故郷の味わい-2

文字数 3,879文字

 西日が傾き始めたころには、食べ物はきれいになくなり、すっかり酔っぱらったお隣さんは自分の部屋へ戻っていった。ワートはベッドに寝転がって携帯電話をいじっている。センとマホは後片付けをした後、外のござに座って休憩した。
 空を見上げると、雲の縁がオレンジ色に染まっていた。暑さは随分とやわらぎ、ゆったりとした日曜の午後が暮れようとしている。そろそろ、メコン川沿いのタラート・ムートが開く時間だ。そう思うと、センは遊びに行きたい気持ちを抑えられなくなった。なにしろ、月に二回しかお休みがないのだ。
「ウアイ、今晩は忙しいですか?」
「ううん、用事はないよ」
「もう少ししたら、ケムコーンに行きませんか?」
「メコン川? そうね、たくさん食べたし、ちょっと歩くのもいいかもね」
 マホはすんなりと了承してくれた。それなりに飲んでいたと思うのだが、あまり酔っているようにも見えない。
「これから出かけんの? 元気なことで」
 ワートが面倒くさそうにぶつくさ言っている。

 辺りが薄暗くなってきた頃合いを見計らって、しぶるワートを説得して、センはワートのバイクの後ろにまたがり、マホは彼女のスクーターで、そろって出かけた。
 駐輪場にバイクを停めると、センはマホの腕をとって、川沿いの遊歩道に誘った。
 週末のケムコーンは、相変わらずたくさんの人が、思い思いに歩いたり運動したりしている。ゆっくりした歩調で歩きながら、センはマホの横顔を盗み見た。白く柔らかそうな肌につるりと平らな顔。ゆったりとした幅広のズボンに、裾の長いTシャツという服装が、いかにも外国人風だと思う。自分たちラオス人と、似ているようで違う、異国の人。こうして外国人と並んで歩いている自分を意識して、センはこそばゆいような誇らしいような心持ちだった。村にいるころは、こんな日が来るとは想像もしていなかったから。

「最近、本当に空気が悪くって、目がちくちくする」
 マホが腕を上げて伸びをしながら、うんざりしたように言った。
「この空気の悪さは、焼畑のせいって言うけど」
「ハイのせい?」
 センは驚いて聞き返した。
「ラオスでも北の方では、焼畑をしていて、森を焼くんでしょう? それで、空気が悪くなるんだって聞いたわ」
「そうですか」
 確かに、切り拓いた森を焼くときの炎と煙はすごい。空が真っ黒な煙で覆われて太陽が隠れるくらいだ。その煙がビエンチャンまでやって来るのだろうか? センはしばらく考え込んでしまった。少なくともセンの村では、山を焼くのは三月の終わりだ。今はまだ、誰も焼いていないはずだけど……。他の村ではもう焼いているのだろうか? そうした考えをセンは口に出しては言わなかった。彼女は外国人だから、きっとよく知らないのだ。

「セン、センじゃないか」
 そのとき、人混みの中でもよく通る声が、センの名を呼んだ。耳覚えのある声だった。振り返ると、ふたり連れの男が少し離れたところから、センたちを見ている。そのうちのひとりが、親しげに片手をあげ、こちらに近づいてきた。背は高くないが締まった体つきに、眉の濃い意志の強そうな顔立ち。センは自分の目が信じられなくて、突っ立ったまま男を凝視した。男はセンの側まで来ると、満面の笑みを浮かべた。
「セン、久しぶりやな」
 彼の口から、ラオス語ではなく懐かしい母語が出てきた。見間違えではなく、彼は同郷の幼馴染、チットだった。この間、姉との電話で彼もこちらにいると聞いたところだったが、まさかここで出会えるなんて。
「チット!」
 懐かしさのあまり、センは子どものように男の胸元に飛びついた。男はその勢いに少しよろめく。
「センも相変わらずやな」
 チットは苦笑して、軽くセンの肩を叩いた。センは我に返ってチットを解放したが、その代わりにと、矢継ぎ早に質問を浴びせた。
「なんでここにいるん?」
「なんでって、友だちと遊びに来たんよ」
 チットは肩越しに、少し離れて待っている連れを示す。
「そうやなくて、いつビエンチャンに?」
「去年の終わりくらい」
「けっこう前からやない。大学に行ってるん?」
「いや、こっちで働いてる。お前は?」
「私も。もう半年くらいかな」
 ひとしきり互いの近況を確認しあってから、センははっとして、マホとワートの存在を思い出した。おそるおそる振り返ると、ワートが思い切り眉をひそめて、チットを睨んでいる。マホは困ったように、一歩離れて場の様子を見守っている。ワートは絶対に、何か誤解しているに違いない。センは焦ってふたりにチットを紹介した。
「この人はチット。ルアンパバーンの出身で、村が隣同士なのよ。子どものころからの友だちで、中学も一緒だったの」
 幼馴染だということを強調する。ワートはやはり不機嫌そうな顔を崩さないが、さすがにチットに食ってかかるようなことはしなかった。
「この人、外国人?」
 チットは興味深げにマホの顔をじっと見て、センにたずねる。
「そう。ウアイ・マホ。日本人なの」
「へえ。ラオス語はわかるの?」
「ウアイは、ラオス語すごく上手よ」
 センが大げさに褒め、「少しね」とマホがラオス語で付け足した。チットは白い歯を見せて、愛嬌のある人懐っこい笑顔を浮かべた。
「はじめまして、チットです」
「マホです。私も昔、ルアンパバーンにいたことがあるのよ」
「なんと、ハートカム村の小学校に来ていたのよ」
 センが補足すると、チットは眉をあげて、改めてマホの顔を見た。
「俺も、ハートカムの学校に行ってたんですよ」
「それなら、会ったことがあるかもね」
「かもしれないですね」
 マホがにっこりすると、チットも照れたような笑みを返す。
「そっちは?」
 むすっと黙りこくっているワートの方を見て、チットがたずねる。
「彼はワート」
「センの彼氏?」
 チットが挨拶すると、ワートは不愛想に、どうも、と会釈した。その空気を察したのだろう、チットが「俺もう行くわ」と言い出した。
「そうだ、連絡先教えてよ」
 立ち去りかけたところで、チットが振り返って言った。センも聞きたいと思っていたところで、あわてて携帯電話を取り出して連絡先を交換した。
「それじゃ。また飯でも行こう」
「うん、行こ行こ! 連絡するね」

 去っていくチットの後ろ姿を見送っていると、マホがセンの隣にやってきた。
「子どものころからの友だちなのね?」
 センはまだ興奮さめやらぬまま、大きくうなずいた。
「まさかここで会うなんて。びっくりしちゃった」
「連絡はとってたの?」
「ううん。実は、もう何年も会ってなくて。連絡先も知らなかった」
 同じ村なら嫌でも情報が入ってくるが、隣村くらいの距離だと、ふとしたことで疎遠になってしまう。
「中学までは一緒だったんだけど、高校からチットは出家して、街の学校に行っていたから。一回か二回、村に帰ってきたときに、しゃべったくらい」
「え? 出家?」
 マホが驚いたように聞き返してくる。
「彼、ルアンパバーンのお寺に入って、お坊さんをしてたんです」
「へえ、そうなんだ。真面目なのね」
「……というよりも、家が貧しかったからだと思います」
「どういうこと?」
「お寺に入ると、学費がかからないので」
 経済的に余裕のない家が子どもを寺にやるのは、珍しいことではなかった。中には、幼いころから親元を離れて、ずっとお寺で過ごす子もいる。
ちょうど、中学を卒業するころのことだ。学校の廊下でチットと立ち話していると、彼は飄々とした調子で言いだした。
「俺、出家することになったわ」
「え、ここのお寺で?」
 ハートカム村は大きな村だから、お寺もある。だが、チットは頭を振った。
「ルアンパバーンの寺」
「どうして急に?」
「親が、高校に行かせる金はないって。そしたら伯父がさ、寺に紹介できるって言い出したから、丁度いいやって」
 高校に進学するお金をどうするか、というのはセンにとっても他人事ではなかったから、チットの状況はすぐに理解できた。
「でも、ひとりで街のお寺に入るなんて。本当に大丈夫なん?」
 想像するだけで、センは耐えられそうもなかったが、チットはへらっとして、ボーペンニャン、と言う。
「大丈夫やって。街で勉強できるんやから、かえっていいかもしれん」
 そんなやりとりを思い出しながら、センがかいつまんで出家のことをマホに説明すると、
「そうなんだ……」
 と言ったきり、マホは言葉を失っていた。
「チットはすごいと思う。出家して、頭剃って橙色の袈裟を着て、平然として。私だったら、きっと泣いてた」
 チットが去っていった方向を目で追いながら、センはつぶやくように言う。
「おい、まだ行かないなら、俺は帰るぞ」
 ワートの不機嫌そうな声が、ふたりの会話をさえぎった。センはあわててワートの側によると、その腕をとった。
「待ってよ。タラートを見ていこうよ」
「勝手に行けよ」
 ワートはセンの腕を振り払って、ひとりさっさと歩きだした。その態度に、偶然チットと再会した興奮が、すうっと冷めていく。マホの方を振り返ると、困ったような顔をして、「怒ってるみたいだね」と言った。
「私がチットに飛びついたりしたから」
 センは先ほどの自分のふるまいを思い出して、血の気が引く思いがした。ただでさえ疑り深いワートが、怒らないはずがなかった。
「でも、ただの友だちなんでしょ?」
「もちろん」
「説明したら、わかってくれるんじゃない?」
「そうだと、いいけど」
 今までのワートの言動を思い返すと、わかってもらえるかどうか、怪しかった。とにかく、彼の機嫌をとらなければと、センは急いでワートの後を追いかけた。
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