第11章 愛の終わりについて

文字数 11,100文字

 愛の終わりについて

 翌日はすっかり冬休みモードに入った。
 気持ちを切り替えた方がよいと、お互い話したわけではないが、昨日までのことは二人ともあえて口にしなかった。
 約束どおり、四郎が近隣のスキー場まで送ってくれた。浅間山の西麓にあるこじんまりとしたスキー場だった。
 日ごろ運動はほとんどしない百合香だが、スキーは幼いころから毎冬こちらに来ていて、そこそこ滑れるらしい。
 慣れないスキーウエアやスキー板の装着に手間取り、よろよろしながらリフトの前までたどり着いた悠太に、ゴーグルをつけた百合香が告げた。
「じゃあ、わたしが一番基本的なことだけ教えてあげるわ。止まりたいときは、板を内向きにハの字にすればいいの。あと重心を前に持っていくようにすれば転ぶことはないけど、もし転んでしまったときは脚を曲げたりしないで、素直にお尻から転ぶこと。その方が骨折のリスクは少ないから」
 そのほか簡単に説明を受けて、二人でリフトに乗った。
「ひゃあ」
 高所恐怖症の悠太は、足元が空中にぶらぶらするだけで体の背中から下半身にかけてぞわっとし、早くも後悔の気持ちに襲われたが、隣に百合香がいる手前、弱音を吐くわけにもいかず、下を見ないように目をつぶり、座席の横を掴んでじっとしていた。
「じゃあ、降りるわよ。タイミングを揃えて立ち上がって。いち、に、さん」
 何とかリフトを降りた。
 見ると百合香がクスクス笑っている。
「怖かった?」
「え、まあ」
「秋野さんて高所恐怖症だったのね。身体がコチコチだった。ふふふ」
 すぐに見抜かれたらしい。
「大丈夫よ。わたしが一緒に滑るから」
「ありがとう……」
 何度か転びそうになりながら、百合香に付き添われて何とか下まで降りてきた。
 再びリフトで上って降りるのを何度か繰り返すと、さすがに悠太も慣れてきて、時々転んだものの、恐怖も次第に薄らいだ。景色を見る余裕も出てきた。
「ありがとう。じゃあ一人で滑れると思うから、先に行っていいよ。僕と一緒じゃ遅くてつまらないでしょ」
 五回か六回目くらいに悠太が言うと、百合香は首を振った。
「気にしないで。だって、二人で滑った方が楽しいもの。それに秋野さん、どんどんスピードあがってきてるし。上達が早いわ」
 と、うれしくなるようなことを言う。
 百合香と結局、コースを変えながら午前いっぱい滑って、スキー場に隣接したホテルで昼食をとったところで四郎の車が迎えに来た。
「スキーはどうでしたか」
 運転しながら四郎が尋ねた。
「楽しかったです。初めてだったけど、景色も空気もきれいで。それに西山さんが丁寧に教えてくれたので」
「それはよかった。百合香、また明日も行くかい」
「うん。お願い」
 元気に答えた百合香だったが、翌日のスキーは結局中止になった。
 その日の夕方から、彼女が熱を出したのだった。

「多分、君とのデートに張り切りすぎて疲れたんだろう。子供のころからよく熱を出す子だったからなあ。最近はだいぶ丈夫になったと思っていたが……まあ、明日一日休めば良くなるよ。わざわざ医者に行くまでもあるまい」
 四郎は弁解するようにそう言ったが、スキーよりも、二日間の調査で、初対面の大人と接して、精神的に緊張していたのだろうと悠太は思った。あるいは初日の夕方、千曲川の河原で寒い北風に晒されたのが良くなかったか。
 夕食後、悠太は百合香の部屋のドアをノックした。
「入ってもいい?」
「どうぞ」
「少しは楽になった?」
「ごめんね。よかったら明日一人でよければ行って」
 寝室のベッドに横になっている百合香が言った。髪を一つにまとめて簡単な三つ編みにしている。熱のせいか顔が少し赤い。だが、それほど高熱というわけでもないらしい。四郎の言うとおり、単純に疲れたのだろう。
「ううん、僕も疲れたからここにいる。持ってきた本も読みたいし」
 悠太は作ったばかりの卵とじうどんを百合香のベッドの脇テーブルに置いた。
 この家での食事は悠太が作っていた。百合香も昨日までは手伝っていた。食材は四郎がスーパーで一週間分を買って揃えてある。正月のおせち料理は、料理の得意な涼子が毎年作って持ってくるのだという。
「わあ、ありがとう」
「お粥の方が良かったかなあ」
「ううん、おうどんも好きよ」
「柔らかくした方がいいと思って茹ですぎちゃったかも」
 食べやすいように、小さい茶碗に少しずつ移して百合香に渡す。
「このくらいの方が食べやすいわ。ありがとう……なんだかすっかり病人みたいになっちゃった」
 悠太は百合香への愛おしさがつのった。
「気にしないで」
「わたしといると、いろいろ面倒だって思ってない?」
「ううん、全然。困ったときはお互い様だから」
 お世話をするのもうれしいんだよと、雄太は心の中で呟いた。
 正直、百合香の両親のことについては、よくわからない。もちろん、百合香が母親を突き飛ばしたなどとは思えない。幼児の力なんてそんなに大したものではないだろう。でも彼女の不安な気持ちをすっきりさせたいとの思いから、彼女に協力している。彼女の気が済むまで付き合いたいとは思う。
「デザートにゼリーも作ったんだ。グレープ味。食べる?」
「ありがとう。おいしそう。作ったの?」
「家に残ってるゼリーの素を持ってきたんだ。お湯で溶かして冷やしただけだから」
 悠太お気に入りのデザートで、作るのが超簡単なので、いつも朝作って冷蔵庫に冷やしておいてある。自宅には自分用の特大の器もあるが、今日は百合用に小さなワイングラスに入れた。
「でもおいしい。熱があるとよけい、そう感じるわ。すごいプリプリしてる。なつかしい味」
「ゼラチンだから。スーパーやコンビニで売ってるフルーツゼリーって、ゼラチンは使わないからあんまり弾力ないよね。」 
「そうなんだ。……ふふふ」
 突然、百合香が悠太の顔を小さく指さして笑った。
「何か付いてる?」
「ううん、お鼻が少し赤くなってる。雪焼けしたんだと思って」
 そう言われてみると、鼻から頬にかけて少しひりひりする。
「鼻とか頬とか、スキー場って焼けやすいのよね」
「でも百合香さんはぜんぜん日焼けしてないね」
「だって、日焼け止めをうんと塗ってたから」
「ずるい」
「だって、滑る前に『塗らなくていい?』って訊いたでしょ。『いいです』って言うんだもの。うふふ」
 楽しそうに笑う百合香の様子から、具合はそんなに悪くはないと悠太は安心した。
 そして、ポケットから小さな袋を取り出した。
「これ。あのお店で買ったペンダント。どうぞ」
 百合香が驚いた表情を見せた。
「え、うれしい。でもいいの?瑞希ちゃんへのお土産かと思ってた」
「ううん、西山さんにと思って買ったんだ」
 それは間違いない。つい、渡しそびれてしまっていたのだった。
「きれい。可愛いデザインだわ。ありがとう。つけていい?」
「もちろん」
 百合香は器用に細いチェーンを首にかけて留めた。
「うん、かわいい。似合ってる、と思う」
「ありがとう」
 彼女にプレゼントするのは誕生日の花束以来だった。そのときは瑞希に、身に着けるものはやめたほうがいい、と言われたのだったが、今ならもういいよね、と悠太は心の中で呟いた。

                   ***

 食べ終わた食器をキッチンに持っていくと、四郎がすっとやって来た。
「どうもすまんね。お客さんにいろいろさせちゃって。でも助かるよ」
「いえ、こちらこそ、今日はスキーに連れて行ってもらってありがとうございます」
「百合香の熱は大したことないだろう?」
「そうですね、食欲はまあまあ、ありますから」
「君がそばにいてくれれば安心だよ。ところで、ちょっと話しておきたいことがあるんだ。片付けたら来てくれないか」
 食器を洗って居間のソファに座った。
 斜め向かいに四郎が腰を下ろした。
 相手はいつもどおり、にこやかな笑顔だが、改まって向かい合うと、何となく緊張する。
「何でしょう」
「じつは三つほどあってね。ひとつは百合香のことだが」
「はい」
「単刀直入に訊くが、百合香のことをどう思ってる?好きかい?」
「はい。好きです」
 悠太がはっきりと口に出すと、四郎は笑みを浮かべて頷いた。
「じゃあ、よろしく頼むよ。百合香は昔から神経が細いというか、ちょっと不安に感じたり、旅行でいつもと違う場所に行くと、今日みたいに熱を出していた。まあ、両親が目の前であんなことになってしまって、どれだけショックだったろうかとは思う。今でいうところのPTSDなのかもしれない。そのせいか知らないが、対人関係で消極的というか、いつも自分を自制してしまうような子供だった。
 外で遊ぶこともなくて、史奈ちゃん以外の友達を連れてくることもほとんどなかった。最近は青白い顔をして難しい本ばかり読んでいるし。
 ピアノやヴァイオリンの稽古で普通の子のようには自由な時間がないのはしかたないが、あまりいい傾向じゃない。やっぱり同年代の子と付き合わないとな。
 でも、君がうちに来るようになってから、だいぶ明るくなったし、着るものや身だしなみにも気をつかうようになった。いいことだと思っている」
「そうですか」
 四郎は頷いた。
「君は歳のわりには性格が穏やかで落ち着いている。百合香みたいな子にはいいと思うんだ。絵描きだから学問的なことは全く知らないが、モデルをしてもらうと、相手がどういう人物なのか、内面もある程度わかるものなんだよ」
 絵のモデルをしていたとき、筆を動かしながら四郎は面白おかしい冗談ばかり言っていたが、そんな目で見ていたとは知らなかった。もしかしたら、突然現れた自分を試すために絵のモデルをやってくれ、と言ったのかもしれない。
 悠太の推測は当たっていた。四郎がこれまでのいきさつを教えてくれた。
「実は、君のことは史奈ちゃんから聞いたんだ。『私の学校の友達のお兄さんをこの家に呼んでもいいでしょうか』って言うんでな。前に『百合香にもボーイフレンドの一人くらいいてもいいんだが』って、半分冗談で口にしたのをおぼえていたらしい。史奈ちゃんも、百合香の人間関係を広げた方がいいと気にかけていたんだろう。あの子は見た目は愛くるしいが、百合香よりもずっと大人びて、いろんなことに気が付く子だから。
 で、『優しいし頭も良くて性格もいいから間違いないって、そのお友達は言うけど、百合香さんの友達としてふさわしいか見てください』というんでね。もちろん、百合香には内緒だが、薄々は気づいているだろう」
「じゃあ、もしかして絵のモデルも?」
「そうだよ。史奈ちゃんと打ち合わせてそういうシナリオにしたんだ。君をよく観察するためにね。ははは」
「はあ……」
 それでひとつ、腑に落ちた。最初の頃、いくら妹の友達のつながりとはいえ、西山家のようなところに悠太などが頻繁に呼ばれるのが、何となく不自然に感じていたからだ。百合香は資産家の祖父とその姉が、両親に代わって大切に育てた箱入り娘、よく知らない異性の訪問など普通は歓迎しないだろう。
 それなのに誕生日のお祝いに招待されたり、絵のモデルで定期的に通うことになったり。四郎がたまたま自分のことを気にいってくれたのかと思っていたが、史奈と四郎がはじめから自分を百合香に会わせてみようと企んでいたのなら、理解できる。そして自分が百合香の相手にふさわしいかどうか、気づかないうちにしっかりチェックされていたというわけだった。
「……で、初めはちょっと頼りないかなとは思ったが、すぐに、いい子だとわかったし、絵を描いている間も考えは変わらなかった。史奈ちゃんが退屈そうにしているのを見てなだめたり、褒めたり、なかなかよく気が付く子だ、これなら難しい百合香の相手もできるかもしれないと思ったんだよ。それに何より真面目だ。百合香も君のことを気に入ったみたいだし、ボーイフレンドとしていいんじゃないかと思った。私の姉も百合香の誕生日に君と話して、同じ印象を持ったらしい」
「それはどうも」
 知らぬ間に姉弟による厳しい審査はパスしていたらしい。
「君の方が年下なのもいいのかもしれん。百合香も気安く話しやすいようだ。……というわけで、私ももう、七十代半ばで、この先いつまでも生きてはいられないからね。心配なのは百合香のことだけなんだ。あの子のことが好きなら支えてやってほしい。世間知らずで人間関係に関しても不器用だが、素直でいい子だから」
 四郎から真っ直ぐに視線を受けて、悠太も目を合わせて答えた。
「わかりました」
 四郎は軽く咳払いをして続けた。
「ただ、そんなことを言っておいてなんだが、ひとつだけ、……まあ、私も高校生の頃は異性に対するその、欲望というか、抑えがたいものがあったのを思い出すが、百合香は同年代の男の子と遊んだこともないから男性というものをよく知らないし、無防備なところもあるんだ。
 夏の始めの頃、まだ知り合ったばかりの君を家に上げたというので注意したこともあった。君だから大丈夫だと思ったと百合香は言っていたが、相手が誰であれ、よその男性と家で二人きりになっちゃだめだ。……その時はまだ君のことを十分よくは知らなかったのでね。今なら大歓迎だが。
 というわけで、百合香は来年は受験も控えているし、その点も配慮して、君にはもう少しだけ我慢してくれるとありがたいんだがな」
 悠太は四郎の言う意味を理解するのに一瞬時間がかかった。
「あ、それだったら、大丈夫です。……たぶん」
 悠太は耳たぶが熱くなるのを感じて答えた。
 年ごろの少年としてあれこれ想像をすることはあるが、どれもリアリティのない妄想でしかなく、現実の百合香との時間の過ごし方を思うと、彼女とそういう関係になるのはずっと先のことのようにしか悠太には思えなかった。第一、百合香からはっきり「好き」だとも言われていないのだから。
 もっとも、本を返しに行ったあの夏の日、百合香をいきなりデートに誘おうとしてしまったのだから、四郎の心配も全くの杞憂ではなかったかもしれない。百合香がそのことを四郎に話していたら、四郎に出入り禁止にされていたかもしれないと、今さらながら冷汗が出る。
「そうか。で、二つ目は私自身のことでね」
 四郎はあっさり言うと、暖炉に一瞬目をやってから再び口を開いた。
「今も言ったように、私もあと何年持つかわからない。どんなに長くてもせいぜい十年ちょっとだろう。持病はないが、体力的にはかなり衰えてきているのが自分でもわかる。それで、君のお父さんは弁護士だときいたんだが」
「そうです」
「どういう分野の専門なのかな。そんなのわからないか」
「民事がメインだって本人は言ってますけど。離婚とか破産とか」
「ふむ。我が家には父の代から親しくしていた弁護士がいたんだが、高齢でリタイヤしてしまってね。税理士はいるんだが、遺言だとか財産処分の手続きとか、そのほかのいろいろ実務的な相談をしてくれる人を探してるんだ。私と姉がいなくても百合香が困らないように。来年の春ごろになったら、一度会ってみるかな」
「じゃあ、話しておきます」
 悠太には、目の前の頑丈そうな人物にそんなにすぐに寿命が来るようには見えなかったが、金持ちはいろいろ大変なんだろうな、と思った。
「さて、最後だが、これは君に話すべきかどうか迷ったんだが、百合香がいろいろ調べているらしいことがわかったのでね。ただ、今から話すことはとりあえず百合香には黙っていてほしいんだ。約束してくれるかな」
「それはいいですが、何でしょうか」
「百合香の両親のことだ」
 悠太は思わず背筋が伸びた。
 事故で亡くなった百合香の両親。百合香が悠太と一緒に現場へ行ったことをすでに知っているような口ぶりだった。
「今日の午前中、君たちがスキーに行っている間、太田とかいう新聞記者から電話があってね。事故のことで思い出したことがあるのでもう一度会えるかというから、一応本人に聞いてみるといって電話を切ったんだよ。百合香にあとで言おうと思ったが、熱を出してしまったのでね」
「そうだったんですか」
 しかたがないので悠太は、昨日、その記者と会ったこと、千曲川の現場を見たことを話した。百合香が事故のことを確認したいと思っていることを説明したが、彼女が誰にも言わないでほしいと悠太に頼んだこともあって、母が川に転落したのは自分のせいだと疑っていることまでは言わなかった。
「私も百合香への接し方には心を砕いてきたつもりだ。彼女が大人になって自分の判断ができるようになるまでは、詳しいいきさつは話さないつもりだった。もちろん、あれ自体は、純然たる事故だと思う。警察もそう判断したのだから。ただし……」 
 四郎は息をついだ。
「なぜあんなところで二人が事故に遭ったのか。そこに至るまでのいきさつを説明したいんだ。内容的に君に言うのはまだ早いとは思うのだが、ただ、もう調べ始めてしまっているなら、やむを得ない。……もちろん、私は部外者だから、すべてを知っているわけではないんだがね」
 再び息をついで、四郎は語り始めた。
「百合香の母親は莉々という女性だ。その名前は知っているかな。ピアニストで、結婚してからも旧姓の御田村莉々の名を使っていた。史奈ちゃんのお母さん、友里(ともさと)涼子さんとは同じ霞ヶ丘の同級生だった。君も通う光陵と同じ駅にある大学だよ」
 霞ヶ丘芸術大学は、悠太が通う光陵高校とは線路を挟んで反対側にキャンパスがあるので、悠太も知っている。私大には珍しく美術学部と音楽学部の両方があり、著名なアーティストを多数輩出している。百合香にピアノを教えていた蔵原先生も同じ大学の出身だった。
「あまり音楽のことはわからないが、莉々は確かに音楽の才能に溢れた女性だったと思う。もしかしたら百合香以上だったかもしれない。
 有名ないくつかの海外コンクールで優勝や入賞をしたあと、ソロ活動のほか、音大時代から仲の良かった涼子さんとデュオリサイタルをよく開いていた。その頃のCDもあるよ。秋に百合香と瑞希ちゃんが練習していたモーツァルトのヴァイオリンソナタもあったな。クラシック音楽を聴く人は限られているとはいえ、二人とも音楽的な才能に加えて、それぞれタイプの異なる美人だし、演奏会にはけっこうお客さんが来ていたようだ。
 その二人はやがて同じ男性に恋をしたらしい。二人の所属する音楽事務所に勤める男だ。佐倉、名前は操だったかな。確かに見てくれも育ちもよく、女性にモテるのはよくわかる。
 私は彼の父親は知っている。もう亡くなってしまったが、画商で今も銀座に画廊があるんだ。知っていると言っても、何かの集まりで少し話をした程度なんだがな。
 長男の操の方は美術よりも音楽に関心があるというので、画廊は次男が継いだんだ。その弟の方はこの前の夏にやってきて、絵を売らないか、とかなりしつこくいうので、怒ったんだが。代わりに彼の関わった武蔵丘の展覧会には少し多めに出品することになった。
 佐倉はもともと二人のマネージャーではなかったらしいが、事務所で何度か顔を合わしていたのだろう。マネージャーといっても、芸能人と違って、いつも演奏家と一緒に行動するわけじゃない。スケジュールの調整とか、公演の手伝いとか、そんなものだったようだ。
 付き合いはじめたのは莉々が先だったそうだが、最終的にはその名字からわかるように涼子さんと結ばれた。それはわからなくもない。莉々の方は、より芸術家肌というか、家で家事をするようなイメージはなかったし、結婚するなら大人しくて円満そうな性格の涼子さんの方を選ぶ男が多いだろうと思う。あくまでもこれは見た目の印象の話だが。
 もちろん、莉々は落ち込んだらしい。でも涼子さんと関係を断つわけではなく、二人の友情は続いたし、一緒にリサイタルも続けていた。そのうち、莉々は光陵の研究者だった私の息子の裕章と知り合い、結婚した。
 学問一筋で、あまり音楽には興味のなかった裕章がどうやって彼女と知り合ったのか、詳しい話は聞かなかったが、近所の大学同士、多少の交流はあって、光陵の文化祭に莉々が演奏会に出たのが縁だったようだ。
 裕章はどちらかというと口下手で、女性と付き合うのも得意ではなかったと思うが、どういうわけか莉々の方が積極的だったらしい。学者なんて、今までに付き合った中にはいないタイプで、新鮮に思ったのかもしれないね。
 それはともかく、初めて彼女が家を訪ねて来たときのことは覚えている。白いドレスに薄緑色の日傘をさして、初夏の風に髪を靡かせていた。まるでモネの『日傘を差す女』に描かれた、画家の妻のカミーユのようだと思ったよ。確かに美しい。ぜひあなたをモデルにしたいと、その場で本気で申し出たほどだった。
 さて、息子と結婚した莉々は、世間一般のイメージに反して、見た目ほど派手でもエキセントリックでもなく、世間知らずなところはあったが、むしろ大人しく知的な性格の女性だった。
 もちろん、演奏に関しては妥協がなく、家を建て替えた時に急遽設計変更をしてこしらえた音楽室で、朝から晩まで何時間でも練習していた。夫婦仲も良かったのだと思う。ほどなく百合香が生まれた。その頃を描いた絵が何枚か残っている。君もアトリエで見ただろう」
「はい」
 幼い百合香を抱いた莉々の絵を悠太は思い出した。
「百合香が成長し三歳になったころから、手間のかかる子育ても一段落したということで、莉々は再び演奏に力を入れるようになった。地方での公演も増えて留守がちになっていた。そしてその頃、佐倉が莉々のマネージャーになった。
 涼子さんの方は史奈ちゃんが生まれたばかりで演奏を休止していた。会社の都合もあって佐倉が莉々を担当することになったのだろうが、二人ともこれまでのいきさつは忘れてわだかまりもなくなっていたかどうかはわからない。
 そのころからだったかな、裕章と莉々がしばしば言い争うようになったのは。
 最初は莉々が、裕章の帰りが遅くなって、約束していた百合香の世話をすっぽかしたのをなじったことから始まったらしい。それに対し、裕章の方も、莉々と佐倉の関係を疑うようなことを仄めかしたのだそうだ。今となってはどちらが悪い、ということでもなかったと思うのだが、それがきっかけとなって、睦まじかった二人の関係がだんだん冷えて行ったんだ。
 思うに裕章の疑いは根拠のないことではなかったと思う。地方公演の時など、佐倉と莉々が一緒に泊りがけで出かけることが何度もあった。マネージャーといっても、芸能人のそれとは違って、四六時中行動をともにするということはないのだが、それでも前の担当者よりも接触が多いように思えたのは事実だった。
 君にはまだぴんと来ないかもしれないが、結婚して奥さんや旦那さんがいるにもかかわらず、そんな関係になってしまうことはしばしばあるものなんだよ。ましてや、莉々は、真面目とはいっても、芸術家特有の、世俗の倫理感に必ずしも囚われないところがあったんだと思う。かつて愛した男をわがものにしたいと考えたとしても不思議には思わないね。
 まあ、これは私の想像だ。何の証拠もない。ただ、同じような疑いというのは、涼子さんも抱いていたのだろうと思う。夫のふるまいや素振りに違和感を感じると、遠回しにそんなことを聴かされたことがあったのでね。二人が不倫していたという直接の証拠はなにもない。だが、状況的にそうであっても不思議ではなかったということだ」
 四郎は一息つくように黙った。
 悠太は何と返事をしたらいいか困ったので、ただ黙っていた。
「そんないきさつがあって、裕章は莉々に離婚をもちかけたようだ。それが事故の何週間か前のことだ。私が裕章からきかされたんだ。でも莉々の方は、応じなかったらしい。不倫など根も葉もないことだと言って、かえって裕章の愛情が薄れたことを非難したようだ。
 ……以上が事故の日に至るまでの四人の男女の関係だ。
 さて、そこでいよいよ事故の当日だが、あの日裕章は百合香を連れて出かけた。出かけるという裕章からのメールが私のところに届いていた。莉々は東京に残っていたはずだが、現場にいたということは、そこで会うことにしていたのだろう。そしてまたも言い争いになって、つかみ合いになったかして、事故になってしまったのではないかな。当時の二人の関係性を考えるならそれがもっともありそうなことだと思う」
「そうだったんですか」
 かすれた声で悠太はつぶやいた。
 四郎はまたも沈黙したあと、少し口を歪めて続けた。
「百合香を連れて行ったのは、わたしはその時間、ちょうど八ヶ岳の方にスケッチに出かけていて他に面倒をみる者がいないからだったろう。裕章にしてみれば連れては行きたくなかっただろうが、用事はすぐ終わると思ったんじゃないか。百合香にはとんだ災難だったわけだ。今となっては、無理にでも、まだ元気だった姉を軽井沢に呼び出して、百合香の面倒をみてもらえばよかったと思っている。それが今でも悔やみきれないところだ。
 なぜあんな場所で待ち合わせたのか。街中ならともかく、人けのほとんどない河原なんかに。あの場所からすぐ近くにある宿場町は観光地でもあり裕章と莉々のお気に入りの場所だったことは知っている。軽井沢にいるときは、よく遊びに行っていたよ。だから、二人の思い出の場所で関係を修復しようとしたのかもしれない。少なくとも裕章の方はそう考えたんじゃないか。
 ……だが、別の解釈もありうる。これは証拠もない、単なる妄想なんだが、一応話しておく。
 それは、裕章はあそこへ呼び出されたのではないか、ということだ。呼び出したのはもちろん莉々だ。別れ話に応じると言ったのではないか。そしてそんなところへ呼び寄せた理由は、はじめから裕章を川に落とすためだとしたら」
 悠太は寒気を感じた。室温が下がっているわけではない。
 四郎は元の柔和な顔に戻っていた。
「何度も言うけど私の妄想さ。私には莉々がそんな悪人だとは思えない。偶然の事故だったのだと思う。でも私もなぜ息子が死ななければならなかったのか、今でも納得がいかないのも事実なんだ。といって、別に莉々や佐倉を恨んでいるわけではない。もう、過ぎてしまったことだから。
 佐倉の方は事故の翌年の春、涼子さんと別れたんだ。理由は察しはつくが、それから彼がどうなったのか。会社は辞めてしまったそうだが、その後については涼子さんも詳しいことは口にしたことはないし、私も別に興味はないので知らない。娘の史奈ちゃんとはたまに会ったりしているらしいが。
 いくら好きになったといっても、時間が経てば気持ちや記憶は徐々に薄れていく。それに、お互いに妻や夫がいれば我慢するしかないんだが、そういう人生の定めに逆らうことが悲惨な結果をもたらす。
 ……話が長くなってしまったね。あの事故について私が知っていることや考えたことは以上だ。今言ったことを踏まえてお願いだが、百合香にとってこの件は調べると辛いことがいろいろ出てくるかもしれないんだ。本当ならそんな昔のことは忘れてもらいたいのだが、本人としてはそれでは気が済まないのだろう。だから止める気はない。で、そのとき、百合香が落ち込んだり、何か極端な行動に走りそうなときは、君が見守って支えてあげてほしいんだ。できるかな」
「はい、やってみます」
「頼むよ」
 頷くと、四郎はまたアトリエに戻ると言って出て行った。

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