行ってはいけない。

文字数 1,791文字

 大学が夏期休暇に入り、僕は今度の公募に出す小説のネタ探しを兼ねてバイクで外出する事にした。公募に出す小説は山奥の村を題材にした作品を書く事を決めていたから、僕は山の中を通る群馬から栃木を抜ける行程を思いついた。その事を同じ学部に通う、噂話好きのKに話すと、Kは神妙な面持ちになってこう話した。
「群馬と栃木の間に行くのか。それなら**という地区には行くなよ」
 Kの言葉に少し違和感を覚えた僕は、なぜそんな事を言うのだと返した。
「あそこは、約二十年前にとある一家が一家心中した沢があると言われているんだ。まだ死体も痕跡も見つかっていない」
「どうしてなんだ?」
 僕は下らない冗談だと思って、Kに訊き返した。証拠が何も見つからないなら、一家心中があったという情報も不正確な情報の筈だ。
「一家心中の証拠を探そうとした人間が、探索に入ったが帰ってこないんだ。その家族は子供の誕生日に自殺したんで、確かめに行った人間は子供のお誕生日会に招かれているって噂だ」
 Kはその顔に緊張感を漂わせながら続けたが、夏季休暇を有意義に過ごそうとしている僕の関心を引き寄せるまでには至らなかった。




 Kと会話を交わしてから二日後の土曜日、僕はバイクに跨り栃木県を目指した。東北自動車道を福島方面に進み、栃木県の中心部辺りで降りると、西の方を進み群馬県を目指した。
 途中コンビニでアイスコーヒーを飲みながらスマートフォンのナビアプリで現在位置を確認し、進路に間違いが無い事を確認する。再びバイクに乗り出すと、進行方向に夏の日差しを受けながらも黒い巨体を横たえた山々が視界に飛びこんでくる。その豊かで堂々とした佇まいに、僕は美しさと小さな感動を覚えた。
 山に向かって進むと、道は細くなり周囲には田畑や森が目立ってきた。ヘルメット越しに聞こえてくる蝉時雨は次第に大きくなり、僕のバイクのエンジンをかき消す程になる。途中道端に『この先**地区。運転に注意』と書かれた錆びついた看板があり、Kとの会話が頭をかすめたが気にしなかった。
 僕はさらに山奥に入った。恐らく半径二キロ以内に居る人間は僕くらいのものだろう。深く押し潰すような緑に覆われている荒れた舗装の山道を進んでゆくと、錆びたガードレールの向こう側に、道路と並行して透明度の高い水が流れる沢があった。僕はバイクを停めて、その沢の近くで自然を少し感じる事にした。
 エンジンを切りヘルメットを脱ぐと、透明な水が流れる沢の音と、木々から聞こえる蝉時雨と鳥の声に僕は包まれた。周囲の空気は植物達から放たれた苦みのある香りに沢からの湿り気が混じり、僕の意識をぼやけさせる。
 沢には何があるのだろうかと思いガードレール下の沢を覗くと、隔絶されたような沢の中に一体の女の子を模した人形が沈んでいるのが見えた。その人形に興味を持った僕はガードレールを乗り越え、沢に降りて水の中の人形を拾い上げた。
 拾い上げた人形は布で出来ていて、既製品ではなく誰かの手作りのものらしい。水を含んでじっとりと濡れているが、乾かせば平気だろう。
「それ、あなたが見つけてくれたのですか?」
 すぐ隣で、女の声がする。声が聞こえた方向に振り向くと、そこには三十代半ばらしい女性が一人立っていた。
「はい。この沢に沈んでいました」
「ありがとうございます。その人形は私の母が娘に作ってあげた物で、今年の誕生日の贈り物なんです」
「そうですか、見つかってよかった」
 僕に向かって感謝のお辞儀をしてくれた女性に向かって、僕は小さく喜びの感想を漏らした。
「よろしければ、一緒に来て頂けませんか?すぐ近くに夫と娘が居りますので感謝の言葉を」
「いいえ、結構で……」
 僕が謙遜して女性の厚意を断ろうとした瞬間、僕は胸の奥が凍り付き砕けるヒビが入る感覚を覚えた。それと同時に、二日前の『一家心中』『お誕生日』という言葉がKの言葉で頭の中に浮かぶ。僕はその場を離れようと思ったが、身体がこの緑の空間に同化してしまったかのように、身体がぴくりとも動かない。
「ぜひいらして下さい。夫と娘が待っております」
 女性の声が僕の中に響いて消える。それと同じくして、僕の意識が次第に遠くなってゆく――。

                                    (了)
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