。
 悠太も半分照れ隠しで、百合香が持ってきてテーブルに置いた紙に目をとめて言った。
「それは、なに」
 百合香もはっとした顔になった。
「ああ、これ。誕生日の日にこんなもの見せない方がいいと思うんだけど、でも……」
 百合香は俄かに不安気な表情になった。
「パパの携帯が遺品で残っているの。ダウンジャケットのポケットに入っていて、事故の時にも奇跡的に残ったらしいのね。ママの方はバッグに入れてあったらしくて、流されてしまったみたい。本体は水に浸かってしまって使えないけど、中に入っているSDカードは何とか読むことができたのよ。パソコンにコピーしたの。それを見ていたら」
 百合香は持ってきた紙を差し出した。
「裕章さま 明日、午後二時頃、去年二人で行った千曲川の河原で待っています。お話したいことがあるの。必ず来てね。 あなたのLilyより」
 簡単なメールの文章だった。
「たぶん、メールを保存していたんだと思う。ほかには写真もあったけど。わたしやママや涼子先生とか。メールは他にも何通か残ってたわ。その……」
 百合香は顔を赤らめた。
「要するに、あなたを愛してますとか、そんな内容なの。あの事故には直接関係ないから印刷してないけど」
「なるほどね。全部、その『Lily』、つまりおかあさんからだよね」
 百合香は頷いた。
「そう。それで……このメールを見ると、ママがパパをあの河原に呼び出したことがわかったわ。それでパパがわたしを連れて出かけたということなのよね」
「ふうん。それで、その場所にはもう一人の男性がいたんだよね。その人は何なんだろう。たまたま通りがかったんだろうか。それとも」
 悠太の言葉に、百合香は何かを言おうとして、迷っている様子だった。
 悠太は辛抱強く待った。しばらくして百合香が口を開いた。
「パパとママのこと、おじいちゃんから聞いたでしょ?ママが史奈のパパと付き合ってたんじゃないかって。おじいちゃんは、わたしには言わないでって、悠太さんに頼んだみたいだけど、でもわたしにも話しておくべきだと思って、そのあとわたしにも同じことを話したの」
「そうだったんだ」
「わたしにはショックだったけど、でも、たぶん、パパとママってあまり相性が良くなかったのかもね。だって、おじいちゃんの絵に、二人そろって出てくる絵って、一枚もないんだもの。
 残念だけどしかたないと思うわ。で、それはそれとして、わたしの完全な想像だけど、事故の現場にもう一人居合わせたひとって、史奈のパパじゃなかったのかなって思うの。太田さんが、言い争ってるような声がしたのを聞いたひとがいたって言ってたじゃない?」
「うん。……それが史奈ちゃんのお父さんだというわけ?」
「パパとママが話をしようと待ち合わせたときに、史奈のパパもやってきて、そこで言い合いになったとは考えられない?どうして来たのか、多分、史奈のパパはわたしのママを諦められなくて、後をついてきたのかもしれない。史奈のパパはそのまま帰ったけど、その後でパパとママが言い争いになって、その弾みで川に落ちたのかも」
 百合香の説明は、あり得るように悠太は思ったが、四郎にも言われたとおり、両親の問題に関してこれ以上追求しても彼女にとって辛いことにしかならないのではないかとも感じた。そのことを改めて百合香に言うと、彼女は冷静に答えた。
「わかってる。ママが不倫してたとしても、ママや相手のひとを悪く思う気持ちはないから。ただ、自分の記憶もはっきりしないし、もやもやしているところがあっただけ。その点はかなりクリアになった気がする」
 
 帰り際、玄関で百合香がいたずらっぽい笑みを浮かべた。そしてくすぐるような甘い声でささやいた。
「さっきは、惜しかったね」
「え?」
「突然鳩が鳴かなければよかったのにね」
 百合香は少し頬をあからめて微笑した。
 惜しかったのは百合香にとってなのか、それとも悠太にとってだったのだろうか。
 さっきは舞い上がってしまって自分のことしか考えていなかったような気がして、彼は少し恥ずかしい気持ちになった。
「あ、そうだ。忘れてた」
 百合香が待ってて、と言って引っ込んで、すぐに紙袋を持って戻ってきた。
「さっき見せたケーキ、よかったら持っていって」
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