一~四

文字数 19,328文字

 一
 最初に気づいたのは金曜の午後でした。
 融通のきかないエアコンのせいで冷えきった編集局の片隅で、借りてきたパソコンの設定に格闘していたのですが、石のように硬くなった背中をのばし、ふと目をあげたとき、隣のシマにいる彼女と目が合ってしまったのです。
 ほかの会社のことはわかりませんが、部署がちがえば、たとえ壁などなくても外国のようなもの。それがうちの職場です。なんとなく向こうのほうにだれか座っているのはわかるし、話し声も聞こえてはきますが、そもそも関心がないものだから、まるで外の雑踏にいるようでして、いちいち気にとめることがないのです。
 それでもなにかの拍子に視線と視線が真正面からぶつかることがございます。相手が女性だと、なんだか気恥ずかしくてこちらから目をそらしてしまいます。でもそのときはちがいました。
 背骨に太い鍼を打たれたような、ずんとくる衝撃が走ったのです。
 新しく入ったアルバイトでしょうか。気づきませんでした。微笑んでいたのです。
 わたしのことを見て。
 それから彼女はみるみる近づいてきました。
 内緒にしてね――。
 あとはずっとそばにいてくれました。はじめての経験だったので、返す言葉もありませんでした。ジャングルに咲き乱れる花のような濃密な香水の匂いがしました。わたしは夢見心地にしばらくのあいだ静かにそれを胸に吸いこんでいましたが、はたとわれに返り、恐るおそる触れてみました。人目を気にしてこのままほっとくと、いずれこの夢はかき消えてしまう。そんな不安がよぎったのです。
 指先と指先が触れるか触れないか。それだけで電撃が走るような体験でした。妙なクスリを打たれたように心臓が高鳴り、情けない声を漏らしてしまったほどです。あとはもう自分が自分でないようでした。獣のように貪り、ただ溺れていったのです。
 影の浸蝕が始まったのは、きっとそのときだったと思います。

 二
 月曜日
 声を聞くだけで虫酸が走るあの男から電話で指示を受けたとき、リビングにいた佐良仁(さがら・じん)は、期せずして後ろめたい解放感をおぼえた。志津のお受験のことで週明け早々、朝から陽子と険悪になっていたからだ。それにくらべればやつと話をしていたほうがまだましだ。いつもより早く家を出ねばならない適当な言い訳が転がりこんできたのは、なによりの安堵だった。
 だが理性はすぐに問いかけた。
 これはかなりまずい。
 非常事態だった。
 「グーグルマップで見ているんだが、佐良の家からだと五百メートルも離れていないんだよ、高輪署」
 白金の高級住宅地に背伸びしてマンションを購入したのは五年前のこと。伝統ある山の手の御屋敷町は、それ以前から地下鉄の延伸によりマンション建設が盛んになり、すでに新しい住民たちに席巻されていた。そこに新たに割りこんできたのが、佐良と妻の陽子と一人娘の志津というわけだ。起伏の大きい土地柄で、あちこちに坂がある。家を出て駅に向かう途中の急坂を上り詰めたところが高輪警察署だった。九月半ばだが残暑がきつい。ゆっくり上っても滝のように汗が噴いてくるだろう。
 「接見できるんですか」
 「副署長に会ってみてくれるか。状況を説明してくれるはずだ。その旨伝えてある。本来なら編集管理か人事のだれかが行くべきなんだが、やつら、九時半にならないと出社してこない」野見部長は苦々しく告げた。事態の詳細を一刻も早くつかみ、上に伝えたいようだった。だったら部下の身柄を拘束する警察署に自ら足を運べばいいのだが、野見は川崎の奥地から通っている。急ぐというのなら署にもっとも近いところに暮らす部員を派遣するのがたしかに筋だった。
 佐良は振り返り、憤然と台所に立つ妻の背中ごしに時計を見た。
 八時十五分。
 「すぐ行きます」
 「取り急ぎ副署長の説明を聞いてくるだけでいい。なにか聞かれても――」
 「わかってます。そのあたりのことは人事が答えるんでしょう」
 「九時までに連絡もらえるか。ざっとしたものでいい。局長か総務に報告しとくから」
 「なる早で連絡しますよ」そう容易にはいくまい。直感したが、あえて口にしなかった。
 一分後には靴を履いていた。時代遅れだが佐良は新聞記者だ。社会部が長かったから、会社から電話がかかってきて飛びだしていくことには、妻も慣れている。いちいち理由なんか聞きやしないし、夫も話さない。おたがいあきらめて、一刻も早い事態の収束を祈るのみだった。形だけ玄関に見送りにくることももうない。新聞に書いてあることなんて知らなくても、スマホとコンビニさえあればふつうに暮らしていける。あたりまえの真実から目を背けている夫や会社を気づかせようとしているかのようだった。にっちもさっちもいかなくなる前に。
 ただ、娘の志津はふびんだった。幼稚園に上がったいまも父親のスマホが鳴ると、自動的に目から涙があふれてくる。隙間風が吹き抜けるような声でしのび泣くすべをこの歳で身につけさせてしまった罪悪感は、父親の背中にずっしりとのしかかってきた。だがこの日は、他紙に抜かれたわけでも、富士山が噴火したわけでもない。とはいえ会社的には大事件だった。記者として取材に臨むときとはちがう緊張感をちりちりと首筋におぼえた。
 高輪署では、オフィスの奥でブルーの制服姿の男が、決裁書類を抱えた部下たちにてきぱきと指示を出していた。背筋がぴんと伸び、銀髪はきちんと整っている。時折冗談を織り交ぜているものの、システマティックな雰囲気は、いかにも警視庁のノンキャリ幹部といった風情だ。
 「どうぞ。お待たせしました」愛想のいい笑みを浮かべ、男は背後のドアを開け、入るよう佐良をうながした。「副署長の三島です。署長はいま不在ですから、ここで話しましょうか」署長室だった。二十年前、山形支局でのサツ回り時代に何度も訪れた所轄署の署長室とさして変わらない。逮捕術大会の優勝やら特殊詐欺事件の検挙やら、これ見よがしに表彰状入りの額が壁にいくつもかかっている。駐車場を眺めわたす大きな窓のある無意味に広いだけの空間だ。たしかにここなら他聞をはばかる話ができる。
 「詳しくは聞いていないのですが、とにかくもうしわけありません。言葉もないです」東邦新聞文化部デスクの名刺を渡しながら佐良は深々と頭を下げた。ふいに自分が同僚の不始末について説明を受けに来ている自覚が生まれた。ICレコーダーを取りだしたいところだが、さすがにこれは記事のための取材ではない。むしろ会社としては、すこしでも行儀よく振る舞い、捜査機関側の印象をよくすることを佐良に期待しているはずだ。ひと言も聞き漏らさぬようノートにメモを書きつけるしかない。しかし冷静に考えるまでもなく、これは個人の犯罪だ。取材中に暴力を振るったわけでも、社内で大麻を育てていたわけでもない。会社の管理責任が問われる筋合いはなかった。
 「機捜隊が到着したときはかなり興奮していましたが、いまはだいぶ落ち着いたみたいです」三島は当直の捜査員がまとめたらしい報告書に目を落とした。「マスコミの方が逮捕される案件はたしかに最近増えているのですが、殺人はわたしもはじめてです」
 「すみません」かっと首筋が熱くなり、佐良は頭をさげた。午前中には報道発表される。他社がどんなあつかいをするか、それになによりうちはどう書くのだろう。
 現場は、署からほど近い泉岳寺の裏手にある蕎麦屋「狢庵(むじなあん)」だった。店主の妻から通報があったのは、午前四時三分。店舗二階の自宅で就寝中、隣室の物音に気づいた店主で夫の福元祥生、七十五歳が防犯用の木刀を握りしめてたしかめに行ったところ、隣室を物色中の男に遭遇した。もみ合いとなったすえに、祥生は木刀を奪われて逆にめった打ちにされた。機捜隊員が到着したとき、男はなおも室内を物色しており、なにかを探しているようすだった。それを隊員が四人がかりで取り押さえ、身柄を確保した。住居侵入と傷害の現行犯で逮捕。所持していた運転免許証と社員証から人定されたというわけである。一時間ほど前、祥生の死亡が確認された。死因は頭蓋骨骨折による脳挫傷で、その時点で強盗殺人容疑に切り替わった。
 「まったくわけがわかりません」ブリーフィングを受けたのち、佐良の口をついて出た。「会社ではふつうでしたよ。温厚で人当たりもよかった。仕事にも熱心に取り組んでいました。むしろ争いごとなんてきらうタイプでした……そんなことするような人間じゃないと思っていました」
 「みなさん、そうおっしゃいます。とくに勤め先の同僚の方は」
 「プライベートでなにがあったかなんて、知りようがないですからね」
 三島は同情するように微笑もうとしたが、口元が歪んだだけだった。そのとき佐良は気づいた。部屋にもう一人いた。いつの間に入ってきたのだろう。黒々とした髪に縁なし眼鏡をかけた背広の男が、佐良の背後にパイプいすを置き、小さなメモ帳にペンを走らせている。振り返った佐良と目が合うと、若々しいぱっちりとした目で会釈してきた。クールビズに異を唱えるタイプなのか、捜査上のジンクスなのかわからないが、きちんとネクタイを締めている。年の頃は佐良とそう変わらないかもしれない。
 「彼が担当です」
 三島が手を広げて紹介すると、背広の男は丁寧な手つきで名刺を差しだしてきた。「桝居ともうします。よろしくおねがいいたします」警部補だった。警察官というより銀行マンのような印象がある。どうしても警察というなら、強行犯担当というより、知能犯、それも近年のサイバー犯罪捜査に向いていそうだった。あくまで外見上の判断だが。
 佐良は困惑した。「これって事情聴取も兼ねているんですか」
 それには三島が答えた。「まずは勤務先の方に状況をお伝えするだけです。ご家族の方にも連絡しないといけないので、そのへんのところもわかればと。ただ、近いうちに正式にお話をうかがわせていただくことになるかと思います」副署長はちらりと警部補のほうを見た。桝居完司はもうしわけなさそうに小さくうなずいた。
 「聴取には応じているのですか」
 「住所、氏名、生年月日、勤務先は答えています」佐良のほうへ身を乗りだし、桝居が乾いた声でつぶやくように話した。「本格的な聴取はこれからです。いまはすこし休ませています。西船橋の自宅マンションには捜査員を向かわせました」
 「あとは……黙秘……ですか?」
 「まだ捜査がはじまったばかりですからお話しできないこともありますが、まあだいたい、そういうことですね。弁護士を呼んでほしいとは言ってます」ベテランらしい丁寧で真摯な口調に佐良は安心感をおぼえた。
 「独身なんですよ」正式には人事部の担当者が伝えるべき話だったが、これくらいはかまうまい。なにしろ警察の手を煩わせているのはこっちなのだから。「出身は沼津だったかな。ご両親は健在で、そっちで暮らしているはずです」
 「連絡先はわかりますか」桝居はメモを取りながら訊ねた。
 「いまはわからないですね。あとで会社から連絡できると思います」
 「つかぬことですが」眼鏡のフレームに指をあててから桝居が目をあげた。「大木さんは結婚のご予定とかはございますか」
 唐突に聞かれ、佐良は眉をひそめた。「ないと思いますけど……聞いていませんね」
 「お付き合いされている方とかはいらっしゃるのでしょうか」
 親族以外で私生活を知っている人物を探したいのだろう。だが大木にかぎって女っ気はまったくない。やつとは若い頃からいっしょに仕事をしてきたから、佐良は大木の私生活についてはほかの同僚以上に知っている。人事の担当者があとで正式に聴取に応じるとしても、そこで口にするのはおおむね佐良が伝える情報のはずだ。だから佐良は思いきって口にした。「いないと思いますよ。いま、四十五だっけかな。ぜんぜんダメなんですよ、あいつ。奥手でしてね」
 「婚活されていたとか」
 「どうかな。気づかなかったですね」とはいえ独身のままでいいとは思っていなかったはずだ。
 「なるほど」桝居の目つきが急に捜査官特有の猜疑心に満ちた色に変わった。「じゃあ、不倫のうわさなどはいかがですか」
 「不倫……? そこまではわからないですね。そんなようなことを、あいつ、口にしてるんですか」こんどは佐良が刑事のほうに身を乗りだした。
 「正当防衛ですよ」副署長が話を引き取った。「大木さんは正当防衛を主張している。それも第三者を守るための正当防衛を」
 「だれかいっしょにいたと言うのですか」
 「本人はそう主張しています」桝居はメモ帳を閉じた。「連れの女性が福元さんに襲われそうになったのを助けたと言ってます。福元さんは、その女性と不倫関係にあったようでして、女性は福元さんから暴力を振るわれていたそうです」
 「まさか三角関係とか?」
 「まだなんとも言えません。うそかもしれないし……いや、うその可能性は高いでしょう」
 たしかにそうだ。あの男がそんな複雑な男女関係に足を踏み入れるわけがない。「被害者の家に行ったのはなんのためなんでしょう」
 「被害者がその女性から奪ったものを取り返したかったそうです」
 「いったいだれなんですか、その女性って」
 桝居は上司の顔を見てから答えた。「会社の方らしいですよ。おなじフロアの」
 「え……」佐良は息が詰まりそうになった。いよいよもってわけがわからない。窓から見える駐車場の向こう側の通りに、いつの間にか民放局の中継車がとまっていた。まるで獲物に忍び寄ってきたサメのようだった。東邦記者が強盗殺人で逮捕。もう漏れたのか。テレビ局だろうが新聞社だろうが、他社に事件を報じられるわけにいかなかった。すくなくとも部長に状況を伝える前には。「だれなんですか」佐良は声を絞りだした。
 答えるかわりに桝居はパイプいすから立ち上がった。「接見されますか」

 三
 薄暗い廊下で佐良は待たされた。留置場から大木を連れてくるという。先週までおなじ職場で働いてきた仲間だ。にわかには受け入れがたい。なにかの間違いであってほしいが、現行犯である以上どうしようもない。他メディアが嗅ぎつけている可能性も高い。佐良は状況を部長に伝えようとスマホを取りだした。
 陽子からラインが入っていた。朝の話のつづきだった。
 学校説明会はこんどの土曜の午前九時から。その直前でいいから散髪してきてよ。説明会でいちばんチェックされるのは、母親でなく父親のほうなの。学校側の教育方針にどれだけ賛同しているか、父親がバロメーターなの。とにかくルックスには注意して――。
 そんな話を朝からされたものだから、佐良は不快な気分になった。散髪に行くにはまだ二週間くらい早いし、説明会なんてそもそも行きたくない。聖王学園は近所だから、この時期になるといやでも目にさせられる光景がある。母親は喪服さながらの紺のワンピース、父親はダークスーツに暗い色のネクタイ。赤の他人どうしでありながら見た目はそっくりな集団が、駅から学園までの通学路にあふれだす。就職面接に集まって来た学生たちというより、季節の変わり目の頃、庭木の根本にわきだす毛虫の類を想像してしまう。
 だがいまさらそんなこと口にできるわけがない。逆上する妻を見るほど、悲しく、みじめで、絶望的な気分になることはない。その九九%は子どもがらみの話である。小学校受験が迫ったいまはその緊張感がいや増している。しかしそれは今年六歳になった志津が生まれたときからの宿命だった。直後にマンション購入の検討がはじまったとき、いまの場所を強く推したのは陽子としょっちゅう家に押しかけてくる義母だった。白金はセレブの街というだけでなく、戦前から女子教育の長い伝統を持つ聖王学園の拠点である小中学校、そして高校があったのである。天下に名だたるお嬢さま学校だ。入学金と寄付金、初年度学費だけで二百万円近くかかるし、根源的な疑問としてそんな学校を出たからといってなんの得があるというのだ。系列の聖王女子大の卒業生の就職先がとりわけ優れているわけじゃないし、結婚相手に恵まれるかどうかなんて、聖王出身か地方の国立大出身かで差はない。
 考えれば考えるほど幻滅し、不愉快になった。親の見栄でしかないのだ。陽子のことは世界で一番愛しているが、これだけは相容れない。だがもはやそれを口に出せないのだ。母親とその母親の虚栄心を満たすために、非常識極まりないセレブもどきの連中の予備軍として送りこまれ、そこで小学校から高校までの十二年を――大学までいれたら十六年か!――過ごさねばならない愛娘がかわいそうでならなかった。
 それともう一つ。
 警察署の辛気臭いリノリウム張りの廊下で、まるで取り調べを待つ犯人のように佐良は大きくため息をついた。佐良は今年四十六歳になった。白金の瀟洒なマンションで、美しい妻――元は国際線のキャビンアテンダントだった――と愛くるしい一人娘に囲まれ、斜陽産業とはいえ全国紙の文化部次長として年収は手取りで一千万円を超える。定年まであと十四年。ちょうど志津が成人するときだ。穏やかな老後はそこから幕が開く。これ以上ぜいたくを望まなければ手堅い人生設計だ。
 くそくらえだ。
 設計図が書きあがった途端、心の奥で焦燥感にさいなまれる日々がはじまった。妻と力を合わせて娘を育てあげ、そのよろこびを静かに共有する。命のバトンはつぎの世代に渡される。最高だ。極上の人生だ。だがなにか欠けていまいか。
 職場の後輩が強盗殺人容疑で逮捕、拘留されている警察署で思いをめぐらせる話ではない。だが同僚による前代未聞の不祥事は期せずして、佐良の心のベールをめくりあげた。灰色の分厚い膜が剥ぎ取られあと、そこには真っ赤な血が若々しく脈打つ無垢な魂がまだあった。
 佐良の父親は一介の地方公務員だった。教育熱心でいつも子どもの進学のことばかり考えていた。いまの佐良があるのは父親のおかげだった。だが子どもの頃、親父の背中を見て育った記憶はただの一つもない。いつだって父親は子どものほうばかり見ていた。いったいこの人は、自分の人生をどう生きてきたのだろう。その疑問は、大学四年のときに父が病に倒れ、他界したときからずっと佐良のなかでわだかまっていた。だから人の親としてでなく、一人の人間として全身全霊をかたむけるべき仕事、いや、冒険があるんじゃないか。それに一歩踏みだすことができるのなら、志津は父親の背を遠くから見て育ってくれるのではないか。わが子のために生きるのでなく、自らの生を生きつくす。それがめぐりめぐってわが子に健全な精神を育むことにつながる――。
 ついそんな話をしてしまう相手が一人いた。山形でさくらんぼ農家を営む要次おじさんだ。陽子の遠縁の親戚で、結婚式に来てくれて以来、ときどき上京してきてはいっしょに酒を酌み交わした。若い頃は農閑期に東京に出稼ぎにやって来て、造船所や自動車工場で汗水たらして働いた。骨太でがっしりとした体躯の見るからに東北人で、血糖値が高めのほかは、七十二歳のいまも異様なほど元気だし、スマホも平気で使いこなしていた。
 (あんた、ほんとに好きなことやってんだかぁ)
 会うたびに佐良は探るように訊ねられた。そしていま、心の扉をしつこく叩かれた。
 ほんとに好きなこと。
 佐良自身が一番よくわかっていた。
 未知の事件、未解明の出来事、答えなき深遠なる問い――。それらに体当たりしていきたかった。だから四十を過ぎて社会部の一線を外され、あの唾棄すべきヒラメ部長のもとで無味乾燥としたデスク稼業を拝命してしまった現実は耐えがたかった。
 (まだまだしてえこと、おれにはいっぱいあるんだぞぉ)
 衝動的に佐良はおじさんにショートメールしようとした。部長に連絡するのはそのあとでいい。
 そのときだった。
 頬を生温かい風がなでた。目の前を人が通過したのだ。みずぼらしい灰色のスウェットパンツにおなじ色のよれよれのトレーナー姿だったから一瞬だれだかわからなかった。髪もいつも以上にぼさぼさだった。安物の突っかけでよろよろと小股で歩くようすは「ルーツ」に出てきた黒人奴隷のようだった。それもそのはずで手錠をかけられ、背後にぴたりとついた留置係が腰縄を握りしめている。
 接見室で穴の開いたアクリル板越しに向き合った。最後に見かけたのは先週の金曜日。いつものように机にかじりついていた。それからわずか三日。大木秀樹はまるで別人だった。頬がひどくこけ、体が内側から猛然と蝕まれているかのようだった。
 「おまえ、だいじょうぶか……」
 逮捕されて会社にどれだけの迷惑をかけることになるか、本来なら背後に同席する刑事のことなど気にせずにどやしつけるところだが、そんな衝動は起きなかった。
 「すみません……」覇気のない声で、ぜえぜえと喉から空気が抜ける音が混じっていた。
 「おれが一番近くに住んでいるみたいなんだ。部長に行ってくれって言われてさ」
 「もうしわけありません」大木は深々と頭をさげた。
 言葉が見つからなかった。大木とは初任地の山形支局時代から一緒だった。入社二年目に佐良がサツキャップになったとき、新人としてサツ回りに配属されたのが大木だった。以来、支局で四年をともに過ごし、社会部に上がってからは警視庁と厚労省の記者クラブで合わせて六年間いっしょだった。そして大木は、佐良のあとを追うようにして三年前、文化部に異動してきた。社会部時代は、ろくに休みも取れず、夜討ち朝駆けの生活だったから、家族と過ごすよりもずっと長い時間、佐良の隣には大木がいた。仕事はもちろん、夜遊びにもさんざん連れ回した。だからやつのことは兄弟以上に知っている。
 「いったいどうしてこんなことに――」
 「ほんとにすみません。でも会社にはすぐもどりますから。きょうにでも」
 「ばか野郎。そんなの無理にきまってるじゃないか。いまは会社のことなんて考える必要ないだろ。まずは自分のしたことを――」
 「違法じゃないですから」狂気のようなものが漂う目で訴えてきた。「正当防衛ですから」
 「ちょっと待ってくれ」佐良はメモ帳を取りだした。「あとで人事部の連中が正式にやって来ると思うが、おれはとにかく状況をつかみに来たんだ。刑事さんからいちおう話は聞いたが、まったくわけがわからない。被害者に面識はあったのか」
 「初対面です。でも会わなければならなかった。悪いやつなんですよ」声に力がこもってくる。以前の大木なら、原稿のことでデスクとやり合うときでも気色ばむようなことはなかったのに。
 「悪いやつって、初対面なのにどうしてわかる」
 「ナミさんですよ。彼女が話してくれた」
 桝居から聞いていたが、本人の口から飛びだしてくるとやはり仰天する。その名を書きつけながら佐良は訊ねた。「知り合いなのか」
 「たいせつな人です」大木は微笑みを浮かべた。「運命の人かな」
 「ぜんぜん知らなかった、おまえがだれかと付き合っていたなんて。会社の人なのか」
 大木は小さくうなずいた。
 「名字は?」
 「木村。木村ナミさんです」
 「いつからなんだ」
 「そんなに前からではありません。先週の金曜かな」
 「先週……」思わず佐良は振り返った。桝居は足を組んだまま顔色ひとつ変えずに見つめ返してきた。「おなじフロアの人だって聞いたけど、どこの部なんだ」
 「お隣です。科学部の端の席に座っていたんです。ぼくもぜんぜん気づかなかった。あんなにかわいらしい女性(ひと)が近くにいたなんて」
 「それで声をかけたのか」
 「まあなんていうか」
 「それが先週の金曜か……龍ヶ島出張からもどってきた翌日か」
 「そうです。あれはひどかった。パソコンがフリーズしたまま動かなくなっちまって」
 「ウイルスか」
 「たぶんそうです。いまパソコンセンターに修理に出しています。それで代替機を借りてきて設定しなおしているときでした。彼女のほうから近づいてきたんです」
 ようやく腑に落ちた。奥手中の奥手の男なのだ。同僚の目があるなか、自分からアプローチするなんて曲芸みたいなまねはできっこない。
 「その彼女が被害者のことを知っていたのか。悪いやつであると」
 「そうです。彼女に暴力を振るっていたんです」
 「何歳なんだ、彼女は」
 「わたしより十歳ぐらい下かな。三十代なかばかと思います。正確には聞いていません」
 「年齢も把握していないのに、ひと肌脱ごうと思ったのか、その女のために」
 「そうすべきだと思ったんです」
 「よくわからんな。被害者の――」佐良はノートに目を落とした。「福元祥生さんは七十五歳なんだろ。そんな年寄りが四十も年下の女性に暴力を振るっていたのか。しかし百歩譲って福元さんが彼女に暴力を振るっていたとしても、談判に行くなら日中、堂々と行くべきだろう」
 「急を要していたのです」
 「あんな朝っぱら、てゆうか、ほとんど夜中だろう」
 「ナミさんが行くものですから。一人で行かせるわけにいかなかった」
 「彼女はなにかを取りもどそうとしていたのか」桝居から聞いたことを訊ねてみた。
 「そうです」
 「なにを取りもどしたかったんだ」
 「それは言えません」大木はきっぱりと口にした。
 背後で桝居が立ちあがった。もう時間だった。後ろ髪を引かれる思いで佐良はノートを閉じた。
 「佐良さん」やつれ果てた男がアクリル板越しに訊ねてきた。「教えてください。いまどこにいるんですか」
 「どこにって……だれが?」
 「ナミさんです。会社にもどったら、会いに来るように伝言をおねがいします。彼女だって心配しているはずです。あと六日しかないのですから」
 「あと六日……? なんのことだ」
 「わたしにもよくわかりません。ただ、彼女はとても不安がっていたんです」
 「おまえ、もっとくわしく話してくれなきゃわからないじゃないか」
 「彼女との約束があるんです。これ以上は話せません」
 廊下にもどるなり、激しい疲労感に襲われた。桝居に促され、近くのソファに腰かけた。
 「驚かれたようですね」
 「長い付き合いなんです。夢でも見ているみたいだ。どうやって会社に説明すりゃいいんだろう」
 「まだ捜査中ですから、くれぐれもあまり話を広めないようおねがいできますか」
 佐良は桝居の顔を見上げた。「そうは言ってもな。もう報道発表の準備はできているんでしょう。強盗殺人なんだ。一報だけでも流さないわけにいかないはずだ。うちとしちゃ、止めといてほしいけどな」
 それには桝居は答えずに隣に腰を下ろし、たばこに火をつけた。疲れきった顔をしている。「手続きを取って会社にもうかがわせていただくと思います」家宅捜索だろうか。桝居は深々とたばこを吸いこんだ。「よくわからないんですよ。とくにナミって女のことが」
 「会社で調べてみます。人事部のほうから連絡させます。なるべく早く」
 「ありがとうございます。ただね――」桝居は半分も吸わずに床にたばこをすりつけて火を消した。吸ってはみたものの、まずくてならないようだった。「いないんですよ」
 「いない……?」
 「ええ。そんな女、いないんですよ」
 佐良は口元をゆがめた。「よくわからないのですが」
 「機捜隊員が駆けつけたとき、現場には大木さんと、被害者、そしてその奥さんしかいなかった。奥さんによると、侵入してきたときも、容疑者は一人だけだったようです。明かりをつけたから、その点ははっきりしている。だからすくなくとも――」
 「第三者を守るための正当防衛は成立しませんね」
 「そのとおり。ただ、現場にその女性がいなかったとも断言できない。逃走したのかもしれないし」
 「なるほど」
 「しかしそれもどうかなという気はしています」
 「どういうことですか」
 「現場の蕎麦屋の隣はコンビニでして、駐車場に設置された防犯カメラを調べたんです。四時前に現場にタクシーがとまって大木さんが下りてきた。一人だったんです。タクシー会社にも照会しましたが、ドライブレコーダーにも大木さんしか映っていなかった。もちろん運転手も一人しか乗せていないと証言している。西船橋駅前からです」
 署長室で話を聞いたとき、桝居は恋人に関する大木の供述に疑問を投げかけ、うその可能性が高いと言い切っていた。その真意がうすうす佐良にもわかってきた。
 「もちろん共犯者、つまり教唆や幇助を行った人物の存在を完全に否定したわけじゃないですけどね」

 四
 人事部と派遣会社で調べたところ、隣の科学部どころか、社内全体でも木村ナミという名の女は勤務していなかった。大木の供述は信憑性があやしくなってきた。
 午前十時過ぎ、文化部長の野見洋一は、広報部長と人事部の担当者とともに会議室にこもり、穏やかな口調で佐良を叱責しはじめた。
 「副署長から話を聞いてほしいとは言ったけど、接見までしてきたんだ」遠回しの非難はこの男の得意技だ。いますぐいすを蹴り倒して席を立ちたい衝動を佐良は必死にこらえた。そんなのおかまいなしに野見はつづける。「もうすこし足場を固めてからのほうがよかったんだけどな」野見は静かにいらだっていた。部下が強盗殺人容疑で逮捕されているのだから当然だが、つい先ほど、民放局がワイドショーのなかでニュースを流した。高輪署の前に中継車を出していた局だ。容疑者は実名報道され、テロップに躍っていたのは「東邦新聞文化部記者」だ。
 「『接見』というのは形ばかりだったのかもしれないな」広報部長の小野純也が口にした。社会部時代、警視庁キャップだった先輩だ。野見部長とは同期だし、大学の学部までおなじだというが、信頼できるのは断然、小野のほうだった。「会社の同僚とどういうやり取りをするかを後ろからウォッチしていたんだよ。それで自分が人を殺したことをきちんと理解しているかどうか、あらためてチェックした。やつは正当防衛を主張したものの、木刀でめった打ちにしたこと自体は認めているし、会社に迷惑をかけたことを謝罪している。だからすくなくとも捜査機関としては、同僚とのやり取りを見たうえで責任能力に問題はないと判断した。それで実名発表に踏み切ったんだ。謎の女の話は、この手の犯人特有の言い逃れの一つだと考えたのだろう。すくなくともいますぐ検証しなければならない話ではないとみなされた」
 「犯人は一人だったと被害者の奥さんが証言している以上、正当防衛の主張は無理でしょうね」人事部の担当者が口にした。こちらも元警視庁担当で、佐良の二期後輩だった。「住居侵入も殺害行為も疑いようがない。起訴は免れないですね」
 「困ったな」あてつけるように野見が吐き捨てた。「うちの記者だとわかった以上、他局も他紙も力入るよな」
 「でも強盗殺人だからね」小野が慰めるように言った。「管理責任が問題になることはないよ。個人の犯罪だ。そこははっきりしている。コンプライアンス以前の問題だ」
 だが“ノミの心臓”と揶揄される野見は得意の先読みセンサーを働かせていた。「警察としては責任能力ありとみなすだろうが、いずれ裁判になれば弁護側はそこを争点にするはずだ。被害者との関係はともかくとして、心の病で頭がおかしくなっていた。それは仕事がらみの精神的な蓄積疲労にもとづくものだった。背景に過酷な労働環境があった――。そんなふうな主張になったら、テレビも新聞も飛びつくよね」
 「いまからそんなこと考えてもしかたないさ」小野はからっとした口調で言い、両手をあげて伸びをした。「佐良が接見しようがしまいが、犯人がうちの記者であることは遠からずバレたし、警察が発表しなくたって実名報道に切り替わったはずだ。だからうちとしては、公表するかどうかはべつとして、大木の行動を独自に検証する必要があるだろうな」
 「それは広報さんのほうでやられるの?」野見が気にして訊ねた。
 「やってもいいけど、結局、一番情報持ってるのって、所属部のほうでしょ。回りまわってそこに話を聞くことになる。だったらせっかく佐良が接見までしてきてくれたんだから、文化部さんにまかせるよ」
 「彼をまた使っちゃっていいのかな」まるで危機管理上のA級戦犯であるかのように佐良のことを野見は口にした。佐良の不快感は最高潮に達した。しかしここは冷静にならないと。部員が取り返しのつかない不祥事を起こしたのは事実だ。
 「問題ないでしょ。野見ちゃんと連絡取ってやってくれれば。上にはおれのほうから説明しとくから」小野はさらりと言うと立ちあがり、佐良の肩をぽんとたたいて去っていった。あとに人事の腰巾着がつづく。
 野見は二人の後ろ姿を苦虫でも嚙みつぶしたような顔で見送り、会議室には佐良と自分だけになった。
 「ナミってだれだよ」独り言のように野見はつぶやいた。「蕎麦屋の親父との三角関係。色恋ざたの強盗殺人か。だけどちょっと年が離れ過ぎていないか。女のほうより、被害者の側から調べたほうが早いかもしれないな」
 「調べてみます」感情を押し殺して佐良は言った。
 「なにかわかりしだいすぐに報告してくれ。それと『あと六日』ってほうもな。あと六日ってことは単純に計算すれば、こんどの日曜ってことになる。借金の期限とかそういうのかな、その女の」
 「可能性はありますね」
 「それにしても」野見は突如、にやけ顔になった。「これでルポはお蔵入りだな」
 「龍ヶ島のルポですか」
 「そうさ。大きい声じゃ言えないけど、千載一遇だよ」
 「編集局長の肝いりだったんですよね。来年の世界遺産国内候補決定に向けて紙面で盛りあげる方針だったとか」だから本来は取材実績のある考古学担当の記者が出張すべきだったのだが、野見ははなから消極的だった。それで派遣されたのが異動対象者のウェイティングリスト筆頭にいる遊軍の大木だったというわけだ。要は部長としては、形ばかりのルポでお茶を濁して切り抜けるつもりだったのだ。
 「騒げば騒ぐだけあとでばかを見ることになる。あそこが選ばれないのはもうわかっているんだ」野見は元美術担当の記者だ。その関係からいまも文化庁の役人には強い。どこからか確たる情報を得ているようだった。社会部を出されたあと、文化部に流れ着いただけの佐良には完全にアウェイな世界だ。「だいいち観光客が上陸できない島なんて、世界遺産に登録したって意味ないだろ」
 「でもなんか神秘的ですよね」つい佐良は口答えした。「外人、とくにヨーロッパの連中には受けるかもしれない」
 「ふん」野見は不快そうに鼻を鳴らし、席を立った。「役所のなかをよく取材してみるといい。すぐにわかるよ。あの島は場所が悪すぎる。メディアもそっとしておけばいいんだ。そのへんのところは局長にもちゃんと話してきたんだが、ぜんぜん聞く耳を持たない。まあ、その上の連中はわかってくれているから問題ないんだが」
 役員たちのことだ。部長になったのを好機ととらえ、野見はなにかというと秘書室に駆けこみ、社長や会長にご進講する戦略を取った。政治部閥と社会部閥が上層部にひしめくこの会社で、歴代の文化部長はその後、B級どころかC級ポストに追いやられるのが常だった。しかし文化部プロパーにしてはめずらしく上昇志向が強いのが、野見洋一だった。部のトップに君臨するいま、すこしでも役員たちの歓心を買い、引きたててもらいたいのだ。歴代部長には手の届かなかった世界へと。
 だからこそだ。いくら個人的な犯罪だとしても、大木の一件は座視するわけにいかない。懲戒解雇は当然だが、部長としては、週刊誌もふくめてメディアに不必要に騒がれぬよう完璧な危機管理ぶりを見せて手腕をアピールせねばならなかった。
 夕方四時過ぎ、佐良は泉岳寺にいた。
 被害者の福元祥生が営んでいた蕎麦店「狢庵」だ。事件発生からまだ十二時間しかたっていないが、すでに警察による現場検証は終了していた。かわりに周囲に張りめぐらされた立ち入り禁止のテープの前に、カメラを担いだテレビクルーや近所の野次馬たちが集まっている。もちろん店は臨時休業中で、すきあらば敷地内に入りこもうとする取材陣を若い制服警官が警戒していた。
 佐良は取材クルーがいなくなるのを待ち、遠巻きにする野次馬に訊ねてみた。古い商店街でおおむね近所の人々だった。殺された福元祥生は他人に恨まれるような人間ではないし、押し入ったところでろくに金もないはずだ。以前集めていたガラクタ――祥生は“掘り出し物”と呼んでいた――も売り払ってしまったのではないか。九州出身で、創業四十年になるが、いまでは客がかなり減ってしまった。蕎麦打ちの腕が悪いわけではないが、取りたてて優れているわけでもない。一人息子はサラリーマンとなり、離れて暮らしている。いまはショックで入院した母親に付き添っているという。
 「残酷過ぎるよ。そりゃ、入院もするわな。奥さん、一生引きずらないといけない。へたするとそれがもとで寿命が縮んじまうんじゃないか」おしゃべりな年寄り仲間の間から声があがった。愛人の話だ。木村ナミという名前こそ表に出ていないが、取材にやって来た記者が口にしたらしい。警察から漏れているのだ。容疑者の妄言の可能性が高いことなどおかまいなしに、情報が独り歩きをはじめている。野見がもっとも懸念しそうな話である。それでも訊ねないわけにいかない。
 「じっさいはどうだったんですか……つまりその……女性関係というのは。行きつけの飲み屋さんとかあるんですか」
 おしゃべりがおしゃべりついでに答えてくれた。「酒はよく飲むし、口も達者だったから昔から女にはもてたよ。だけど死人に口なしだ。だれにもわからんよ、そんなこと」
 「店の常連客とかで以前にトラブルがあったような人とかはどうですか」
 「トラブルねぇ……そのあたりのことになると奥さんか、従業員に聞くしかないだろうな」
 「従業員の方ってみえてますか」
 「いたよ、さっき。ちょっとだけ話したよ」こんどは小柄なおばあちゃんが教えてくれた。「まだなかにいるんじゃないかしら。店がめちゃめちゃでたいへんだって言ってたわ」
 「店も荒らされたんですか」
 「そうじゃないわよ。天井からすごい水漏れがしてるんですって。お店が水浸しになっちゃって」
 「水浸し……?」
 「二階で水道管かなにかが破裂したんじゃないかって。そうじゃなきゃ、あんなふうにはならないってびっくりしていたわ」
 「あれなんだろ」最初に話してくれた年寄りが言った。「へんな臭いがしたんだろ」
 「そうそう。だから下水管かもしれないって。それってちょっと怖いわよね。食べもの屋さんなんだから」
 そのとき店の前に立っていた制服警官がその場を離れ、小走りで歩道を進んだ。五十メートルほど先にパトカーが停車している。なにか用事があるらしい。佐良はそのすきを逃さなかった。井戸端会議をつづける老人たちを尻目に店に突進し、立ち入り禁止のテープをくぐって入り口の前に立った。すっと自動ドアが開き、なかにいた割烹着の若い男と目が合った。男は床に広がった水たまりの前でモップを握りしめ、途方に暮れていた。数脚あるテーブルも天井も水浸しで、たしかにかすかな腐臭が鼻先をかすめた。
 「だめですよ、入っちゃ」背後で声がして、がっしりとした手が肩をつかむ。さっきの警官か。佐良は抵抗しなかった。小声ですみませんと告げ、老人たちのもとへもどろうと振り返った。
 「え、なんで……」佐良はその場に立ちつくした。
 警官じゃなかった。警官のほうはパトカーのところで、助手席の同僚と話しこんでいる。こっちには気づいていない。
 「なんでって、そりゃぁ、事件の現場を荒らされたら困るべよ。マスコミはこれだからきらわれるんだぁ」蓮原要次はいたずらっ子に説教するように口にしたが、目元はにやついている。ベージュのチノパンに紺のポロシャツというこざっぱりとした格好こそ、さっきの年寄りたちよりずっと都会的だが、いかんせん赤ら顔に胡麻塩頭、伸び放題の眉毛はどう見ても田舎の親父さんだ。
 パトカーのところから警官がこっちを見ていた。佐良は要次の肩に手をまわし、あわてて死角になる路地に連れこんだ。
 「なんでこんなところにいるの、要次さん」
 「いけねえだか? テレビでニュース見たんよ、強盗殺人事件。東邦の文化部っていえば、佐良さんの職場だべや。グーグルマップで調べたら、あんたと陽子ちゃんのマンションのすぐ近くでねえかい。心配になって見に来たんだぁ」
 「ニュース流れたのついさっきじゃない」山形から駆けつけて間に合うわけがない。「東京に来てたの?」
 「言わねがったかぁ?」あいかわらず東北なまりがきつい。「きのうから有楽町で山形の物産展やってんだぁ。農協にたのまれて手伝いに来てんのよ。おれも今年から柿酢サ作ってっから、ためしに売ろうと思ってな」
 「おどかさないでよ。来るなら来るって連絡くれればいいのに」
 「べつに佐良さんに会いに来たわけでねえからな。事件の現場サ見たかっただけだぁ。しかしな、志津ちゃんの顔は見ねばなるめえよ。せっかく東京サ来たんだからよ」
 「まさかうちに寄ったの?」おじさんのアポなし訪問は恒例だった。たいていはうれしいものだったが、きょうというきょうは都合がよろしくない。陽子の機嫌が悪いからだ。いや、待て。べつに家でなくてもいい。
 佐良のほうから誘って三田の居酒屋に入った。
 ろくな成果はなかったが、取り急ぎ部長には福元祥生の周辺事情を報告し、別件の取材があるので現場を離れると伝えた。要次が大ジョッキで生ビールを注文し、二人は盛大に乾杯した。きょうは朝から気分が悪かった。それだけにとにかく酒が飲みたかった。
 「女がかかわってるのはまちがいねえだろうな」佐良が話す前から要次が口にした。さっきの年寄りたちから聞いたという。「うちのまわりにあるホームで起きるけんかもぜんぶ色恋沙汰だからな」
 「ホームって?」
 おじさんはジッポのライターでたばこに火をつけた。昔ながらのハイライトだった。「老人ホームだべした。いっくら年サ食っても男は女サ欲しがるもんだべ。もちろん逆もそうだけんどな。いやいや、むしろそっちのほうが怖いかもしれね」
 佐良は高輪署で桝居刑事から聞かされたことを思いだしていた。隣のコンビニの防犯カメラにもタクシーのドライブレコーダーにも大木の言う女の姿は映っていなかった。これをどう考えたらいいのだろう。それでも余計なことを漏らさぬよう注意しながら、詮索好きな親類に相づちを打った。「だよね。ぼくもそっちの話が原因ならラクなんだけど」
 「なしてラクなんだか?」
 「だってそれなら完璧に個人の問題になるでしょ。頭がおかしくなって人を殺したなんてことになると、どんな働かせ方していたのかって勘ぐられるじゃない。会社の管理責任が問われてしまう」
 「そだなこと気にしてんのか」きつめのたばこをくゆらせながら、素朴な疑問を口にする。
 「ぼくは気にしていないけど、気にする人もいるんだよ。自分の労務管理が悪かったっていう罰点をつけられたくないんだよ」
 「だれや、そだなこと気にするやつ」要次さんはぐびぐびと大ジョッキをあおった。とても七十代とは思えない飲みっぷりだった。
 「部長だよ。文化部長」口にしたらすっきりした。
 「新聞社の部長さんサ、そだな小せえこと気にするんだか。はぁ? くっだらねえな」盛大にげっぷをし、おじさんは大声で大ジョッキをおかわりした。もちろん二人ぶん。あわてて佐良もジョッキをあけた。
 「それでぼくが調べさせられてるってわけ。ほんとは警察にぜんぶまかせるべきなのにさ」
 「おかしいべや、部下のせいで人が一人亡くなったんだべ。たとえ個人の犯罪でも、ふつうはまっさきに遺族のところサ、頭下げに行くもんでねえのか。部長さんってどこの生まれなんだべか」
 「西のほうの田舎だよ」
 「山形とおんなじぐれえの田舎だか?」つまみで頼んだ前菜の盛り合わせが運ばれてきた。おじさんは真っ先に地鶏の唐揚げに食いついた。
 「だと思うよ。田舎のエリートなんだ。地元の進学校からストレートで東大に入った。一浪して予備校通ってようやく私立に合格ったぼくなんかとは、根本的に頭の出来がちがうんだ」
 「失敗したくねえんだべ。へんなことで足をすくわれて」
 「そうなんだよ。基本的にぼくたち部員は全員バカで、自分は天才だと思ってる。話のほとんどは自慢話だし。自分大好き人間さ」
 「しかしそれってよぉ」要次はあたりに目をやってからて言った。「コンプレックスの裏返しったな。自分に自信がないんだべ。学歴にすがりたがる田舎の秀才の典型だべや」中卒で、学歴なんていうおよそまやかしの権威に惑わされずに腕一本で道を切り開いてきた男にとって、野見のような人間は対極の存在なのだ。
 だが身近にも学歴にあこがれる者たちがいた。要次もそれには気づいている。「で、どうなんだべ、あのセレブの奥さまのほうは。あんたも苦労してんだべや」
 「まあね。けっこう我慢してる。いろいろ意見がすれちがってね」佐良は前菜の盛り合わせのなかから、黒っぽい寒天のようなぷるぷるする塊を自分の皿に取った。酢味噌であえてある。九州のおきゅうとか新潟のえご練りのようだ。この手の食感は佐良の好みだった。
 「志津ちゃんのことだべ」探るように目を向けてくる。
 佐良はつまみに手をつけるより二杯目のビールをあおった。「この先どうするかって話がいちばんこたえるよ。ぼくとしては、娘にはのびのびとおおらかに育ってほしいな」
 「お受験するんだか?」
 「ああ」
 「聖王だっけか。近所の学校サ行くわけにいかねえのか」
 「いちばんの近所が聖王なのさ。そこに入るためにわざわざ引っ越してきたんだから」
 「楽しくいろんなことが学べるところならいいけどな」
 「どうだろう。エリート意識だけは確実に植えつけられるね。頭の奥深いところに。大人になっても決して失われないように」
 「けっ、くっだらねえ」
 「まったくだ。ようするに親の自己満足さ。ファッションなんだよ。セレブの」
 「セレブ気取りだべ。まったく陽子ちゃんにも困ったもんだな。学校の勉強なんてそこそこでいいべや。おまえたちさえOKなら、うちに来てくれてもいいんだけど」
 「いいね。さくらんぼ作りを手伝いながら近所の学校に通うのか。てゆうか、ぼくがのりたいよ、その話。いますぐにでもおじさんのところで働かせてほしい。もうつかれたよ、都会のサラリーマン生活は」
 「じゃあ、乾杯だな」おじさんはいたずら坊主のような笑みを浮かべ、ジョッキを突きだした。「来るべき日を夢見て」
 「夢に終わらせたくないけどね」佐良は黒い練り物に箸をつけた。口のなかにほんの一瞬広がった香りにはっとする。さっき蕎麦屋の店内をのぞきこんだとき、嗅ぎ取った臭いがよみがえったのだ。佐良はもうひと口、おなじものをつまんだ。元は海藻のはずだ。
 なるほど。
 海の臭いか。
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